チャクラについて(22)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 脳のリカ―ジョン(再帰)
前回の記事で、脳科学の側面から見ると、
「心」とは、フィードバック処理のプロセス上、創発の産物として、自動的に生まれてしまうもの、
という脳科学者、池谷裕二さんの「単純な脳、複雑な「私」」からの驚くような一説をご紹介いたしましたが、
今回は、その私たちの「心」のほとんど知られていない構造について、最新の脳科学研究の成果から導き出された興味深い説をご紹介したいと思います。
『さて、講義の残されたわずかの時間を使い、なぜ僕らが「心」を不思議に感じてしまうのか、その原理について、もう一歩、踏み入ってみよう。
フィードバック回路の特殊なタイプである「リカ―ジョン」の効果を考慮すると、その核心が見えてくる。
そもそも、僕らが「脳はどんなしくみなんだろう」と考えるとき、そう、これが連続講義のテーマだよね。
でも、この問題について考えるとき、その奇妙な姿勢に気づかない?
ここには自己言及の構造があるでしょ。
「脳」を考えるとき、当たり前だけど、自分の「脳」を使って「脳」を考えているよね。
このロジックの利点、あるいは落とし穴には、気をつけないといけない。
→ 自分で自分を。。。。
そう。
こういう構造を「入れ子構造」と言うね。
あるモノの中に同じモノが入っているという構造。
英語では「リカ―ジョン(recursion)」と言う。
日本語だと「再帰」と訳すのかな。
脳においては、このリカ―ジョンがポイントで、脳は考えているし、その脳をまた脳が考える。
つまり「リカ―ジョン=再帰」する。
ロシア人形のマトリョーシカを知ってるかな?
→ 人形の中に人形が入っているヤツ。
そう。
木製の人形を開けたら、中に自分とそっくりな小型の人形が入っている、その人形を開けるとさらに小型のよく似た人形が出てくる。。。それが何個も出てくる。
あれと似ているね。
通常のフィードバックでは、情報が一旦は外に出て、それが再び自分に戻って来るんだけど、リカ―ジョンは、出力先がダイレクトに自分自身だよね。
直接型フィードバックだ。
さて、リカ―ジョンがあると何ができるか。
脳がリカ―ジョンできるという能力は、いろいろな側面で役立っている。
たとえば僕らは数を数えることができるよね。
<数える>という行為はリカ―ジョンだね。わかるかな?
僕らは1+1=2と覚える。
動物でも高等哺乳類ならば1、2、3、4という数字の並びを認識できる。
でも、彼らは「1は1」「2は2」「3は3」というふうに、数を独立して覚えているようなんだ。
本質的な連続性がない。
「3は2の次の数字で、2は1の次の数字」という、繰りこみ的な相関の中で、「数字」を捉えることができるのはヒトだけみたい。
つまり、リカ―ジョンとして数字を捉えるのはヒトだけだということ。
2は1の次の数字であって、
1+1=2
だよね。3は2の次だから、
2+1=3
だけど、そもそも2自体が、1の次だから、これを書き直すと、
(1+1)+1=3
となる。
これは「1の次の次の数字」という意味だね。
つまり、自分に自分を足して、さらに自分を足している。
リカ―ジョン、入れ子構造になっているでしょう。
同じように、
|(1+1)+1|+1
これが4という数字だ。
こういうふうに数字をひとつの数字だけで展開できる。
すべての自然数は入れ子構造を多層にすることによって表現できる。
