永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラの話(15)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 自由意志はあるか?

第6チャクラのアジナー・チャクラが、脳にあることから、

スピリチュアルな世界でも語られることが多いテーマを選んで、

これまで数回にわたり、脳科学の最新の研究・実験から導き出された驚きの結果について詳しくご紹介してきました。

 

今回は、いよいよ「自由意志」についてです。

 

「自由意志」はあるのか?ないのか?

脳の働きの側面から見た「自由意志」について、ご紹介させて頂きます。

 

 

『さて、講義の後半では、昨日予定していたように、「自由」について考えてみよう。

僕らはどこまで自由だろうか。

そうだなあ、まず、クイズから始めようか。

はい、今「〇くら」と黒板に書いた。

この「〇くら」一文字入れてできる単語は何でしょう。

何を思いつく?

 

→ さくら。

→ まくら。

→ いくら。

 

いろいろ思いつくねえ。

でも、この中で真っ先に心に思いついたのは何だった?

 

→ さくら。

 

そうだよね。

何で<さくら>を思いついたんだろう。

今、単語を3つ挙げてもらった。

思いつくのは、そのどれでもよかったはずなんだけど。。。。

 

→ 今日の講義のはじめに「桜がキレイだった」という話があったからではないでしょうか。

 

そうだね。ということは、同じ質問を秋に、つまり、イクラのおいしい季節に訊いたら、もしかしたら最初に思いつくのは<いくら>だったかもしれない。

 

僕らが自由にものごとを想像するとき、実のところ、どこまでが自由なんだろうね。

実はそれほど自由はないかもしれないよね?

「ルーティング」と言うんだけど、本当は考える道筋(ルート)にはたくさんの選択肢があるのに、その時点での思考は、過去に見聞きした経験や記憶によって制限されてしまっていて、思いのほか自由度が少ないんじゃないかと。

自由度が少ないというのは、裏を返すと、ちょっと怖いことでもあって、自分たちの行動は本当に自由なのか、それとも、あらかじめ決まっちゃっているのか、ということにもなってくる。

 

自由vs.決定。

自由論と決定論と言うんだけど、これ、どう思う?

・・・どう思うというのは、つまり、僕らには自由があるのか、それとも、すべての行動はあらかじめ決まってしまっていて、ただ決められた通りに振る舞っているだけなのか。

さて、どちらだと思う?

 

→ 決定論みたいに全部あらかじめ決まっていると考えちゃうと、自分が何をしようとしても、結局は自由論と変わらないんじゃないですか。

 

ん?つまり、自由論と決定論は二律背反的に分けられるものじゃなくて、結局は、同じことを言っているんじゃないかという意味かな?

おもしろいなあ、それ。

もうちょっとその意見を聞かせてよ。

 

→ とりあえず自分の意識で決めたものがここにある。

逆に、それがもともと決定されているとしても、それは意識の上では自分の意志で決めたことだから、結局は、どっちも一緒なんじゃないかって思ったんですけど。

 

うんうん。なるほどね。

意識の上ではあくまでも自由だってことだね。

ただしその「自由」を感覚、たとえば自由に選択したと思っていたものが、実は、そもそも決まっているものだったという可能性もあると君は認めているわけだ。

実際はどっちだと思う?

たとえばさっきの<さくら>みたいに、本人は自由にイメージしたつもりかもしれないけど、フと気づけば、なんとなく<さくら>と思いついてしまっているわけだよね。

これは僕らが自由にコントロールした結果ではなくて、無意識の自動プロセスを経て、決定論的に<さくら>にたどり着くわけだ。

自由なつもりでいるのは、あくまでも自分の意識の上だけであって、実際の思考はいくつかの決まりきったパターンの中でしか動くことができなくて、そのパターンに従って、ただ口述しているだけ。

本人は自由だと思っているんだけど、実は、脳に操られている、あるいは環境に操られているという可能性はないかな。

 

→ 哲学になっちゃう。。。。

 

そうだね。

これはまさに哲学の話だね。

実際、哲学の世界では昔からこの議論が繰り返されている。

この話題を今日は、脳科学の観点から焼き直してみたいんだ。

自由か決定かについて、ほかに何か意見あるかな?

 

→ さっきの<さくら><まくら><いくら>とかだったら、ある程度、選択肢の幅が決まっていると言えるかもしれませんが、本当はもっと候補があるんじゃないか、と頭の中で考えをめぐらせますよね。

経験とか記憶とか、自分の周りの環境から制限は受けるものの、実際に候補を挙げることができるということは、自分で選ぶ余地があるんだと思います。

だから、自由か決定かって完璧に断定することができるのかどうか。。。

 

選択肢の制限がまず加わるという時点で、そこで自由度が。。。。

 

→ 少しは減りますけれども。。。。

 

でも、まだ最終的には自由が残っているから、やはり自由と決定はどちらか一方だけに分けられるものじゃなくて、あくまでも比率の問題であるというわけだね。

なかなか柔軟な考えだ。

さて、「自由」を語るうえで、まず問題にしなければならないのは、僕らには「自由でありたい」という妙な願望があるということだ。

まさか、「自由意志がない」なんていうことは、とてもではないけれど認めたくない。

そんな強い願望のせいで、「自由は当然あるんだ」と頭から決めつけてかかっている可能性はない?

