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永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

ヨーガの科学(ラージャ・ヨーガ)

ラージャ・ヨーガは、斉一性と再現性があるという点において、「科学」であると言うことができます。

 

つまり、同じことをすると、同じ結果が得られる、ということが、経験的に起こるということになります。

 

現代の日本では、ヨーガというと、アーサナ(坐法)である数々のポーズを思い出す人も多いかと思います。

一種の健康スポーツ、エクササイズのように考えている方も多いことでしょう。

 

しかし、古くインドでは、アーサナは、ラージャ・ヨーガのほんの一部であり、

ラージャ・ヨーガ全体は、全部で八段階あるとされ、現代では、アシュタンガ(八つの)・ヨーガとも呼ばれています。

 

このラージャ・ヨーガを実践することで、多くの人が、同一の結果を得たことから、

インドでは、究極の叡智に与るためのヨーガ(行)として、多くの修行者たちにより実践され、その信憑性が確かめられてきました。

 

もうすぐ発売になります「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の著者であるスワミ・ラーマも、

ラージャ・ヨーガを体系的に修め、ラージャ・ヨーガがもたらすと言われている同一の結果を手にしたヨーギー(ヨーガ行者)のお一人です。

 

ですから、師の元で真摯に実践し、己の身体と心を実験の場とみなし、たゆまぬ努力を重ねるならば、

多くの聖者と呼ばれる人びとが到達したと言われている究極の叡智に与ることは可能と言えるでしょう。

 

しかし残念なことに、ラージャ・ヨーガの八段階すべてを指導して下さる師(グル)は、現代の日本にはいらっしゃいませんし(一部のみならいらっしゃることでしょうが)、

また、八段階すべてを習熟するまで修行できる環境と時間を手に入れることは、現代の日本では、困難であると言わざるを得ません。

 

ナーナさんは、クンダリニーが覚醒する直前に、ラージャ・ヨーガを習い、ご自身でも積極的に毎日アーサナを完璧にこなされていたそうです。

しかし、それは、ラージャ・ヨーガ本来の目的のためではなく、弱ってしまった体を鍛えるために、実践されていたそうで、

その時は、ヨーガに八段階もあることは知らなかったそうで、そういう意味では、ラージャ・ヨーガを極めて、ラージャ・ヨーガにより究極の叡智に至ったということではないようですが、

それでも、ナーナさんが教えて下さろうとされているエッセンスそのものは、ラージャ・ヨーガのヨーギー達が語るのと同じ究極の叡智であり、

人を束縛から解放し、真の叡智に至らしめ、存在の源に辿り着くために人類に残された唯一の道と言えるのです。

 

ですから、ラージャ・ヨーガについて書こうとするなら、今までよりも慎重に、そして、客観的に解説する必要があります。

これは、一種の方法論ですが、この方法が正しく理解され実践されると、誰でも同じ結果を得ることができる、というものであり、

それにより、解脱への道が開かれる、というものだからです。

 

最終的に、このゴールに到ることを望んでいるのなら、道は厳しそうに見えますが、最後まで諦めてはいけません。

諦めて、歩みをストップしてしまったなら、そこでプロセスは沈滞してしまいます。

最後まで諦めずに、ゴールに向かって進もうとする心(意志)が、道を切り開いていくのです。

そういう人は極少数ですが、その極少数の人が、解脱への鍵(チャンス)を手にするのです。

 

それでは、ラージャ・ヨーガの概要を見ていきましょう。

 

『まず第一に、私が教えることには何の神秘もありません。

私が知っているわずかのことは全部、みなさんにおはなしましょう。

私に論証できるかぎりのことは、論証しましょう。

しかし私が知らないことは、ただ書物に書いてあることだけをおはなししましょう。

盲目的に信じるのはまちがいで

みなさんは、みなさん自身の理性と判断力をはたらかせなければなりません。

実践して、そのようなことがおこるかどうか、たしかめなければなりません。

他のすべての科学をとりあげる場合とまったくおなじ態度で、この科学をとりあげ研究なさるべきです。

そこには神秘もなければ危険もありません。

真理であるかぎり、それは街頭、白日のもとで説かれるべきです。

これらを神秘化しようとするこころみはすべて、大きな危険をもたらします。

 