つまり、僕らはリカ―ジョンを通して、自然数に関して、1、2、3、4・・・とその順位制と階層性を認識している。
リカ―ジョンが可能なのはたぶんヒトだけ。
チンパンジーも教え込むと一階層くらいのリカ―ジョンはできるようになるみたいだけれど、繰り返しをずっと続けることはできない。
僕らヒトのリカージョン能力のすばらしさは、何層にもわたって入れ込むことができる点にある。
そう、無限に入れ込むことができる。
僕らはリカ―ジョンを無限に続けられるから、桁数の多い数字でさえも理解できる。
サルに24783という数字が理解できるだろうか。。。
僕らのようには無理だろうね。
ここで、リカ―ジョンが僕らの想像力に、新たな相転移ーー気づきのブレイクスルーーーをもたらすことに気づいてほしい。
つまり、僕らはリカ―ジョンによって、はじめて「無限∞」という概念を獲得できる。
リカ―ジョンのできない動物は、「無限」なんて概念は理解できないだろう。
無限は実在しないからね。
ちなみに、ヒトでも幼少時は、まだリカ―ジョンがうまくできない。
成長の過程であるとき、自然に数字を操作できるようになる。
リカ―ジョンが自由に行えるようになる。
すると、その瞬間に「無限」の意味も理解可能になる。
君らも成長の過程で、「あれ?」って、無限の不思議に気づいた瞬間があると思う
→ 数字を数え続けていくとキリがないって思ったり。
そうそう。
あるいは、目の前の世界をどこまでも歩いていったらどこに行き着くのだろうとか、宇宙の果てはどうなっているのだろうとかね。
こういう「無限の不思議」にふと気づいて、急に怖くなった経験はだれにもあるはずだ。
その感覚を持った瞬間こそ、リカ―ジョンの能力を手に入れた記念すべき瞬間だ(笑)。
さて、リカ―ジョンによって「無限」の存在に気づくようになると、もうひとつ重要な概念を知ることになるね。
わかるかな。
→ 有限。
すばらしい。その通りだね。
僕らヒトは、おそらく地球上で「有限」を理解している唯一の動物だと思う。
たとえば地球上のエネルギー資源は限られている。
土地や食糧は無尽蔵ではない、とかね。
だから、ヒトは有限のものを奪い合って、醜い争いや無惨な戦争も起こしてしまう。
有限を理解したことによって、ヒトの欲望は過剰になった。
あるいは、「命」の有限性にも気づくよね。
「自分はいつか必ず死ぬ運命にある」と理解できているのはヒトだけ。
僕の飼っているイヌを見ていても、基本手にノウテンキで、自分はあと10年くらいで死ぬだろうな、なんて意識しているようにはとても見えない。
だから自殺なんて企んだりしない。
絶望もない。
わかるよね?
「有限」を知っているというメタ認識こそが、ヒトをヒトたらしめているというわけだ。
人間の心のおもしろさは、まさにそこにあると僕は思っている。
自分の心や存在を不思議に思ってしまう、あるいは「自分探し」をしたくなってしまう僕らの妙な癖は、リカ―ジョンの反映だ。
リカ―ジョンができるから、心で心を考え、そのまた考えている心をさらに心で考え、というような入れ子構造が生まれる。
リカ―ジョンができるから、「我思う。でも、その我って何だろう」と。
もう一段階深い<私>の内部へと入り込んでいくことができる。
もちろん、さらに深層の<私>も考えられる。
そんな複雑な多層構造の<自己>を人間は持っている。
でも、それは複雑に見えるだけのことであって、構造的には単なるリカ―ジョンの繰り返しだ。
ここで今日最後の問いが生まれる。
リカ―ジョンは、なぜヒトでのみ、可能になったのだろう?
