永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(27)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

前回、前々回と、ジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」よりご紹介していますが、

それまで働いていた脳の機能が停止したために、思いもよらぬ世界が展開されたのでした。

 

起きた現象を知ることで、私たちの脳がどのような感覚、意識、そしてそれらのプロセスを生み出しているのかを知る手掛かりになります。

 

ジル・ボルト・テイラー博士は、方向定位連合野という頭頂連合野が機能しなくなったために、前回ご紹介したような体験が起こるのですが、

頭頂連合野が機能しなくなると、空間認知の障害が起こり、物体間の距離、遠近、左右、上下の判断が困難となり、空間定位の障害や、歩きなれた街の道順が判らなくなる地誌的障害を起こすことが知られています。

 

ジル・ボルト・テイラー博士の体験は、「わたし」という個人として独立した存在であるという意識に、この頭頂葉の方向定位連合野が関与していることを示唆する興味深いものと言えます。

 

彼女の体験談の中に、その他にも多くの示唆的な現象が起きており、それは、私たちに、人間という存在を客観的に捉える別の視点を与えてくれることでしょう。

 

今回も、更に続きを見てみたいと思います。

 

 

『一日に何百万回も「かいふくするのよ」と意を新たにしなければなりませんでした。

挑戦するつもりはあるのか?

新しく発見した「エクスタシー」と形容できるほどの幸福と、一時的に別れを告げ、ふたたび外部の世界と向き合って、外部の世界を理解するつもりはあるか?

回復の苦しみに耐えるつもりはあるのか?

手術直後の情報処理のレベルでは、自分に苦痛を与えるものと快楽を与えるものとの違いが、ハッキリわかってきていました。

右脳の夢の国に出かけているときは魅惑的でステキなのですが、なんでも分析したがる左脳にかかわることは苦痛でした。

回復に向けて挑戦することは、よくよく考えた上で決めたことですが、有能で思いやりのある看護人に囲まれていることがとても大切でした。

独りだったら、正直言って面倒くさい努力なんてしなかったでしょう。

左脳が判断力を失っているあいだに見つけた、神のような喜びと安らぎと静けさに身を任せるのをやめて、回復への混沌とした道のりを選ぶためには、視点を「なぜ戻らなくちゃいけないの?」から、「どうやって、この静寂な場所にたどり着いたの?」へ帰る必要がありました。

この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。

涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。

このことに気づいてから、わたしの回復により、他の人々の人生も大きく変わるにちがいないと考え、ワクワクしました。

他の人々とは、脳障害からの回復途中の人々だけでなく、脳を持っている人なら誰でも!という意味です。

幸福で平和な人々があふれる世界を想像しました。

そして、回復するために受けるであろう、どんな苦難にも耐えてみせよう、という気持ちでいっぱいになりました。

わたしが脳卒中によって得た「新たな発見」(insight)は、こう言えるでしょう。

「頭の中ではほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。

そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」

 

わたしがすごく大切だと思ったのは、感情がからだにどのような影響を与えるか、ということ。

喜びというものは、からだの中の感覚だったのです。

平和も、からだの中の感覚でした。

新しい感情が引き起こされたのを感じる、興味深い体験をしました。

新しい感情がわたしを通って溢れ出し、わたしを解放するのを感じるんです。

こうした「感じる」体験に名称をつけるための新しい言葉を学ばなければなりませんでした。

そして最も注目すべきことは、「ある感じ」をつなぎ留めてからだの中に長く残しておくか、あるいはすぐに追い出してしまうかを選ぶ力をもっていることに、自分自身が気づいたこと。

何かを決めなきゃいけないときは、自分の中でどう感じたかを大切にしました。

怒りや苛立ちや恐怖といった不快な感情がからだの中に押し寄せたときには、不快な感じは嫌だから、そういった神経ループにつなぎたくないと伝える。

わたしは左脳を利用し、言語を通じて自分の脳に直接話しかけ、自分がしたいことをしたくないことを伝えられるようになったのです。

このことを知り、自分が決して以前のような性格に戻れないことに気づきました。

突然、自分がどう感じたいのか、どれくらい長く感じ続けていたいのか、前より口うるさくなったからです。

そして絶対に、過去の痛い感情の回路を復活させまいと心に決めました。

からだの中でどんなふうに感情を「感じる」のかに注意深くなると、完全なる回復の兆しが見えてきました。

自分の心が、脳の中で起きているすべてのことを分析するのを、8年かけて見守ってきました。

それぞれの新しい日々が、新しい挑戦と発見(insight)をもたらしてくれました。

古いファイルを回収すればするほど、むかしの感情のページが表面に現れ、その根底にある神経回路が好ましいかどうかを決める必要がありました。

感情の治療は遅々として進みませんでしたが、努力のしがいはありました。

左脳が回復するにつれ、自分の感情や環境を、他人や外部の出来事のせいにするほうが自然に思われてきました。

でも現実には、自分の脳以外には、誰もわたしに何かを感じさせる力など持っていないことを悟ったのです。

外界のいかなるものも、わたしの心の安らぎをとり去ることはできません。

それは自分次第なのです。

自分の人生に起こることを完全にコントロールすることはできないでしょう。

でも、自分の体験をどうとらえるかは、自分で決めるべきことなのです。

 

