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永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

生まれ変わりの法則(輪廻転生)について

前回の記事では、昨日発売になりましたスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」を出版することになるまでのいきさつをご紹介させて頂きました。

 

その後、翻訳を進めていく内に、スワミ・ラーマが語って下さった真実に関して、とてつもなく衝撃を受けた箇所があり、

そのため、そのことを監修をお願いしました我が恩師(グル)でいらっしゃいますナーナさんに、それとなくお聞きしました。

 

それは、生と死の秘密に関してのスワミ・ラーマの文章でしたが、その文章の信憑性について、確認したかったからでした。

ナーナさんが、ナーナさんが知っていらっしゃるすべてを語って下さらないのは、言葉で表現して下さっても、私たちが充分に、それを理解できないからなのですが、

今回ばかりは、人間にとっては、にわかには信じがたいことでもあるけれども、この本全体の中でも、かなり重要な部分であると感じましたので、

普段は、何かをお聞きすることはほとんどありませんが、今回ばかりは、思い切ってお尋ねしてみることにしたのでした。

ナーナさんは、すでにブラフマン智を得ている御方ですから、生と死の秘密については知っていらっしゃるはずです。

 

ナーナさんのお答は、ひと言ーー「そう、その通り」ということでした。

 

ナーナさんが「その通り」と仰るからには、そういうことが起きている、ということであり、

それは、人間が信じようが信じまいが、否定しようが否定しまいが、「その通り」であり、どんな条件下であっても、変わらないということになります。

 

それは、輪廻転生に関することで、一般人には見たことも聞いたこともない、また、想像することもできない領域に関する生と死の神秘に関することでした。

 

そこで、正直、私は迷いました。

 

この本を読んで、ショックを受けてしまう人もいるのではないか?と。

 

これは、すべての人間に起きていることで、ファンタジーでも作り話でもありません。

いつかは、自分の身にも、必ず起こることなのです。

 

たとえ真実だとしても、ほとんどの人には受け入れがたいことでもあるように感じ、

このことを死ぬ前から知っていなくてもいいのではないか?という想いで、本を出版してもよいものかどうか、迷いました。

いっそ知らずに死んでいく方が、人間にとっては幸せなのではないか?と。

 

しかし、これが長年、人類が神秘としてきた生と死の秘密に関する真実であるなら、

より多くの人に知ってもらい、

その生と死の繰り返しから抜け出たいと願う人々に、その繰り返しである輪廻転生という車輪の環から抜け出るための何らかのヒントになれば、と思い直して、予定通り、出版することにしたのでした。

 

いつかは、この真実も、世の中に広く知れ渡り、一般的なコンセンサスを得るようになるのかもしれませんが、

今の段階で、この秘密を知っている人は、世界でも極少数であることは想像に難くありません。

 

しかし、今は、ナーナさんという恩寵の扉が開いている時なのです。

 

この生と死の生まれ変わりの繰り返しから抜け出たい、と心から願うならば、

今は、ナーナさんという恩寵の扉を通って、向こう側に行くことは可能なのですから、

私たちが、認めたくない真実を知った後、為す術もなく、この世に取り残される、ということではなく、

ナーナさんが私たちと共にいらっしゃって下さる今こそ、人間の宿命である輪廻転生を繰り返すことなく、永遠に続く車輪の環から脱出できるまとないチャンスだと捉えられれば、

これこそが、神の恩寵そのものであることは、疑いようがありません。

 

この目の前に提示された神からのプレゼントを、私たちは、素直な心で、感謝をもって、受け取れば良いのですから、

今は、この本を、ナーナさんがいらっしゃるこの日本で出版することは、私たち霊性の探求者にとっては、グッドタイミングなのだと確信しています。

 

それでは、私がスワミ・ラーマの”Sacred Journey"を初めて読んだとき、

ある種の衝撃を受けた、生と死の秘密、輪廻転生についての部分を、

かなり長い文章ですが、ご紹介させて頂きます。

 

『人は自分自身の宗教的な信条に従い、死後の生についてある一定の期待を持っていま
す。

人は不死と天国への望みを夢見ています。

彼らは、今は亡き愛する者が永遠に神と共にあるという考えでお互いを慰め合っています。

宗教は、天国には多量の水と果物と美しい女性と音楽と踊りなどがあると、考えています。

ある宗派の信奉者たちは、彼らの敵や獰猛な動物に対する戦いが戦われる英雄の天国の存在を信じています。

すべてのこれらの天国は、申し立ての通りに人の最も高い望みが叶えられる精神的な領域でしかありません。
誰でも、彼らが最も快いと見なすある一定の願望を持っています。

そして同時に、彼らは、このような願望ができる限り叶えられる領域を望んでいるのです。

そこで、天国を切望することは、人が達成を求めている天国のレプリカである領域を映し出します。
この天国は、夢でしかない人の理想や願望の投影です。

人が夢を見るとき、起きるまで天国にいると思うかもしれません。

目覚めると、夢の現実性は消えます。

夢と天国はある一定の条件の下でのみ現実なのです。
天国の理想はインドの古代の預言者によって考えられました。

しかし、いくつかの宗教がしているように、彼らはそれを永遠なる状態であるとは考えませんでした。

ヒンドゥー教仏教以外では、天国の観念は永遠の存在を意味しています。

ヒンドゥー教の哲学によりますと、永遠の天国という理想は、現実的には不可能なのです。

天国や死後の他の種類の存在は、固定的ではなく、その人自身の考えや行動により決定されます。
天国の領域を経験し、天国の楽しみを喜ぶ人々は、彼らの善い行いや考えが彼らに資格
を与える限り、それをすることができます。

