永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

クンダリニーの目覚め

前回の記事でご紹介させて頂きましたクンダリニーを目覚めさせるための「プラーナヤーマ」を、少しでも実践されましたでしょうか?

 

”スクァ・プルヴァカ”は、朝と夕方、一日に二回実践するだけでも、「心身のしずけさ」を感じることができるようになると書かれています。

 

また、”ナディー・シュッディー”は、いつでもどこでも実践することができ、それをすることで、「心のしずけさ」がやって来ると、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは仰っています。

 

何でもそうですが、自分で実践することが、肝心です。

 

とにかく、自分でやってみなくては、人生において、望むような変化は起こりません。

 

それは、まるで「日常」という変化のない定常波に、ひとつの異なる波をたてるようなものです。

 

その小さな波は、やがては大きな波となり、あなたの人生を大きく変化させていくきっかけとなることでしょう。

 

まずは、一歩を踏み出すことです。

 

一歩を踏み出した後、諦めずにそれを持続する意志力を持った人だけが、希望の目的地に達することができる、というのは、いつの世でも変わらない法則と言えます。

 

それでは、今回は、プラーナヤーマの実践によって引き起こされることが期待されている「クンダリニーの目覚め」について、

同じく、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」よりご紹介させて頂きたいと思います。

 

その後に、2010年にクンダリニーの目覚めを体験されたナーナさんの覚醒のプロセスについて、

その後時間をおいて、他の霊性の探求者のためにと書いて下さったナーナさん覚醒初期のブログ「突然私がアセンションした記録」に、

クンダリニーが目覚めた瞬間の体験を、当時の生き生きとした新鮮な感覚で詳しく描写して下さっている貴重な体験談が掲載されていますので、

クンダリニーについての正しい理解を深めて頂くために、それも併せてご紹介させて頂きます。

 

http://ameblo.jp/oneness-113/entry-11280402099.html

(突然私がアセンションした記録)

 

 

『普通の人びとの場合、このスシュムナーは下端でとじられています。

どんなうごきも、そこを通ってのぼってはきません。

ヨーギーは、そこからひらかれて神経のながれがそこを通ってのぼってこられるようになるようにする、ある修行をすすめます。

ある感覚が一つの中枢にはこばれると、その中枢は反応します。

反射中枢の場合には、この反応はすぐに運動となります。

意識中枢の場合は、まず知覚がつづき、つぎに運動がきます。

すべての知覚は、外界からのはたらきへの反応です。

ではどうして、ゆめの中の知覚はおこるのでしょうか。

そのときには外界からのはたらきはありません。

ですから、感覚のうごきはどこかにとぐろをまいているのです。

たとえば、私はある都市を見ます。

その都市が認識できるのは、その都市を構成する外界の対象物からもたらされた感覚への反応が、すでにあるからです。

すなわち、はこびこむ神経のうごきによって、頭脳細胞の中に、あるうごきが、くみたてられており、そこがふたたび、都市の中の外的対象によってうごかされるのです。

さて、長いときがたったのちにも、私はその都市を記憶していることができます。

この記憶はまったくおなじ現象、ただすこしあわい形であるだけです。

しかし、たとえあわい形ではあっても、頭脳の中におなじ振動をくみたてる活動は、どこからくるのでしょうか。

たしかに、直接の感覚からではありません。

ですから、感覚がどこかにとぐろをまいており、それらが、そのはたらきによって、われわれがゆめの知覚とよぶ、あわい反応をもたらすのです。

 

さて、これらすべての残存する感覚がいわば蓄積されている中心は、ムーラダーラ、根のうつわ、とよばれ、とぐろをまいている活動のエネルギーは、クンダリニー、「とぐろをまいているもの」なのです。

あまった活動エネルギーもまたおなじ中心にたくわえられている、というのは十分にあり得ることです。

外界の事物をふかく研究したり瞑想したりすると、身体の、ムーラダーラ・中心の位置するあたり(多分、仙骨神経叢のあるところ)があつくなりますから。

さて、もしこのとぐろをまいているエネルギーがめざめさせられ、活動的になって、意識的にスシュムナーのくだの中をのぼらせられるなら、つぎつぎと中心にはたらきかけるにつれて、すさまじい反応がおこるでしょう。

エネルギーのごくわずかの部分が神経線維にそってのぼり、中心に反応をおこさせると、その認識は、ゆめか想像です。

しかし、長い内的瞑想の力によって、たくわえられていたエネルギーの膨大なかたまりがスシュムナーにそってのぼり、つぎつぎに中心をおそうと、その反応はすさまじいもので、そのつよさは、ゆめと想像の反応、感覚的認識の反応などとはくらべものになりません。

それは超感覚的認識です。

そしてそれがすべての感覚の首都である脳、いわば全脳に達しますと、反応し、その結果は大光明、「自己」の自覚です。

このクンダリニーの力が中心から中心へとすすむにつれ、心のかさなりがいわば一層また一層とひらかれ、そのヨーギーは宇宙を、それの精妙な、原因のすがたで認識します。

そのときにはじめて、この宇宙の原因は、感覚および反応の両面からあるがままに知られ、それで、すべての知識がやってくるのです。

原因が知られるのですから、結果の知識はおのずから得られるにきまっています。

 

