永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

ブラフマン(神)とシャクティ(力)は同じもの

ここのところの記事で、”シャクティ”や”プラーナ”というあまり聞き慣れないサンスクリット語の単語が、頻繁に出てきましたが、もう一度ここで整理してみましょう。

 

このシャクティやプラーナについて正しく理解することは、この先ご紹介していくことになる”シュリー・ヴィッディヤー(聖なる叡智)についての理解へとつながっていきます。

 

シュリー・ヴィッディヤー(聖なる叡智)は、ヨーガのエッセンスとも言えるものなので、

これを理解することは、束縛からの自由、永遠の至福への鍵となると言えるかと思います。

 

それでは、今回も聖ラーマクリシュナのお言葉から、ご紹介させて頂きます。

 

『聖ラーマクリシュナ

「虚空(アーカーシャ)のようなものだよ。

ブラフマンのなかには変化はない。

炎に色がないようにね。

それが力(シャクティ)として、あの御方はいろいろにおなりになさる。

サットヴァ(調和性・悟性)、ラジャス(積極性・建設性)、タマス(消極性・破壊性)の三性(グナ)は、シャクティの性質だ。

無色の炎に白い物を投げ入れると白く見えるだろう。

赤いものを入れると赤く見える。

黒いものを投げ込むと黒く見える。

ブラフマンは三つの性質を超越している。

あの御方はこういうものだと、口で言うことは出来ないよ。

言葉を超越しているんだからーー。

これではない、これではない、と打ち消していって最後に残るもの、そこにある常楽(よろこび)、それがブラフマンだ。」

 

マヘンドラ・グプタ

「仰せの通り、あの御方がすべてのものになっていらっしゃるならば、こんなふうにいろいろな感じ方、考え方があるのは何故でございましょうか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「あの御方は、あらゆる処、あらゆるものに遍在しておいでだが、力の顕れ方がいろいろ違う。

ある場所には明知(ヴィディヤー)として、ある場所には無明無知(アディヴィディヤー)として、ある場所には強く大きく、ある場所には弱く小さく顕れていらっしゃる。

ご覧、人間の中にだって、殺し屋もサギ師もいるし、虎みたいに恐ろしい人もいる。

わたしはだから殺し屋神、虎神と言っているんだよ」

「あの御方とあの御方の造化力(ちから)――ブラフマンシャクティ――これ以外には何もないんだよ」

 

マヘンドラ・グプタ

「それから、霊はどういう相(すがた)のものでございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「どんなものかって?

――ちょうど水のようなもの――修行をしていくうちにだんだんわかってくるよ。

お前、“相(すがた)”を信じろ。

ブラフマン智に達したら、不異(おなじ)ということがわかるが――ブラフマンと働き(シャクティ)が不異だということがね。

火と燃える力だ。

火を思えば燃える力を思わんわけにはいかないし、燃える力を思えば火を思うことになる。

牛乳と牛乳の白さ。

水とその冷やす力だ。

だが、ブラフマン智のそのまた上がある。

智識(ジュニューナ)の上が覚智(ヴィジュニャーナ)だ。

智慧ある人は自分の無知にも気付く。

賢者ヴァシシュタは百人の息子を亡くして嘆き悲しんでいなすった。

ラクシュマナにきかれてラーマはこう答えた

『弟よ、智と無智を超えてしまえ。

智を持つものは無智をももつ。

足にトゲが刺さったら、もう一本トゲをもってきて、そのトゲをほじくって抜く。

それがすんだら二本目のトゲも捨ててしまえ』」

 

マヘンドラ・グプタ

「無智も、智慧も、二つとも捨てなければいけないのですか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「そうだよ。――覚智が最後の目的だ!

