人間の構造について(人間馬車説)
これまで何回にもわたり、「神」について考察してきましたが、
これからは、「神」に対する「人間」について考えていきたいと思います。
「人間」とは、どのようなモノでしょうか?
「人間」である”わたし”は、固有の肉体と固有の名前を持った存在です。
そして、固有の人生と固有の考え方や嗜好などを持っています。
しかし、それらは、個人を特徴づける外側に後付けされた、所謂、個性と呼ばれているモノです。
ここでは、個人を特徴づけるそれら外付けのモノを取り外した「人間」の素の姿を考えてみたいと思います。
古くインドでは、人間の構造を10頭立ての馬車に見立てて理解しようとしました。
10頭立ての馬車と言うのは、
10頭の馬とは、5つの知覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)と5つの運動器官(手、足、生殖器官、排泄器官、発語器官)を表します。
手綱は、馬たちと御者との間での情報を伝達する意思(マナス)を表し、
御者は、知性や感性の判断を下す心理器官である理智(ブッディ)を表します。
御者の後ろには、客室があって、それは、我執(アハンカーラ)と心素(チッタ)という2つの心理器官とされています。
御者である理智が下す判断に、我執は「自分の/自分が」という意識をくっつけます。
心素は、全ての心理的残存印象(記憶)を蓄え続ける倉庫となっています。
そして、この馬車を操縦する御者(理智=ブッディ)の後ろの客室の中には、真我(アートマン)が座していらっしゃいます。
『真我(アートマン)を車中の主人と知れ。
身体(シャリーラ)は車輛、理智(ブッディ)は御者、
意思(マナス)は手綱と知れ。
諸感覚器官は馬たちであり、感覚器官の対象物が道である。
真我と感覚器官と意思が一つとなったものを、賢者は享受者(ボータク)と呼ぶ。』
(カタ・ウパニシャッド)
この構造を理解し、自分に当てはめて考えると、次第に人間の構造、「わたし」の正体がわかってくるようになります。
それでは、3月30日に発売になりますスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」で、この人間の構造である「人間馬車説」について非常に詳しく説明されている箇所がありますので、ご紹介させて頂きます。
『インド哲学は、心を内部器官であるアンターカラナと呼ばれる 4 つの機能を持つひとつのグループとして記述します。
これらの 4 つの機能、あるいは要素は、前の章で述べましたが、それらのプロセスは、さらに詳細に説明されなくてはなりません。
アハンカーラ、あるいはエゴがあります。
ブッディは、知性、あるいは、より高い機能の心であり、それは区別し、知り、決定し、判断します。
マナスは、より低い機能の心で、情報を生み出し、処理し、感覚の知覚を通して出力したり、入力したりします。
そして最後はチッタという印象、感情、記憶の潜在意識的な貯蔵庫です。
これら 4 つの要素は、それぞれの要素がそれぞれの特定な仕事をしながら、共に調和して働くことになっています。
訓練と鍛錬で、これらの 4 つは協調し、それらはアートマンを探す際の非常に有益な道具となります。
協調、識別、訓練がうまくいかないと、それらは進路上の手強い障害物となります。
それでまずは、自分の単なる自己の異なった面を知り、それらの面を訓練し、それら
が真の自己ではないと知ることです。
カタ・ウパニシャッドは、 2 輪馬車の譬でこれを説明しています。
霊的な自己は 2 輪馬車の持ち主です。そして、肉体が馬車です。
ブッディは、 2 輪馬車を駆る人として仕え、感覚の経験という開かれた野原で束縛されずに走っている馬のような感覚をコントロールする手綱として心を使います。
大抵の場合、不幸なことに、私たちはこの隠喩を理解できず、心がどのように機能するかを教えてもらっていません。
私たちは何を訓練し鍛錬すべきかを知らないのです。
マナスの性質は、この情報またはあの情報は重要であるか、あるいは、取り入れる
べきかどうかと問うことに限られています。
