永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(20)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 自由否定の生まれる場所

前回の記事では、最新の脳科学の実験結果から、私たち人間の行動は「自由意志」ではなく、自動で起こる反応を「自由否定」しなかった結果である、との説が展開されました。

 

自分の行動は、自分で意図した結果である、と思い込んでいる私たちには、この事実は衝撃的なものですが、

改めて、「自分」という存在を見直すきっかけとなるかもしれません。

 

その他にも、これまでにご紹介してきました幾つかの衝撃的な、これまでの常識を覆すような新事実は、「自己」に対する固い思い込みを覆す可能性を秘めたものであるように感じます。

 

神秘の扉の向こうには、「常識」を携えて行くことはできません。

 

「人間」として生まれた時から、生まれ持ってしまっている頑なな思い込みは、私たちが神秘の扉の向こう側に行くのを阻みます。

 

恩寵は、神秘そのものです。

 

恩寵を理解できなければ、恩寵がやって来ることはないでしょう。

 

まずは、「自分」という存在に対する正しい智識を得て、知性(ブッディ)が、間違った思い込みを塗り替える必要があります。

 

脳科学最前線の新事実に触れることで、「自分」に対する考え方が変化し、神秘の扉へと続く道を一歩一歩歩んでいくことができるやもしれません。

 

神秘と私たちを隔てているのは、「わたし」という存在に対する間違った思い込みだけなのですから。

 

 

『さて、もう一歩先に進もう。

では、自由否定はどこから生まれるのだろう?

先ほど、君はこれを疑問に思っていたようだね。

だって、僕が自由否定の説明をしているときに、首を傾げていたよね。。。

そうなんだ、自由否定そのものは一体どこから生まれるんだろう。

脳の画像を撮影したところで、それはあくまで、自由否定をしている最中の脳活動の様子を観察しているだけだよね。

では、その活動自体はそもそも、どこから生まれてきたんだろう。

その起源はどこだ?

 

→ 自由否定を生み出す自由意志。。。。(笑)

 

そうそう。

結局、そういうふうになっていくんだよね。

意志はゆらぎから生まれるとしても、案外と自由否定さえも、もしかしたら、ゆらぎじゃないか、という話になってくる。

そうやって結局は、終着駅のない疑問で、延々と堂々巡りすることになる。

はて、僕らの「自由」は一体どこに行ってしまったんだろう。

 

→ 結局は決定論になってしまうんですか。

 

これを解決するひとつの方法は、ゆらぎが環境や身体によって規定されるという考え方だ。

たとえば、昨日の例だと、サブリミナル映像で「がんばれ!」と表示すると、それだけで握力が高まるというのがあったよね。

なぜか力が入ってしまう。

その一方で、先ほど論文を紹介したように、そもそもレバーを握る力は「ゆらぎ」で決まるのだったよね。

 強く力が入るときと、弱いときがあって、脳のゆらぎ状態を観察していれば、握力は事前に予測できるんだと。

ところが、「がんばれ」と出ると強く握る。

これは重要なことを意味している。

つまり、「がんばれ!」という文字を見ることによって、脳のゆらぎが「強く握る」モードに固定されるってわけだ

だから、「がんばれ!」と表示されれば、いつも強く握ることになる。

つまり、環境や外部からの刺激が、脳のゆらぎのパターンをロックしてくれて、だからこそ、僕らの行動は完全なランダムではなくて、場面や状況が似ていれば、毎回だいたい同じ行動を取ることができる。

つまり、僕らの意志は環境によって決定されている。

これは広い意味で「反射」だ。

環境や刺激に単純に反応しているだけ。

本人は自分で決めたつもりになっているけど、実は環境がゆらぎを決めてしまって、それに従ってしているだけ。

「〇くら」と見たら「さくら」と答えてしまうのも、そのときは自分の「意志」で思い出したつもりになっているかもしれないけど、実は、外部の状況から、単にそう答えさせられているだけ。

 

→ でも、それってつまりは、自分で選べてないってことじゃ。。。。

 

まったくそうなんだけど、だからといって、悲観すべきではない。

だって、すべての選択を自分で決めるとしたら、これは大変なことだ。

僕らはあまりにも「やれる」ことが多すぎる。

そのすべてを細部のレベルまで真剣に検討していたら、時間がいくらあっても足りない。

だから、そのときの状況に応じて自動的に決まってしまっていいんだ。

その方が楽だし、効率がよい。

現状に差し障りがなければなんの問題もないでしょ。

しかも、本人は「自分で決めた」とエラそうに勘違いしている。

本人が満足ならば、まあ、それでいいのではないのかな(笑)。

ただ、僕らには学習という能力がある。

たしかに、反射によってゆらぎの大枠が決定されるかもしれないけど、学習や記憶によって、同じ刺激でも、ゆらぎのパターンは変わりうる

そういう自由度があることもまた確かだ。

先ほどの君の質問はこのことを訊きたかったんだよね。

 

さて、講義の残った時間で、脳を直接刺激することでわかってきた奇妙な現象の話をしよう。

このために、先ほどの話を思い出してほしい。

手首を動かすとき、まず脳で「準備」が始まって、それから「意志」が生まれて。。。。その後のプロセスは覚えてる?

