チャクラについて(24)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) リカ―ジョンの矛盾
何回にもわたって、脳科学の最新研究によって解明されてきた人間の脳の働きや「心」について、ご紹介してきました。
通常の常識では考えられないような新事実が次々と明らかにされていく中で、ひとつだけはっきりとしていることは、これまで人間がこうだとしてきたことが、どうもそうではないらしい、ということです。
”自分が意図するよりも数秒前に、すでに行動の準備がなされている”という事実は、これを物語っています。
つまり、「自分」が意図しなくても、行動は起きる、ということになりますから、
意図する「主体」としての自己は、一体、どこで何をしているのか?と不思議な気持ちになりますね。
この「主体」としての自己「わたし」が、行動、感情、思考の司令塔で、すべてをコントロールしている、と(わたしは)思っているのですから、脳科学が実験により検証した事実とは違っている、ということは、正に驚き以外の何ものでもないでしょう。
それでは、「わたし」とは一体、どんな存在なのでしょうか?
夜寝ている間は、「わたし」という意識はありません。
それは、脳が休息中であるため、と言われていますが、裏返して言うならば、「わたし」という意識は、脳が活動している間だけの意識ということになり、別の言葉では、「顕在意識」ということになります。
前回の記事では、「潜在意識」は心の表層に浮かび上がってこないので、私たちの表面上の意識「顕在意識」にはわからない、というような内容をご紹介しました。
そして、この潜在意識は、幼年期など、まだ記憶能力が発達していない段階での体験が、記憶の層の深いところに蓄積保存されることから、
普段は、私たち自分自身は気が付かないのですが、「わたし」という顕在意識の気づかないところで、行動、感情、思考に影響を与えている、ということでした。
最近の研究では、覚醒時においては、ノルアドレナリン、セロトニン、ヒスタミン、オレキシン、メラトニン、などの神経伝達物質が、
『中脳橋被蓋から生じる複数の上行性経路と呼ばれている視床および大脳皮質に到達するまでのあいだのニューロンに投射され、
その途中にある視床下部や前脳基底部などの各レベルで付加的な入力が合流して増強され、
これらの経路はさまざまな状況において、それぞれが独自のパターンで活動することによって、
大脳皮質のニューロンの活動を適切に調整していると考えられる。:』ということがわかっているそうで、
これらの神経伝達物質が複雑に絡み合って、「目覚めている状態」「寝ている状態」「夢を見ている状態」という3つの意識状態を造り出していることがわかっています。
しかし、この「目覚めている状態」における脳の働き全体が、「わたし」という自我意識を造り出しているという構造を客観的に理解できても、
それがそのまま、「自己の不在」に結びつくわけではありません。
その理由は、池谷裕二さんが指摘されているように、「自分が自分を考える」という思考が、リカ―ジョンという入り子構造になっているからです。
その上、「自分」が「自分はいない」と言うことは、単純に考えても、矛盾している、ということは、明らかです。
このようなリカ―ジョンの矛盾について、池谷裕二さんの説明を見てみましょう。
『最後にリカ―ジョンについて、さらに深く考えてみようか。
リカ―ジョンという行為は、実は、危険なんだ。
なぜなら、リカ―ジョンは矛盾を生むからだ。
ラッセルはイギリスの数学者かつ科学者だけど、なぜかノーベル文学賞までもらっているから、なんとも多彩な人だ。
このパラドックスはリカ―ジョンを許すと生じる。
高校生のときにこのパラドックスを知って、僕はびっくりしたんだ。
これを説明するために、カタログを例にとって考えてみようか。
カタログって「集合」だよね。
たとえば「靴のカタログ」だったら「靴の集合」だ。
世の中には、クルマのカタログ、文具類のカタログ、などいろいろある。
そこで、ある人が新しいタイプのカタログを考えついた。
世の中にはカタログが溢れてきたから、どんなカタログがあるのかすぐに調べられるように、全カタログを網羅した「カタログのカタログ」をつくろうと。
「カタログのカタログ」ということは、この「カタログのカタログ」には自分自身も載せないといけないよね。
だって、すべてのカタログを網羅しているわけだからね。
となると、「カタログのカタログ」は自分を自分の中に持つという入れ子構造になる。
リカ―ジョンだ。
そこで、別のある人が、さらに考えた。
世の中には2種類のカタログがあるのではないかと。
①「自分自身が載っていないカタログ」、つまり、靴とかクルマとか、そういった具体的なモノを扱ったカタログ。
そして、②「自分自身もそこに載っているカタログ」、つまりカタログのカタログ、の2種類だ。
だったら、①のタイプ、つまり自分自身が載っていないカタログだけを集めて、改めて、新しいタイプのカタログ③をつくりましょう、と。
こうして新たなカタログが完成した。
いいね?③「自分自身が載っていないカタログをすべて載せたカタログ」だ。
さて、ここで質問しよう。
この新型カタログには自分自身は載っているだろうか。
→ 自分自身が載っていないカタログを集めてきて。。。。
そう、いわゆる普通のカタログを、世の中からすべて集めてきてカタログをつくった。そのカタログの中には自分自身は載っているだろうか、という質問。
→ うーん。。。。
あはは、直感的にはどっち?