話をさらにすすめる前に、サーンキャ哲学についてすこしばかりおはなししましょう。

ラージャ・ヨーガの全体が、それを根拠にしているのです。

サーンキャ哲学によると、知覚はつぎの通りに生まれます。

外の世界の対象の影響が、外部にある道具(目、耳など)によって、脳にあるそれぞれの中枢、すなわち器官にはこばれます。

器官はそれらの影響を心に、心は判断力にはこび、判断力から、プルシャ(魂)がそれらをうけ、そのときに知覚が生じるのです。

つぎに、プルシャはいわば、必要なことをせよという命令を運動神経の中心にあたえかえします。

プルシャ以外のこれらすべては物質ですが、心は外部の道具よりはるかに精妙な物質です。

心を形成している、その物質はまた、タンマートラスという精妙な要素をつくるのです。

これが、サーンキャの心理学です。

それゆえ知能と外部のより粗大な物質との間には、ただ程度のちがいがあるだけなのです。

プルシャが、物質ではない唯一のものです。

心は、いわば、魂の手中の道具であって、それによって魂は、外界の対象をとらえるのです。

心はたえず変化し動揺していて、完成されたときには、それ自身をいくつかの器官につけることも一つの器官につけることも、またはどれにもつけないでいることもできます。

たとえば、もし私が深い注意をこめて時計の音を聞くなら、私は多分、目はあいているのに何も見ず、心は聞く器官につながってはいたけれど見る器官にはつながっていなかった、ということを、示すでしょう。

しかし完成された心は、同時にすべての器官につながることができるのです。

それは、ふりかえって自分みずからの深みをのぞきこむ、内省の力をもっています。

この内省力が、ヨーギーが得たいと欲するものなのです。

心の力を集中し、それらを内にむけることによって、彼は内部でおこっていることを知ろうとします。

ここには、単なる信仰などということはあり得ません。

それは、ある哲学者たちがなしとげた分析なのです。

現代の生理学者たちは、目は視覚の器官ではない、器官は大脳の神経中枢に一つの中にある、他のすべての感覚の場合もそうである、と言います。

彼らはまた、これらの中枢は、脳それ自体とおなじ物質でつくられている、と言います。

サーンキャ派の人びともやはり、おなじことを言っています。

前者は肉体の側に立っての声明、後者は心理学に立脚しての声明ですが、両者はおなじです。

われわれの研究分野は、これをこえたものです。』

(ラージャ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

ラージャ・ヨーガのヨーギーたちは、自分自身の体と心を実験台にして、それらを客観的に分析し、何が内部で起こっているかを、自分自身で把握しようと修行します。

 

そして、それから得られた結果が、人間をはるかに超えた存在にまで至らしめることを、身を以って体験するのです。

この体験から得たものが、智慧として、この世に「宝」として提供されてきました。

 

その「宝」の一つであるのが、もうすぐ発売になりますインドが生んだ偉大なるヨーギーのお一人、スワミ・ラーマの最後の著書となります「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」です。

 

この本には、ヨーガのエッセンスであるヨーガの科学から得られた実証可能な真理が語られています。

 

真理に到る体験そのものではありませんが、その準備のために知っておくのに十分な内容となっています。

 

次回は、スワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」から、関連したヨーガの科学の智慧をご紹介いたします。

 

 

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八段階*のヨーガを登り始めた初心者は

行為すること(体による修行)が定法であり

すでにヨーガの頂上に達した人は

一切の行為を止めるのが定法である

*ラージャ・ヨーガのアシュタンガ(八段階)のこと

(バガヴァッド・ギーター第6章3)