永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(28)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

これまで3回にわたり、第7チャクラのサハスラーラ・チャクラを理解するために、

脳卒中により左脳が働かなくなった脳科学者ジル・ボルト・テイラー博士の体験談が書かれている「奇跡の脳」より、抜粋してご紹介しています。

 

私たちは、通常は、社会における他人とのコミュニケーションのために、言葉を使うことが多いため、左脳が優位であることが多いのですが、

その左脳が全く働かなくなった時、優位となった右脳が認知する世界は、通常の私たちが経験している世界とは別世界であるかのように記述されています。

 

今回もその続きを見ていきたいと思います。

 

 

『まったく予期していなかった脳の深部への旅のあと、からだの面でも、認識や感情や精神の面でも、完全に回復したことに感謝すると同時に驚いてもいます。

数年にわたって、左脳の特殊機能の回復はいろんな理由でとても厳しい状態でした。

左脳の神経学的なネットワークの機能を失ったとき、その機能だけでなく、適性の回路に関連した多様な人格的特徴も失ってしまいました。

過去にもっていた、感情的な反感やマイナス思考と解剖学的につながる機能細胞を回復させる段になり、わたしは思わずハッとしました。

基本的には、左脳の機能を取り戻したいと思っています。

でもそこには、今のわたしが右脳の観点から「こうなりたい」と考えている性格とは正反対の性格が、まるで左脳の遺灰から復活しようとばかり、待ちかまえていたのです。

神経解剖学や心理学の見地からは、わたしはまたとない魅惑的な数年間を過ごしたと言えるでしょう。

何度もくりかえし頭をよぎった疑問は、「回復したい記憶や能力と神経学的に結びついている、好き嫌いや感情や人格の傾向を、すべてそのまま取り戻す必要があるの?」ということでした。

たとえば自己中心的な性格、度を過ぎた理屈っぽさ、なんでも正しくないと我慢できない性格、別れや死に対する恐れなどに関係する細胞は回復させずに、(流体ではなく)固体のようで、宇宙全体とは切り離された「自己」を取り戻すことは可能なの?

あるいは、欠乏感、貪欲さ、身勝手さなどの神経回路につなぐことなしに、お金が大切だと思うことができるでしょうか?

この世界のなかで自分の力を取り戻し、地位をめぐる競争に参加し、それでも全人類への同情や平等な思いやりを失わずにいられる?

末っ子ゆえの不満を思い出さずに、ふたたび家族としてふるまえるかしら?

そして最も重要なことですが、左脳の個性を前にしても、新たに発見した「宇宙との一体感」を保ち続けることができるでしょうか?

知りたかったのは、左脳の機能を取り戻すために、せっかく見つけた右脳の意識、価値観、人格のどれくらいを犠牲にしなくてはいけないのか、という点でした。

宇宙との結びつきを失いたくなかったのです。

自分自身が周囲のすべてから切り離されたひとつの固体だなんて、感じたくなかった。

頭の回転ばかりが速くなって、真の自分に触れることを忘れてしまうのは嫌でした。

正直いって、涅槃(ニルヴァーナ)を諦めたくなかったのです。

周囲から「まとも」だと判定されるために、右脳の意識はどれだけの犠牲をはらうことになるのでしょう?

現代の神経科学者たちは、右脳と左脳の非対称性を、神経学の面からのみ説明するだけで満足しているように思われます。

左右の脳の構造に含まれる心理学的、人格的なちがいについては、ほとんど語られることがありません。

よくあるのは、右脳の個性が、話し言葉や順序だった思考をよく理解できない、という理由だけで笑いものにされ、メチャメチャにけなされること。

ジキル博士とハイド氏』の中でも、ハイド氏が象徴する右脳の個性は、制御不能で生まれつき凶暴な、卑しむべき無知な人格として描写されており、意識すら持っていないと非難され、いっそのこと右脳なんかないほうがいい!とすら言われています。

