永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

ヨーガとは、心の制御である

前回の記事では、人間の構造を10頭立ての馬車の譬えで説明しているカタ・ウパニシャッドの内容をご紹介いたしました。

 

私たちは、5つの感覚器官と5つの運動器官を使って、この世を生きて(体験して)います。

しかし、よくよく考えてみると、これらの感覚器官から情報を受けたり、運動器官に命令を送っているのは、脳です。

 

脳は、人間の司令塔のような役割をしています。

 

この司令塔である脳には、マナス(意思)とブッディ(理智)という二通りの働きがあると、ウパニシャッドでは説いています。

 

マナスは、現代の脳科学でいうところの、「爬虫類脳」と言われている本能を司るとされている脳幹(視床下部)で生命維持活動を支えている部位と、

情動、感情を司るとされている「哺乳類(動物)脳」で、感覚、感情を生じさせている大脳辺縁系(偏桃体)と呼ばれている部位です。

 

これらは、人間以外の動物にもあるとされており、ヨーガではマナスという低次の心の働きと考えられています。

 

そして、ブッディとは、理智、理性であり、人間だけに特有の大脳(新)皮質であることは言うまでもありません。

 

脳科学が発達していなかった古代のインドでは、脳の働きの中で、低次の爬虫類脳と動物脳をマナスと呼び、そして、高次な人間脳の働きをブッディと呼び、

ブッディ(大脳皮質)の働きにより、低次の心の働きである爬虫類脳と動物脳であるマナスをコントロールすることが、人間を人間たらしめることにつながる、としているのです。

 

そして、このブッディは訓練されなくては、ブッディ本来の働きができない、としている点も忘れてはならない留意点です。

 

つまり、人間は、人間として訓練(教育)されないと、人間になれない、姿は人間であるけれども、真の人間とは言えない、ということになります。

 

寝て、食べて、排泄し、性交するというのは、動物も同じだからです。

そして、感情も、動物にはあり、人間特有ということはありません。

 

この本能的な心の働き、自動反応化された感情や思考は、マナス(意思)であり、私たちは、このマナスの心の働きに支配されやすく、ブッディ(理智)をほとんど使わないで生きることも可能なのです。

 

パソコンで譬えるならば、自動反応プログラムが内蔵されており、マナスはその自動反応プログラムによる反応であり、

そのデフォルト値は、個人個人により多少の差はありますが、そのプログラム通りに反応しているだけなのが、マナスによって支配された「人間」なのです。

 

お腹が空いている時に、目の前に食べ物があれば、動物なら、自然とそれを食べるのが普通ですが、

人間の場合は、その食べ物が、自分のモノでないとわかっているならば、食べることはしません。

何故なら、他人のモノを黙って食べる資格も権利も自分にはない、よって、やってはいけない、という理性(理智=ブッディ)が働くからです。

 

これこそが、他の動物と人間を区別し、人間を特徴づけている優れた能力である大脳(新)皮質の働きなのです。

 

このブッディの働きについて、スワミ・ラーマの説明をもう少しご紹介いたしましょう。

 

『しかしながら、ブッディが訓練され使われると、人は問います。

これは本当に必要だろうか?
この物を本当に必要としているだろうか?  
肉体とは何か?  
ブッディは、肉体が人の本性ではないのは、静かな湖の表面に反射している太陽が本当の太陽でないのと同じであるということを教えてくれます。

ブッディと呼ばれる心の識別力の面が訓練されると、人は一時的な人生は最終的には苦しみに至るということに気が付きます。

ブッディは探求を始め、それから、一時的でないものに向けられた人生は最終的には、苦しみのない人生に至ると結論します。
ひとたびブッディが訓練されると、人には暗く思われる選択が、より早く明らかにな
ります。

ブッディの鍛錬と識別の術がうまく働く前では、判断力は楽しいものの方に傾きます。

ブッディは一時的な楽しみや永続しないものに人生を賭ける無益さに光を放ちます。

ブッディはそのとき、より高次な自己へと人を運ぶのに必要な行動や思考の進路へと、人を導き始めます。

ブッディはエゴとより高次な自己との関係とは何なのかを問います。
ブッディが機能することを許されないと、真の自己は隠されたままです。

マナスとエゴを満足させるための無駄な努力で、人生は浪費されます。

そして、それは単に内部器官である心全体のただの一面であるだけなのです。

マナスとエゴは人間にとっては道具ですが、それらが引き継ぐことを許されると、それらは主人になってしまいます。

 

心の 4 番目の要素はチッタという、私たちの印象や思考、願望、感情が保存されてい
る広大な無意識の海です。

この海から泡立つものは、私たちが人生から人生を通して蓄積してきたものです。

たいていの人にとっては、チッタは広大な種々の材料で作ったスープのようなものです。

彼らの好みと性格で他を支配するものもあれば、ネガティブなものやポジティブなものもあります。
チッタにおけるこれらの材料は、私たちの態度、思考、行動に影響を与えます。

例えば、私たちはアイスクリームに強い願望を持ったり、ある人格に強く反応したり、他よりある風土を好んだり、特別な刺激に対する感情的な反応を持つかもしれません。

これらの願望や反応は、まるで突然にやって来たかのようで、私たちの手には負えないように思われます。

しかし、これらの思考や感情は、全く突然にやって来たのではありません。

それらは内側からやって来たのであり、アクセス可能であり、コントロールすることができます。

最初に、私たちは知り、あるいは少なくとも、私たちの心の内側には途方もなく大きな感情と経験の貯蔵庫があるということを、合理的な命題として快く受け入れる必要があります。

事実、あるいは、命題として、私たちはそれに基づいて行動し、それを試し、調べることができます。
潜在意識の心へのアクセスは、顕在意識の心である表面を静かにすることから生じま
す。

