束縛からの解放から限りない永遠の至福へ(パラマーナンダ)
前回の記事では、神を悟る人の性質(グナ)について整理してみました。
そして、永遠の魂、解脱した魂、解脱しようと努力している魂、縛られた魂という4種の魂についての聖ラーマクリシュナの分かり易いお言葉をご紹介いたしました。
今回は、その続きです。
そして、人は、この縛られた存在から解放されると、どうなるのか?ということも併せてご紹介したいと思います。
「この世に執着した”縛られた人”は、死ぬときにもこの世のことしか話さない。
うわべだけ数珠を繰って称名したり、ガンジス河で沐浴したり、聖地巡礼に行ったりしたって、いったい何になる?
世間への執着が心の中に巣くっているから、死ぬときだってそれが表に出るんだ。
無意味な、阿呆みたいなことを口走る。
ウワ事にも、『ウコンの粉、七味とうがらし、月桂樹の葉!』なんて叫ぶんだよ!
オウムは何でもないときは人間の口真似をして、ラーダー・クリシュナ、ラーダー・クリシュナなんてさえずっているが、猫に捕まったときは本来の声を出して、キャーア、キャーアと鳴く。
ギーターには、『人は死ぬとき心で思ったものに次の世でなる』と書いてある。
バーラタ王は『鹿、鹿」と思って捨身したので次の世には鹿に生まれた。
神様のことを考えながら死ねば、必ず神様のところへ行ける。
もう二度とこの世に戻って来る必要はないんだ」
「先生、ほかのときには神のことを考えていたのに、あいにく死ぬときに考えなかった、という場合は、またこの幸と不幸が錯綜したこの世に戻ってこなくてはなりませんか?
以前にはたしかに神のことを思っておりましても?」
「人は神のことを考えるが、神を信じないからまた忘れてしまうんだ。
世間に執着しているんだよ。
もし人が死ぬとき神を思っていれば、心が清まって、もうその人の心は女と金に執着する機会がなくなる。
神を信じないから、こんなにいろいろ沢山の悩みや苦しみがあるんだよ。
ガンジス河で沐浴しているときは、罪は本人から離れて岸辺の樹の上にとまってるそうじゃないか。
沐浴を終えてお前が岸に上がってくるや否や、罪の鳥はお前の肩に舞い戻ってきて、そのまま居座るんだよ。
捨身(死)のときに神を思っていられるように、前もって準備をしておかなければいけない。
その方法は--訓練(アビヤーサ)のヨーガだ。
神を想うことを繰り返し繰り返し訓練しておけば、最後の日にもあの御方のことを思い出せるよ」
「神様はね、人間を誘惑するために富をお与えになるんだよ。
富はすべてマーヤーなんだが、本当の神の信者は、この魅惑的なマーヤーには惑わされない。
マーヤーの主にしてあらゆる力の権化である神だけを求めるんだよ。
人は富を得て金持ちになると我執が大きくなり、支配されてしまうんだ。
またこの我執によって、欲望、怒りなどが頭をもたげる。
これによって人間は堕落してしまい、真実を悟る道が防げられるんだよ。
ある時、人間の体で、目や耳、口などの感覚器官が激しい口論を始めた。
各自が、『自分が一番で、自分がいなけりゃ、他の者は何の役にも立たない』と言うんだ。
こんなふうだから、彼らは一人ずつ体から出て行ってしまった。
道でよく見かけるだろうーー盲人、耳が聞こえない人、口がきけない人。
でも、これでもわかるだろう。
何か一つ感覚器官が機能しなくたって大丈夫だってことがーー。
後になって、感覚器官がなくても体は機能することが分かった時、彼らの高慢は粉々になって恥ずかしくなり、また体に戻ってきた。
それから、アートマンが体から去って行ったとき、彼ら(体の部分)は取るに足らぬものだということが分かった。
アートマンこそ、感覚の源なんだよ。
このアートマンは目に見えなくとも、みんなの内に存在する。
人間のハートがアートマンの存在する場だ。
人間もまた自惚れて、『この私がしたんだ!私は、これこれの者なんだぞ!』なんて言う時も、アートマンが存在するところ(ハート)を指すだろう?
でも、これは無意識でしていることで、それをちゃんと悟らないことには分かりっこない。
アートマンを悟って、”我はアートマンである”という叡智を得て初めて、その者は自我(エゴ)から解放されるんだよ。
たとえまだ自惚れがあったとしても、”我はアートマンである”と、アートマンを誇りに思ってのことで、こうした自惚れには害はないんだよ。
プラーラプタ・カルマ(前世で行ったカルマの結果)によって、人間はこの苦悩に満ちた世界(サンサーラ)に生まれてこなければならない。
カルマの果実の重さで、人間の頭は垂れているんだよ。
もし、人間が望むのなら、このカルマの果実からごく簡単な方法で逃れられるよ。
信愛(バクティ)を持って、真剣に朝夕、神様に頭を下げて礼拝するとしたら--例えばね、その重荷は頭から落ちてしまうよ。そんな感じだ。
だからね、お前たちに言うんだよ。
どんな方法でもいいからあの御方を悟るんだよ。
あの御方に完全にお任せをする。
また、泣いて、泣いて心の汚れを落とす。
純粋な愛をもってあの御方を悟る。
どんな方法でもいいんだ。
それすれば全てわかるよ。
いいや、あの御方が分からせてくれるよ。
そうなれば、もう彼の全てを忘れさせるマーヤーに魅せられることはない。
その時、彼の恩寵で、富とは神のマーヤー(まやかし)、非現実であるということが分かるよ。
その時、神は無限の普遍的存在であるということを悟って、喜ぶんだよ。
限りない無限の喜びだ。
この喜びはね、地上での感覚が知っている喜びではないんだよ。
世俗の喜びは、最後には不幸と虚しさをもたらすものだ。
でもね、神を悟った後の喜び、それは決して消えない至福だ。
その至福がまた至福を連れてくる。
その至福とは、初めもなく終わりもない。
神は無限なんだから。
だから、神を悟った至福もまた無限なんだよ。
限りない永遠の至福、至高の喜び、パラマーナンダだ!」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
束縛からの解放は、限りない永遠の至福であり、
それこそが、個我が求めてやまない完全なる自由と言えます。
次回は、この道を辿るにはどうしたら良いのか?について、もう少し詳しく見ていきましょう。
解脱した人は感覚の快楽や外物に関心なく
常に内なる真我(アートマン)の楽しみに浸っている
真我実現の人は心を至上者(ブラフマン)に集中して
限りなき幸福を永遠に味わっている
(バガヴァッド・ギーター第5章21)