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永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

ただひとつなるもの-不滅の自己

前回の記事でご紹介しましたスワミ・ヴィヴェーカーナンダのアドヴァイタ(不二一元論)における「神」「宇宙」「人間」間の相互関係について、概要だけでも掴めたでしょうか?

 

この宇宙のほんの一部でしかない、と考えられている”人間”と、この宇宙の唯一の実在である”神”は、実は同じ一つのものであり、そこには違いはない、と主張するアドヴァイタ(不二一元論)の考えを理解し、受け入れることは、人間にはそれほど簡単なことではありません。

なにせ、これまでず~と、”人間”として生きてきたのですから。

自分は、神によって創造された被造物だと思って生きてきたのですから。

ですが、それは、”錯覚による妄想である”、とスワミ・ヴィヴェーカーナンダは、述べています。

 

これまで数回にわたってご紹介してきましたスワミ・ヴィヴェーカーナンダが語る「究極の真理」については、今日ご紹介する文で締めくくりたいと思います。

 

『しかし、どうして、その完全な神がまよったりなどしたのでしょうか。

いや、彼は決して、まよいはしませんでした。

どうして完全な神がゆめなどを見ましょう。

彼は決して、ゆめなどは見ませんでした。

真理は決してゆめは見ません。

どこからこのまよいは生じたか、などという問いそのものが、ばかげたものなのです。

妄想は妄想以外のものからは生まれません。

真理がすがたをあらわすやいなや、妄想はきえるのです。

妄想はつねに、妄想に依存します。

決して神、真理、アートマンには依存しません。

あなたは決して、妄想の中にいるのではありません。

妄想の方があなたの中にあり、あなたの前にあるのです。

一片の雲がここにある。

もう一かたまりの雲がやってきて、これをおしのけ、そのあとにおさまります。

さらにもう一つのかたまりがやってきて、それをおしのけます。

永遠の青空の前に、さまざまの色あいの雲がきてはしばらくとどまり、やがてきてさりますが、あとにふたたびあらわれるのは、前と少しもかわらない、永遠の青空です。

それとおなじように、みなさんは永遠に純粋で、永遠に完全なのです。

みなさんは、まぎれもない、宇宙の神々です。

いや、二つはありません。

一者があるだけです。

「あなたと私」と言うのはまちがいです。

みなさんは「私」とおっしゃい。

幾百万の口でたべているのは私です。

どうして私がうえることなどあり得ましょう。

無数の手によってはたらいているのは私です。

どうして私が火活動的であり得ましょう。

全宇宙の生命を生きているのは私です。

私にとってどこに死などがあり得ましょう。

私はいっさいの生をこえ、いっさいの死をこえています。

どこに自由をさがしもとめるのですか。

もともと自由に生まれついているのに。

誰が私をしばることができるというのですかーーこの宇宙の神を?

世界のもろもろの聖典は小さな地図にすぎず、とうてい、宇宙の唯一の実在である私の栄光を描写することはできません。

それでは、これらの書物は私にとって何なのでしょうか。

アドヴァイティストはこう言います。

「真理を知り、ただちに自由になれ」そのとき、いっさいのやみはきえるでしょう。

人が自分は宇宙の無限の実在と一体であるということを知ったとき、いっさいの分離の意識がきえたとき、すべての男女、すべての神々と天使たち、すべての動物と植物、および全宇宙がその一者の中にとけこんだとき、そのとき、すべての恐怖は消滅します。

私が自分をそこなうことができますか。

私が自分をころすことができますか。

誰をおそれると言うのですか。

あなたは自分自身をおそれることができますか。

そのとき、すべてのかなしみはきえるでしょう。

何が、私にかなしみをあたえることができますか。

私は宇宙の唯一の実在なのです。

そのとき、すべての嫉妬は消滅するでしょう。

誰に嫉妬すると言うのですか。

私自身にですか。

そのとき、すべての悪感情は消滅します。

誰にむかって、悪感情をいだくことができるというのですか。

私自身に対してですか。

宇宙間には私のほかには誰もいないのです。

そして、これが知識にいたる唯一の道である、とヴェーダーンティストは言います。

この「差別」を絶滅おさせなさいと。

多数がある、というこの迷信を絶滅おさせなさい。

「この多の世界の中にその一者を見る者、この非情のかたまりの中にその一つの有情の存在を見る者、この影の世界の中にその実在をとらえる者、永遠の平和は彼のものだ、他の誰のものでもない、誰のものでもない」

これらが、インドの宗教思想が神についてあゆんだ三つの段階のいちじるしい特徴です。

われわれはそれが、人格的な、宇宙のそとにある神をもってはじまったことを知りました。

それは外在するものから、内在する宇宙体、宇宙に内在する神へとすすみ、そして最後に、魂自身とその神とを一つのものであると見、宇宙間のさまざまの現象のすべてをひとつの魂、ひとつの統一体とすることによっておわりました。

これが、ヴェーダの最後の言葉です。

それは二元論をもってはじまり、限定一元論を通って、完全な一元論におわるのです。

この世界中でどんなにわずかの人びとしかこの最後にまでは到達することができないかということを、いや、それをあえて信じる人さえどんなに少ないかということを、それにしたがって行動する人はさらにどんなにまれであるかということを、私たちは知っています。