いろんな人から

「回復するのにどれくらいかかりましたか?」

と訊かれます。

わたしはいつも、月並みで申し訳ありませんが、

「何の回復ですか?」

と逆に質問することにしています。

もし回復を「古い脳内プログラムへのアクセス権の再取得」と定義するなら、わたしは一部しか回復していません。

どの感情的なプログラムを持ち続けたいのか、どんな感情的なプログラムは二度と動かしたくないのか(たとえば、短気、批判、不親切など)を決めるには、やきもきしました。

この世界で、どんな「わたし」とどのように過ごしたいかを選べるなんて、脳卒中は案てステキな贈り物をくれたのでしょう。

脳卒中の前は、自分なんて脳がつくりだした「結果」に過ぎず、どのように感じ、何を考えるかについては、ほとんど口出しできないんだと信じ込んでいました。

出血が起きてからは、心の目が開かれ、両耳の間で起きることについて、実際にはいろいろと選べることがわかってきました。

 

脳卒中から7年目、必要とする睡眠時間が11時間から9時間半に短縮されました。

それまでは夜の長い睡眠に加え、心地よい昼のうたた寝もしていたのですが、初めの7年の間に見ていた夢は、脳の中で起きていた奇妙な出来事を反映していました。

登場人物もストーリーも関係なく、脳はそれぞれ関係のないデータの小さな断片をスクロールしていたのです。

これは、脳が混乱した情報をつなぎ合わせて、ひとつの完全なイメージにまとめる状態を反映したものだと、わたしは推測しています。

夢で人々が登場する物語がはじまったことは、衝撃的でした。

初めの頃、そういう場面はバラバラで無意味なものばかり。

でも、7年目の終わりには、脳の中はひと晩じゅう騒がしくなり、目覚めの清々しさなんて感じないくらいでした。

そして8年をかけ、流体のように感じていたからだの感覚が、ようやく固体の感じに戻っていきました。

スラローム・ウォーター・スキーを定期的に始めました。

からだを限界まで使ったことが、脳とからだの結びつきを強化するのに役立ったようです。

からだの感覚が固体に戻ったのは嬉しいのですが、流体のように感じることが全くなくなってしまったのは残念。

わたしたちは宇宙とひとつなんだと思い出させてくれる能力を失ってしまったのです。』

(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー

 

 

言語野である左脳の機能が回復したことで、右脳だけが感知できる「流体の世界」は消滅してしまった、ということですが、

それは、「流体の世界」が幻である、ということではありません。

 

右脳は、エネルギーの世界をキャッチしているのですが、

それよりも左脳に入力される言語(観念)の処理の方に、エネルギーを集中しなくてはならないので、右脳が感知している世界の感覚が、かき消されてしまうということなのでしょう。

 

私たちの右脳は、いつでも、エネルギーが流れる世界を感知しているのですが、

私たちは、通常は左脳が優位なため、脳全体が、言葉(観念)の処理に追われてしまい、

常に、頭の中で、あーだこーだという声がループしている状態であることが多いように感じます。

 

この頭の中の(左脳の)雑音をシャットアウトすると、右脳の働きが鮮明になり、感覚が優位となってきて、エネルギーの流れを感じることができるようになります。

 

多くの宗教的な気づき、哲学的・形而上的気づきは、この静かな脳の中で起こります。

そのためには、左脳の言語野のニューロンへの入力により生じる脳の混乱を静めることが重要であり、それが、「瞑想」が推奨される理由と言えます。

 

あなたは、エネルギーを感じたことがありますか?

 

もし、一度も無いなら、それは、いつも左脳が優位であるということを指します。

 

言語(言葉)は観念であり、観念は思考を生み、思考は脳の産物です。

 

この世界、この宇宙、そのものではありません。

 

この世を「言葉」で理解しようとせず、ダイレクトに知覚することが、存在の本質に近づく第一歩と言えます。

 

 

 

 

物質自然(プラクルティ)は絶え間なく変化するが

物質 霊界 神界を含む大宇宙は至上主(わたし)の体である

そして各個体の心臓に宿る至上我(たましい)は

その至上主であるわたし自身なのだ

(バガヴァッド・ギーター第8章4)