マナスは〝これは私にとって良いかどうか?〞と問うだけです。
マナスはこれらの質問をブッディに伝えなくてはなりません。
そしてブッディは、答えを持ち、それらをマナスに伝えるために、訓練され、研ぎ澄ま
されなくてはなりません。
訓練しないと、信頼をもってそうすることができないときに、マナスはあまりに多く
の力をわが物とし、ブッディを無視し、独立して行動します。
マナスは内側、外側での争いに満ちています。
浄化されたブッディの助けがないと、マナスは不確かさと惨めさの源となります。
時間を超えて、マナスの行動は習慣になります。
訓練されていない心に関する別の問題は、エゴであるアハンカーラが引き受けた不適
当な支配力です。
訓練されていない心におけるエゴは、心の所有者であり、存在の中心であると信じる性質を持っています。
訓練されていないエゴはあまりに強力なので、人は彼の真の性質が神聖であり、究極の存在であり、永遠であることを忘れています。
マナスがうまくできない仕事をしようとして、ブッディに相談せず、エゴはそれ自体が最高であると信じるとき、結果は人間にとって悲惨です。
エゴは世界において作用する格子の枠組みのようなものです。
私たちが誤って考えているように、それは有形のものではありません。
それは単なるある機能を持った心の一面なのです。
エゴは人の本性ではありません。
それは、私たちを分離した個別の個体に分割しているエゴと呼ばれる〝わたし〞という感覚です。
エゴは、私たち個人が自己認識するすべての感覚や性質を集めます。
それは私たちの人格の創造者ですが、エゴは究極の存在ではありません。
〝わたし〞という感覚、あるいは、エゴは 2 つの要素の混ぜ合わせです。
ひとつは変化し、もうひとつは不変です。
変化する要素は現象的な宇宙、肉体、そして外部の対象物の感覚、等の基本です。
それは展開の源なのです。
マナスとエゴは心の中のあてにならない雑草のようなものです。
もしそれらが注意して意見を聞いてもらえないと、役割を接収します。
マナスは、これをしなさい、あれをしなさいと言い、これについて嘘 うそ を言えば、あなたは困難から離れていられると言い、これを盗めば、あなたは成功し、この喜びを楽しめば、あなたは幸せになると言います。
そう、これは素晴らしい、これは私のため、そして、私はまったく物質そのものだ、と
言います。
マナスが望み、エゴが必要だと言うことは何でもするこの道は、苦痛、恐れ、そしてさらなる無知で終わることでしょう。
これは、所有し、必要とし、獲得し、保持する道であり、〝わたしは〞〝わたしの〞〝わたしのもの〞の道なのです。
エゴはこの体はわたしのものであり、この家はわたしのものであり、この伴侶や子どもたちはわたしのものであると言います。
このわたしのものとあなたのものという感覚は、他の個人から個人を分離し、世界を彼らとわたしに分割します。
それはまた個人を内面的に分離し、本当の自己に対する障壁を積み上げます。
それは死の恐れを作り出します。
死は私たちが所有し欲するこれらのものの終わりを意味するでしょう。
それは恐ろしいことです。
もし私たちが自分は肉体だと思っているなら、死んでいく肉体を予想することは恐ろしいことです。
なぜなら、そのとき、死は私たちの存在の完全なる停止のように思われるから
です。』
(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
所謂、(深層)心理学がフロイトによって世に登場したのは、19世紀になってからでした。
それまでは、系統立てて、人間の心の構造について、語られることはほとんどありませんでした。
しかし、インドで生まれたウパニシャッド哲学においては、すでに4000年も前から、少しづつ、人間の心の構造について、解明され伝えられてきており、
その智慧は、今日、ヨーガの伝統の中に見い出すことができます。
この「人間馬車説」について、続きは次回でもご紹介します。
物質世界(このよ)の生物に内在する不滅の霊魂は
わたし自身の極小部分であるーーかれは
心をふくむ六つの感覚を用いて
苦労しながら肉体を操っているのだ
(バガヴァッド・ギーター第15章7)