永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

神(不死)に至る無限の道

束縛からの解放、限りない永遠の至福、個我が求めてやまない完全なる自由を求めて、

人間が、持っている限りの能力を用いて、実践できる方法とはどんなものでしょうか?

 

これまでもご紹介してきましたよく知られている実践方法を、ここでもう一度整理してみましょう。

 

 

『不死の大海に行く道は無限にあってね、何はともあれ、この海に行き着きさえすりゃいいんだ。

甘露をたたえた池があると思ってごらん。

どんな方法ででも、この甘露を口に入れさえすりゃ、不死になるんだ。

自分で飛び込んでもいいし、石段をゆっくりゆっくり下りていって、手ですくって飲んでもいい。

誰かに押されて入ってもいい。

結果は一つだ。

あの甘露を一しずく味わえば、不死になるんだよ。

無限の道ーーその中に、智識、行為、信仰などの道がある。

この道を誠実に歩いていけば、神に至る。

大ざっぱに分ければ、ヨーガには三つの種類がある。

智識(ジュニャーナ)のヨーガ、行為(カルマ)のヨーガ、信仰(バクティ)のヨーガ。

 

智識(ジュニャーナ)のヨーガーー智識の行者はブラフマン(原理)を覚ろうとする。

これではない、これでもないと分別判断してゆく。

ブラフマンは実在、宇宙原理は幻影だと見極める。

真実と虚偽を判断する。

分別の極まるところで三昧に入り、ブラフマン智を得る。

 

行為(カルマ)のヨーガーーこれは働きを通じて神に心を結びつける。

求める心なく呼吸統御(プラーナーヤーマ)や瞑想(ディヤーナ)をするのもカルマ・ヨーガだ。

普通の社会生活をしている人が無執着の心で働き、その結果を神に捧げる。

あの御方を信仰してこの世の仕事をする。

こういうのもカルマ・ヨーガだ。

果報を神に捧げて礼拝称名などの宗教的行事をするのもカルマ・ヨーガだよ。

神を体得(つか)むのがカルマ・ヨーガの目的だ。

 

信仰(バクティ)のヨーガーーこれは神の御名と栄光をとなえることによって、心をあの御方に結びつける。

現代のような末世では、この信仰のヨーガが無理のない自然な道だ。

信仰のヨーガこそ現代の宗教だ。

カルマ・ヨーガは大そう難しい。

前にも言ったが、そういうことをする時間がどこにある?

聖典に書いてあるような勤行をするヒマがどこにあるかね?

この末世では人間の寿命は短いんだ。

その上、無執着で果報をアテにしないで働くなんてことは、全くもって難しいことだよ。

神を覚らなければ、真に無執着の心にはなれない。

お前たちは気づかないかもしれんが、何処からともなく執着の心が忍び込んでくるものだよ。

 

智識のヨーガも現代はとても難しい。

先ず第一に、人は食物なしにはこの世に生存できない。

それに寿命が短い。

その上、肉体意識がどうしても無くならない。

肉体意識が無くならない限りは、完全な智識は得られないんだからね。

智者はこう言うーー『私はブラフマンだ。

私は肉体ではない。私は飢え、渇き、病気、悲しみ、誕生、死、幸福、不幸、こういったものすべてから超越している』と。

もし、病気が哀しみや幸不幸などを感じているとしたら、お前は智者というわけにはいかないよ。

手に釘がささって血がだらだら流れてものすごく痛いのに、それでもこう言っているんだよーー『ナニ、釘なんかささっていない、私はナンでもないよ』と」

 

「だから、現代は信仰のヨーガだ。

これで他の道を通るより楽に神様のところへ行ける。

智識や行為や他の道を通っても勿論、神様のところへ行けるよ。

でも、他の道はとてもとても苦しい道なんだよ。

信仰のヨーガは現代のための宗教だ。

が、このことは、信仰者はある場所へ行き、智者と行為者はまた別な場所へ行く、という意味ではない。

ブラフマン智を求める人は、信仰の道を通ってもその知識が得られる、ということだ。

信者思いでやさしいあの御方は、お気持ち次第でブラフマン智を与えてくださるんだよ。」 

 

「信仰者(バクタ)というものは、神のお姿を見たいと思い、またその御方とお話をしたいと思っていて、たいていの場合はブラフマン智を求めないものだ。

しかし、神はしたいようになさる御方だから、その気になれば信者をご自分の力と富すべての相続人になさる。

つまり、信仰も授けてくださるし、智慧も授けてくださる。」

 

