永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

自己、すなわちアートマン(真我)こそ神なり

今回も、二元論、限定非二元論を経て、不二一元論(アドヴァイタ)について、更に考察を深めていきましょう。

 

この智慧を真に理解できるならば、神秘への扉は開きつつあると言えるでしょう。

 

『ではアドヴァイティスト(非二元論者)は何と言明するのか。

彼は言います。

もし神というものがあるなら、その神は宇宙の質料因であって同時に動力因でなければならない、と。

彼は創造者であるばかりでなく、被造物でもあるのです。

彼みずからがこの宇宙なのです。

どうしてそんなことがあり得るのか。

神、このきよきもの、霊が宇宙になっているというのか。そうです。

外見的にはそうなのです。

すべての無知な者たちが宇宙としてながめているところのものは、実際には存在していません。

では、みなさんや、私や、私たち一同がながめているこれらいっさいのものは一体何なのでしょうか。

単なる自己催眠です。

そこにあるのはただ、唯一の実在、無限なる者で、永遠に祝福された一者のみです。

その実在の中で、われわれはこれらすべてのさまざまの夢をみるのです。

それは、いっさいを超越した、無限なる者、知られたものを超越し知られるべきものを超越した、アートマンです。

それの中で、それを通じて、われわれは宇宙を見るのです。

それが唯一の実在です。

それはこのテーブルです。

それは私の前の聴衆です。

それはかべです。

それは、あらゆるものから、その名と形をとり去ったものなのです。

テーブルからその形をとり去ってごらんなさい。

その名をとり去ってごらんなさい。

あとにのこるのがそれです。

ヴェーダーンティストはそれを彼とか彼女とはよびません。

彼とか彼女とかいうのは虚構、人間の頭脳の妄想です。

魂には男女の別はありません。

幻覚に支配されている人びと、けもののようになっている人びとは、女を見たり男を見たりします。

生きている神々は男も女もありません。

いっさいのものを超越している人たちが、どうして性の観念などを持つでしょう。

あらゆる人、あらゆる物は性を持たない、純粋の、永遠にめぐまれたアートマンなのです。

自己なのです。

物質的なのは名です、形です。身体です。

そしてそれらが、このいっさいの差異をつくるのです。

もし名と形というこのふたつの差異をとり去るなら、全宇宙は一つです。

そこには二つはありません。

どこに行っても一つです。

みなさんと私は一つです。

そこには自然もなければ神も宇宙もありません。

あの一つの、無限の実在があるだけ、それから、名と形によってこれらすべてのものがつくり出されるのです。

どうして知る者を知ることができますか。

それは知ることはできません。

どうしてあなたがあなた自身の自己を見ることなどできますか。

あなたは自分をうつすことができるだけです。

ですから、この宇宙全体は、その唯一永遠の実在、アートマンの映像です。

そして、反射体のよしあしに応じて、よい、あるいはわるい像ができあがるのです。

こういうわけで殺人者の場合は、反射体がわるいのであって自己がわるいのではありません。

聖者の場合は、反射体が純粋なのです。

自己、すなわちアートマンは純粋なのがその本性です。

最低の小虫から最高の完成された存在にいたるまで、そこにそれ自身をうつしているのは同一の、宇宙の唯一実在です。

物質的にも、心理的にも、道徳的にも、霊的にも、この宇宙は全体が一つの単一体です。

一つの実在です。

われわれはこの唯一実在をさまざまの形の中にながめ、それの上にさまざまな像をつくっているのです。

自分自身を人間という条件によって限定した者には、それは人間世界としてあらわれます。

もう少し高い存在段階にいる者には、それは天界のように思われることでしょう。

宇宙にはただ一つの魂しかありません。

それはくることもなければ行くこともない。

生まれることもしなければ死にもしない。

生まれかわりもしません。

どうしてそれが死ぬことなどできましょう。

それがどこに行くことができましょう。

これらすべてのさまざまの天界、これらすべてのさまざまの地上世界、そしてそれらすべてのさまざまの場所は、すべて心のむなしい想像です。

それらは存在しません。

かつて存在したことはなかったし、これから存在することもないでしょう。

 

