永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(13)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 幽体離脱

前回の記事では、「直感」が働くときには、”学習”(訓練)という経験に密接に関係している「大脳基底核」が反応することから、

「直感」が、スピリチュアル的な、所謂、”神や天(使)からのメッセージ”のような神秘的ものではなく、

脳の”自動反応”のひとつの現われであるという最新の脳科学の研究成果についてご紹介しました。

 

こう結論付けてしまうと、「直感」に神秘的なイメージを持っていた方々には、少々ガッカリするような内容だったかもしれません。

 

しかし、「直感」の神秘的なイメージが無くなってしまったとしても、私たち人間という存在における神秘性が消滅したわけではありません。

 

科学的に、いろいろなことが明らかになっていくにつれ、当たり前だと思っていたことが、それが実はそうではなかった、と知ることで,

逆に、人間という生物に神秘性を感じる、という方もいらっしゃるのではないでしょうか?

 

今日は、チャクラの話題からは少し外れますが、

更に、人間が体験する体験の中でも、起こる頻度が非常に稀であるため、不思議な現象、超常現象として考えられているような体験について、

近年行われた脳科学の実験より、解明された驚きの結果をご紹介したいと思います。

 

今回ご紹介する中に、「幽体離脱」がありますが、個人的に、非常に興味深い内容でした。

 

脳科学的に見れば、「幽体離脱」も、「超常現象」と言われるような、所謂、特殊な体験ではなく、条件さえ揃えば、誰にでも起こり得る一種の「脳の錯覚」なのだということがわかります。

 

なるほど~、こういうことが、脳内に起きていたのか。。。納得です!(笑)

 

 

『脳の活動を人工的に操作すると、いろいろなことが起こる。

たとえば、自分を他人だと勘違いするという実験がある。

君らは自分が写った写真を見ると「ああ、これは僕だ」と認識できるよね。

そんな当たり前のことができなくなってしまうっていう話だ。

TMSという実験装置を使う。

経頭蓋磁気刺激法とも呼ばれている。

頭皮の表面から強烈な磁場をかけて、脳の一部をマヒさせる刺激装置だ。

これを使うと、ある特定の脳領域の活動を一時的に抑制することができる。

たとえば言語野をマヒさせれば、その瞬間は言葉が出せなくなる。

視覚をマヒさせると視野の一部が欠ける。

なかなか劇的な効果が出るのだけど、脳には重大な悪影響はないと言われているので、とりあえず安心してね。

この装置を使って、側頭葉のある部分を刺激してマヒさせると、写真に写っている人物が自分か他人かわからなくなってしまうんだ。

ということは脳には自分を認識する回路が備わっているということだよね。

その専用回路が働かないと、自分か他人かを区別できなくなる。

つまり、自分という存在、「自己」は、脳によって創作された作品なんだ。

 

マヒさせる実験ではなくて、脳を直接に電気刺激して活性化させる実験もある。

刺激すると、刺激場所に応じていろいろな反応が起こる。

たとえば、運動野を刺激すると、自分の意志とは関係なく、腕が勝手に上がったり、足を蹴ったりする。

視覚野や体性感覚野を刺激すると、色が見えたり、頬に触られた感じがしたりする。

そうやって、刺激によっていろいろな現象が生じるのだけど、なかには信じられない現象が起こることがある。

たとえば、これは一昨年に試された脳部位だけど、頭頂葉後頭葉の境界にある角回という部位。

この角回を刺激されるとゾワゾワ~と感じる。

たとえば一人で夜の墓地を歩いていると、寒気がすることない?

 

→ あります!

 

それそれ、あんな感じらしい。

角回を刺激すると、自分のすぐ後ろに、背後霊のようにだれかがベターとくっついている感じがするようなの。

うわーっ、だれかにつけられている。

だれかに見られている・・・・強烈な恐怖を感じるんだって。

でもね、その背後霊を丁寧に調べてみると、自分が右手を上げると、その人も右手を上げるし、左足を上げてみると、その人も左足を上げる。

坐っていると、その人も背後で座っていることがわかる。

これで理解できるよね。

そう、実は、背後にいる人間は、ほかならぬ自分自身だ。

要するに、「心」は必ずしも身体と同じ場所にいるわけではないということ。

僕らの魂は身体を離れうるんだ。

この例では、頭頂葉を刺激すると、身体だけが後方にワープする。

この実験で興味深いことは、その「ゾワゾワする」という感覚について尋ねてみると、背後の”他者”に襲われそうな危機感を覚えるという点だ。

これはちょうど統合失調症の脅迫観念に似ている。

これで驚いてはいけない。

身体と魂の関係については、さらに仰天するような刺激実験がある。

先ほどの実験と同様に角回を刺激する。

ベッドに横になっている人の右脳の角回を刺激するんだ。

すると何が起こったか。

刺激された人によれば「自分が2メートルぐらい浮かび上がって、天井のすぐ下から、自分がベッドに寝ているのが部分的に見える」という。

これは何だ?

