チャクラについて(34)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
池谷裕二さんの最新の脳科学の研究報告からのご紹介と、自らの体験を綴った「奇跡の脳」の著者、ジル・ボルト・テイラー博士による右脳、左脳に関する詳細な働きの違いなどを、長期にわたってご紹介してきました。
それは、ひとえに、私たちが「こころ」と称しているのは、実は「脳の働き」以外のものではない、ということから、
「脳の働き」を知れば、人間の「こころ」を、ある程度理解することができると確信しているからです。
「自己を知る」とは、主に、この「こころ」の働きについて知ることを意味すると思っています。
私たちが、「自己」と言う場合、「エゴ」(自我意識=顕在意識)のことを指していますが、
ウパニシャッド哲学では、「自己」を、「ただの自己」と「真の自己」に分けて考えます。
こうすることで、私たちが、より明確に、より簡単に、「ただの自己」を超えて「真の自己」に到達できるように、導いてくれているのです。
究極の存在である「真の自己」(アートマン)へ至るには、まずは、「ただの自己」をきちんと理解するのが、近道です。
「自己」から「ただの自己」を引き算すれば、「真の自己」が明らかになる、ということになります。
それでは、インドの最古の啓示の言葉が書かれているとされているウパニシャッドを引用しながら、「ただの自己」と「真の自己」に関する詳しい解説を、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から引用し、ご紹介したいと思います。
『インド哲学では、心を内部器官であるアンターカラナと呼ばれる4つの機能を持つひとつのグループとして記述します。
1番目は、アハンカーラ、あるいはエゴであり、あなた自身の中で、”わたし””わたしの””わたしのもの”としてあなたが規定している部分です。
2番目はブッディであり、より高次な心であり、知り判断し決断する識別の面です。
ブッディはすべての感覚器官、知覚の反射やすべての思考、心の認識を受け止める鏡のようなものです。
ブッディはあるものと別のものとを識別し比較します。
3番目はマナスで、より低次な心であり、データを産み出し処理します。
4番目の要素はチッタという貯蔵庫であり、印象や記憶のデータバンクです。
これらの4つの要素は、それぞれの要素がそれぞれの特定な仕事をしながら共に調和して働くことになっています。
訓練と鍛錬でこれらの4つは協調し、それらはアートマンを探す際の非常に有益な道具となります。
協調、識別、訓練がうまくいかないと、それらは進路上の手強い障害物となります。
それではまずは、自分の単なる自己の異なった面を知り、それらの面を訓練し、それらが真の自己ではないと知ることです。
カタ・ウパニシャッドは、2輪馬車の譬えでこれを説明しています。
霊的な自己は2輪馬車の持ち主です。
そして肉体が馬車です。
ブッディは2輪馬車を駆る人として仕え、感覚の経験という開かれた野原で束縛されずに走っている馬のような感覚をコントロールする手綱として心を使います。
大抵の場合、不幸なことに私たちはこの隠喩を理解できず、心がどのように機能するかを教えてもらっていません。
私たちは何を訓練し鍛錬すべきかを知らないのです。
マナスの性質は、この情報またはあの情報は重要であるか、あるいは取り入れるべきかどうかと問うことに限られています。
マナスは”これは私にとって良いかどうか?”と問うだけです。
マナスはこれらの質問をブッディに伝えなくてはなりません。
そしてブッディは答えを持ち、それらをマナスに伝えるために訓練され研ぎ澄まされなくてはなりません。
訓練しないと、信頼をもってそうすることができないときに、マナスはあまりに多くの力をわが物とし、ブッディを無視し独立して行動します。
マナスは内側、外側での争いに満ちています。
浄化されたブッディの助けがないと、マナスは不確かさと惨めさの源となります。
時間を超えてマナスの行動は習慣になります。
訓練されていない心に関する別の問題は、エゴであるアハンカーラが引き受けた不適当な支配力です。
訓練されていない心におけるエゴは心の所有者であり、存在の中心であると信じる性質を持っています。
訓練されていないエゴはあまりに強力なので、人は彼の真の性質が神聖であり、究極の存在であり、永遠であることを忘れています。
