二元論から限定非二元論へ、そして、不二一元論(アドヴァイタ)へ
前回までの二回にわたって「二元論」について書きましたが、これらは少しばかり哲学的な考察を要する内容です。
これは、インドでは、ギャーナ・ヨーガと呼ばれている智識(ギャーナ)によって真理に到ろうとするヨーガ(行)で、
聖ラーマクリシュナも、度々、「知識のヨーガは大変難しい」と語られているほどのヨーガの中でも実践には困難を要するとされているものですが、
一方で、彼の弟子でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダは、このように著書の中で、書かれています。
『今生で完全に調和のとれた人格を形成するということは、われわれすべてにできることではありません。
それでもわれわれは、これらの三つーー知識、愛、およびヨーガーーが調和をもって融合しているタイプの人格がもっとも高貴なものである、ということは知っています。
鳥がとぶには三つのものーー二枚のつばさと、方向を定める舵の役をする尾ーーが必要です。
ギャーナ(智識)は一翼、バクティ(愛)はもうひとつのつばさ、そしてヨーガはバランスをたもつ尾です。』
(バクティ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
このように、真理を理解することは、智慧(智識)であり、正しい智慧(智識)無くしては、真理には行き着かない、ということも、また真なのです。
それでは、これから更に難しい内容に踏み込んで行きますが、イメージを最大限に活用して、二元の世界を離れ、神秘の領域である一元の世界、アドヴァイタの世界に踏み込んできましょう。
『真のヴェーダーンタ哲学は、限定非二元論者とよばれている人びとからはじまります。
彼らは、結果は原因と少しもことなるものではない、という声明をします。
結果は、別のかたちで再生された原因にほかならないのです。
もし宇宙が結果であって、神が原因であるのなら、宇宙は神自身であるにちがいありません。
それ以外のものであるはずがないのです。
彼らは、まずはじめに神は宇宙の動力因であって、同時に質料因でもある、と主張します。
神自身が創造者であり、同時に神自身が、それから全宇宙が投影されるところの原料でもある、というのです。
あなた方キリスト教徒がおつかいになる「創造」という言葉の同義語が、サンスクリットにはありません。
西洋で考えられているような、無から何ものかが出てくるというような創造を信じる宗派はインドにはないからです。
昔あるときに、そのような思想をもつ若干の人びとがいたらしいのですが、彼らはじきにだまってしまいました。
現代では、私はそのような宗派をまったく知りません。
われわれが創造という言葉で意味するのは、すでに存在しているものの投影です。
さて、この宗派によれば、全宇宙は神ご自身です。
彼が宇宙の材料です。
ヴェーダにはこう書いてあります。
「クモが自分のからだから糸をつむぎ出すように・・・・ちょうどそのように、全宇宙はその存在からでてきた」
もし、結果は原因の再生であるなら、「この物質の、不活発な、知能のない宇宙が、物質ではない、永遠の知恵である神から生まれたのはどういうことであるか。」という疑問が生まれます。
もし原因が純粋で完全であるなら、どうして結果がそれとまったくことなったものであり得るのでしょうか。
これらの限定非二元論者は何とこたえるのでしょうか。
彼らの学説は非常に特異なものです。
彼らは、神、自然および魂というこれらの三つの存在は一つのものである、と言います。
神は、いわば魂であり、自然と魂たちは神の身体なのです。
ちょうど私が肉体を持ち、魂を持っているように、全宇宙とすべての魂たちは神の身体であり、神は魂たち(souls)の魂(the Soul)なのです。
このように、神は宇宙の質料因であります。
身体は変化するでしょう。
わかかったり年おいたり、つよかったりよわかったりするでしょう。
しかし、それは魂には少しも影響をあたえません。
魂は、肉体を通じてあらわれている、同一の永遠の存在です。
肉体はきたり去ったりしますが、魂はかわりません。
ちょうどそのように、全宇宙は神の身体です。
そしてその意味において、それは神であります。
しかし宇宙の変化は神には影響をあたえません。
この原料から、神は宇宙を創造しました。
そして一つの周期のおわりになると、彼の身体はしだいにかすかになります。
それはちぢまります。
つぎの周期のはじめにそれはふたたびふくらみ、そこからこれらすべてのさまざまの世界が展開するのであります。
