解放への道-神を直覚すること
前回は、生まれ変わりの理論(輪廻転生)について、
3月30日に発売になりましたスワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より抜粋して、ご紹介しました。
今回は、このブログでこれまで、何回も引用させて頂いております聖ラーマクリシュナのお言葉より、
同じく、生まれ変わりについて語って下さっているところを抜粋して、ご紹介させて頂きます。
スワミ・ラーマは、ヨーギーの視点から、人間が死んだらどうなるか?について詳細に語って下さっていますが、
聖ラーマクリシュナも、神の化身(アヴァタラ)の視点から、スワミ・ラーマが語って下さったことと、その根底では、同じことを仰っていらっしゃるということが、よくわかると思います。
『「先生、私どもの死後はいったいどうなるのでございましょうか。」
聖ラーマクリシュナ
「人間が無智でいる間は、つまり神をつかまないうちは生まれ変わるさ。
けれども、真実の智識を得たならば、二度とこの世にやって来なくてもいい。
地球やそのほかのどんな世界にも、行く必要はないんだよ。
陶器を作る人は、壺を日向に並べて乾かしているがね、その中によく乾き上がった壺と、まだ湿った壺があるのに気がつかないかね?
牛やなんかがやってきて、踏みつけてコナゴナにしてしまうことがある。
乾いた壺がこわれると、職人はそのカケラを全部捨ててしまう。
もう役に立たないからね。
湿った壺がこわれると、そのカケラをとっておく。
寄せ集めて決まった目方の塊にして、新しい壺を作るんだよ。
そういう具合に、神をつかまないうちは陶器作りの手に戻らなきゃならない。
つまり、この世に繰り返し繰り返しやってこなくてはならない。
煮えた米を撒いたってどうなる?
芽が出ないだろう。
人が智慧の火で完全に煮え上がってしまえば、その人を通じて新しい創造は行われない。
その人は解脱してしまったんだからね。」
「時たま、あの御方は生き物や世界すべてをお造りになったのだということを、わたしに見せてくださる。
ちょうど、旦那と旦那の庭みたいにーー。
あの御方がご主人で、この世界も生物もすべてあの御方の所有、この考えこそ智慧というものだ。
そして、“私がするんだ”“私は先生だ”“私は父親だ”――こういうのが無知というもの。
それに、“私の家”“私の家族”“私の財産”“私の友人”、これも無知」
「あなた(神)が行為者“ということがわかるまでは、何度も何度も戻って来なけりゃならんーー生まれ更(かわ)ってくるんだよ。
“あの御方だけが行為者”とわかれば、もう再生なんぞしなくていい。
あなた、あなたにならないかぎりは、決してこの世からは逃げられないよ!
行ったり来たり、生まれかわりをくりかえすだけで、解脱は出来ない。
それに、“私のもの”“私のもの”と言い張っていたって、どうにもなりゃしない。
旦那に雇われた管理人は、『これは私共の庭園でして、私共のベンチです。私共の家具です』なんて人に言っているがいったん旦那からクビにされたら最後、自分用に使っていたマンゴー材の物入れ一つ持ち出す権利もない!
“私”と“私のもの”が実在を覆いかぶしているので、真実(ほんとう)のことがわからないんだよ」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
個々の肉体は滅びますが、肉体と共に滅びないないモノがあり、
それが、輪廻転生する個我(個霊=ジーバ)ということなのでしょう。
この個我(個霊)が、真我(=大霊)と合一することで、個我(個霊)は消滅し、真我(=大霊)だけとなります。
すでに個我が消滅してしまった存在は、ジーバ・ムクタ(悟った魂)と呼ばれ、
聖ラーマクリシュナは、”永遠の完成者”と呼んでいます。
このブログのタイトルでもある”永遠の人”とは、この”永遠の完成者”のことでもあります。
ナーナさんが、”永遠の人”であり、”永遠の完成者”でいらっしゃることは、これまで何度も書いてきましたが、
もう一度、神の化身(アヴァターラ)についての聖ラーマクリシュナのお言葉を見てみましょう。
そこにこそ、生まれ変わりを繰り返す輪廻転生からの解放のためのヒントを見い出すことができるでしょう。
『 ギリシュ
「ナレンドラは、”神は無限だ”と言うのです。
我々が見たり聞いたりするものは何でもーー物であれ人間であれーー言葉で表現することなんか出来やしない。
すべて神の一部なのだ。
インフィニティーーそれに部分などあるか?