わかるかい。

光を知るものは闇を知る。

幸福の味がわかるものは不幸の味もわかる。

徳について思うものは罪についても考える。

善を思うものは悪をも思う。

清浄を感じるものは不浄の感じもある。

ワタシがあればアナタがある。

覚智とは、あの御方と特別に近く親しくなることだ。

木の中に火の性があるという感じ――この確信をもつことを智識(ジュニャーナ)という。

その火で米を煮て食べて栄養をとる。

これを真実智と言うんだ。

神様は実在する――これを心の経験で知るのが智識。

あの御方と話をしたり、あの御方と楽しんだり。。。。。

つまり、あの御方の子供になったり友だちになったり、召使いになったり恋人になったりして――これこそ、覚智というものだ。

あの御方が宇宙とすべての生物になっていらっしゃる。

これを見抜くのが覚智というものだ。

ある一派の考えによると、あの御方は見ることが出来ないそうだ。

――いったい、誰が誰を見るというのかね。

自分が自分を見るんだよ。

黒い海に船が入ると戻ってこない――だから戻って報告をすることも出来ない」

 

「なぜ、これでもない(ネーティ)、これでもない(ネーティ)なんてばかり言ってうろついているんだい?

ブラフマンについて何一つ説明することは出来ないよ。

ただ、“実在そのもの”と言えるだけだ。

ただ“ラーマ”だけだ。

わたしらが見たり考えたりすることはみんなあの根源造化力の、あの造化力意識のすばらしい顕れなんだよ。

 

――造る、保つ、壊す。

生物世界、それに瞑想と瞑想する人、信仰、愛、すべてあの御方の力の表現(あらわれ)だ。

だが、ブラフマンシャクティ(力)は同じものだよ。

ちょうど舵と蛇行の関係――舵のように曲がりくねった動きを考えると、どうしても舵のことを考える。

舵のことを考えると、蛇行のような動きもいっしょに考えてしまう。

牛乳を考えると牛乳の色を考える――白い色を。

牛乳のような白さといえばすぐ牛乳を考えてしまう。

水の冷やす力を考えれば水のことを考えるし、水を考えれば水の冷やす力のことを考える。

この根源造化力(アディヤシャクティ、または、大現象(マハーマーヤー)がブラフマンを覆っている。

この覆いの幕が除かれてはじめて、“永遠に実在(あ)り通しの我”だ。

“わたしはあなた、あなたはわたし”だ!

この覆いの幕が残っている間は、ヴェーダーンダ派の決まり文句――つまり、“我こそ、かのブラフマンである”などと口にするのは正しい態度ではないんだよ。

波は水のものだが、何で水が波のものであるもんか。

まだ幕がかかっている間は、母親――大実母(マー)と呼ぶのがいい。

あなた(神)は母親、私はあなたの子供、あなたは御主人、私はあなたの召使い。

この主人と召使いの考え方もとてもいいよ。

この召使いという考え方から、ほかのいろんな思い方が出てくる。

静かで平安な態度や、友達関係と見る態度も――

主人が召使いを可愛がっていれば、『これ、私の傍にきてお坐り、お前と私は一心同体だよ』と言ってくれることもあるさ。

けれども、召使いが自分勝手に主人のそばへきて坐りこめば、主人は怒るだろう?」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

シャクティ(力)を知ることは、神を知ることであり、

シャクティ(力)を体験することは、神を体験すること、だと言えます。

 

「見神」とは、神を知ることであり、神を体験することですが、

それは、取りも直さず、シャクティ(力)を知り、シャクティ(力)体験すること、と同じだとも言えるのです。

 

そして、更に、このシャクティ(力)は、肉体にある五官では感知し得ませんが、

霊的な直観によっては、感知することは十分可能だと言えるのです。

 

 

☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、

こちらのナーナさんの公式ホームページをご覧頂き、サットサンガへご参加下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 

 わがエネルギーの一つ この物質自然(プラクリティ)は

わたしの指示で活動し

動くものと動かぬものを産み出す

創造と破壊をくりかえす

 (バガヴァッド・ギーター第9章10)