真理は、経験を通してのみ悟られる
これまで三回にわたって「人間」について見てきました。
何故、「人間」について分析し、考察したか?というと、それは、「人間」について知ることが、「神」を知ることにつながるからです。
以前の記事で、「神」について詳しく分析し、考察しましたが、
「神」について奥の奥まで探っていくと、いつの間にか「人間」に行き着いてしまったことを思い出して下さい。
このことから、「神」と「人間」はどこかでつながっており、分離した別々の存在ではない、と考えられます。
つまり、「神」をとことんまで探求していくと「人間」に辿り着き、「人間」を徹底的に掘り下げて探求していくと「神」に行き着いてしまう、ということが起こるのです。
この両者が、どこかでつながっているのなら、「神」について考えることは、「人間」について考えることに他ならないと言えるでしょう。
それでは、これから、更に詳しく「人間」について、心だけでなく、肉体をも含めて分析し、理解していきたいと考えていますが、
その前に、何故、そのような手段をとらねばならないか?について、考えてみたいと思います。
『第一に、世界のさまざまの宗教のすべてを分析すると、みなさんはそれらが二組にわけられることを発見なさるでしょう。
書物を持つものと、それを持たないものとです。
書物を持つものはもっともつよく、信者の数ももっとも多いでしょう。
書物を持たないものはおおかたほろびてしまい、ごく少数のあたらしいものは、ごくわずかの信者しか持ってはいません。
しかし、それらすべての中に、われわれは一つの意見の一致を見いだします。
それらが教える真理は、特定の人びとの経験の結果だ、というものです。
キリスト教徒はみなさんに、彼の宗教を信じることを、キリストを信じ、彼を神の化身と信じることを、神を、魂を、そしてその魂のよりよき状態を信じることをもとめます。
もし私が理由をたずねるなら、彼は、自分はそれを信じる、と言います。
しかし、もしみなさんがキリスト教の源泉にまで行くなら、それは経験に立脚しているのだ、ということを見いだされるでしょう。
キリストは、彼は神を見る、と言いました。
弟子たちは、彼らは神を感じる、と言いました。
その他いろいろの例があります。
彼は、ある真理を経験しました。
それらを見、それらに接し、世にそれらを説いたのです。
ヒンドゥたちの場合も同じです。
彼らの書物の中に、リシまたは賢者たちとか呼ばれているその著者たちは、自分たちはある真理を経験したと断言しています。
そして彼らはそれらを説いているのです。
このように、世界のすべての宗教は、すべてのわれわれの知識のあの普遍で堅固な土台--直接経験の上にきずかれているのだ、ということはあきらかです。
教師たちはすべて、神を見ました、彼らはすべて、彼らみずからの魂を見ました。
彼らは彼らの未来を見ました、彼らは彼らの永遠性を見ました、そして彼らが見たものを、彼らは説いたのです。
ただそこにはこのちがいがあります。
すなわちこれらの宗教の大部分によって、特に現代は、ひとつの奇妙な主張がなされているのです。
それは、これらの経験は現代の人びとには不可能だ、その名が宗教の名となっているような、宗教の創始者たちだけに可能なものだったのだ、と言うのです。
現代ではこのような経験はすたれてしまった、それだからいまはわれわれは、信念によって宗教をとらえなければならない、と言うのです。
これを私は全面的に否定します。
この世界の知識のどの特定の分野においてであれ、もし一つの経験があったのなら、その経験はまえに幾百万回もあったものにちがいないし、また永遠にくりかえされるはずである、というのは当然の結果です。
斉一性は自然の法則です。
ひとたびおこったことは、つねにおこるのです。
それですからヨーガの教師たちは、宗教は古代の経験にもとづいているだけでなく、人は彼自身がそれとおなじ知覚を得るまでは、宗教的であると呼ばれることはできない、と断言しています。
ヨーガは、どうしたらこれらの知覚が得られるか、をわれわれに教える科学です。
人はそれを感得するまでは、宗教をかたってもあまり役にはたちません。
なぜこんなに多くの混乱が、こんなに多くのたたかいやあらそいが、宗教の名のもとに存在するのか?
他の原因より神の御名のもとに、もっと多くの血がながされた、それは人びとが決して源泉まで行かなかったからです。
彼らは先祖たちの習慣にあたまの中で同意するだけで満足し、他の人びとに同じことをするようもとめました。
人がもし魂を感じないなら、自分はそれを持っているなどと言う、なんの権利がありましょう。
また彼が神を見ていないなら、彼は存在するなどと言う、なんの権利がありますか?
