永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

ヒツジ(人間)だと思っているライオン(神)のお話し

前回の記事で、

『ナーナさんから湧き出でるプラーナという磁石の力は強力です。

多くの人の執着心を抑え、無駄な思考や感情を消滅させます。

こうして、エゴは自然と大人しくなり、やがては、エゴの層は限りなく薄くなり、心は素直で柔和となり、真の自己がその真の姿を現すための準備が整います。』

と書きましたが、このプラーナは、シャクティ(この宇宙を在らしめている力)と言う”神の力”であると言うことができます。

クンダリニー覚醒が数回起こった後、ナーナさんは”自分が誰であるか?”に完全に目覚められ、

その後、シャクティそのものとなって、私たちを自己の真の本性に目覚めさせて下さろうとしています。

 

それは、ちょうど、私たちに、この物語に書かれていると同じようなことが起きていると考えることができます。

 

『えさをさがしていた、身ごもっためすライオンについての話があります。

ヒツジのむれを見て、彼女はそれにとびかかりましたが、そこで死んでしまい、母親のいない子ライオンが生まれました。

それはヒツジにやしなわれて彼らとともに大きくなり、草をたべてメエメエとないていました。

そして、やがて一頭の十分に成長したライオンになったのですが、自分はヒツジだ、と思っていました。

ある日、もう一頭のライオンがえさをさがしにきて、このヒツジのむれの中に一頭のライオンがおり、ヒツジといっしょに逃げていくのを見てびっくりしました。

彼はこのヒツジライオンに近づいておまえはライオンであるぞと言ってやりたいと思いましたが、あわれなけものは、彼が近づくと逃げて行ってしまいました。

それでも彼は機会をねらい、ある日、ヒツジライオンがねむっているのを見つけました。

彼はそれに近づき、「おまえはライオンだぞ」と言いました。

あいてが、「私はヒツジです」と言ってメエメエなくので、彼をみずうみのほとりまでひきずって行き、「ここをごらん、おまえと私のかげだ」と言いました。

彼はライオンと自分の影とを見くらべ、一瞬のうちに、自分はライオンである、ということを悟りました。

ライオンはほえました。もう、メエメエとはなきませんでした。

みなさんはライオンなのです。きよらかで、無限で、完全な魂なのです。

宇宙の力はみなさんのうちにあります。』

(ギャーナ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

これが、所謂、「霊的探求」の結論、私たちが辿り着くゴールなのですが、

にわかには、私たちは、自分自身が「ヒツジ(人間)だと思い込んで生きているライオン(神)」だとは思えないでいます。

そう思おうとしても、どうしても思えない、というのが人間の一般的な普通の反応です。

 

ナーナさんは、すでに「ライオン」として目覚められていらっしゃいますが、同時に、

私たちにも、同じく自分が「ライオン」であることを悟らせて下さろうとしています。

 

私たちを含む全ての存在は、”ひとつなるもの”の多様な顕れです。

すべての人は、ライオン(神=ひとつなるもの)なのですが、自分はライオンではなく、ヒツジ(人間)だと思って、生き、そして死んでいきます。

 

このことを頭で理解し、言葉で言うのは、比較的簡単ですが、これを身を以って悟っていくには、人間には、乗り越えなくてはならないいくつかの課題があることも事実です。

 

この課題がクリアーされていないがために、自己の真の本性を悟り、「自分は神である」とは、とても思えないでいるのです。

そして、ここに、霊的探求者の共通の困難があります。

 

私たちは、実際、自分がライオンであることを思い出すために、これまで気が遠くなるくらいの長い時間を経てきたわけですし、これからも予測できないほどの長い時間がかかるかもしれない、ということは、十分に考え得ることです。

 

しかしながら、いつかはこの課題に挑戦し、乗り越え、クリアーしていくことになるとしたら、

それ以外には、被造物なる有限なる存在が、完全に自由になるチャンスはあり得ないとしたら、

今生で、この課題クリアーに向かって前進するために、そのヒントだけでも知っておくことは、最終的ゴールへと至る道の短縮につながることは確実でしょう。

 

二元論者として、対象としての神を愛する、創造者(イシュワラ)としての神を信仰(信愛)するという大前提の元に、神秘の更なる奥へと足を踏み入れていきましょう。

 

神の創造物である人間としての”わたし”。

神による創造の世界における人間という被造物として、対象としての神を信愛するという二元論者である”わたし”を超えて、

人間が到達した最高の叡智、アドヴァイタ(不二一元論)の世界に踏み込んで行きましょう。

 

そこに到達しなければ、完全に自由なる存在であられる「神」との合一はあり得ません。

 

求める者が、求めるモノであった、という自も他もない一元の世界への理解は、神の領域に入って行くには、絶対必要不可欠なのです。

 

それでなければ、私たちが、ヒツジ(人間)ではなく、ライオン(神)であった、と完全に悟るまでは、

私たちの人間としての顕れは、因果の法則に縛られた存在として、いままでと同様に、これからも続くことになるでしょう。

 

 

 

わたしも、君も、ここにいる全ての人々も

かつて存在しなかったことはなく

将来 存在しなくなることもない

始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ

(バガヴァッド・ギーター第2章12)