マナスがうまくできない仕事をしようとしてブッディに相談せず、エゴがそれ自体を最高であると信じるとき、結果は人間にとって悲惨です。
マナスは演じる役割を持っています。
しかしそれは限られています。
ブッディはなすべき仕事を持っています。
それでマナスを用います。
エゴは役に立ちますが、その役割は限られており永続しません。
エゴは世界において作用する格子の枠組みのようなものです。
私たちが誤って考えているように、それは有形のものではありません。
それは単なるある機能を持った心の一面なのです。
エゴは人の本性ではありません。
それは、私たちを分離した個別の個体に分割しているエゴと呼ばれる”わたし”という感覚です。
エゴは私たち個人が自己認識するすべての感覚や性質を集めます。
それは私たちの人格の創造者ですが、エゴは究極の存在ではありません。
”わたし”という感覚、あるいはエゴは2つの要素の混ぜ合わせです。
ひとつは変化し、もうひとつは不変です。
変化する要素は現象的な宇宙、肉体、そして外部の対象物の感覚、などの基本です。
それは展開の源なのです。
マナスとエゴは心の中のあてにならない雑草のようなものです。
もしそれらが注意して意見を聞いてもらえないと、役割を接収します。
マナスは、これをしなさい、あれをしなさいと言い、これについて嘘を言えばあなたは困難から離れていると言い、これを盗めばあなたは成功し、この喜びを楽しめばあなたは幸せになると言います。
そう、これは素晴らしい、これは私のため、そして私はまったく物質そのものだと言います。
マナスが望み、エゴが必要だと言うことは何でもするこの道は、苦痛、恐れ、そしてさらなる無知で終わることでしょう。
これは所有し必要とし獲得し保持する道であり、”わたしは””わたしのもの”の道なのです。
エゴは、この体はわたしのものであり、この家はわたしのものであり、この伴侶や子どもはわたしのものであると言います。
このわたしのものとあなたのものという感覚は、他の個人から個人を分離し、世界を彼らとわたしに分割します。
それはまた個人を内面的に分離し、本当の自己に対する障壁を積み上げます。
それは死の恐れを作り出します。
死は私たちが所有し欲するこれらのものの終わりを意味するでしょう。
それは恐ろしいことです。
もし私たちが自分は肉体だと思っているなら、死んでいく肉体を予想することは恐ろしいことです。
なぜなら、そのとき死は私たちの存在の完全なる停止のように思われるからです。
しかしながら、ブッディが訓練され使われると、人は問います。
これは本当に必要だろうか?
この物を本当に必要としているだろうか?
肉体とは何か?
ブッディは、肉体は人の本性ではないのは、静かな湖の表面に反射している太陽が本当の太陽でないのと同じであるということを教えてくれます。
ブッディと呼ばれる心の識別力の面が訓練されると、人は一時的な人生は最終的には苦しみに至るということに気付きます。
ブッディは探求を始め、それから一時的でないものに向けられた人生は最終的には苦しみのない人生に至ると結論します。』
(聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
この文章だけを読むと、多くのサンスクリット語が出て来ることもあって、難しいと感じるかもしれませんが、
これまで、脳科学の分野から「脳の働き」として「こころ」に関する詳しい解説をご紹介してきましたので、それを思い出しながら読んで頂けると、より理解しやすくなると思います。
エゴ、マナス、ブッディ、チッタ、の4つの心の機能と、現代脳科学で言われているところの「脳の働き」とを比較し、自分の中で何が起きているのか?を把握することは、「真の自己」についての理解を深めることにつながります。
ということで、次回も続きを見ていきたいと思います。
地球上の 昼と夜と
人間の用いる計算方法では
創造神ブラマーの一日は千周代
ブラマーの一夜も千周代
ブラマーの一日が始まると
多種多様な無数の生物が姿を現わし
ブラマーの夜になると
彼らはすべて姿を消す
ブラマーの夜が明けると再び
万物群生は流れ出て活動を始め
暗闇になると溶解消滅する
物質世界はただこれを反復するだけである
だがこの未顕現 顕現の現象を超えて
別な世界が実在する
それは至上至妙にして永遠不滅
物質宇宙が絶滅してもそのままである
(バガヴァッド・ギーター第8章17-20)