しかし、その中にこそ、宇宙間のすべての倫理、すべての道徳、すべての霊性の説明がひそんでいるのです。

誰でもが、「他者のために善をなせ」と言うのはなぜですか。

その理由はどこにあるのでしょうか。

すべての偉大な人びとが人類の兄弟愛を説き、もっと偉大な人びとはいっさいの生き物との兄弟愛を説いている、というのはどういうわけですか。

彼らがそれを意識していたかどうかは別として、それらいっさいのものの背後に、非合理的で個人的なあらゆる迷信を通して、すべての多様性を否定する自己(アートマン)の永遠の光がかすかにすがたをあらわしており、全宇宙はひとつである、ということを主張していたからなのです。

もう一度結論を申しあげると、われわれは一つの宇宙があることを知りました。

その宇宙を、われわれは感覚を通して物質と見、知性を通して多くの魂と見、霊性を通して神と見るのです。

世間が罪や悪とよんでいるところのおおいを自分の上になげかけている人にとっては、この宇宙そのものが変じて、おそろしい場所となり、楽しみを欲するもうひとりの人にとっては、そのおなじ宇宙がすがたをかえて天国になり、そして、完成された人の前には、いっさいのものは消滅して、宇宙は彼自身の自己となるでありましょう。

 

さて、現にいま、社会が存在しているのですから、これらの三つの段階は全部必要なのです。

たがいに他を否定するものではなく、他をおぎない合って完成にみちびいているのです。

非二元論者も、限定非二元論者も、二元論者がまちがっているとは言いません。

それはただしい見解です。

ただ、すこし程度がひくいのです。

それは真理への途上にあるのです。

ですから、各人が彼自身の考えにしたがって、この宇宙の彼自身のヴィジョンをえがきだすがよろしい。

他者をきずつけてはなりません。

他者の立場を否定してはなりません。

相手の立場は尊重しつつ、もしできるのなら、彼がより高い境地にのぼるよう、手をかしておやりなさい。

しかしきずつけたり、こわしたりしてはなりません。

長い間にはいっさいが真理に到達するのです。

「心のすべての欲望が征服されたとき、そのときこの死すべきものがそのまま、不滅となるであろう」

そのとき、人がそのまま神となるのです。』

(ギャーナ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

これまでも、究極の真理は、在りましたが、これからも、永遠に変わらず、在り続けます。

 

ですから、どのタイミングでそれに出会っていくかは、その人、それぞれのプロセスなので、遅い、早いの違いはあるでしょうが、早いから良い、遅いから悪い、ということではありません。

 

すべての人は、潜在意識では、これが真理であることを知っています。

 

しかし、まだ、自分にはその道に進む準備ができていないというエゴの声が聞こえてきて、進むことを思い届ませることもあるでしょう。

 

そして、真理はわかったけれども、どうやったら、その真理に到る(掴む)ことができのか?よくわからないまま、時間が過ぎてしまうこともあります。

 

それを掴もうとするかどうか?は、その人次第ではありますが、

実は、それはもう決まっています。

もうすでに出会ったということは、自分の中に種子を宿した、ということです。

いつ芽が出るかはわかりませんが、種子を宿したからには、その種子は、いつか芽を出し、枝を伸ばし、花を咲かせ、結実することでしょう。

生長の速さは、そうなることを願う気持ちと比例しています。

そのために、人間には、長い長い時間が与えられているのです。

この教えに出会ったということは、そういうことです。

いつかは、真理を掴み、己の中に不滅の真の自己を発見することでしょう。

 

この道に進もうと、自ら進んで希望する人は、遅かれ早かれ、その結果を手にすることでしょう。

望まなければ、手にすることはありません。

自分で蒔いた種子は、自分で刈り取る、というのが、この世の法則なのです。

 

 

衆生はサット・チット・アーナンダ(実在、智慧、至福)そのもの。

けれども、マーヤー(迷妄)とか我執とかいうものがいろいろな添えもの(名前や等級)をこしらえてしまって、自分たちの本性を忘れている。

ホラ、こうやってわたしの顔の前にタオルをぶら下げると、もうわたしが見えないのだ。

こんなにお前たちの近くにいるのにね。

こんな具合に、神様はわたしよりもっと皆の近くにいるのに、マーヤー、つまり覆いのために見ることができないんだよ。』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

自分自身の中に、不滅の自己(アートマン)を見いだすこと。

 

このために、ナーナさんは、私たちと共にいて下さります。

 

3月30日に発売になりますスワミ・ラーマ著の「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』の帯に頂きましたナーナさんの言葉、

 

『この本を読み理解し実践することで
アートマン(真我)への長い旅を短縮することができます。
それは叡智への近道であり至福に満ちた道です。
アートマンは実在であり永遠の歓びなのです。』

 

自分自身が、アートマンであるという確信を持てた人は幸いです。

 

ナーナさんは、私たちがその確信を得られるようにと、私たちの道の途上にいて、アートマンへの道を照らす真理の光となって輝いて下さっているのです。

 

 アートマンの直接体験を望むすべての人々に、いま、恩寵の扉は開いています。

サットサンガへの参加の後、しばらくしてから、神の恩寵の力であるシャクティパータを受けることができます。

 詳細は、こちらからご覧ください。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

http://ameblo.jp/premagrace/ (すべては本質の流れのままに――サットサンガ参加者の体験談、感想)

 

 

 

 そしてすべての生物のなかに

ひとしく至上主が住んでいる

必滅の体のなかにあるこの不滅なるもの

知る人は まことに存在の実相を見ているのだ

(バガヴァッド・ギーター第13章28)