私は偏在です。永遠です。

どこに行くことができましょう。

私がまだいない場所などがどこにありましょう。

私は、自然という、この書物をよんでいます。

一ページ、また一ページとよみおえてめくるたびに、一回ずつ人生のゆめが過ぎ去ります。

あらたな一ページがめくられます。

あらたな生涯のゆめがやってくる、そして行ってしまう、めぐり、めぐって、ついに全巻をよみおえたとき、私はそれをすててかたわらにたちます。

私は書物をほうり出し、そしていっさいはおわったのです。

アドヴァイティストは何を説くか。

彼は、宇宙間にいままで存在した、またこれから存在するであろうすべての神々を王座からひきおろし、そこに人の自己、すなわちアートマンをすえます。

それは日月よりも高く、もろもろの天界よりも高く、偉大な宇宙そのものより偉大な存在です。

どんな書物、どんな聖典、どんな科学も、人としてあらわれる自己の栄光を想像することはできません。

かつて存在した中のもっとも輝かしい神です。

いままでに存在した、いま存在する、そしてこれから存在するであろう、たった一つの神なのです。

それゆえ、私は私自身のみを拝すべきなのです。

「私は私の自己をおがむ」と不二一元論者は言います。

誰におじぎするのですか。

私は私の自己に敬礼をするのです。

誰にすくいをもとめるのですか。

宇宙の無限の実在である私を、誰がすくうことができましょう。

これらはおろかなゆめ、幻想です。

かつて誰かをたすけた者がいるでしょうか。いません。

よわい人間、二元論者がおいおい泣きながら天の一角からのすくいをいのりもとめるのは、天界も自分のうちにあるのだ、ということを彼が知らないからです。

彼は天にすくいをもとめ、そしてすくいはやってきます。

われわれはたしかにそれがやってくるのを見ます。

しかしそれは彼の中からやってきたのであって、彼がそれをまちがえてそとからやってきたと思っているのです。

ときどき、ねている病人が、ドアをノックする音をききます。

彼はおきあがってドアをあけ、そこに誰もいないことを知ります。

彼はベッドにもどり、そこでふたたびノックをききます。

彼はベッドにもどり、そこでふたたびノックをききます。

おきあがってドアをあけます。

誰もいません。ついに彼は、ノックと思ったのは自分の心臓の鼓動だった、ということに気づくのです。

このように人は、自分のそとにあるさまざまの神々をむなしくさがしもとめたのち、周期を完了して出発点、すなわち人間の魂にもどります。

そして、彼が山々谷々をさがしまわり、あらゆる小川、あらゆる寺院、あらゆる教会および天国をさがしまわった神、天国にすわってこの世界を支配しておられる、という想像さえもしていたその神は彼自身の自己である、ということを知るのです。

私は彼であり、彼は私です。

私以外に神はありませんでした。

そして、この、小さな私は、かつて存在したことがなかったのです。』

(ギャーナ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

この宇宙で唯一の実在、それはアートマン(真我)であると、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは力説しています。

 

そして、そのアートマン(真我)は、私たち一人一人の自己である、とも書かれています。

 

自分の内に、アートマンを見いだすこと。

 

自分自身が、アートマンであることを発見すること。

 

つまり、神秘への扉は、自分の中にある、ということになります。

 

その内側にある神秘への扉の前に立ちはだかっているのは、他でもない、自分自身なのです。

 

その扉は、”わたし”という自我(エゴ)です。

 

”わたし”という扉が消滅したとき、そこに在るのは、”ただひとつ”のみです。

 

これが、アドヴァイタ(不二一元論)であり、この世という虚相のカラクリを見抜くことで、人類が到達した宇宙の実相であり、神秘(奥義)であり、究極の真理であり、永遠に変わることのない叡智であり、これ以外はないのです。

 

 

 

 わたしは愚者と知性低劣な者たちには見えない

彼らはわたしの造化力だけを見ている

無明幻象(マーヤー)の世界に住む者たちには

不生不滅 円満完全なわたしが見えず 理解できない

(バガヴァッド・ギーター第7章25)