 

→ ・・・あります。

 

その願望ゆえに、本当の姿や真実から目を背けて、希望だけで憶測しているのかもしれない。

 

ところで、哲学にはこういう問題がある。

<手を上げる>という動作、<手が上がる>という動作の比較だ。

そのふたつの動きを引き算すると何が残る?

つまり、<手を上げる>から<手が上がる>を引いたら、そこに残ったものは何だろうか。

 

→ 自分の意志。

 

自分の意志。

自由な意志。

つまり、「自由」がそこに残るってことだね。

ということは、その答えは、自由が存在することを、そもそも前提にしているね。

もちろん、「自由な意志が残るに違いない」と考えるのは、真っ当な考えだ。

「何も残りません」なんて答えたら、変人扱いされるのがオチだよね。

後でこれについて僕なりの考えを話そうと思う。

自由意志について話すときに、絶対に外せない有名な実験があるので、今はまず、それについて説明したい。

その一部は『進化しすぎた脳」という、以前の僕の本でも紹介している。

25年ぐらい前に行われた実験だ。

その実験から意外なことがわかった。

その研究者は「自由意志」が存在するかどうかを確かめようと思って、手首を動かす実験、「好きなときに手首を動かしていいですよ」という実験をやった。

参加者に椅子に座ってもらって、テーブルに手を置く。

目の前の時計を見ながら、好きなときに手を動かす、ということを試してみた。

そして、脳の活動を測ったんだ。

この実験では測れるパラメータが4つある。

まず認知の指標がふたつある。

第一に、「手を動かそう」とする意図。

そして、実際に手が動いたら、「あっ、動いたな」とわかる知覚。

このふたつがあるね。

一方、脳側から見たときにもふたつの指標が得られる。

手を動かすために「準備」をする脳活動と、実際に動くように出す「指令」の脳活動だ。

いいかな、まとめると①「動かそう」②「動いた」③「準備」④「指令」の4つだね。

実験では、この4つの指標について計測して、それが生じるタイミングを測った。

その結果、この4つは、どういう順番で進行したと思う?

 

→ 本で読んだことがあります。

不思議な感じだけど、実は、「準備」が先だと。

 

ほう、聞いたことある?

そう、さすがだね。

実は、この実験の話は、脳の研究者のあいだでは有名で、そうなんだ、今君が言ってくれた通り。

 

①準備 → ②動かそう → ③動いた → ④指令

 

常識に反して、「準備」が先なんだ。

本人が「動かそう」と意図したときには、脳はすでに動かす「準備」を始めているらしいんだよね。

0.5~1秒くらい前に。

より最近の研究によれば、7秒も前に準備が始まっている場合もあるという。

実験で得られた順番を説明すると、手を動かすための「準備」がまず始まる。

そして準備が整って、いよいよ動かせるぞとなったときに、私たちの心に「動かそう」という意識が生まれる。

つまり「動かそう」と思ったときには、すでに脳は動くつもりでいて、とっくに準備を始めたということだ。

これがひとつのポイント。

もうひとつのポイントは、この後にもある。

手に「指令」が行って実際に動くのと、「動いた」と感じるのはどちらが先がという問題だ。

実は、これも常識とは逆で、「動いた」と先に感じる。

それに引き続いて「動け」という指令が手に行くんだ。

つまり、筋肉が動くよりも前に、「動いた」という感覚が生じる。

このことについてはあまり世間では述べられていなくて、きちんと説明しないといけないと思う。

ただ、この話題は後に回そうね。

ここでは「自由」の話に絞りたい。

 

さて、この実験が世間に紹介されて、「僕らの自由意志って一体なんだ」という疑問が、改めて問われるようになった。

だって、君らが「動かそう」と意図するかどうかは、脳研究者が君らの脳活動を見ていれば事前に予測できるということでしょ。

「君はあと0.5秒後に手を動かしたくなる」なんてね。

これじゃあ、まるで「北斗の拳」だ。

「お前はもう動いている。。。」と

脳を観察していると、本人よりも先に、本人の行動がわかってしまう。

バレバレなんだ。

これを聞いても、君らはやっぱり自由意志はあるって思う?

 

→ ・・・・・・。

 

あらら、シーンとなっちゃった。。。。

まあ、たしかに精神的に衝撃をもたらすデータだよね。

手首を動かすなんていうのは、僕らの日常の行動としては、とりわけシンプルな動きだよね。

そうしたシンプルな運動ですら・・・・ほらほら、今君は手首を愕然と眺めながら動かしているね。

今まさに行っているその行為が、事前に決まっているとしたら、不思議な感じがしない?

 

→ うーん、どう考えても、準備に従っているだけとは信じられない。

 

たしかに、「自分の意志」で動かしているような気がするよね。

にもかかわらず、君が動かそうする少なくとも約0.5秒前には、もう脳が動かす準備を始めている。

自分が「動かそう」と思ったときは「すでに時遅し」で、動かすことが決まっているわけだ。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

「自由意志」についてのお話は、更に深くなっていきますが、続きは、次回でご紹介させて頂きます。

 

 

 

 アルジュナよ 感覚の欲求

まことに強く 烈しいもので

修行を積んで道をわきまえた人の

心をさえも力ずくで奪いさるのだ

(バガヴァッド・ギーター第2章60)