永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

神を見る人の性質(グナ)について

人間の真の本性であるアートマン(真我)は、体験を通して悟って行くことでしか、知ることはできない、と書いてきました。

 

しかし、これは、望めば叶うという類のことではないため、真我体得し得た人々は、これまでも少数でしたし、これからもそれは変わらないでしょう。

厳しく聞こえるかもしれませんが、これは認めざるを得ない事実です。

 

ナーナさんという神の恩寵が形となって現われていても、それを信じられないという反応の方が一般的であるならば、

この世の仕組みも、生と死の秘密もわからず、実在と非実在の違いも理解できず、アートマン(真我)、神に出会っていくことも不可能でしょう。

 

昔からインドでは、神を覚って行けるかどうかは、人の生まれつきの性質(グナ)に依る、と言われています。

 

人間には、3つの性質(グナ)があるとされていますが、

今回は、この3つの性質(グナ)について、聖ラーマクリシュナが、非常に分かり易い例えで解説して下さっていますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

聖ラーマクリシュナ

「それはそうと、自己中心性や我執高慢は智識から生じるものか、それとも無智から生じるものか、どっちだと思うね?

我執ははタマス性で無智から出てくるものなんだよ。

この我執というじゃまがあるから、神が見えないのさ。

”ワタシが死んだら、悩みはすべてなくなる”のさ。

我執は無益だ。

この体、この富や権力、どれほども続きはしないよ。

一人の酔っ払いがドゥルガーの神像を見ていた。

お像のいろんな飾りを見てこう言った。

『マー、どんなにきれいに飾っても、二日三日したら、あんたはガンジス河に投げ込まれるんだよ(ドゥルガー祭のときには、美しく飾った大きなドゥルガー女神の張りボテを作って祀り、祭が終わるとガンジス河に浸す)』

だから、いつも皆に言うんだ。

裁判官サマだろうと何サマだろうと、みんな二日ばかりの命だと。

だから、身勝手なことや我執高慢を捨てろと」

 

「サットヴァ(善性優位)、ラジャス(活動優位)、タマス(暗性優位)の三性(トリ・グナ)は異なった性質だ。

タマス性の人の特徴は我がまま、眠り好き、大食、色情、怒り。

ラジャス性の人は多くの仕事に自分をまきこむ。

着るもの、履くもの、すべてきれいでキチンとしているし、家は隅から隅まで掃除が行きとどいているし、応接間にはヴィクトリア女王肖像画がかけてあるし、神様に関係のある行事のときは絹織物の衣装を着て、首にじゅず菩提樹の数珠をかけーー数珠玉のところどころに純金の玉が入れてあるんだ。

もし誰か知人が参拝にくれば、最初から終わりまでいっしょについて歩いて寺院のことを説明し、『こちらへおいで下さい、まだございますよ。

白い石の大理石の床もありますし、精巧な彫刻を施した舞堂もあります』

寄付をするときは、なるたけ人に知られるようにする。

サットヴァ性の人はとてもおだやかで落ち着いている。

着るものはどんなものでもいい。

質素な食べもので、腹を満たすだけ稼ぐ。

人にへつらってまで金を手に入れようとはしない。

家の手入れもろくにせず、子供の服装の心配もしない。

名声や評判なども気にかけないし、神のことを考えたり慈善をしたりする場合も、人知れずこっそりするし、蚊帳の中で瞑想したりするから、ほかの人はそれと気付かない。

サットヴァ性がハシゴの最後の段だ。

そのすぐ上が屋根。

サットヴァ性が出てきたら、神をつかむのはそう遠くない。--もうちょっと進めば、あの御方のところだ。

ごらん、それぞれが生まれつき大そう異なった性質をもっているんだよ!

 

それに、まだ他にもいろいろな種類があるんだよ。

永遠の魂、解脱した魂、解脱しようと努力している魂、縛られた魂ーーというふうに、この世にいる人にはいろんな段階があるんだ。

”永遠の魂”は、大きな汽船のようなものさ。

自分もむろん向こう岸へ渡るが、そのほか大勢の人や動物、象までも乗せて渡れる。

永遠の魂は管財人と同じで、一つの土地財産を始末すると、また別のものを整理しに行く。

それから、”解脱しようと努力している魂”があって、彼らは世間の網から逃れ出ようと命がけで努力している。

その中で一人か二人が首尾よく抜け出せるのだが、それが”解脱した魂”だ。

”永遠の魂”は利口な魚のようなもので、最初から決して網にかからない。

 

しかし、縛られた魂ーー世間一般の普通の人ーーあの連中は正気じゃないんだよ。

網にかかって身動きが出来ないほどなのに、まるでそれに気が付かないのさ。

神の話をしている場所にでくわすと、すぐ立ち去って行く。

神の名なんぞ死ぬときだけでたくさんだ、と言ってね。じゃ、その死ぬときはどうだ?

死の床に横たわって女房や息子たちにこんなことを言っているーー『どうしてランプに何本も芯を入れとくんだ?一本でたくさんだよ。油が無駄になるじゃないか』

そして、女房や子供たちのことを思って泣くーー『ハェ!おれが死んだら、これたちはどうなるんだろう!』それから、縛られた魂は悲しい苦しい経験を性懲りもなく繰り返す。

子供が死んで悲観にくれていたのに、また毎年のように子供をつくる。

娘の結婚のために破産するほどの目にあっても、また毎年のように子供をつくる。

そして言うことがこうだ--『だって仕様がないでしょう。こういう運命なんですもの』」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

このようなブログを興味を持って読まれている方々は、3つの性質(グナ)の内、サットヴァ性であると言えるかもしれません。

 

見神には、サットヴァ性であることは、不可欠です。

 

しかし、この性質(グナ)は、生まれつきのもので、後天的に変えることはできません。

 

ある意味では、永遠の魂、解脱した魂、解脱しようと努力している魂、縛られた魂は、生まれたときから決まっている、と言えるでしょう。

 

そうとは言え、この変化が常である無常なる二元世界では、未来がどう変化するかは、誰にもわかりません。

 

解脱を望むのであれば、今生の「いまここ」で、そのための努力をすることは、まだ来ていない未来を変えることにつながります。

 

人間には、未来を変える力があるのです。

 

それは、これまでも何回も書いてきましたが、人間の本性は、本当は「神」なのですから、

「神」が「神」に還っていくことに、「神」の力が無限に働いたとしても、何も不思議ではありません。

 

このことを心の底から信じて、努力する人のみが、「人間」から「神」に還って行くことができる、と言えるでしょう。

 

 

 

 無恐怖 清らかな生活

霊的知識の養成 研究 慈善

自己抑制 供犠 経典・聖典の学習

性的清浄 簡素な生活

 

非暴力 正直 怒らぬこと

離欲 平静 他人の欠点を探さぬこと

口煩さく小言を言わぬこと 生物に思いやりをもつ

物事を熱望しない 柔和 謙遜 果断  

 

気力充満 寛容 不屈 清潔

羨望心や名誉欲がないことーー

アルジュナよ 以上のような高貴な性質は

神に向かう人々に属するものである

(バガヴァッド・ギーター第18章1-3)