部分などあり得ない、というわけです」
聖ラーマクリシュナ
「神が無限だろうと、どんなに大きかろうとーーあの御方が望みさえすれば、ご自分の真髄を人間を通してこの世界に現前(あらわ)せることができるんだし、また、実際に現前(あらわ)れる。
あの御方がアヴァターラとしてこの世に生活しておられる場合、そのことは類推比較によって理解させることはできない。
感じ取ることが必要なんだ。
直覚するんだよ。
比較類推すればいくらかのヒントは得られる。
牝牛の角にさわったら、たしかに牝牛にさわったことになるんだよ。
足かシッポにさわっても、やっぱり牝牛にさわったことはたしかなんだ。
だが、わたしらにとっては牝牛のなかで一番だいじなものは牛乳だ。
その牛乳は乳房から出てくる。
そんなわけだから、愛と信仰を教えるために、神は人間の姿をとって時折この世に化身なさるのだ」
ギリシュ
「ナレンドラは、『神のすべてを理解することができるものか。
あの御方は無限なのだ』と、こう申すのです」
聖ラーマクリシュナ
「神の全てを理解するなんてことが、いったい誰にできる?
大きくつかむこともできないし、小さくつかむこともできない。
それに、すべてを理解する必要がどこにある?
神を直覚できれば充分なんだ。
あの御方の化身(アヴァターラ)を見ることは、あの御方自身を見たことだ。
誰かがガンジス河のそばに行って河の水に手でさわったとすれば、その人は言うよーー”私はガンガーを見てさわってきた”と。
ハリドワールからガンガーサーガルまでのガンジス河全体の水を手に入れることはないさ。
お前の足にさわれば、お前にさわったことになる。
海のそばに行って海の水にさわったら、海にさわったことになるんだ。
火の性はあらゆるものに含まれているが、薪のなかが一番だ」
ギリシュ
「火の得られるところ、そこが私には必要なのですよ」
聖ラーマクリシュナ
「火の性は薪が一番。
もし神の性を探すなら、人間を探すこと。
人間にあの御方は一番よく含まれている。
法悦の信仰、愛の信仰に身を捧げている人ーー神のために狂気のようになっている人ーーあの御方の愛に酔っぱらっている人ーーそういう人を見たら、あの御方は間違いなくその人に化身していなさるのだと知れ。
あの御方は全てのものに遍在(いなさ)るが、その力は多く現れている処と少なく現れている処とがある。
アヴァターラのなかには、あの御方の力が一番よく現れている。
その力が、時によると完全に現れている場合もある。
神の力がアヴァターラになるんだ。
ギリシュ
「神は心と言葉を超越している、とナレンドラは申しておりますがーー」
聖ラーマクリシュナ
「いや、この普通の心で感得できないのはたしかだが。
しかし、純粋清浄な心で感得できる。
この普通の知性ではわからないが、純粋清浄な知性ではわかる。
女と金への執着がとれさえすれば、心と知性は純粋清浄になる。
純粋な心と純粋な知性は一つのものだがね。
神はその純粋清浄な心で感得できるんだよ。
聖仙(リシ)や牟尼(ムニ)たちはあの御方を見なすっただろう?
あの方々は、霊意識を通じて大霊に対面なすったのだよ」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
☆ジーバ・ムクタ(悟った魂)でいらっしゃいますナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、
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正信正行の人々を救(たす)け
異端邪信のともがらを打ち倒し
正法(ダルマ)をふたたび世に興すために
わたしはどの時代にも降臨する
(バガヴァッド・ギーター第4章8)