このように、クンダリニーをめざめさせることが、神的叡知を、超意識的認識を、魂の目覚めを得るための唯一の道です。

めざめは神の愛により、完成された賢者の慈悲により、または哲学者の分析的な意志の力により、さまざまな形でやってくるでしょう。

一般の超自然の力または知恵とよばれるものが見られたところではかならず、クンダリニーの少しばかりのながれがスシュムナーにはいったにちがいありません。

ただ、このような場合の大部分において、人びとは、とぐろをまいたクンダリニーのごくわずかな部分を解放したある修行に知らずに出くわしたのです。

すべての礼拝は、意識していてもいなくても、この目的にみちびくのです。

自分の祈りがこたえられた、と思っている人は、この成功は自分のうちなる性質からきているのだ、自分が、祈りという心の態度によって、自分の内部にとぐろをまいているこの無限の力のほんの一部をめざめさせることに成功したのだ、ということを知らないのです。

このように、人びとが無知から、おそれや苦難のゆえに、さまざまな名のもとに礼拝しているものを、ヨーギーは世界にむかって、それはあらゆる生きものの内部にとぐろをまいている真の力、もしわれわれが彼女にどう近づくかを知りさえするなら、それが永遠の幸福の母である、と断言するのであります。

そしてラージャ・ヨーガは、宗教の科学であり、すべての礼拝、すべての祈り、形式、儀式およびもろもろの奇跡の、理論的根拠なのであります。』

 (ラージャ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

『春の訪れを感じて間もない夜のことでした。

 帰宅へと向かう電車内で、ふぅ~っと力をぬいて座っていました。

 すると突然 体の根底から頭頂に向かって、何か強い力が高速スピードで登って行き、

 ゥアーーこれは何⁈ と感じる間もなく、頭頂のてっぺんの蓋が ポン↑っと音を立てて勢いよく何処かへ吹っ飛んで行きました!

 

まるでシャンパンの蓋がお皿に代わって吹っ飛んだと言ったら、わかりやすいでしょうか。

と 同時に一気に体が軽くなり、重さも重力も全く感じられないくらい軽くなっていて、しかも体が少し浮き上がっているのです!

 

この感覚は何?何が起きているの?いったい何が起こっているの?と 自分に問いかけました。

 

降りる駅に着き、この感覚のまま立ち上がり ドアに向かって一歩二歩と歩き出すと、

足の裏の床を踏む感覚がまるで感じられないのです!

 

足の裏が靴を感じることも、靴の底が床を踏む感覚もありません。

 

私は確かめるように前へと進みましたが、確実に体が宙に浮いてしまっていて、重さも全く感じられません。

 

反対側のホームの改札へ向かうため階段を降り始めると、周りの空気全体が ほわ~~っとほんわりしてきて、柔らかく暖かくなり それに優しく包まれて、とてもいい気持ちになりました。

連絡道を歩き階段を上がり始める頃には、私を包む周りの空気の一つ一つの粒子が 愛 愛 愛 

全て 愛で、できていているように感じました。

 

とても幸せな気持ちになり、幸せの中に漂っていて、何か大きな愛に包まれていて守られていて、心地よくて暖か~いのです。

 

この時私は、すでに体も無くなっていて、意識と感覚だけが そこ にありました。

 

ここは別の世界、別の次元、天界です。

 

まるで母なる宇宙の子宮の中にいるような、地球上では味わうことのできない感覚のなかで私は漂っています。

 

柔らか~な薄い膜でおおわれた愛の風船のようなものが、ときより触れていて気持ちい~い。

 

気が付くと階段を上がりきったところで、改札に向かって歩いていました。

 

体の重さが感じられないので、手や腕を見てみると、形の枠だけあって中は透明に近い状態で透けていて、背景が見えました!

 

子供の頃アメリカのテレビ映画で見た透明人間が、枠(線)だけのボディーで動いていたのを思い出しました。

このまま改札を出て家に向かいました。

 

帰宅後も宙に浮いた状態で体重も感じられないまま、いつもの家事を済ませました。

 

尚も現象は続き、私はこのまま天に昇ってしまうのではないか?と不安になり、

少しでも体に重りをつけるため夜食を多めにとって胃を膨らましました(今振り返ると笑ってしまいますが、当時は必死)

今起きている現象を理解できないまま時刻は深夜になり、ベッドに入ることにしました。

 

眠りについた後、私はどうなってしまうのか?不安でした。

 

目覚めると朝になっていて、元の体にもどっていました。

 

後に宇宙と繋がった現象体験とわかりました。』

(ナーナさんのブログ、突然私がアセンションした記録より)

 

 

クンダリニーの目覚めが、所謂、人間にとっての「解脱」という霊性探求の終着点へ至る道に立ち塞がる扉を開くことができる唯一の鍵であることは、

多くの聖者と呼ばれる人びとが、そう語っていることからも明らかです。

 

記事の内容が、プラーナヤーマからクンダリニーに移りましたが、

次回は、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、クンダリニーについて、ヨーギーの視点からの解説をご紹介いたします。

 

 

 

何ものにも執着しない理性をもち

自己を抑制し 何ごとも切望しない人は

その離欲の修行を通して

全ての仕事から離脱して完成の境地に到る

(バガヴァッド・ギーター第18章49)

 

 

 

クンダリニー覚醒されたナーナさんのサットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨさんの個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促されます。

 

☆自己変容したい、真理を体得したい、束縛から解放されたい、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい方々のために、ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与るサットサンガ、個人セッションが開催されています。

詳しくは、ナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

(シャクティプラーナによるシャクティパータは、サットサンガに6回以上参加した後、ナーナさんの個人セッションにて受けることができます)

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)