永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(32)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

これまでの記事で、ジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」から、左脳を損傷した体験からわかった「右脳」と「左脳」のそれぞれの働きから生じる特徴について、ご紹介させて頂きました。

 

基本的な違いを理解した上で、実際に、実生活で、どのようにそれらの智慧を生かすか?ということにも、大変に役に立つ(と思われる)体験談を語って下さっていますので、

私たちが、日常生活で陥りがちな「思考のループ」などの「思考の罠」についての、彼女のアドバイスをご紹介したいと思います。

 

多くの人が陥りやすい「思考癖」に対する対応方法を心得ていれば、自分自身生きることが楽になるばかりでなく、周りの人々にも、その影響が及ぶので、周りの人も生きることが楽になります。

 

私たちは、この二元の世界で、エネルギーをキャッチボールしているようなものなのです。

自分が放ったエネルギーが、周りに影響を与え、そして、私たちも、周りからのエネルギーの影響を受けています。

 

二元の世界における智慧も、生きていく上では、大いに役立つと思いますので、「奇跡の脳」から、そのヒントとなる体験談をご紹介したいと思います。

 

 

『わたしは、反応能力を、「感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力」と定義します。

自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが、このプログラムの一つが誘発されて、化学物質が体内に満ちわたり、そして血流からその物質の痕跡が消えるまで、すべてが90秒以内に終わります。

たとえば怒りの反応は、自発的に誘発されるプログラム。

ひとたび怒りが誘発されると、脳から放出された化学物質がからだに満ち、生理的な反応が引き起こされます。

最初の誘発から90秒以内に、怒りの化学的な成分は血液中からなくなり、自動的な反応は終わります。

もし90秒が過ぎても怒りが続いているとしたら、それはその回路が機能し続けるようにわたしが選択をしたからです。

瞬間、瞬間に、神経回路につなげるか、それとも、現在の瞬間に戻って、つかの間の生理機能としてその反応を消散させるかのどちらかの選択をしているのです。

右と左の性格を認めることで、ワクワクするような可能性が開けます。

どんな状況にもつねに違った見方がある。

つまり、グラスに中身が半分入っているのか、そうじゃなくて半分空なのか?といった具合に二つの見方ができるのです。

あなたが、怒って苛立ちながら近づいてくる場合は、わたしは、あなたの怒りを反映して論争(=左脳)を始めるか、あるいは感情移入をして、同情的な気持ち(=右脳)で対応するかのどちらかを選びます。

