チャクラについて(19)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 自由意志と自由否定
何回にも渡り、最新の脳科学の研究成果によって、次々と私たちの目の前に開示されつつある驚きの新事実について、ご紹介してきました。
私たちは、自分の意志で、行動していると感じていますが、
どうも、脳を詳しく見ていくと、そうではない、ということがわかってきた、
私たちが「意図する」よりも前に、すでに脳は「準備をしている」ということがわかったということで、
行動を選択しているのは、「自由意志」によるものではなく、
それは、脳の自動反応の結果である、というのが結論のようですが、
それでは、私たち人間には、100%自由はないのでしょうか?
前回の続きを見ていきましょう。
『ここまでいろいろな例を挙げながら説明してきた。
僕らの行動だけではなく、高度な心の機能も脳の「ゆらぎ」によって決まっているのかもしれない。
そんな、思わず心が折れてしまうような事実だ。
さて、みんな、それでも、自由意志はあると思う?
→ なんだか、ないような気がしてきた。。。
→ 脳の動きというのは、経験によって変化しないんですか。
ゴルフをいっぱいやっている人はそれに適した脳のゆらぎにすることができるとか。
なるほど。
とっても大切な視点だ。
要するに、仮に「ゆらぎ」で決まっているとして、そもそもその「ゆらぎ」は単なるランダムかどうか知りたいわけでしょ。
とてもいいポイントに気づいてくれた。ありがとう。
しかも、君の質問は、もう一歩先を行っていて、ランダムかどうかじゃなくて、自分の意図でその「ゆらぎ」をコントロールできるかどうかというニュアンスを含んでいる。
ただ、この話はもう少し後でしたい。
もしかしたら明日になってしまうかもしれないけど、でも大切なことだから、後でこの話題には必ず立ち戻ってきたい。
その問いに答えるためにも、今は、自由意志の問題をもう少し追いかけておかなくてはならない。
さきほどの自由意志との実験を復習してみよう。
まず脳が、動かす「準備」を始める。
準備が整って、いよいよ動かせるぞと思ったときに、「動かそう」という意志が生まれる。
だから「動かそう」と思ったときは、すでに脳は動くつもりで準備をしているのだったね。
こういう話をすると、文句をつける人もいて、「ということは、私が殺人事件を起こしても、罪には問えないですよね」などと言う。
自由意志がないということは、体が勝手に本人の意志とは無関係に作動したわけだから、それは私ではない、と。
この意見、どう思う?
→ うーん、否定したいけど。。。。
でも、たしかに、意志の生まれる時間的経過を知ってしまった今、この主張は否定するのは難しい気がするね?
となると、殺人犯を有罪にすることはできないのだろうか。
→ 準備ができたから行動したくなるんだけど、一般生活では何かしたいと思っても、それをしないということはできますよね。
つまり、<しない>ことを決める意志は、人間にはまだあるんじゃないですか。
たしかに今僕は、こうやって手首を曲げたいと思って曲げているけど、曲げなくても支障はないわけだし。。。。
ほう、なるほど。
この意見についてみんなはどう思う?
納得する?
・・・・何人かはうなずいているね。
今すごくいいことを言ってくれた。
僕はあえて大事なことを言わずにここまで来た。
行動したいという「欲求」よりも0.5秒ぐらい前には行動の「準備」は始まっている。
しかし、その一方で、「準備」から「行動」までは、その0.5秒よりももっと時間がかかる。
1.0秒とか1.5秒とか。
ということは、どういうことか。
もう一度言うよ。
「行動したくなる」よりも、「行動する」ことの方が必ず遅い。
時間的には、まず欲求が生まれてから、行動をする。
この時間差は長ければ1秒近くになる。
この期間が重要なんだ。
おそらく「執行猶予」の時間に相当するのだろうと言われている。
うーん、執行猶予というと語感が悪いな(笑)。
今、まさに君が言ってくれたように、その行動をしないことにすることが、可能な時間という意味ね。
その時間内に、行動を起こすのをやめることができる。
手首を動かしたくなったとき、たしかに、その意図が生まれた経緯に自由はなかった。動かしたくなるのは自動的だ。
でも、「あえて、今回は動かさない」という拒否権は、まだ僕らには残っている。
この構図が決して「自由意志」ではないことに気づいてほしい。
自由意志と言ってはいけない。
「準備」が生まれる過程は、オートマティックなプロセスなので、自由はない。
勝手に動かしたくなってしまう。
そうではなくて、僕らに残された自由は、その意志をかき消すことだから、「自由意志」ではなく、「自由否定」と呼ぶ。
英語でいえば、自由意志は”free will”で、自由否定は”free won't)と言う。
→ しないことをする。。。
そうだね。
僕らにある「自由」は、自由意志ではなく自由否定。
「人は一生に一回ぐらいは殺意を覚えるものさ」なんて、ホントかウソか知らないけど、そんなことを言う人がいる。
でも、殺意を覚えるだけだったら犯罪じゃないよね。
頭の中で思うだけだったら、罪には問われない。
そもそも、そこには自由はなく、勝手に脳がそう思ってしまっているだけのこと。
ただし、そのときに「殺人はダメだ」と自由否定の権利を行使しなかったら、つまり、本当に殺してしまったら、それは犯罪なんだ。
だから、殺人は有罪になる。
これが答え。
ということで、僕らの「心」の構造が見えてきたね。
自由否定が鍵を握っているんだと。
子どもは自由否定がヘタだよね。
だって、友達のこと強く殴ったりするでしょ。
でも、大人になると、行動の衝動を「否定」できるようになる。
いやいや、ここで殴ってはいけないぞ・・・ととどめるわけだ。
あるいは子どもは口も悪い。
つい、「おじちゃんハゲてるね」とか、「おばちゃんデブだね」とか言っちゃう(笑)。
大人になると、そうした発言をぐっと抑える。
自由否定がうまくなる。
大人でも、ハゲてる人を見たら、「あ、ハゲてる」とは思うよね。
いや、思ってしまうよね。
そこに自由はない。
でも、口に出すのはやめておく。
それが大人の態度。
つまり、人間的に成長するということは、自由否定が上達するということと絡んでくる。
日常生活でも自由否定の考えは大切だよ。
たとえば、明日までにいい企画を考えないといけないという状況では、よく「アイデアを絞る」という表現をするよね。
でも、アイデアはそもそもの「絞る」ものかな?