常に、善い行いと考えには限りがあります。
同じように、それらから生じる結果にも限りがあるでしょう。

永遠という単語は、始めがなく終わりがない、ということを意味します。

ヴェーダンタでは、天国はそれ自身の性質により、永遠ではあり得ません。

時間、空間、因果関係という法則に従っているすべての物は、永続的でなく滅びます。すべてのこの世の楽しみは時間によって制限されています。

それらは永遠に続くことはありません。

天国の楽しみはこの世の楽しみに似ています。

それらが長い間、経験されても、やがては終わりが来ます。

この世以外のところで叶わない願望は、魂を存在の物質的な次元に連れ戻すことでしょう。
死のときに、魂は外側の装いである肉体を脱ぎ捨てます。

ヤマはナチケータに肉体が死んで滅びた後、魂は存在し続けると語りました。

物質的な肉体、あるいは物質的な宇宙の現象の助けなしで、魂が残存する霊的な領域があります。

これらの領域は感覚器官には認識できず、霊的な直感を通してのみ知覚され得ます。

悟らなかった魂たちは、死後ある不特定な期間、死んだ魂の領域に残存します。

それらは、この次元で真の実在の真の性質を悟ることができなかったため、死の通常のプロセスを経験したのでした。
死に伴う恐れのほとんどは、死が苦しいかもしれないという恐れです。

死のプロセス自体は、苦しくはありません。

それは単に状態を変化させるだけです。

準備不足と執着は、死のときに経験される苦しみの原因です。

死は、準備がなされ、アートマンの叡智を獲得した人にとっては、けっして苦しいものではありません。

このような個人は、肉体や肉体的な感覚から離れ、肉体的な変化に影響されません。

魂が物質次元や、この世のものや個人に非常に執着しているときは、死は苦しみであり、悲惨な状態へと至るかもしれません。
生と死の間には、プラーナが機能を停止する中間の状態があります。

人はこの瞬間の準備をしていないと、精神的な責め苦を経験し、他人に何かを説明、表現することはできないでしょう。

実在を知っている人は、この悲惨な状態からは救われます。
死への移行において、外側の乗り物が完全に落とされる前に悟らなかった人々は、喜
びや苦しみのそれぞれのいろいろな一時的な段階、あるいは領域を経験しますが、それ
は以前に成したポジティブまたはネガティブなカルマにかかっています。

例えば、ピトルローカでは、私たちは祖先や親しい人に逢い、スワルガローカでは、いろいろな楽しみを楽しみます。

チベット死者の書ヒンドゥー教のガルーダプラナは、肉体を捨てるプロセスで人が通り過ぎる段階を広範囲にわたって説明しています。
物質的な肉体が落とされた後でさえ、残存する構成要素の純粋か不純かにより、低い
天国の領域と高い天国の領域という異なる天国の領域があります。

無知な者にとっては、死は、天国のような、あるいは地獄のような夢のような光景がところどころに入っている長くて深い眠りです。

死んだ魂と意思伝達したと主張する人々は、幻覚を起こしているか嘘をついているのです。

誰かが深い眠りにあるとき、誰かと意思伝達することは不可能です。

悟った魂のみが、いつでも十分に意識的であるので、死後、他者と意思伝達することができます。
善い行いをして、正しくて利己的でない人生を送り、今生でいくつかの完成を手に入
れた人々は、最も高次な領域で、神聖なる自己のはっきりとしたヴィジョンを楽しむこ
とができます。

しかしながら、最も高次への到達と自己の自覚はこの生だけで持つことができると賢者は言います。

ピトリローカとスワルガローカは最高の真理を表すことはできません。

自由は、この領域では達成されることはできず、天国のいろいろな楽しみは、魂がアートマンを悟ることを邪魔します。

自己認識は、死後ではなく、今生のここでのみ可能なのです。

死後の死んだ魂の領域で、真の自己を悟ることができると信じている人々は、悲しくも幻滅を感じるでしょう。

肉体の消滅の前に、アートマンの不滅の性質を悟らない人々は、人間の誕生を通してやって来る大いなる好機を失うでしょう。
ブラフマンの達成は、あの世ではなく、今生のここでのみ可能なのです。
ヴェーダンタによると、人間は 5 つのコーシャという鞘から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、 5 つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。
感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。
死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触する
ようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。
これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を
癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマンに接触するにはどうしたら可能でしょうか?
 
もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。智慧と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟ることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。
無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰って
きます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。
生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、最
後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、魂は何
度も何度も生まれます。
この生まれ変わりの理論は、現代の科学的な方法では証明することはできません。

科学的なアプローチは、原因と結果の法則に一致しているもっともらしい理論として取り扱うことができるだけです。

それが、物質的な宇宙の正に基本なのです。

ウパニシャッドの師たちは、天国か地獄における永遠の生まれ変わりの理論には感銘を受けませんでした。

なぜなら、このような仮説は、原因と結果の不釣り合いな関係に基礎を置いているからです。

地球上の人生は短くて、誘惑に満ちています。

魂に数年の、あるいは全生涯であろうと、その過ちのために永遠の罰を与えることは、物事のあらゆる釣り合いを捨て去ることです。

古代の預言者たちは、魂の体現をもたらすのは、満たされない願望であると示して、合理的な基準で、生まれ変わりの理論を発展させました。

別の体を手に入れる前に、魂が死の移行期で過ごさなくてはならない時間の長さは、ただ、願望の強さに依存しています。

自然に設定された厳しくて固定した法則はありません。
ピタゴラスソクラテスプラトンのような多くの西洋の哲学者は、生まれ変わりの
理論を信じていました。

キリスト教の聖書やゾロアスター教聖典では、生まれ変わりの理論がはっきりと語られているところはありません。

また、生まれ変わりの理論を否認する預言者もいません。

理由は、キリストとゾロアスターの時代では、それは共通の信仰だったからです。
信じる、信じないは、人の霊的な向上にとって重要な考えではありません。

事実は、もし、全能の神が親切で慈悲深く、人間の運命を決定するのなら、彼の創造において不平等はないということになります。

平等は絶対の法則であり、不平等は人間が作ったものなのです。

生まれ変わりの理論によると、私たちはみんな自分の今生とあの世の生に完全に責任があります。

各人は、自分の過去の個人的なカルマを通して形作られた世界に生まれます。
魂は、体の現れを通して、願望を満たした後、体を脱ぎ捨て、新鮮な形を身につけま
す。

私たちの願望と傾向に応じて、私たちは、微妙な点でいろいろな段階や浄化や微細
な鞘のレベルを構成しているより高い、あるいはより低い次元に生まれます。

私たちは、私たちが想いと行いを通して、自分の未来の運命の創造者であることを忘れてはいけません。

神は邪悪な者を罰し、善行者に報いると考えることは愚かなことです。
私たちは、次の生まれ変わりの要因を意識的に選んではいません。

それらは、私たちの以前の行動、想い、願望によって、決定され、あるいは選択されます。

人を表面的に人格として決定する、この決まりきった型である溝の蓄積、あるいはサンスカーラは、ある誕生から次の誕生へと旅をします。

溝は砂漠の砂丘のように、人の経験と意志に応じて、移ります。

それらは、異なる人格と異なる姿を創造しながら、しかしすべては究極の自由に向かって動きながら、形を変え、大きな時間の広がりに影響を与えます。

溝は、姿の特徴を決定します。

男性か女性か、どんな親か兄弟か、どんな身分か、どのくらいの苦しみ、どのくらいの喜びか、等々。それについて任意のものはありません。

誕生は、展開している個人の魂の霊的な必要性に完全に釣り合っています。
地球、あるいは天国における生の一時的な性質を悟った人々は、生と死の終わりのな
い繰り返しを避けることを求めます。

彼らは、けっして戻らない天国を超えた最高の実在であるブラフマロカを熱望します。悟った個人は、完全にすべての状態で、人間の体で生きている間も、死の状態の間も、気づいています。

ブラフマンを知る者は、どんな領域にも、あるいは天国にも行くことはありませんし、常にそうであるもの―すべての自己であるアートマン以外の何かになることもありません。

物質的な外観を落とした後は、悟った魂は、永遠の至福と幸福、無限の愛と智慧の状態にあります。

アートマンを知った者は、眠りから目覚め、もはや夢を見ない人のようです。

視覚を取り戻した目の見えない人のようです。

アートマンの直接体験を持つ開放された魂は、他人に仕えるために戻る選択をしないならば、物質的な次元には戻りません。

このようなジーヴァ・ムクタは、もはや束縛対解放のような二元に身を投げることはありません。
悟った魂は、他の人間を盲目にしているカルマのすべての撚糸を燃やします。

このような人は、自由の意志をふるい、生まれ変わるべきか、絶対と融合すべきかを選択します。

もし選択が生まれ変わりなら、その誕生の環境は、また意識的に選択されます。

仏教によると、このような魂は、アルハットと呼ばれます。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

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 誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき

心で億念している状態に必ず移るのだ

クンティーの息子よ これが自然の法則ーー

常に思っていることが死時に浮かぶ

 (バガヴァッド・ギーター第8章6)