 

→ 幽体離脱

 

その通り。

幽体離脱だね。

専門的には「対外離脱体験」と言う。

心が身体の外にワープして、宙に浮かぶというわけ。

幽体離脱なんていうと、オカルトというか、スピリチュアルというか、そんな非科学的な雰囲気があるでしょ。

でもね、刺激すると幽体離脱を生じさせる脳部位が実際にあるんだ。

つまり、脳は幽体離脱を生み出すための回路を用意している。

たしかに、幽体離脱はそれほど珍しい現象ではない。

人口の3割ぐらいは経験すると言われている。

ただし、起こったとしても一生に一回程度。

そのぐらい頻度が低い現象なんだ。

だから科学の対象になりにくい。

だってさ、幽体離脱の研究がしたいと思ったら、いつだれに生じるかもわからない幽体離脱をじっと待ってないといけないわけでしょ。

だから現実には実験にならないんだ。

つまり、研究の対象としては不向きなのね。

でも、研究できないからといって、それは「ない」という意味じゃないよ。

現に幽体離脱は実在する脳の現象だ。

それが今や装置を使って脳を刺激すれば、いつでも幽体離脱を人工的に起こせるようになった。

 

でも、幽体離脱の能力はそんなに奇異なものだろうか?

だって、幽体離脱とは、自分を外からみるということでしょ。

サッカーをやってる人だったらわかるよね。

サッカーの上手な人は試合中、ビッチの上空から自分のプレイが見えると言うじゃない。

あれも広い意味での幽体離脱だよね。

俯瞰的な視点で自分を眺めることができるから、巧みなプレイが可能になる。

サッカーに限らず、優れたスポーツ選手は卓越した幽体離脱の能力を持っている人が多いと思う。

スポーツ選手だけではなくて、僕らにもあるはずだよね。

たとえば、何かを行おうと思ったとき、障害や困難にぶつかったり、失敗したりする。

そういうときには反省するでしょ。

どうしてうまくいかないのだろうかとか。

あるいは自分の欠点は何だろうかとか。

それから女の人だったら、「私は他人からどんなふうに見えているかしら」と考えながら、お洒落や化粧をする。

こうした感覚は一種の幽体離脱だと言っていい。

自分自身を自分の身体の外側から客観視しているからね。

他人の視点から自分を眺めることができないと、僕らは人間的に成長できない。

自分の悪いところに気づくのも、嫌な性格を直すのも、あくまでも「他人の目から見たら、俺のこういう部分は嫌われるな」と気づいて、はじめて修正できる。

だから僕は、幽体離脱の能力は、ヒトの社会性を生むために必要な能力の一部だと考えている。

しずれにしても、幽体離脱の神経回路がヒトの脳に備わっていることは、実験的にも確かだ。

そして僕は、この幽体離脱の能力も、「前適応」の例じゃないかと思っているの。

だって、動物たちが他者の視点で自分を省るなどということはたぶんしないでしょ。

おそらく動物たちは、この回路を「他者のモニター」に使っていたのではないだろうか。

たとえば、視野の中に何か動く物体が見えたら、それが動物であるかどうか、そして、それが自分に対して好意を持っているのか、あるいは食欲の対象として見ているのかを判断することは重要だよね。

現に、野生動物たちはこうした判断を行いながら生き延びている。

だから動物に「他者の存在」や「他者の意図」をモニターする脳回路が組み込まれていることは間違いない。

他者を見る能力は、高等な霊長類になると、行動の模倣、つまり「マネ」をするという能力に進化する。

ニホンザルはあまりマネをしないんだけれども、オラウータンはマネをする動物として知られている。

 

模倣の能力がある動物は、環境への適応能力が高いし、社会を形成できる。

しかし、マネをするという行為はかなり高等な能力だ。

他人のやっていることをただ眺めるだけではダメで、その行動を理解して、さらに自分の行動へと転写する必要がある。

鏡に映すように自分の体で実現する能力がないとマネはできないよね。

ヒトの場合はさらに、マネだけでなく、自分を他人の視点に置き換えて自分を眺めることができる。

まあ、猿でも鏡に映った自分の姿を「自分」だと認識できるから、自分を客観視できてはいるんだろうけど、でも、ヒトは鏡を用いなくても自分の視点を体外に置くことができる。

