神への愛(パラー・バクティ)
前回ご紹介したラーマクリシュナのお言葉の中に、
”いちばん肝心なことは、神様に激しい信仰を持つこと。それから識別と離欲だ”という一文がありましたが、何故、そうなのか?ということを、ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「バクティ・ヨーガ」から抜粋してご紹介させて頂きます。
ナーナさんは、カルマ・ヨーガとバクティ・ヨーガは、比較的他のヨーガ(ラージャ・ヨーガやギャーナ・ヨーガなど)よりも、一般人が取り組みやすい行(ヨーガ)であり、
それ一つだけでも、十分に完成度の高い行(ヨーガ)であると仰っています。
ラーマクリシュナも、現代には、信仰(バクティ)のヨーガが一番楽である、と仰っています。
その理由は、以下の文の中に書かれています。
『私たちはいまや、準備段階のバクティとよぶべきものの考察をおわり、パラー・バクティすなわち最高の帰依(信仰、献身)の研究に入ろうとしています。
私たちは、このパラー・バクティの実践への一つの準備について語らなければなりません。
このような準備のすべては、たましいの浄化だけをめざすものです。
唱名、儀式、像およびシンボル、これらさまざまのものすべては、たましいの浄化のためにあるのです。
このようなものすべての中の最大の浄化者、それなしには誰もこのより高い帰依(パラー・バクティ)の領域には入れない、という浄化者は放棄です。
このことは多くの人をこわがらせます。
しかし、それなしには霊的成長はあり得ないのです。
われわれのヨーガのすべてに、この放棄は必要です。
放棄--これはすべての霊的文化のふみ石(足がかり)であり真の中心であり、真のハートです。
放棄--これが、宗教なのです。
人間のたましいが世間の事物からしりぞいてもっと深いものの中に入ろうとこころみるとき、人、つまりここにどういうわけか具体化され、物質化されている霊魂が、自分はそのためにいずれは破壊され、ほとんど単なる物質にまで還元されようとしているのだ、ということを理解して物質から顔をそむけるとき--そのときに放棄がはじまり、そのときに真の霊的成長が、はじまります。
カルマ・ヨギの放棄は、彼の活動の果実のすべてをすてる、という形をとります。
彼は自分のはたらきの結果に執着しません。
現世または来世におけるどんなむくいもあてにしません。
ラージャ・ヨギは、自然界の全部はたましいにとっては経験を得るためにあるのだ、ということを、そしてたましいのすべての経験の結果は、自分は自然からは永遠にはなれたものである、と知るようになることだ、ということを知っています。
人間のたましいは、自分は永遠にわたって物質ではなく霊だったのだということを、そして自分の物質との結合は一時的のものでしかあり得ないのだ、ということを理解し、自覚しなければなりません。
ラージャ・ヨギは放棄の教訓を、みずから自然を経験することによってまなぶのです。
ギャーナ(ジュナーナ)・ヨギは、すべての放棄の中のもっともきびしいものを、体験しなければなりません。
まさに最初から、この固体と見える自然界の全体はすべて一個のまぼろしである、とさとらなければならないのですから。
彼は、いかなる種類であれ自然の力のあらわれであるものはすべて、たましいに属し、自然には属さない、ということを理解しなければなりません。
彼はまさに出発のときから、すべての知識とすべての経験はたましいの中にある、自然界にはない、ということを知っていなければなりません。
ですから、彼はただちに、そして理性によるひたむきな確信をもって、自然のすべての束縛から自分をたち切らなければなりません。
彼は自然と彼女に属するすべてのものを、追放します。
彼はそれらを消滅させ、ひとりで立とうとつとめるのです。
すべての放棄の中で、もっとも自然であると言ってよいのは、バクティ・ヨギの放棄です。
ここには、すさまじさはありません。
何一つすてるものはないし、私たちからたち切らなければならない、というようなものもなく、私たちが力づくでそれから自分をはなさなければならない、というものもありません。
バクタの放棄はたやすく、スムーズにながれ、私たちをとりかこむ事物のように自然です。
私たちはこの種の放棄の表現を、多少漫画めいた形でではありますが、毎日自分のまわりに見ています。
ある男が一人の女を愛しはじめます。しばらくすると、彼は別の女を愛し、最初の女をすてます。
彼は彼女とわかれたことを少しもおしいとは感じず、彼女は彼の心からなめらかにしずかにきえてゆきます。