ほとんど常に心の表面上には、ある程度の乱れがあります。

ひとつの思考から別の思考へとはね飛びながら、これからあれへ、そしてまたこれへと戻る心があります。

ときには、乱れは大きく、他のときには、表面はより静かです。

ほとんど常に、顕在意識の中には潜在意識の心へアクセスさせないようにする活動があります。
どのように心が機能するかを知り、それを適切に訓練することは、人間の真の義務な
のです。

これは霊的な仕事です。

なぜなら、適切に訓練された心が、内なる神にそれ自身を現すことを許すからです。

人類に平和と喜びをもたらすのは、この勤めであり義務なのです。

 

最初の段階は、私たちの真の本性は何かを思い出すことです。

私たちは体でも、感情でも、思考でも、エゴでも、心でもありません。

私たちはアートマン―神聖で純粋な意識なのです。

私たちの体と心とエゴはアートマンに仕えるようにはなっていません。

 

2番目の段階は、ブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタという心の 4 つの面と機能を理解することです。

訓練されていない心では、マナスはそれにとっては不適切な役割を引き受け、エゴであるアハンカーラは、正当な場所よりもより大きな力と権威の地位につきます。

アハンカーラは、実際には、個人に形を与える一時的な構造です。

アハンカーラは永続しません。

それは個人の真の本性ではなく、主人であると思う傾向を持つ召使いなのです。
心の 4 つの要素は、統合されなくてはなりません。

それぞれは、他と協力し調和して果たす必要のある役割を持っています。

マナスとアハンカーラはそれらの仕事をすべきで、それだけにすぎません。

ブッディは、人に成長と喜びをもたらす決定をするために訓練され用いられなくてはなりません。

 

この心の要素の統合を完成するためには、心と感情のさらに詳しい理解が必要とされ
ます。

4 つの基本的な衝動は、個人的な感情とそれらの心への影響を決定します。

原始的で基本的で全人類や他の生物たちによって共有されているこれらの衝動は食物、睡眠、性交、自己保存のためのものです。

これらの衝動の観点から、人間と他の動物の間に違いはそれほどありません。

違いは、これらの衝動をコントロールする能力において、人間の心が卓越していることです。
他の動物はこれらの衝動に従属しています。

彼らの一生は、これらにより決定され導かれます。

一方、人間はマナスとブッディを適切に使うことで、これらの衝動をコントロールすることができます。

もし心の要素が調和して働かないと、これらの 4 つの基本的な衝動は、機能障害や情緒不安という一般的に不健康な方法でそれらを表現するでしょう。

食事の不摂生、中毒、行き過ぎた性行為は人の心身の健康に影響を与えます。
多眠、小眠、断続的な睡眠は、心と体に同じ影響があります。

自己保存の中心的な問題である死の恐れは、所有物を喪失する恐れや、人間関係における所有欲の強いことや、飛行機恐怖症や他の恐怖症を含む広範囲な恐れに通じます。

これらの不摂生と中毒は、それらの感情的な混乱を伴ってチッタの中に流れ込み、個性を形作り、何年間も、一生の間でさえ、癖を作り出します。
すべての心の要素が真に統合されると、人は悟りのより高いレベルに飛ぶことができ
ます。

かつて心の総合的な統御なしに覚醒あるいは悟りを達成した偉人はいません。

この統合は努力、実践、技術を必要とします。

それは心を一点に集中し内部へ向かわせることを意味します。

心が統合されないと、それは巧みな行動をとることができません。
なぜなら、思考のプロセスと願望のより繊細な紐は、自由への道においては障害となる
からです。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

「人間馬車説」と、マナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラという4つの心の働きが、人間の体と心の大まかな構造になります。

 

自分が神である、ことを悟る前に、まずは、「人間」にならなくてはなりません。

 

姿と形が人間であっても、それは、ライオン、キリン、サル、ヘビといった形の違いであるだけでは、真の意味で「人間」とは言えないのです。

 

真の意味で「人間」であるということは、ブッディを十分に働かせているか?にかかっています。

 

ブッディ(理智)の役目を再考し、どのようにブッディ(理智)が、日常生活で機能しているかを探り、理解することは、「自分とは誰か?」への答えを手にする近道となることでしょう。

 

5つの感覚器官と5つの運動器官である10頭の馬が、走りながら、目先のことにいちいち反応し、暴れまくるのは、マナス(意思)という手綱を上手く操縦していないからです。

手綱を上手く操縦できないのは、御者であるブッディ(理智)が手綱を上手く操縦する術を知らないからです。

そのままで行くと、馬車全体が、大揺れに揺れ、時には大きな損傷を被ることにもなりかねない、ということになります。

(人間社会では、感情に任せて犯罪を犯してしまう、ということが頻繁に見受けられるのは、この現れであると考えることができます)

 

それ故、暴れる馬を制御するために手綱さばきは大切であり、御者が手綱さばきに熟練していることが必要です。

この熟練のためにヨーガ(行)があるのであり、「ヨーガとは、心の制御である」(ヨーガ・スートラ by パタンジャリ)と言われている所以です。

 

 

『もしも、その者の意思(マナス)が常に落ち着きなく、正しい判断力(理智=ブッディ)によって制御されていないと、

その者の諸感覚器官(10頭の馬たち)は、暴れ馬が御者に対するが如くに、統制できなくなる。

しかし、その者の意思(手綱)が常に落ち着いており、正しい判断力(理智)によって制御されていれば、

その者の諸感覚器官は、良馬が御者に対する如くに、統制できるようになる』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

 

もし肉体を脱ぎ捨てる以前(まえ)に

五官による感覚の衝動に勝って

欲情と怒りを抑制し得たならば

その人は現世においても幸福である

(バガヴァッド・ギーター第5章23)