永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

行き着くところは、不二(アドヴァイタ)

少し前の記事で、『俗人の自我(アハンカーラ)や”私”は、ちょうど四方を壁に囲まれて、頭の上には天井があるようなもので、外側は何一つ見えない。

アヴァターラたちの”私”は、薄い透き通った”私”で、そしてこの”私”を通して、いつもいつも神を見ているんだよ。

言い換えれば、彼らは肉体を持っていても、絶えまなくヨーガの状態にあり、望みさえすれば、壁の大穴から出て行って三昧に入る。

穴が大きいから自由に往来できるーーつまり、三昧に入ってもまた低いところへ戻って来ることができる』という聖ラーマクリシュナのお言葉をご紹介させて頂きました。

 

そして、前回の記事では、このような状態にあるアヴァターラであるナーナさんは、シャクティプラーナという御力により、私たちに”尊い自己の本性”であるアートマン(真我)を覚ることが出来るようにと導いて下さっている、とご紹介させて頂きました。

 

私たちの自我(アハンカーラ)は、あまりに分厚いために、つまり、壁や天井があまりに厚いので、

私たちは、外側の太陽の光を感じることもできませんし、ましてや直接、太陽そのものを眺めることができないでいます。

 

ナーナさんは、シャクティプラーナの御力で、この分厚い自我(アハンカーラ)の層を薄くして下さいます。

この自我(アハンカーラ)の層が薄くなればなるほど、外から内部に(智慧)の光が差し込み、部屋の中は明るく(明知)となり、

やがては、壁や天井に穴が開き、その穴から太陽の光が差し込んでくるが如く、その穴から直接太陽を眺めることができるようになるが如く、

尊い自己の本性”でありますアートマン(真我)がその姿を現して下さるようになり、

若虎が、自分は虎であると自覚することができたように、

私たちは、自分の本性がアートマンである、と体験を通して悟って行くことができるのです。

 

ナーナさんから放たれるシャクティプラーナという超微細なエナジーに共鳴していくことで、

次第に、私たちの中のシャクティプラーナが目覚めていく、とイメージすると理解しやすいでしょう。

 

シャクティプラーナを充填されたお水に、小さな気泡が生じるという変化が起きていると同じ現象が、私たちにも起こるということになります。

 

超微細なエナジー、シャクティプラーナは、五官では感知し得ませんが、聖ラーマクリシュナのお言葉をお借りするならば、”純粋清浄な心”で感知することは可能です。

 

自我(アハンカーラ)の層がシャクティプラーナの力で薄くなっていくと、”純粋清浄な心”となるので、超微細エナジーであるアートマン(真我)を覚って行くことが可能となるのです。

 

シャクティ(造化力)について、聖ラーマクリシュナのお言葉を、もう少しご紹介させて頂きます。

 

20世紀に入るまでは、エネルギーという単語は、まだ一般的には使われていませんでした。

その結果、エネルギーという言葉の代わりに、シャクティという単語が使われていた、と考えると、理解しやすいと言えます。

 

シャクティプラーナは、超微細なエネルギー(シャクティ)です。

 

そして、シャクティ(エネルギー)でありながら、人体において働いている力は、プラーナと呼ばれています。

名称が違うだけで、シャクティもプラーナも超微細エナジー(エネルギー)であり、神の力であり、実は、神そのものなのです。

 

このことを、聖ラーマクリシュナが、とても分かり易く語って下さっているので、ご紹介させて頂きます。

 