ある女が一人の男を愛します。彼女はそれから別の男を愛しはじめます。
すると最初の男はごく自然に、彼女の心からきえてゆきます。
ある男が自分のすむ町を愛します。やがて彼は自分の国を愛しはじめます。
すると、小さな自分の町に対する彼の熱烈な愛は、なめらかに自然に、きえます。
また、ある男が全世界を愛することをまなびます。
彼の自分の国への愛、彼の熱烈な、狂信的な愛国心は、少しも彼をきずつけることなく、少しもあらあらしい経過をたどることなしに脱落します。
ある教養のない男が、感覚的なたのしみを非常に愛します。
彼が教育され、しだいに教育が深まってくると、知的なたのしみを愛しはじめ、彼の感覚的な享楽はしだいにへってゆきます。
どんな人も、犬やオオカミのように夢中でうまそうにものをたべることはできません。しかし人が知的経験や成功から得るたのしみを、犬は決してたのしむことはできません。
はじめは、快楽はもっともひくい感覚にむすびついたものです。
しかし動物が存在のもっと高い段階に達すると、ひくい種類の快楽はそれほどつよくなくなります。
人間の社会では、人がけものに近ければ近いほど、彼の感覚のたのしみはつよく、人がもっと高く、教養がもっとゆたかであればあるほど、知的な、また他のそのような、もっと洗練されたいとなみによろこびを感じます。
そのようにして、人が知性の段階よりさらに高く、単なる思考の段階より高くのぼるとき、彼が霊性の段階、神的霊感の段階に達するときには、彼はそこに至福の境地を見い出します。
それに比べたらすべての感覚のたのしみは、いや知性のたのしみさえ、無にひとしいのです。
月が光かがやくと星々のすがたはかすかになります。
そして太陽がかがやくと、月そのものがかすかになります。
バクティを得るために必要な放棄は、決して何かをころすことによって得られるものではなく、ごく自然な形でやって来ます。
ちょうど、もっとつよい光の前ではよわい光はつぎつぎにかすかになってゆき、ついには全部がきえてしまうようなものです。
ですから、この感覚のたのしみや知性のよろこびへの愛はすべて、神ご自身への愛によって影がうすくなり、かげの方になげすえられてしまうのです。
神への愛は成長し、パラー・バクティ、すなわち至高の帰依(信仰)という形をとります。
もろもろの形はきえ、儀式はとんで行ってしまい、書物は見すてられます。
神像、寺院、教会、宗教や宗派、国や民族ーーこれらはすべての小さな限定や束縛はおのずから、神へのこの愛を知る人からはおちてしまいます。
彼をしばったり、彼の自由をさまたげたりするものは一つものこりません。
船が突然、磁石の岩に近づきます。
するとそれの鉄のねじ釘や鉄の棒は全部ひきよせられてぬけ出し、船板は突然、バラバラになって自由に海上にうかびます。
神の恩寵がこのようにしてたましいをしばっているねじくぎや棒をぬき、それが自由になるのです。
そのように、帰依(信仰)をたすけるこの放棄には、きびしさはなく、つめたさもなく、苦闘もなく、抑制も抑圧もありません。
バクタは、自分の感情のどれ一つをおさえる必要もなく、彼はただ、それらをつよくして神にむけるよう、努力するのです。』
(バクティ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
神秘である神の領域に入って行くには、神を愛することが第一条件となることは、当たり前と言えば当たり前でしょう。
神社や教会で手を合わせたり、祈ったり、讃歌を歌ったり、儀式を行うよりも、放棄の方が、神への愛としては勝っている、ということになります。
この放棄とは、離欲とも通じます。
ラーマクリシュナの『いちばん肝心なことは、神様に激しい信仰を持つこと。それから識別と離欲だ』というお言葉の中で、
”識別”については、別の機会にご紹介することにして、
神の領域に入って行き、神に出会うためには、放棄、離欲、無執着、無私の心が、必要不可欠である、ということになります。
これは絶対的条件であり、この放棄のために、人生におけるあらゆる苦しみは起きている、とさえ言えるのです。
これについては、また別の機会に書くことにして、
神を愛する、ということは、神に出会っていくためには、とても重要な要素なので、
神への愛を抜きにしては、所謂、”解脱”は、不可能だと言えるでしょう。
彼らは常にわたしを思い
生活のすべてをわたしに捧げる
常にわたしについて語り合い
啓発し合うことに無上の歓喜(よろこび)を味わう
(バガヴァッド・ギーター第10章9)