永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(23)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 無意識の構造

前回は、脳における「リカ―ジョン」(再帰)という「自分で自分について考える」という一見矛盾した脳の構造について、ご紹介しました。

”自分の心や存在を不思議に思ってしまう、あるいは「自分探し」をしたくなってしまう僕らの妙な癖は、リカ―ジョンの反映だ。

リカ―ジョンができるから、心で心を考え、そのまた考えている心をさらに心で考え、というような入れ子構造が生まれる”とありましたが、

まさにこの構造は、スピリチュアルな探求においては、当たり前にように生じており、誰でも、このリカ―ジョンのスパイラル・ループに陥ってしまいがちです。

 

「人間とは何だろう?」「自分とは何だろう?」「わたしは誰か?」

などは、この典型的なものと言えるでしょう。

 

リカ―ジョンの中で、その答えを求めているのが、私たち人間なのでしょう。

 

古今東西多くの人々が、この問いに対する答えを求めて、探求をしてきました。

 

自問自答の世界を抜け出るには、明らかなのは、脳で考えないことです。

 

思考を使っていくら考えても、リカ―ジョンの無限のループに陥るだけと理解できれば、別の方法を探すしかありません。

 

今回は、まとめとして、これまで連続でご紹介してきました脳科学の最前線から見た「意識」と「無意識」について、ご紹介したいと思います。

 

 

『だれしも好き嫌いがあるよね。

好きな食べものとか好きな人のタイプとか、そういう自分の好き嫌いも、結構、無意識のうちにつくられたものなんだろうね。

かつて僕が研究で使っていた実験動物で「スンクス」という動物がいる。

スンクスはネズミみたいに見えるけれど、ネズミではない。

モグラの仲間で、ネズミとは違った能力を持っている。

たとえば、吐く。

嘔吐する能力がある。

ネズミやウサギは吐かないよね。

あるときこんな実験をやった。

スンクスに砂糖水だけをあげる。

ネズミも同じだけど、スンクスも甘いモノが好き。

だから、水と砂糖水を並べて置いておくと、砂糖水を好んで飲む。

そこで、意地悪をしてみたの。

飲んだ後に吐かせるんだ。

どうやって吐かせるかというと、ゆする。

ゆするって、たかるって意味じゃないんだよ。

 

→ ・・・・・(笑)

 

物理的に揺り動かすってことね。

すると乗り物酔いになって、一分くらいでゲロを吐くの。

砂糖水を飲んだら、その直後に揺らして吐かせるんだ。

すると、次回からスンクスは砂糖水を飲まなくなる。

僕らヒトも、カキにあたって吐いたことがあれば、カキを嫌いになったりするでしょう。

ヒトの場合は「カキを食したからあたった」という因果関係が意識に上がっているけれど、スンクスはどうなんだろう。

少なくともこの実験では、砂糖水を飲んだから吐いたわけではないよね。

でも、砂糖水と嘔吐が時間的に接近して起こると、次回から、砂糖水を避けてしまう。

そこには因果関係は要らない。

ヒトの心の形成もそんなものではないかな。

好き嫌いも、実は、無根拠なもの、あるいは誤解に基づいたものも結構あるだろうと思う。

ヒトで試した実験例もある。

赤ちゃんのそばに白ウサギのぬいぐるみを置く。

脳にはバイオフィリア(生き物が好き)という性質があって、赤ちゃんは白ウサギのぬいぐるみに好奇心を示して寄って行く。

そこで、白ウサギのぬいぐるみに触ったら、その瞬間に、背後でドラをドーンと鳴らす。

赤ちゃんは大きな音は嫌いなので、泣き出してしまう。

また白ウサギのぬいぐるみに触ろうとしたらドーン。

そんなことを何度も続ける。

やがて赤ちゃんはそのぬいぐるみが嫌いになって、もはや近寄ろうとしなくなる。

 

この実験で興味深いのは「汎化」だ。

汎化とは対照を拡張して一般化すること。

たとえば、この赤ちゃんの場合、ウサギのぬいぐるみだけが嫌いになるのではなくて、それに類似したものまで嫌いになってしまう。

実物の白ウサギも嫌いになってしまう。

それだけでなく、白いもの全般が嫌いになったりする。

白いネズミも嫌うし、白衣を着た看護婦さんも嫌いになるし、白髭のサンタクロースも嫌いになる。

そんなふうに汎化によって好き嫌いの「世界観」が形成される。

もしかしたら、この赤ちゃんは成長した後も、この実験のせいで白いものが嫌いなままかもしれない。

成長したあと、本人には好悪の理由はわからない。

もの心がつく前に条件づけされているからね。

そんな具合に、僕らの感情や嗜好は、知らず知らずのうちに、まったくあずかり知らぬ原因によって、すでに形成されちゃっている可能性がある。

逆に言えば、この無意識のプロセスをうまく解明できれば、君が今言ってくれたように、精神疾患やトラウマの治療に応用できるだろう。

じゃあ、次は。

 

→ 自分が行動したいと思うよりも先に、前頭葉で意志を準備しているということは、自分が考えているつもりでも、脳の内部の方から、作為的に「こうしろ」と言われている感じで、自分の思考がコントロールされているんじゃないか・・・。

自分の思考ってどこまで本当に自分が考えていることなのか、自分で行動していると思っていても、マイオネットにすぎないんじゃないか。。。。

 

うーん、そうだね。

僕の講義では「操られている」という点を強調した。

いや、もしかしたら強調しすぎてしまったかもしれない。

でも、よく考えてみるとわかるけれど、その操っている本体は、結局は、自分の脳にほかならない。

だから、別に操られているわけではなくて、やっぱり自分が行動しているんだね。

単に無意識にスタートしているだけだ、というふうに考えてみたらどうだろう。

少しは気持ちが楽になるかな?

