見神=内なる神に出会うこと
前回まで、何回にもわたり、二元論から出発して、限定非二元論を経て、非二元(一元)へとざっと見てきました。
自分を知ることは、神を知ることです。
そして、神を知ることは、実は、自分を知ることなのです。
実在としての”ただひとつなる一者”である「神」は、私たちと1mmも離れていません。
そのことを、ナーナさんは、シャクティパータを通して、私たちに悟らせて下さいます。
聖ラーマクリシュナが遺されたお言葉より、弟子でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダが、得々と説いて下さいましたアドヴァイタ(一元)を、実にすっきりとまとめて下さった文章がありますので、ご紹介させて頂きます。
『先生、人間は何故、神のことを考えたりするのでしょうか?』
『神とは何か、もしそれを理解していれば、それこそ生きながら解脱した人だ。
だが、みんなこれを信じていないのだ。
ただ口でしゃべるだけのことだ。
神は実在し、神の意志ですべてのことは起こっている、と世間の連中は聞いているだけで信じてはいない。
世間の人は、神についてどんなふうに知っていると思う?
伯母さんたちの口ゲンカを聞いて、子供たちがけんかをしながらそのマネをして言うーー”あたしには神様がついていらっしゃるから”--あれだよ。
全部の人があの御方を理解できると思うかい?
あの御方は善い人をお創りになる、悪い人をお創りになる、信心深い人をお創りになる、不信人な人をお創りになる、神を信じる人をお創りになる、神を信じない人をお創りになる。
あの御方のリーラー(神の遊戯)の場は、すべてが多種多様で不可思議だよ。
あの御方の力は、ある場所には溢れるほどたくさん顕れているし、ある場所にはほんとに少なくしか顕れていない。
太陽の光は地面よりも水面によく反射するし、水面より鏡にもっとよく反射する。
それから、神の信者にもいろいろある。上、中、下とあるんだ。
ギーターにみんな書いてあるよ』
『仰せの通りです』
『下の信者は、「神様はいらっしゃる。天上はるか遠くに」と言う。
中の信者は、「神はすべての生物のなかに、意識として、生命として宿っていらっしゃる」と言う。
上の信者は、「神ご自身があらゆるものに成っていらっしゃる。見るもの一つ一つが神の色相(すがた)なのだ。
あの御方が現象(マーヤー)、生きとし生けるもの、この世界すべてになっていらっしゃるのだ。
神の外には何一つ存在しない」と言う。』
『”あんたとあんたのもの”これが智慧だ。”私と私もの”--これが無智だ。
身体も、心も、家も、家族も、ほかの生きとし生けるもの、この宇宙、世界ーーみんな、みんな、あんたのもの、私のものは一つもないーーこの理解が智慧というものだよ。
無智な人はこう言う、神様は”あっち、あっち”、ずーと遠くの方に!
智者はよく知っているよ。
神様は”ここ、ここ”--ほんとに近く、胸のうちに、心のすべてを見ていてくれるものとしてあること。
そして、自分で一つ一つ様々な色形(かたち)をとって、そこに住んでいらっしゃることをね』
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
自分自身の胸のうちに、自分自身の内側に、この「神」(アートマン)を見い出すこと。
ナーナさんは、このためだけに、働いて下さっています。
「神」は言葉を超えているので、言葉では表現できない存在ですが
そうであるからこそ、体験するしかない、とナーナさんは仰っています。
その言葉を超えた存在に出会うことを”見神”と言いますが、
見神を心から願う人に、今だけ、恩寵の扉が開いていることをお知らせしないではいられません。
(人間にとって、このようなビックチャンスは、またとないことだと思うからです)
ナーナさんが活動されている間だけのチャンスと言えます。
ナーナさんのサットサンガへの参加の後、しばらくしてから、神の恩寵の力であるシャクティパータを受けることができます。
詳細は、こちらからご覧ください。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)
まことのヨーギーは万物の中に自己(アートマン)を見
また自己のなかに万物を見る
まことに真理を覚った人は
あらゆるところを同等に見る
(バガヴァッド・ギーター第6章29)