さて、二元論者も限定非二元論者も、魂は本来きよらかなものであって、それ自身のおこないによって不純になるのである、とみとめています。
限定非二元論者たちはそのことを二元論者たちよりももっとみごとに表現しています。
魂のきよらかさ、完全さは減退してまたふたたびあきらかになる。
われわれはいま、魂固有の知恵、純粋性、力をふたたびあきらかにするよう努力しているのだ、と言うのです。
魂たちは無数の性質を持っていますが、全能ではないし、全知でもありません。
あらゆる悪行はその本性を縮小し、あらゆる善行はそれを拡大します。
そしてこれらの魂たちは、神の部分なのです。
「もえるほのおからおなじ性質の幾百万の花火がとびちるように、ちょうどそのように、この無限の実在、神、からこれらの魂たちはやってきた」
おのおのの魂が同一の目標を持っています。
限定非二元論者の神もやはり人格神であって、無限のよい性質の貯蔵庫です。
ただ、彼は宇宙間のいっさいのものの中に浸透しているのです。
彼はあらゆるものの中、いたるところに内在しています。
そして経典が、神はあらゆるものである、と言う場合は、それは、神はあらゆるものにしみこんでいる、という意味であって、神がかべになっている、というわけではなく神が壁の中にいる、ということになるわけです。
宇宙間に一微粒子、一原子といえども神のやどっていないところはありません。
魂はことごとく有限で、彼らは偏在ではありません。
彼らが力を拡大して完成されたとき、生死のきづなを脱して永遠に神とともにすむことになるのです。
さて、われわれはアドヴァイティズム(不二一元論)をとり上げることになりました。
最後のものです。
そして思うには、かつてあらゆる国があらゆる時代に生みだした哲学および宗教の中の、もっともうつくしい花であります。
そこでは人間の思想は最高の表現に達し、透過不可能と思われる神秘のかなたに行きます。
これが、非二元論のヴェーダーンティズムです。
それは、大衆の宗教となるには、あまりに深遠であまりに高度なものです。
過去三千年間これに最高の地位をあたえてきたその生地、インドにおいてさえ、大衆の中に浸透することはできませんでした。
話がすすむにつれて、いずれの国においても、アドヴァイティズムを理解することは、もっとも深い思想を持つ男女にとってさえも困難なことである、ということがおわかりになるでしょう。
われわれはみずからをそれほどよわくしたのです。
それほどひくくしてしまったのです。
りっぱな主張をするかもしれません。
しかしごく自然に、他の誰かによりかかりたいと思います。
われわれはつねにそえ木を必要とする小さい、よわい植木のようなものです。
私はいくたび、「安楽な宗教」はないかともとめられたことでしょう!
ごくわずかの人びとが真理をもとめます。
あえてその真理を学ぼうとする人はさらに少ない。
そして、実際の行動の中でそれを実践しようとこころみる人にいたっては、まれであります。
それは彼らのおちどではない。
すべては頭脳のよわさのなすところです。
新しい思想はいずれも、それが高度のものであれば特に、動揺をかもし出します。
頭脳組織の中に、いわば一つの新しいチャネルをひらこうとするので、これが人びとの調子をくるわせ、彼らにバランスをうしなわせるのです。
彼らは、一定の環境にならされています。
そこで、太古以来の迷信、祖先伝来の迷信、階級の迷信、住む町の迷信、国の迷信、などなどの巨大なかたまりを、およびそれらすべての背後にある、人間一人一人に内在する広大な迷信のかたまりを、克服しなければならないのです。
しかし世の中には、その真理をあえて考える、またそれをあえてとり上げる、そしてまたそれを究極まで追求しようとする、若干の勇敢な魂たちもいます。』
(ギャーナ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
次回は、とうとう、人類が到達した最高の叡智、アドヴァイタ(不二一元論)の核心部分に入って行きます。
ゴールは、そこにあります。
それを理解できたなら、最高の叡智に辿り着いたのですから、もはやこれ以上、人間として、この地上で学ぶべきものはありません。
これこそが、人類が抱えるあらゆる疑問への答えであり、私たちが到達すべき究極のゴールであり、魂の帰還の旅の終着点なのです。
わが顕現と活動の神秘を理解する者は
その肉体を離れた後 アルジュナよ
再び物質界(この世)に誕生することなく
わが永遠の楽土(くに)に来て住むのだ
(バガヴァッド・ギーター第4章9)