 

→ 準備されているものに対して、自分の体は応じるだけだとすると、自分の完璧な意志と言えるのはどこまでで、自我はどこまで意識できるのか。

そうやって考えていくと、やっぱりこんがらがってきますね。

 

少なくとも言えるのは、僕らは自分が思っているほど自由ではないということだ。

自由だと勘違いしているだけ、という部分はかなりある。

でも、「自由」は感じるものであって、本当の意味で「自由」である必要はない。

だから、僕らは「自由意志」をすでに感じて生きているんだから、もうそれでいいではないか、それ以上僕らは何を欲するんだ、という言い方もできるね。

ただ、心に自然とわき起こる感情など、自由にならない部分もいっぱいあることは知っておいて損はないよね。

たとえば、ひどい嫌がらせをされたら、だれだってムッとくるでしょ。

自動的にね。

「僕には自由意志(あるいは自由否定)があるから、怒らない権利を行使しよう」なんてのは無理だよね。

ムッとしてしまう。

しかも、タチが悪いことに一度、怒ってしまうと、なかなか怒りはおさまらない。

「よし、3秒後には怒りを消そう」と念じても、すぐにはおさまらない。

そういうふうに感情は自由ではない。

よく「あのガキ、気にくわないから叱ってやったよ」なんてエラそうにいうオヤジがいるけれど、でも、それは勘違いだ。

自動的に怒りがわいてきて、その感情に従って𠮟っただけ。

でも、本人は教育してやったつもりになっている。

ただそれだけだよね(笑)。

こうした不自由は、もちろん悲しむべきことじゃない。

すべてを意識で制御していたら大変なことになる。

すぐに頭はいっぱいいっぱいになってしまう。

だって、箸をつかむだけでも何十という筋肉が精密に動いているわけでしょ。

一個一個の筋肉の動きまで、すべてを意識して計算していたら、たまったものじゃない。

無意識に任せた方が、はるかにラクではないかと思うわけ。

 

→ こじつけで自分の思考を歪めているんだったら、自分の考えというのも、自分がほんとに考えていることそのものじゃなくて、周りの状況に迫られて無理やりつくった結果として出てきたものなのか。。。

 

そうそう。

いいこと言うねえ。

結局は「主体性」とは一体何だろうということになってくる。

芸術における目新しさ、奇抜性、新奇性なんかもそう。

まったくの無から新しい作品をつくりあげるかというと、そんなことはない。

絵画だって、映画だって、音楽だって、詩だってそう。

本人が気づいているいないにかかわらず、やはり「借りもの」が多いでしょう。

イデアのコラージュ。

そういうことと関係ないかな。

 

→ 操られているマリオネットが、操っている無意識に作用することもできるわけですよね。

考え方を変えうるということは。

だから、必ずしも完全に操られているとは言い切れないんじゃないか。。。

 

→ 自分で自分を操っているということで、自分を操っているのも自分、操れているのも自分ってことなんじゃないの。。。

 

あはは、そうそう、そうやって、なんだか話がこんがらがってしまうね。

そういう心の作用が、無意識の世界で生じるている以上、そこで何が起こっているかは、正直、僕たち脳科学者にもつかみきれない部分が多い。

その辺の研究はこれから著しく進歩するはずだから、10年後に改めて講義をやったら、そのときには「こんなところまでわかったんだぞ!すごいね」と説明できるかもしれないね。

ただ、君らの後輩、未来の高校生にね(笑)。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

 

これまで脳科学者、池谷裕二さんの著書から、

スピリチュアル的な観点からも説かれてきたテーマについてご紹介してきましたが、

脳科学が明らかにした人間の「心」の構造を垣間見ただけでも、

最近、スピリチュアルな世界で何人かの人が語って、認知度が高まっている「ある世界観」と類似していることに驚きます。

 

それは、最近では、「ノン・デュアルティ(非二元)」と言われていますが、

古くは、インドのウパニシャッドで説かれた「アドヴァイタ(不二一元)」です。

(ただひとつがあるのみ。)

 

仏教でも、釈迦の教えのひとつに、「諸法無我」というものがありますが、

これは「すべてのものごとは我ならざるものである」という意味だそうで、

「主体」としての「わたし」、自由意志をもった「わたし」の不在を説いています。

 

このようなスピリチュアルな世界観と、最新の脳科学が明らかにしつつある私たち人間の脳の仕組みから考えられる数々の仮説とが、不思議と一致しているのも、興味深いことだと言えるでしょう。

 

アドヴァイタ(不二一元)を完全に理解することは、人間(の頭)にとっては、不可能と言えます。

それは、理解しようとしても、理解しようとする頭に、リカ―ジョンが起こるだけで、「ただひとつがあるのみ」というアドヴァイタは、頭(思考)で理解しようとしても、できないからです。

 

このリカ―ジョンの入り子構造を打破するには、頭を使って理解するのではなく、他の方法が必要であることは、言うまでもないでしょう。

 

この方法については、後日、ご紹介する予定です。

 

 

 

 

あらゆる生物が夜としているときは

物欲を捨てた賢者にとって昼である

あらゆる生物が昼としているときは

見真者にとっては夜である

(バガヴァッド・ギーター第2章69)