答えは、おそらく言語だよね。
だって文法はリカ―ジョンの典型でしょ。
「タロウ君はキャッチボールをしている」というのは単純な主述の文章だけれど、「私は、タロウ君がキャッチボールをしているのを、見ていた」という入れ子構文になると、「主(主述)述」と主述がリカ―ジョンする。
さらに、「アトム君は、私が、タロウ君がキャッチボールしているのを、見ていたのを、怠けていると責めた」と多層的な構文さえもつくることができる。
言語は原理の上ではいくらでもリカ―ジョンをつくることができる。
ヒトは言語を獲得したから、視点を自在に移すことが可能となって。
一歩先の視点を得たら、今度はそれを基準に、さらに次へと視点を移すことができる。
自己投影の射程距離がぐっと伸びて、自分って何だろう、脳って不思議、命って有限だよなーーと考えることができるようになっていったのだと思う。
さらに言えば、この自己投影によって、僕らは自分に心があることを、自分自身で気付けるようになった。
しかも、その「心」を必要以上に神秘的に捉えるようになってしまった。
なぜ、神秘的かというと、「無限」という概念は、理屈としては頭で理解できるけど、実感としては理解できないからだ。
それは、ワーキングメモリの容量が限られていることが原因だ。
ワーキングメモリとは短期的な記憶のこと。
短期記憶ということは「今現在まさに意識に上がっている情報」でもあるから、僕らのの意識に密接に関係している。
ワーキングメモリには決定的な性質がある。
それは、同時に処理できる情報量が限られているということ。
僕らの意識にはキャパシティがあって、その限界容量は、測定方法にもよるのだけど、だいたい7つ前後だと言われている。
つまり、僕らが並行処理できることは7個まで。
厳密なことを言えば、容量は7に絶対的に固定されてはいないけれど。
でも、やってみるとわかるよ。
たとえば、7桁を超える数値を暗唱するのは、わずか30秒であっても、とってもむずかしい。
そして、ワーキングメモリの容量が一杯になると、僕らは精神的にアップアップになる。
小説やドラマでも、主要な登場人物が7人を超えると、ものすごく複雑なストーリーに感じられる。
というより、頭が混乱して物語のスジがわからなくなってしまう。
あるいは日常生活でも、「忙しくてテンパっているなあ」というときには、「やるべきことリスト」を書き出してみるといい。
だいたいは7項目をちょっと超えているくらいだから。
7個以下ならば落ち着いて対処できるけど、それを超えると急に「猛烈に忙しい」と感じて、どう対応していいのか戸惑って、焦りを感じる。
このようにワーキングメモリには処理容量の限界があって、飽和すると理解不能の不安状態に陥る。
これがヒトの意識の特徴だ。
さてと、僕の言いたいことが、そろそろ見えてきたね?
→ リカ―ジョンは無限に可能だから・・・・
そうそう、そこだね。
つまり自分の心を自分の心で考えるリカ―ジョンは、原理的には、無限に入れ込むことができるけど、でも、それを行う場であるワーキングメモリは、残念ながら、有限だ。
だから、リカ―ジョンはすぐに飽和しちゃう。
自分の心を考える自分がいる。
でも、そんな自分を考える自分がさらにいて、それを考える自分がいて・・・・とね。
そんなふうに再帰を続ければ、あっという間にワーキングメモリは溢れてしまう。
そうなれば、精神的にはアップアップだ。
だからこそ「心はよくわからない不思議なもの」という印象がついて回ってしまう。
でも、その本質はリカ―ジョンの単純な繰り返しにすぎない。
脳の作動そのものは単純なのに、そこから生まれた「私」は一見すると複雑な心を持っているように見えてしまう。
ただそれだけのことではないだろうか。
だから、自分の心を不思議に感じるという、その印象は、いわば自己陶酔に似た部分があって、それ自体は科学的にはさほど重要なことではない。
単にリカ―ジョンの罠にはまっただけだ。
つまり僕たちはこの3日間の連続講義で、リカ―ジョンの悪魔に足をすくわれないように気をつけながら、「心」を考える心構えというか、その最低限の作法を守りながら、リカ―ジョンを使って脳のしくみを解剖してきたわけだね。』
(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二)
私たちが、自分自身の「心」について考えるときには、このようなリカ―ジョン(再帰=入り子構造)という仕組みを使って考えている訳ですが、
それは、脳の働きの容量によって有限であるため、いくら考えても終わりはない、という結論に達して、それで終わってしまいます。
つまり、結局は、考えても、何もわからない、ということになってしまうのです。
それは、私たち人間は、人間の脳の能力以上には考えることができない、
つまり、自我が自我を考えることは有限であるため、自我は自我を超えることができない、と言い換えることができるかと思います。
このように、思考には、限界があります。
次回は、これまでご紹介してきた脳科学の最前線の新事実のまとめをご紹介し、また、古今東西で実践されてきた第6チャクラ(脳)の活性法などもご紹介する予定です。
ゆえに剛勇の士アルジュナよ
諸々の感覚をそれぞれの対象から
断固として抑制できる人の
覚智(さとり)はまことに安定している
(バガヴァッド・ギーター第2章68)