ほとんどの人は、自分がどう反応するか、無意識のうちに選択していることに気づきません。

辺縁系の)プログラム済の反応に身をゆだねるのは楽なので、自動操縦にたよって快適なペースで生活しがちなのです。

辺縁系の中で起きていることに大脳皮質の細胞が注意を向ければ向けるほど、考えたり、感じたりすることに口出しができるようになります。

自動回路が行っている選択に注意を払うことによって、自分で手綱を握り、意識的な選択を増やすことができます。

長期的に、自分の人生全般に責任を負うのです。

このごろわたしは多くの時間を使って、「考えること」について考えています。

その理由は、脳の素晴らしさがわかってきたから、ソクラテスが述べているように「考察のない人生は、生きる価値がありません」。

自分に苦痛を与えるような思考を巡らす必要なんかないんだと気づいたことが、一番元気をくれました。

もちろん、苦痛を与える思考を巡らすことは、自分でその回路を選んだと承知しているかぎり、悪いことじゃありません。

それと同時に、そうした思考に飽きてきたら意識的に止められる、という能力を持っているんだと知ることが、解放感につながるのです。

肉体や精神の環境がどうであれ、右脳の領域に踏み込んで、思考を現在の瞬間に引き戻し、平和と愛の心(右脳マインド)に戻れることを知っていれば、束縛から解放されます。

わたしはいつも、個人的判断を避けるという右脳マインドの目を通して、周囲の状況を観察しています。

そして、内なる喜びを大事にして、感情的な重荷を負わせる傾向からなるべく離れるようにしています。

精神生活にとって何がプラスの影響を与えて何がマイナスの影響を及ぼすかは、自分自身で決める。

最近のことですが、わたしはお気に入りのジンジャー・カリーのCDをかけて「心の底から嬉しいの!」と、熱唱しながら、車で道路を飛ばしていました。

が、無念!スピード違反で、車を道路の片側に寄せるはめになったのです。

(どうやら、ハンドルを手にして熱狂しすぎたようです!)。

違反切符をもらってから最低100回は、こんなことで気落ちするものですかと心に言い聞かせました。

ちっぽけなマイナスの囁きが、しつこく頭をもたげては、わたしを落ち込ませようとするからです。

その囁きは、悪夢のドラマを心の中でくりかえし再現させ、あらゆる角度から考え抜くように仕向けました。

でも、いくら考えたって結果は同じなのです。

ぶっちゃけた話、左脳の物語作家がくれる、こんな強迫観念なんて時間の無駄だし、感情面で人を消耗させるだけ。

わたしは脳卒中のおかげで、自分で手綱を握って、意識的に自分自身を現在に引き戻すことにより、過去の出来事を考えるのを止められると学んだのです。

とはいえ、わたしが流体ではなく一つの固体として、つまりあなたとは別の、自我の中枢として、あえて世界へ踏み込もうとすることがあります。

単に純粋な満足を追求するために、わたしの左脳の中身と態度を、あなたの左脳の中身と態度に「ぶつけて」、言い争ったり、熱のこもった議論をする場合もあります。

でも、からだのなかで攻撃的な感情を感じるのは好きじゃありません。

ですからわたしは、たいていの場合、敵意のある対決を避け、共感を選ぶようにしています。

「あらゆることを完璧にこなすためのマニュアル」を抱えてこの世界に生まれてきた人なんて、いやしない。

そう考えれば気が楽になり、他人に優しくすることが容易になります。

わたしたちは、つまるところ、生物学と環境の産物にすぎません。

痛みをともなう感情的な重荷を背負い続けるよう、生物学的にプログラムされていることがわかっているから、わたしは他人に同情することを選びます。

まちがいはつねに起きるものですが、だからいって、自分を責めたり、あなたの行動や誤りをたしなめる必要があるわけじゃない。

あなたのことはあなたの問題であり、わたしのことはわたしの問題。

それでもあなたもわたしも、深い内なる安らぎを感じ、そして優しさを共有することができるのです。

つねに、他人を許し、そして自分を許すことができるのです。

この瞬間を完全な瞬間として見ることが、つねに可能なのです。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

私たちは、多くの時間を、左脳の働きに占領され、それを「自分自身」だと思い込んで(マインド(自我)の働きの結果である感情や思考に囚われて)、

自分や他人を判断し、卑下したり、落ち込んだり、腹を立てたり、責めたり。。ということを繰り返して、自分をエネルギー的に消耗させています。

 

このマインドの正体を見抜き、そこから解放されることは、私たちが、自分の本性(本質)である純粋意識(純粋エネルギー)である源に戻って行くためには、必要不可欠であると感じています。

 

行動、思考、感覚の主体である「わたし」という意識は、脳のニューロンの回路が生み出しているある種の「錯覚」と言えます。

 

ジル・ボルト・テイラー博士も、「奇跡の脳」で書かれているように、

「わたしたち(個人だと思っている「わたし」という存在)は、つまるところ、生物学と環境の産物にすぎません。」ということなのですが、

この辺のところは、自我にとっては、非常に理解し(納得し)難いところでもあるので、直ぐに理解できないのは、一般的な反応であり、当然かと思いますが、

「ただひとつ」に戻るためには、「個」を超えていく必要がある、ということは、明らかであり、

自我(=わたし)にとっては、受け入れ難いことかもしれませんが、古今東西の多くの聖人の方々のお言葉からも、「それ以外に道はない」ということは、明白なのです。

 

自我にとっては、「自分」という存在の消滅は、恐怖ですし、受け入れ難いことですが、

その「恐怖」という感情でさえも脳内に生じている「想い」(感情)であって、それは、単なる未知なるモノに対して湧きおこる脳の自動反応と捉えることができ、

ジル・ボルト・テイラー博士も、書かれているように、すべての感情は、左脳の働きにしか過ぎません。

 

「個」の消滅は、すべてが無くなることではなく、

「わたし」という「個」であるという脳の錯覚(幻想)だけが消滅し、本来の姿、本質に戻る、ということを意味しているのですから、何も怖いことは無いのです。

 

私たちは、本来は、生死を超えた「永遠なる実在」(ただひとつ)なのですが、自我が邪魔して、そうであることを認めません。

 

消滅するのは、「わたし」(個)という幻想だけで、「それ」に戻るだけ、なのですが、

自我(左脳)は、生まれてからこれまでの間の過去に経験したことのない経験を受け入ることができないので、脳(心)の中に、恐怖心を作り出します。

 

我、「それ」なり。

 

「個」というのは、幻想であって、私たちは、最初から「それ」なのです。

 

 

 

『選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望か、ということです。

ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。

それが奥義なのです。』

(聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く  スワミ・ラーマ)

 

 

 ※『聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ著

  は、Amazon、全国の書店から購入いただけます。(Kindle版もあります)

 

 

 

 

プリターの息子よ 心を他に外らすことなく

専心にわたしの憶念する者は 

その常なる信愛行(バクティ・ヨーガ)の功徳によって

やすやすと わたしのもとに来る

 

わたしの所に来た偉大な魂(マハートマ)たちは

決して再びこの地上に

苦悩と悲惨に満ちた物質界に戻らない

彼らは生命として最高の完成に達したからだ

(バガヴァッド・ギーター第8章14ー15)