永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(25)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

前回まで何回にもわたり、第6チャクラが位置する「脳」について、最新の脳科学の研究成果より、数々の驚きの新事実をご紹介してきました。

 

今回から、肉体にあるとされているチャクラの最後の第7チャクラ「サハスラーラ・チャクラ」について理解を深めるために、興味深い本をご紹介したいと思います。

 

頭頂にある「サハスラーラ・チャクラ」は、”この世とあの世をつなぐ門である”と、スワミ・ラーマも著書「聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の中で書いていますが、

それではあまりに抽象的な表現であるため、私たち一般人には理解し難い部分があると感じます。

 

そこで、私たちの理解向上のためのヒントとして、これからご紹介するのは、再び脳科学の分野から、

ジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」に書かれてある興味深い彼女自身の体験談です。

彼女は、37歳で脳卒中に倒れ、その後8年を経て「復活」。

左脳を損傷したために、言語野が働かなくなり、機能する右脳だけで生活する中で、それまで知覚していた世界からは想像もつかない驚きの体験をします。

 

その後、リハビリを重ねて、左脳の機能を回復させ、言語を取り戻した後、自らの体験を脳科学の視点から分析して発表し、

その内容は、世界に衝撃を与え、すぐに日本でも著書が紹介されたことから、すでにご存知の方もいらっしゃることでしょう。

 

それでは、左脳が機能しなくなると、どういうことが起きるのか?見ていきましょう。

 

 

脳卒中の最初の日を、ほろ苦さとともに憶えています。

左の方向定位連合野が正常に働かないために、肉体の境界の知覚はもう、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなっていました。

魔法の壺から解放された、アラビアの精霊になったような感じ。

大きな鯨が静かな幸福感で一杯の海を泳いでいくかのように、魂のエネルギーが流れているように思えたのです。

肉体の境界がなくなってしまったことで、肉体的な存在として経験できる最高の喜びよりなお快く、素晴らしい至福の時がおとずれました。

意識はさわやかな静寂の流れにあり、もう決して、この巨大な魂をこの小さい細胞のかたまりのなかに戻すことなどできはしないのだと、わたしにはハッキリわかっていました。

至福の時への逃避は、外側に広がる世界と交わるたびに感じる、悲嘆と荒廃の重苦しい感覚への、唯一の対抗手段でした。

わたしは、正常な情報処理からかけ離れた、遠い空間に存在しているのです。

これまでの「わたし」は、神経が壊れた世界では生き残れなかったのです。

以前の、ジル・ボルト・テイラー博士なる人物は、今朝死んだのだ、と感じていました。

でもそうすると、残された(left)のは誰?あるいは、大脳の左半球がだめになった今となれば、誰が正しい(right)の?というべきでしょうか。

言語中枢は、「わたしはジル・ボルト・テイラー博士。神経解剖学者です。

この住所に住んでいて、この電話番号でつながります」と語ってくれません。

だからわたしは、もう”彼女”でいる義務を感じないのです。

それは本当に奇妙な知覚のズレで、彼女の好き嫌いを思い出させる感情回路もないし、重要な判断の傾向について思い出させてくれる自我の中枢もないので、わたしはもう、彼女のようには考えられないのです。

実際、生物学的な損傷の大きさを考えれば、ふたたび彼女に戻るなんて、ありえないことだったのです。

頭のなかの新しい視点からは、ジル・ボルト・テイラー博士はあの日の朝に死んで、もはや存在しません。

彼女の人生ーー人間関係、成功や失敗ーーを知らないのだから、わたしはもう、むかしに彼女が決めたことや、自ら招いた制約に縛られる必要はないのです。

わたしは左脳の死、そして、かつてわたしだった女性の死をとても悲しみはしましたが、同時に、大きく救われた気がしていました。

あのジル・ボルト・テイラーは、膨大なエネルギーを要するたくさんの怒りと、一生涯にわたる感情的な重荷を背負いながら育ってきました。

彼女は、仕事と自己主張についてはあくまで情熱的で、ダイナミックな人生を送ることにこだわり続けた女性です。

ですが、好ましく、そして称賛にも値する個性であっても、今のわたしは彼女の心に根を張っていた敵対心を受け継いではいません。

わたしは、兄と彼の病についても忘れ、両親と、両親の離婚についても忘れ、仕事と、ストレスの多い人生のすべてを忘れていました。

そして、この記憶の喪失によって、安堵と歓びを感じたのです。

わたしは、せっせと多くの物事を「やる」ことに打ち込みながら、37年の生涯を費やしてきました。

でもこの特別な日に、単純にここに「いる」意味を学んだのです。

左脳とその言語中枢を失うとともに、瞬間を壊して、連続した短い時間につないでくれる脳内時計も失いました。

瞬間、瞬間は泡のように消えるものではなくなり、端っこのないものになったのです。

ですから、何事も、そんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。

波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。

小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。

言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。

過去や未来に想像を巡らすことはできません。

なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。

わたしが知覚できる全てのものは、今、ここにあるもの。

それは、とっても美しい。

 

「自分であること」は変化しました。

周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。

ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。

もちろん、わたしは流れている!わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間のかなで振動する原子と分子からできているわけですから。

言語中枢のなかにある自我の中枢は、自己(セルフ)を個々の、そして固体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。

つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。

左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。

今ではその堅苦しい回路から解放されて、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。

もう孤独ではなく、淋しくもない。

魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。

自分を流れとして、あるいは、そこにある全てのエネルギーの流れに結ばれた、宇宙と同じ大きさの魂を持つものとして考えることは、わたしたちを不安にします。

しかしわたしの場合は、自分は固まりだという左脳の判断力がないため、自分についての認知は、本来の姿である「流れ」に戻ったのです。

わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。

わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でいっぱいになった嚢(ふくろ)として存在しています。

嚢なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。

しかし結局のところ、全ての粒子は、複雑なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。

あなたとわたしの全ての微塵(イオタ)を含み、そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原始的な物体とエネルギーでできている。

わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認識できませんでした。

それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。

視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした。

(わたしはこの粒々になった光景が、まるで印象派の点描画のようだと感じました)』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

 

言語を司る左脳が機能しなくなっただけで、こんなにも知覚する世界が変わってしまうことに驚きますが、

次回も、ジル・ボルト・テイラー博士の体験した「世界」と「わたし」についての驚きの報告を、引き続き見ていきたいと思います。

 

 

 

物欲 肉欲をすべて放棄した人

諸々の欲望から解放された人

偽我なく 所有感をもたぬ人

このような人だけが真の平安を得る

 

これが絶対真理(ブラフマン)と合一する道

ここに達すれば一切の迷妄(まよい)は消える

臨終の時においてすらここに到れば

必ずや無限光明の国に帰入する

(バガヴァッド・ギーター第2章71-72)