アイデアなんて頑張って絞り出すようなものではないでしょ。
それは自由意志の存在を盲信した姿勢だ。
そうではなくて、僕らにできるのは、自動的に脳から発生してきたアイデアを自由否定するかどうか、つまり、採用するか不採用にするかだけだ。
そこにしか僕らの選択の余地はない。
そして、最後に、これならいいね。。。と自由否定をしない。
僕らの脳は、そういうスタイルだけが許されている。
アイデアそのものは脳のゆらぎから自動的に生まれる。
そう。僕らはゆらぎに任せることしかできないんだ。
さて、先の質問に立ち戻ろう。
<手を上げる>から<手が上がる>を引き算すると何が残るか?
もう答えが見えたでしょ。
当初の君らの解答は「自由意志が残る」という結論だったね。
でも、今こうやってじっくりと脳のしくみに考えを巡らせた後だと、見え方が変わったのではないかな。
さて、この引き算の後に何が残る?
→ 手を上げることをやめなかった意志。
そうだね。
「自由否定」をしなかったという事実が残る。
去年、自由否定しているときの脳の活動がMRIで調べられた。
まさに、その「引き算」の脳の活動が記録されたんだ。
ちなみに、この論文、タイトルがおもしろい。
”To do or not to do"という言葉が冒頭にある。
→ 「ハムレット」の。。。。
よく知ってるね。
”To be, or not to be..."ならばハムレットの独白の場に出て来る台詞だ。
「生きるべきか死すべきか」などと訳されたりする。
これをもじって洒落たタイトルをつけた論文。
この研究で示されたのが「引き算」の結果だ。
自由否定した瞬間、つまり「しようと思ったのにしなかった」ときの脳の活動を記録して、「してしまった」ときの活動を引き算した。
さて、何か残ったか。
前頭葉の一番前の部分と、側頭葉の一番端っこの部分。
これが引き算して残った脳活動だった。
言ってみれば、自由否定に連関する脳の活動だよね。
つまり、僕らの「自由」な脳活動だ。
これこそが、自由な心が宿る場所なんだ。』
(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二)
脳が働く仕組みから導き出された結論は、私たち人間にあるのは、「自由意志」ではなくて、「自由否定」という従来の常識を覆すような驚きの新事実でした。
脳に生じるのは、脳ゆえの自動反応であり、「自由否定」が無ければ、自動反応は、そのまま表に行動として現われます。
そして、その表に現れた行動を、認知(認識)することで、私たちは、その行動を
「自分が起こした」「自分が選択した」と思います。
しかし、脳の活動を詳しく分析してみると、実際には、この表に現れた行動は、脳の単なる自動反応であることがわかった、というのですから、驚きです。
更に言うならば、私たち人間は、後付けで、脳の自動反応を認識しているに過ぎないにも拘わらず、
自分の「自由意志」で「自分」が「選択」した、と思ってしまっている、ということになります。
しかし、こんな疑問が湧いて来ます。
ここで解説されたように、「自由否定」以外は、すべて自動反応である、ということならば、
行動、感情、思考の主体であるとされている「わたし」という個人のアイデンティティは、脳の何処にあるのでしょうか?
「我思う、故に、我在り」とは、有名なデカルトの言葉ですが、
この「我」の正体とは何でしょか?
「自由意志」が、実は、脳の自動反応であるからには、そこには、選択する主体である「わたし」が存在しなくても、肉体がある限りは、自動反応は起こるでしょう。
となると、「わたし」という主体、この「わたし」とは、一体、何なのでしょうか?
こんな疑問が浮かんできますが、
最新の脳科学によって明らかにされつつある世界は、更に驚くべき事実を示唆しています。
その脳科学最前線の衝撃の事実を、次回も見ていきたいと思います。
至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)を得たとき
物質界の三重苦*は消滅し
この幸福(さち)ゆたかな境地で
速やかに知性(ブッディ)は安定する
(バガヴァッド・ギーター第2章65)
(*①自然界からくるもの(天災、気候)
②人間を含めた他の生物からくるもの
③自分の肉体に関するもの)