聖ラーマクリシュナ

ヴェーダーンタ派なんかのブラフマン智の行者たちはこんなふうに言う。

”創造、維持、破壊、そして生物と世界ーーこういうものはすべてシャクティ(造化力)の遊戯(リーラー)である。

よく考えて判断していけば、すべてのものは夢まぼろしである。

ブラフマンだけが実在で、ほかはみな非実在だ。

シャクティでさえ夢のようなものであって実在ではない”とね。

けれども、何千何万回考えて決心してみても、三昧(サマディ)にならない限りはシャクティの領域から逃れる方法(みち)はない。

”私は瞑想している””私は考えている”などというのも、すべてこれシャクティの領域でのこと。

シャクティ勢力の中でのことだよ。

だから、ブラフマンシャクティは不異(おなじ)だというのだ。

一つを思ったら、もう一つの方も思わずにはいられない。

ちょうど火とその燃える力のようなものでねーー火を心に想いうかべると、燃える力もいっしょに思うことになる。

燃える力を除けて火を想像することは出来ないし、火のことを言えばどうしても燃える力を思うことになる。

太陽といえば日光が心に浮かんでくるし、日光がなくては太陽を考えることは出来ない。

牛乳はどんなものかね?

考えるまでもない。

牛乳がなくては牛乳のあの白さを思い浮かべることはできない。

そして、牛乳の白さなしには牛乳を思い浮かべることは出来ない。

だから、ブラフマンなしにシャクティを考えることは出来ないし、シャクティなしにブラフマンを考えることは出来ない。

永遠(ニティヤ)なものなしには変化(リーラー)を、変化(リーラー)なしには永遠(ニティヤ)なものを思うことは出来ないんだよ!

アディヤシャクティ(宇宙生命力・根元造化力)は絶えず変化活動している。

創造し、維持し、破壊している。

その力のことをカーリー(ヒンドゥー教の暴力と殺戮を好む戦いの女神)と呼ぶのだ。

カーリーこそブラフマンで、ブラフマンこそカーリーなんだ!

唯一つの本体が動かないときーーつまり、創造、維持、破壊の仕事をしていなさらぬと考えるとき、その御方をブラフマンと呼ぶ。

その御方がそうした活動をなすっているときにはカーリーとかシャクティと呼ぶ。

その御方はただひとり。名前とポーズが違うだけ。

あの御方のことをアッラーと呼んでいる人もあれば、ゴッドと呼んでいる人もあり、ブラフマンと呼ぶ人も、カーリーと呼ぶ人もある。

ラーマ、ハリ(クリシュナ)、イエス、ドゥルガーなどと呼んでいる人もある」

 

「ただ一つのものがあるだけで、ほかには何もないんだよ。

”私”がある間は、かの至高至聖のブラフマンが、アディヤシャクティ(根源造化力)という相(すがた)で創造したり、維持したり、破壊したりしているように見せかけて下さっているだけだ。

ブラフマンがアディアシャクティなのだ。

ある王様が、『たった一言で朕に智慧をさずけよ』と、一人のヨーギーに申しつけた。

ヨーギーは、『よろしい。たった一言であんたは智慧を得るだろう』と請け合った。

しばらくすると、王の傍で突然『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言う。

王は何のことかわからず呆気にとられてただ見ていた。

しばらく見ていると、二本の指は一本になってしまった。

魔術師は一本になった指をグルグル廻しながら、『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言っている。

つまり、ブラフマンとアディアシャクティははじめのうちは二つに見える。

しかし、ブラフマンの智慧を得ると、もう二つは存在しないんだよ。

同じなんだよ。一つなんだ!

一つが二つになっているんじゃないーー不二(アドヴァイタ)なんだ!」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

不二(アドヴァイタ)ということは、

この世には、人間と神という二者がいるわけではない、ということになります。

 

ただ”それ”だけが在る。

 

”神”だけが存在する。

 

”神”だけが存在するのなら、

わたしもあなたも”神”だということになります。

 

このことを、ナーナさんは、アヴァターラ(神の化身)として、シャクティプラーナ(神の力)を通して、私たちに教えて下さっているのです。

 

 

☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、

こちらのナーナさんの公式ホームページをご覧頂き、サットサンガへご参加下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 いま君が見ているわたしの姿は

ただヴェーダを学んだだけでは見えない

烈しい苦行や慈善 供犠を重ねても見えない

そうした手段ではわたしの真実の姿は見えないのだ

 (バガヴァッド・ギーター第11章53)