 

→ 「行動」が起きて、それを「知覚」する。

→ いや、「行動した」と感じてから、「行動する」でした。

 

そう。動いたと「知覚」してから、「運動する」だったね。

ここなんだ。

この時間の逆転を取り上げない研究者、というか、気にしない研究者は意外と多い。

なぜ僕らは「動く」よりも前に「動いた」気がしてしまっているのか。

不思議な現象だ。

 

①「脳の準備」→ ②「意志」 →③「動いた=知覚」 →④「脳の指令=運動」

 

まず、こうした事実から言えることは、「知覚」と「運動」は、独立した脳機能であるってことだ。

それは簡単な実験で確かめることができる。

運動準備野という脳の場所があったね。

手を動かすときに、この脳部位をTMS(狙った脳回路を短時間だけ不活性化させる時期刺激装置)でマヒさせると、一瞬、準備ができないから、手が動くのがちょっと遅れる。

0.2秒ぐらい遅くなる。

このとき僕らの知覚はどう変化するだろうか?

おもしろいことに、動くのは遅くなっても、知覚はほとんど遅くはならない。

 

→ 動かしているつもりだけど、まだ動いていない。。。

 

その通り!

本当は遅れて動いているのだけど、自分ではいつも通りに、もうとっくに動かしたつもりになっている。

そんな事実からも、知覚と体の動きがある程度は独立した機能だというのがわかるよね。

 

僕らにとって時間の感覚は一体どうなっているのだろう。

同じように、大脳皮質の感覚野を刺激してもおもしろい結果が得られる。

たとえば体性感覚野を刺激すると、そこに対応した体表が「さわられた」という感じがする。

手に対する体性感覚野だったら手が、頬だったら頬が、触られたような気がする。

でも、この実験をやってみて、すぐにわかる不思議な現象は、刺激すればそれでよいというのではなくて、強い刺激を0.5秒ぐらい継続しないと「感じない」ということなんだ。

しかも、刺激のスタートから「さわられた」と感じるまで、なぜか0.5秒もかかる。

これは不思議なことだ。

なぜかといえば、実際に手を触れられたときは0.1秒後にはもう「手に触られた」と感じるからだ。

不思議だよね。

だって、さわられたという触覚の機械信号が、手の皮膚で電気信号に変換されて、さらに、その神経情報が長い腕を伝わって、脊髄に入り込んで脳まで行くまでに、ずいぶんと時間がかかるはずでしょ。

にもかかわらず、手に触られたときには、ほとんどその瞬間に「感じる」ことができる。

一方、脳を直接刺激したときには、刺激してからしばらく経たないと「さわられた」とは感じない。

なぜこんなことが起きるんだろう?

神経伝達のプロセスは時間がかかるから、今、感覚器で受容したことをそのまま感じるとすると、情報伝達の分だけ常に遅れて感知されるだろう。

こうなると、常に僕らは「過去」を生きていることになる。

今君らが感じたもの、目に見えたもの、脳の中だけで「自分は”今」ここにいて、こんな風景を見て、こんなことを考えている」と感じている限りは、その”今”は過去の世界を感知していることになる。

現実の時間と心の時間に差があったままでは、きっと、いろいろな不都合が起こるんだろう。

ということで、脳は感覚的な時間を少し前にズラして、補正しているんだ。

それも、無理して補正しているから、こんな簡単な実験で矛盾が見えてきてしまう。

しかも、おもしろいことに、補正しすぎてしまっている傾向がある。

「動く」前に「動いた」と感じるということは、補正が過剰で「未来」を知覚してしまう証拠だね。

脳には、まあ、そんな不思議なことが時折起こる。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

さて、何回にも渡って、脳科学最前線の実験結果から、脳についての不思議な現象をご紹介してきましたが、そろそろ終盤に入ります。

 

次回は、「ゆらぎを意志でコントロールできるか?」についてです。

 

 

 

 

至上主(かみ)に知性(ブッディ)が帰入せぬ者は

心も統御されず 知性(ブッディ)も安定せず

平安の境地は望むべくもない

平安なき所に真の幸福はない

(バガヴァッド・ギーター第2章66)