左脳はこれとは全く対照的に、言葉をあやつり、順序がわかり、方法を考え、理性があり、利口だと褒められ続け、意識の王座に君臨してきたのです。

脳卒中を体験する前のわたしは、左脳の細胞が右脳の細胞を支配していました。

左脳が司る判断や分析といった特性が、わたしの人格を支配していたのです。

脳内出血によって、自己を決めていた左脳の言語中枢の細胞が失われたとき、左脳は右脳の細胞を抑制できなくなりました。

その結果、頭蓋の中に共存している二つの半球の独特な「キャラクター」のあいだに、はっきり線引きできるようになったのです。

神経学的な面においては、二つの脳は全然違う方法で認知したり、考えたりすることはありません。

しかしこの二つは、認知する情報の種類にもとづいて、非常に異なる価値判断を示し、その結果、かなり異なる人格を示すことになります。

脳卒中によってひらめいたこと。

それは、右脳の意識の中核には、心の奥深くにある、静かで豊かな感覚と直接結びつく性質が存在しているんだ、という思い。

右脳は世界に対して、平和、愛、歓び、そして同情をけなげに表現し続けているのです。

これはもちろん、わたしに解離性人格障害の傾向があるという意味ではありません。

解離性人格障害は、わたしが経験したものよりずっと複雑なものです。

これまでは、右と左の脳の性質を判別することは、不可能ではなくとも難しかったといえるでしょう。

その理由は単に、わたしたちが自分自身を、ひとつの意識をもった一人の人間だとかんじているからです。

しかし、ごくわずかな糸口があれば、自分自身は難しいにしても、両親や親しい人の中になら、よく似た二つの脳の性質を見つけるのは簡単だと思うのです。

あなたが、左右それぞれの「キャラクター」に合った大脳半球の住み処を見つけてやれば、左右の個性は尊重され、世界の中でどのように生きていきたいのか、もっと主張できるようになります。

わたしは、そのお手伝いをしたいだけ。

頭蓋の内側にいるのは「誰」なのかをハッキリと理解することによって、バランスのとれた脳が、人生の過ごし方の道しるべとなるのです。

わたしたちは、頭の中に正反対の性格を抱え込んで、いつも苦労しているようです。

実際、わたしが話をしたことがある人は誰でも、自分の個性に相反する部分があることに敏感でした。

多くの人が、頭(=左脳)があることをしなさい、と伝えてくる一方で、心(=右脳)が全く反対のことをしろ、と伝えてくると話しています。

中には、考えること(=左脳)に対する、からだの本能的な意識(=右脳)について話す人もいます。

ちっちゃな自我(エゴ)の心(=左脳)と大きな自我の心(=右脳)を比べたり、あるいは小さな自己(=左脳)とホンモノの自己(=右脳)について話す人も。

ある人は、仕事の心(=左脳)と休暇の心(=右脳)のあいだに一線を引いています。

またある人は、研究室に閉じこもる心(=左脳)に対して社交的な心(=右脳)を引き合いに出します。

そしてもちろん、男性的な心(=左脳)に対する女性的な心(=右脳)というのもあります。

陽(=左脳)は陰(=右脳)と対になります。

もしあなたがカール・ユングのファンなら、そこには思考型の心(=左脳)に対する直観型の心(=右脳)があり、感情型の心(=左脳)に対して感覚型の心(=右脳)があるはずです。

(思考型と感情型は判断を下すので、左脳的で、直感型と感覚型は右脳的とされる)

二つの相反する存在を説明するのにどんな言葉を使おうとも、これは解剖学的に、頭の中にある二つのきわめて独特な大脳半球に起因するのだと、わたしは、経験上信じています。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

これほど、左脳と右脳の働きが違う、ということは、両方の脳が同時に機能している通常の私たちには、想像できないことですが、

実際に、そのような稀なる体験をした人の報告は、私たちに多くの示唆や気づきを与えてくれるものと思います。

 

次回も、続きを見ていきたいと思います。

 

 

 

死の時が来て肉体を離れるとき

わたしだけを億念する者は誰でも

まっすぐにわたしの所に来る

ゆめゆめこのことを疑うな

(バガヴァッド・ギーター第8章5)