チャクラについて(16)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 「自由」という感覚
前回、最新の脳科学の研究成果から、「自由意志」についてご紹介しましたが、
今日は、その続きです。
『そもそも「自由」であることの条件は何だと思う?
今は「準備」「動かそう」の話は忘れてもらっていいよ。
自由であることの「条件」について、こういうときに自分は自由だと感じるというのを挙げてみて。
→ 人間である以上、完全にとまではいかないけれども、他者、条件、物、そういうものによって自分の行動や意志が制限されていないことじゃないですか?
他から影響を受けない、か。
なるほど、これは言葉を換えて言うと、「自分の意図が行動結果と一致する」ということでもあるよね。
意図したのに、それとは異なる結果が得られたら、他から何らかの影響を受けている可能性がある。
それでは「自由」は感じられないよね。
だから、意図と結果が一致することは最低条件として必要だ。
これをひとつ目の「自由の条件」にしようか。
ほかに何かないかな?
自由の条件。
自由の条件で意外と見落とされがちなのは、「意図が行動よりも先にある」ことだ。
意志が先に生じ、これも当たり前だけど、見落としてはいけないポイントだ。
だって、手首が動いてしまった後に、手首を動かしたくなっても、自由は感じないでしょう。
だから「意図が結果よりも時間的に先行する」こと、これがふたつ目の自由の条件だ。
もうひとつ条件があるんだよね。。。わかるかな。
それは「自分の意図のほかに原因となるものが見当たらない」ということ。
この3つだ。
自由を感じるためには、少なくともこの3つの条件を満たしている必要がある。
このうちひとつでも欠けたら、もはや「自由」を感じない。
まとめよう。
①自分の意図が行動結果と一致する
②意図が行動よりも先にある
③自分の意図のほかに原因となるものが見当たらない
さて、自由の条件が揃ったところで、もう一度、さっきの「手首を動かす」の実験に戻ってみよう。
あの実験では、この3つの自由の条件のうち、どれかが欠けてる?
→ 2番目。
ん?「意図が行動よりも先にある」。どうだろう?
もう一度、よく実験結果を思い出してもらいたいんだけど、「準備」→「動かそう」→「動いた」→「指令」という順番だったよね。
どう?
よく見ると、別に矛盾していないね。
「動いた」と感じるよりも先に「動かそう」と思っている。
だから条件②は満たされている。
では、条件①「意図と結果の一致」はどう?
→ 一致している。
手首を動かそうと意図して、実際にその通りに動いているから、条件①は満たしているね。
最後の条件③は?「ほかに原因が思い当たらない」
→ これは、もう脳が勝手に準備しているから、満たされていないと思います。
なるほど。
自分の意図の前にはもう脳が準備をしている、つまり脳が原因になっているから、一見この条件にはひっかかるように見える。
でも、動かそうと思っている本人の視点から見れば、この条件も問題ないよね。
だって僕らは「実際に意図より先に脳が準備している」ことを知らない。
実際、どんなに頑張っても、脳が準備している様子に気づくことができないでしょ。
だから、「自分の意図」以外に原因となるものが、その当人には見当たらないわけだ。
ということは、「手首」の実験データは、自由の条件を、少なくとも観念的には、すべて満たしている。
つまり、先の実験はぼくらの自由を否定してはいない。
心外な実験結果ではあったけど、だからといって、「僕らは自由である」という感覚が否定されたことにはならないわけだ。
たとえばこんなゲームがある。
スクリーンの上に単語がたくさん並んでいる。
机とか、ペンとか、鉛筆とか、クルマとか、きりんとか、そういう日常的な単語が並んでいる。
そして、画面の上方に写真を見せる。
たとえば、クルマの写真。
クルマの写真が出たら、コンピュータのマウスを動かして、カーソルを<クルマ>という単語の上に移動させるゲームだ。
これも「意志」の実験だ。
クルマの写真を見たら<クルマ>という単語の上に、カーソルを自分の「意志」で持って行く。
もちろん、あえて持っていかないという「自由」も残されているから、これは自由意志の実験でもあるんだ。