そして、その能力を「自己修正」に使っている。

他人から見たら私の欠点ってこういうところだなとか、クラスメイトに比べて自分が苦手とする科目はこれだなとか、そんなふうに一歩引いてものを眺める。

そいう自分に自分を重ねる「心」の階層化は、長い進化の過程で脳回路に刻まれた他者モニター能力の転用だろう。

このように進化論的に「他者の心」の誕生を考えるのはとてもおもしろい。

 

最後に僕の仮説を話しておしまいにしよう。

こうした進化の名残で、いまだに見られる奇妙なプロセスが、今日の講義の前半で話してきた「自分の身体の表現を通じて自分の内面を理解する」という心の構造だ。

いったん脳から外に向かって表現して、それを観察して自分の心の内側を理解するというのは、一見すると、ひどく面倒な手続きを踏んでいるように思えるよね。

だって、自分の脳なんだから、いきなり脳の内部に、脳自身がアクセスすればいいのに、なぜ、こんな無駄と思える二度手間をわざわざ踏むのか。。。

おそらくこういうことだろう。

すでに説明したように、進化の過程で、動物たちは他者の存在を意識できるようになった。

そして次のステップでは、その他者の仕草や表情を観察することによって、その行動の根拠や理由を推測することができるようになった。

他者の心の理解、これが社会性行動の種になっている。

なぜかというと、この他者モニターシステムを、「自分」に対しても使えば、自分の仕草や表情を観察することができるよね。

すると、他者に対してやっていたときのように、自分の行動の理由を推測することができる。

これが重要なんだ。

僕は、こうした他者から自己へという観察の投影先の転換があって、はじめて自分に「心」があることに自分で気づくようになったのではないかと想像している。

つまり、ヒトに心が生まれたのは、自分を観察できるようになったからであって、もっと言えば、それまでに先祖の動物たちが「他者を観察できる」ようになっていたことが前提にある。

そういう進化的な経緯が理由で、ヒトは今でも、「身体表現を通じて自分を理解する」という不思議な手続きを踏んでいる。

常識的に考えれば、「脳の持ち主は自分なんだから、脳内で自身に直接アクセスすれば、もっとストレートに自分を理解できるんじゃないか」と思うよね。

「体を通じて自己理解する」というのは、理解までのステップが増えてしまって非効率だ。

でも、「生物は先祖の生命機能を使い回すことによって進化してきた」という事実を忘れないでほしい。

いや、「使い回す」ことしか、僕らには許されていない。

「無」からいきなり新しい機能を生み出すことは進化的にむずかしいことだ。

そんな困難なことに時間を費やすくらいなら、すでに存在しているすばらしい機能を転用して、似て非なる新能力を生み出す方が、はるかに実現可能性が高いし、効果的だろう。

その結果生まれたものが、僕らの「自己観察力」だ。

これは「他人観察力」の使い回し。

自己観察して自己理解に至るというプロセスは、一見、遠回りで非効率かもしれないけど、進化的にはコストは低い。

こうして僕らは、自分を知るために、一度、外から自分を眺める必要が生じてしまった。

これこそが「幽体離脱」だ。

しかし、それによって、僕らに「心」が芽生えた。

いやもっと厳密に言えば、自分に心があることを知ってしまった。

このように脳機能の使い回し、つまり、「前適応」こそが、進化の神髄だ。

ということは、人類の未来に対しても同じことが当てはまるはずだ。

だって僕らは進化の完成形ではなくて、まだまだ中間産物でしょ。

だから、もしかしたら、現在の人類の持つ「心を扱う能力」を、未来の人類が応用して、もっととんでもない新能力を開拓してしまう可能性もあるわけだ。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

幽体離脱」のような超常現象的な出来事さえも、脳内で起きている錯覚の一種である、ということが明らかになったということですが、

これまでご紹介してきました記事に一貫していることは、人間が体験するあらゆる現象は、人間の脳に起きたことであり、必ずしも真実とは言えないけれど、

それが起きた個人にとっては、それは事実であり、リアリティを持っているということになります。

 

こうして考えると、リアルだと思っていた世界は、実は、脳の中だけに存在する世界である可能性も否定できない、と言えるでしょう。

 

脳がこれまでに得た常識的な固定観念に縛られている限りは、この宇宙の実相を知ることはできないと断言できますが、

目に見えている世界、人間が体験している世界は、人間の脳の中にだけ存在する世界である、という新しい視点に立つならば、

少しだけ、人間を外側から俯瞰的に観察することができ、やがては、それが、新しい世界観へとつながっていくきっかけとなることは、確かでしょう。

 

次回は、いよいよ「意識」の領域に入って行きましょう。

 

 

 

亀が手足を甲羅に収めるように

眼耳鼻舌身(五官)の対象から

自分の感覚を引き払うことのできる人は

完全智に安定したと言える

(バガヴァッド・ギーター第2章58)