永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(17)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) ニューロン(神経細胞)と「わたし」

数回にわたって、脳の働きについて、最新の脳科学の研究成果をご紹介してきましたが、

これまでの記事を読んで、これまでスピリチュアルな世界で説かれてきた「ある世界観」と、不思議な一致を見い出していらっしゃる方もおられることでしょう。

 

「自由意志はあるのか?」

 

私たちに、「自由」はあるのか?

 

前回の続きを見てみましょう。

 

 

『さきほど、脳が「準備」を始めると言ったけれども、それは脳全体が始めるというより、ある特定の部分が準備を始める。

まず、この事実について、きちんと確認しておこう。

手足の動きの指令を出す脳の領域に「運動野」があるよね。

これは体の動きを直接制御している。

その運動野のすぐ上流に「運動前野」や「補足運動野」という脳領域がある・・あ、覚えなくていいよ。

むずかしい専門用語だから、この脳領域は、前頭葉の後ろの方にあって、次にどういう行動や運動をするかをデザインしている。

運動前野も補足運動野も、大ざっぱに言えば体の動きを準備する場所だから、ここでは「運動準備野」って呼んじゃおうか。

運動準備野が活動すると、次に運動野が活動して、すると体が動く。

大ざっぱに言うと、そんな流れだ。

つまり、意志が生まれるよりも先に活動する脳部位とは「運動準備野」のことだ。

これは脳の刺激実験で検証できる。

たとえば、運動野を刺激すると勝手に体が動いてしまうよね。

右脳の運動野の腕を支配する領域を刺激すると、左腕が動く。

本人の意図とは関係なく、自動的に動いてしまう。

では、運動準備野はどうだろう。

この部位を刺激したらどうなるか。

どんなことが起こる?

 

→ 動かしたくなる

 

その通り。

動かしたくなる。

強く刺激すれば、身体が動いてしまうけれど、弱い刺激だったら身体は動かなくて、「動かしたく」なるか、あるいは、「すぐ動き出しそう」か感覚がする。

だから、運動準備野は、運動の意図を生み出す中枢だと言える。

自由意志を感じさせるような・・・・「動かしたくなる」って意志だよね。

自由意志を実体験させるシステムが、運動準備野の脳回路だ。

そこを刺激すると、本当は外部から制御されているのに、本人は自分の意志で「動かしたくなった」と感じる。

いわば強制された自由だ。

 

さらに、奇妙な病例がある。

この運動準備野に支障をきたした患者さんの例だ。

さて何が起こるだろう。

運動準備野は右脳と左脳に一か所ずつあるよね。

じゃあ、たとえば、右脳の運動準備野に異常活動が生じた場合は?

 

→ 無気力になっちゃう。

 

ほう、それは、自由意志がなくなるからかな。

 

→ 左が重く感じる。

 

ああ、自由に動けないから、ダラーンと垂れちゃうってことだね。

答えは違うんだ。

もっと信じられないことが起こる。

「エイリアン・アーム・シンドローム」という症状。

つまり「エイリアンの腕」症候群だ。

 

→ 手が勝手に動いちゃう。。。。

 

その通り。

右脳の損傷があると、左半身が勝手に動作してしまう。

「動かしたくなる」という感覚が生まれずに、いきなりダイレクトに行動が生じるんだ。

たとえば、目の前にホットコーヒーがあるとしよう。

右手でコーヒーカップを持ってみたら熱かった。

だから、テーブルの上にカップを置こうと試みる。

にもかかわらず、左はそのカップを持って飲もうとしてしまう。

あるいは、左手は布団のシーツを引き裂いてしまうから、右手で「ちょっと待て」と静止しなければならない。

もっと驚く例は、ある女性の患者のケースだけど、左手が自分の首を締めて殺そうとするから、右手でその動きを必死に抑止したなんて話も残っている。

びっくりするかもしれないけど、そういう患者が実際にいるんだ。

 

あまりにも不可解で、奇妙な病例だよね。

でも、自由意志はどこから生まれるのかを考えるうえで、ちょっとしたヒントになる。

これでは、まるで一人の人間の中に二人の人間が同居していて、それぞれが別々の自由意志を持っている状態でしょ。

似たような病状で、君らが思い当たるのは、きっと、「多重人格」じゃないかな?

正式には「解離性同一性障害」と言う。

でも、エイリアン・アーム・シンドロームは、ひとつの脳に複数の人格が同時に同居しているという点で、多重人格とはまったく異なる。

多重人格は同時に別々の人格が現れることはない。

でも、今回の例では同時に存在しているから、別々の意志が相互にケンカするという奇妙な状況になる。

この例からわかるように、自由意志はたしかに「存在」はするけれども、でも、それは「幻覚」に似たところがある。

つまり、僕らは自由意志を知覚してはいるけれど、それが脳内に実在するかと問われると、単に運動準備野の活動を反映した結果でしかなくて・・・と、そんな気がしてこない?

ん?納得できないか。

 

→ 運動じゃなくて、思考の場合は?

 

いい質問だね。

現にそういう実験も行われている。

厳密には、思考というより、記憶だけども、自由にものごとを思い出してもらうという、「自由想起」の実験。

ヒトの海馬に細い電極を刺して、ニューロン神経細胞)の活動を記録してみてわかったことなんだ。

海馬は、「記憶」に関係している脳部位だよね。

たとえば、君が何かを思い出すとしようか。

好きな映画のこととかね。

すると、それを思い出して、意識にのぼるよりも前に、その映画に対応する海馬のニューロンがすでに活動を始めているんだ。

ニューロンが活動すると、約1.5秒後に、そのニューロンに対応した内容を思い出すんだ。

つまり、海馬の活動を見ていれば、君が何を想起するのか、その内容を、君よりも先に知ることができるってことだ。』

(単純な脳、複雑な「私」  池谷裕二

 

 

意志や選択といった「自由」とは全く関係なく、脳の活動があり、それにより、運動や思考が生じている可能性が示唆されていますが、

これは、「わたし」という自我意識である顕在意識についての理解へとつながっていくテーマでもありますので、もう少し詳しく見てみたいと思います。

 

また、顕在意識である自我意識については、後日、別の観点からも見ていきたいと思います。

 

 

 

 感覚の対象を見 また思うことで

人はそれに愛着するようになり

その愛着によって欲望が起こり

欲望から怒りが生じる

 

怒りに気が迷って妄想が生じ

妄想によって記憶が混乱し

いままでの教訓を忘れ 知性を失う

その結果 人はまた物質次元に堕ちる

(バガヴァッド・ギーター第2章62-63)