「普通の社会生活をしながら神を呼び求める人こそ、雄々しい信者だよ。

神様はこうおっしゃるだろう--『出家したものが、わたしに祈ったり仕えたりしたとて、それは極く当たり前のこと。

もしそうしなければ、人はみな、”チェッ、チェッ”と舌打ちするだろう。

だが、世間の真っ只中にいてわたしに呼びかける人ーー何十貫もの大石を押しのけながらわたしを見ようとする人こそ祝福してあげよう。

そういう人こそ、雄々しく高貴な魂なのだーー彼こそ真の英雄だ』と」

 

「蟻のようにしてこの世に住め。

この世には永遠なるものと一時的なはかないものとが混ざっている。

砂と砂糖が混ざっている。

蟻になって砂糖をとれ。

この世は水と牛乳がいっしょになっている。

至高精神の歓喜と世俗(五官)の快楽とだ。

白鳥のように水を分けて乳を飲め。

また、水鳥のようにねーー体に水がかかっても弾き返すだろう。

それから、泥魚のように!

泥のなかに住んでいても、体はいつも清らかに光り輝いている。

ごちゃ混ぜの中に、よく見ると正しいものがある。

ニセモノをすてて、ホンモノをつかめ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

この世は、玉石混淆、砂と砂糖が混じっています。

その中から、本物と偽物を選別するには、識別力(ヴィヴェーカ)が必要です。

この識別力については、別の機会にご紹介させて頂きます。

 

また、同じく、インドが排出した20世紀の偉大なるヨーギーでいらっしゃいますスワミ・ラーマが書かれた『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』には、このように書かれています。

 

 

『ナチケータは、選択の機会を与えられました。

彼は、すべての最も偉大なものであるこの世にある富、力、感覚的な喜びなど、をそこで提供されました。

彼は他のものを選択しました。

世俗的な楽しみを選ぶことは、死と生の終わりのないサイクルにおいてもうひと回転することを意味するでしょう。

それぞれの楽しみにおいては、一瞬の喜びがあり、苦痛の流れが続き、失うことへの恐れが続き、遂には死が続くことでしょう。

それぞれの世俗的なものは変化し、死にます。

人々は、これらの楽しみから苦痛を感じますが、それでもなお、彼らはこれらのものが次には、最終的には、平和と幸福をもたらしてくれると信じ続けます。

この信念は、ナチケータが知ったように、人々を楽しみの次元である、生きて、願望し、恐れ、そして再び死ぬ次元に、何度も何度も引き戻します。
カタ・ウパニシャッドは、〝愚か者は、外側の楽しみを求めて走り、広範囲に取り巻
いている死の罠に落ちます〞と言っています。

聖書の申命記の古い神は、はっきりと言っています。

〝私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。
死なないものを選びなさい。

それが神秘への解決法です。

アートマンが答えなのです。
挑戦はアートマンを見つけることです。
この世のものは、楽しまれるようになっています。

それらは永続しないので、それらに執着することは賢明ではありません。

この世のものを楽しみなさい。

それからそれらを行かせなさい。

それらにあなたの人生を通過させなさい。

人生のすべてを抱擁し、人生のすべてを理解しなさい。

しかし、智慧をもってそれを成し、叡智に向かって動きなさい。

この世の生は目的ではなく、手段なのです。
うまく人生を生きることは、技術です。

それは智慧だけでなく、勇気をも必要とします。

〝この人間の永遠でない現実への束縛は〞とシャンカラは言いました。

〝武器によって、風によって、火によって、あるいは何万という行動によって破壊されることはない。
叡智の鋭い剣以外のものは、この束縛を切断することはできない。

それは識別力により鍛えられ、神聖なる恩寵を通して、心の純粋さにより作られる〞
人生は、短く特別です。

対象物と誘惑の鼠籠の中のここで、あなたの時間を浪費してはなりません。

楽しみを追い駆けないことです。

霊的な成長のためにこの世のものを使いなさい。

それが、人生を選択するということです。
ゴールはアートマンです。

ウパニシャッドのメッセージは、ただひとつが在る、ということです。

すべてはひとつです。

この世のものに対して願望を持つことは、ひとつを多くに変えます。

ヤマはナチケータに語りました。

〝多くを見て、ひとつを見ないものは、死から死へと彷徨う〞
選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望
か、ということです。

ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。

それが奥義なのです。」

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

 このことは、世俗を生きている人間には厳しく聞こえるかもしれませんが、

これは理解しようとしまいと、そして、信じようとしまいと、

神が決められた決め事であるこの世の法則(永遠のダルマ)なので、どんなことがあっても、変わることはありません。

それを素直な気持ちで受け入れ、それに従えるかどうか、というところが、神への道、永遠の自由への道、限りない至福への道への分岐点となると言えるでしょう。

 

 

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聖なる旅『目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ 著 | Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

 

 

死の時が来て肉体を離れるとき

わたしだけを憶念する者は誰でも

まっすぐにわたしの所に来る

ゆめゆめこのことを疑うな

(バガヴァッド・ギーター第8章5)