そんなゲームを君らにやってもらうんだけど、ところが、ここにちょっとトリックがある。
みんなが使っているマウスは、実はコンピュータにつながっていない。
だからカーソルの動きとは無関係なんだ。
つまり僕が今、クルマの写真を出したよね。
そして、僕が君らに見えないところで、カーソルを<クルマ>という単語に動かしてあげる。
ペンの写真を出したときには<ペン>に、キリンの写真の場合には<キリン>に動かしてあげる。
そういう実験をやったんだ。
実験の後で参加した人たちに質問する。
「自分でカーソルを動かしているような気がしましたか?」と。
すると、「はい、感じました」と答えた。
実際には違うよね。
僕が陰でこっそりと動かしているわけだから。
彼らは「自由」をちゃんと感じている。
ただ、そのからくりを知ってしまうと、もう自由ではないよね。
他人に操作されているわけだから。
でも、知らなければ、先ほどの「自由の条件」をすべて満たしている。
本人は自分の意志よりほかに原因があるなどと思ってない。
この実験だけど、後でカラクリを説明したら、「自分で動かしていたのではないのですか!」とみんな驚いたそうだ。
この場合、「自分自身が行っている」という自由な自己制御感覚は、「他者から制御されている」ことに気づかないことが条件となっている。
そしてもうひとつ、この実験からわかることがある。
「自由は、行動よりも前に存在するのではなく、行動の結果もたらされるもの」ということだ。
これは大切なポイントだ。
普通の感覚だと、自由意志は「行動する内容を自由に決められる」という感じで、あくまでも「行動の前に感じるもの」だと思いがちだけど、本当は逆で、自分の取った行動を見て、その行動が想い通りだったら、遡って自由意志を感じるんだね。
結果が伴わない限り自由はない。
つまり、自由の発生順が逆なんだ。
自由というと君らは「未来」に向かって開かれているような気がするでしょ?
でも実際には、自由は「過去」に向かって感じるものなんだ。
ここで僕が論じたかったのは、「自由意志が存在するかどうか」という問いはその質問自体が微妙なところがあって、今の議論のように、むしろ、自由を「感じる能力」が私たちの脳に備わっているかどうかという疑問にも変換しうる。
つまり、自由意志は、存在するかどうかではなくて、知覚されるものではないか、とね。
ちなみに、「知覚されたら存在する」と考えるのが、僕のスタイルなんだけど、昨年の全校講演で、ピンク色の斑点が円状に点滅していて、円の中心点をじっと見ていると、すべての斑点が消えてしまうという目の錯覚を覚えているかな?
(このブログの「チャクラについて(11)」の記事の中で、ご紹介しています)
→ あれは驚きました。
あの場合を思い出してほしんだけど、モニターにピンク色が映っているかどうかなんて、脳にとってはどうでもよくて、自分にとって見えなくなってしまったら、それは「なかった」ことと同じだよね。
もちろん、無意識のレベルでは感じている可能性はある。
けれど、検証可能という意味での「存在」の基準は、あくまでも「知覚される」ことだ。
これと同じ意味では、自由意志は現に、人間によって認知されるわけだから、だから自由は「存在する」と言ってしまってよいと思うんだ。
単なる錯覚かもしれないけど、少なくとも意識上では「自由」だ。
そんな点を、まず確認しておきたかった。
ところで、その表面的自由が、本当の意味でも「自由」かどうかというと、まったく話は変わってくる。
そこで次に、本質的なレベルで僕らは本当に自由かどうかを考えてみたい。』
(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二)
「自由」とは、生じた結果により知覚され得るある種の脳が感じる「感覚」であるとの説が展開されましたが、
次回は、本当の意味での「自由」について、大脳生理学の見地から、これまで私たちが「自由」について抱いてきた観念、イメージとは違った説が、展開されていきます。
科学における客観的なデータは、何を示唆しているのでしょうか?
私たちは、真の意味で、「自由」なのでしょうか?
肉体の感覚を制御して
意識をわたしに合致させて
しっかりと固定できた人を
不動智を得た聖者とよぶ
(バガヴァッド・ギーター第2章61)