もし神がおられるなら、われわれは神を見なければなりません。
もし魂があるなら、われわれはそれを知覚しなければなりません。
そうでないなら、信じない方がましです。
偽善者であるよりは、率直な無神論者である方がよろしい。
一方で、「学識のある」現代人の考えは、宗教や形而上学をはじめとする、至高の存在を探求するすべての努力は無駄である、というもの、他方で、なま半可の教育をうけた人びとの考えは、このようなことに実際はなんの根拠もない、それらの唯一の価値は、それらが世間に善をなすためのつよい動機力をあたえているという事実だ、というようなもののようです。
もし人びとが神を信じるなら、彼らは善良になり道徳的になり、このような人びとがうけている教えはすべて、背後になんの実質もない、永遠の無意味な長談義を信じよということにすぎないのを見れば、このような考えをいだいているからとて彼らをせめるわけにはいかないでしょう。
彼らはことばをたべて生きよ、ともとめられているのです。
そんなことが彼らにできますか?
もしできたとしたら、私はまったく、人間性を尊重しないでしょう。
人は真理を欲します、自分で真理を経験することを欲します。
彼がそれを把握したとき、それをさとったとき、それを彼のハートの奥のおくで感じたとき、そのときにはじめて、すべてのうたがいはきえ、すべてのやみは消滅し、すべての不正は正されるであろう、とヴェーダは断言しています。
「おんみら、不死の子たち、最高の領域にすむ者たちも、道は見いだされたぞ。
このくらやみから完全に脱出する道がある。
それは、すべてのやみを超越している彼を、見いだすことである。
ほかには道はない」と。』
(ラージャ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
科学で法則と呼ばれているモノは、そのほとんどが、実証可能で、再現性があるモノに限られています。
一方、宗教的な分野、「神」や「霊魂」については、実証が不可能であり、再現性も不可能であるため、信じるか、信じないか、によって、人の考えは様々です。
ですから、ナーナさんも、ただ単に、私たちに”信じなさい”とは、けっして仰りません。
そのような言葉を発されたことはなく、ただただ、シャクティパータを通して、私たちが、無理なく、真理を覚れるように、御力を使って下さいます。
ナーナさんは、私たちが、経験を通して、自らの直接体験を通して、「神」を見い出すことができるよう、自分の真の本性である「魂」(真我)を見い出すことができるように、導いて下さっています。
その直接体験がどのようなものであるか?を、語ることはできません。
たとえ、他人の経験談を聞いても、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが仰っていらっしゃるように、
”真理を自分自身で見いだす”ことだけが、その人が”くらやみから脱出する”唯一の道なのですから、
他人の経験談、体験談を聞いても、ほとんど、その人の役には立ちません。
自分自身で真理を体得するのでなければ、神を見い出し、自分の本性を悟り、解脱への道を歩むことはできないのです。
ですから、私たちは、経験するために、それが自然と起こるように、自分自身でも準備をする必要があります。
ヨーガの実践、瞑想の実践、身体の清浄を保つための食べ物や接触するモノへの配慮、心の清浄を保つため、行為や感情、思考において利己心を慎むこと。。。など。
その上で、ナーナさんのシャクティパータを受けるならば、多くの恩寵に与ることができるでしょう。
何もやらないならば、今の状況は何も変わらないでしょう。
頭で理解するだけでなく、実際にやってみること、実践と実行こそが、ゴールに到る道を一歩一歩、自分の足で歩いていくことであり、
実践する人だけが、その道を自分の足で歩む人だけが、魂が目指す最終的なゴールに到達することができるのです。
『ヤマがナチケータに語ったように、アートマンについて聞くだけでは十分ではありま
せん。
アートマンは、到達され、理解され、経験によって知られなくてはなりません。
ヤマは、学ぶことだけでなく、知性を使うことでも、聖なる教えでも、アートマンに到
達するには十分でないことを説明しました。
アートマンに到達することは、選択と行動を必要とします。
それが、カタ・ウパニシャッドのメッセージであり、生と死の意味なのです。』
(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
真理を体得したい方、神の直接体験の恩寵に与りたい方は、こちらのナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。
毎月、各地でサットサンガ(真我の集い)を開催しています。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)
アルジュナよ わたしは真我(たましい)として
一切生類の胸の内に住んでいる--また
わたしは万物万象の始めであり
中間であり そして終わりである
(バガヴァッド・ギーター第10章20)