→ 載っていない・・・
そうだよね。
だって、自分自身が載っていないものだけを集めてきてつくったカタログだから、載ってないはずだよね。
つまり、「載ってない」。
載ってないすべてのものを集めてきたわけだね。
でも、もうこの仕掛けがわかったね。
一歩引いて考えると不思議だ。
載ってないカタログをすべて集めてきたカタログなんだから、もし、そこに自分自身が載っていなかったら、そのカタログ自身もそこに載っけなくてはならない。
だって、そういうものをすべて集めてきたんだもんね。
わかるよね。だから、実は、そのカタログ③のルール上、載せる必要があるの。
でも、もし載せてしまったら、今度は自分自身が載ってるんだから、定義上、そこに乗せてはいけないカタログになってしまうよね。
そのカタログ③は、自分自身が載っていないカタログを集めたカタログなんだから。
つまり、載せても載せなくても、どちらにしても矛盾してしまうんだ。
パラドックスだ。
何がいけなかったかというと、リカ―ジョンだね。
リカ―ジョンしたからマズいことになってしまったわけ。
リカ―ジョンをする集合体は必ず矛盾をはらんでしまう。
どこかで論理破綻が生じる。
ラッセルは、「リカ―ジョンの矛盾からは絶対に逃げられない」という認めたくない運命を、数学的に証明してしまった。
脳を使って脳を考えることは、その行為自体が矛盾を孕む。
リカ―ジョンというスパイラルの悪魔に、どうしようもなくハマってしまう。
脳を駆使して脳を解明するのは、まさに自己言及であって、ラッセルのパラドックスが避けられない。
僕ら脳科学者のやってることは、そんな必然的に矛盾をはらんだ行為だ。
だから、脳科学は絶対に答えに行き着けないことを運命づけられた学問なのかもしれない。
一歩外に出て眺めると、滑稽な茶番劇を演じているような、そういう部分が少なからずあるのではないかなと僕は思うんだ。
ということは、こんな逆説的な言い方もできるよね。
「脳」を扱う科学は、そのリカ―ジョンの性質上、もしかしたら、”ゴールがない”ものかもしれない。
だって脳を脳で考える学問だから、その論理構造上、そもそも「解けない謎」に挑んでいる可能性があるってわけ。』
(単純な脳、複雑な「わたし」 池谷裕二)
謎だとして疑問に感じている「わたし」が、その謎を解く、というのも、一種のリカ―ジョン(入り子構造)と言えます。
自問自答が繰り返される、というリカ―ジョンのスパイラルに入り込んでしまわないためには、どうしたら良いでしょうか?
脳科学は、ミクロ的な視点で「わたし」、或いは、「人間」を考えるひとつの方法としては、多少なりとも役に立つでしょう。
次回からは、マクロ的な視点に戻り、リカ―ジョンのスパイラルに陥らないように、第7チャクラについて見ていきたいと思います。
無数の河川が流れ入っても
海は泰然として不動である
様々な欲望が次々に起こっても
追わず取りあわずにいる人は平安である
(バガヴァッド・ギーター第2章70)