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永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

パラー・バクティ(最高の信愛)

人間の神への態度には、四つの段階があるとされています。

この段階は、固定したものではなく、神への信愛(バクティ)の発展のプロセスと見るならば、誰でも心がけ次第で、第一段階から第四段階にまで進むことは、十分可能です。

 

第一段階・・・情欲や強欲などのカーマ(愛着)の段階  

       自分のお願いごとを叶えてもらいたい時だけ、神様にお願いをする、

       というような自分の都合や自分勝手に「神」を自分のために使う

       極めて自己中心的な態度。

 

第二段階・・・カーマを元に神様に献げ物をしたり、神様と分かち合いをしたり         (行為の結果の放棄)をするプレマ(友情)の段階。

       自分にとって都合の良いことが起こり、”神様からの恵みを頂けた”

       と思うと、そのお礼を出したりする段階。

 

第三段階・・・プレマ段階に自己放棄の心が加わると、友情を超えた段階になる。

       ”ギブ・アンド・テイク”の思いで、神と関係する段階がさらに高まり、       そこに”自己放棄”というエゴを超える宗教性の高い意識が生じてくる        と、神への愛(バクティ)という世界の門が開かれる。

 

第四段階・・・バラー・バクティ(最高の信愛)と呼ばれる神への情熱的な愛が高まっ       た最高の意識段階。

       心の中が神様への信愛の思いだけとなり、神様の御前で自己の意識を無       くし、神様に全ての行為を捧げることができる、という意識段階。

 

 

自分は、どの段階であると感じましたか?

 

第四段階のパラー・バクティについて、聖ラーマクリシュナのお言葉を引用させて頂いて、バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)について、少しご紹介させて頂きます。

 

ラーマクリシュナ

『俗世にはまり込んで女と金に夢中になっている”私”は、悪いやつだ。

個霊(たましい)と真我(アートマン)とが別れるのは、この”私”が間にあるからだ。

水の上に棒を一本投げ込むと、二つの部分に分かれて見える。

実際は一つの水なんだ。棒があるために二つに見えているだけだ。

”我”こそがこの棒なんだよ。棒を取ってしまえ。一つの水があるきりだ。

”悪い私”はどんな私だと思う?

この私を知らんのか?

こんなに金も持っているし、私より偉い人間がいるかね?--と言う”私”だ。

泥棒が十ルピーでも盗もうものなら、先ず金を取り返して、それから存分にぶん殴る。

それでも逃がしてやらず、警察にとどけてお巡りに引き渡し牢屋に入れて、”悪い私”はこう言うんだ。

”あろうことか、この私から十ルピーも盗んでいくとはーー身の程知らずめ!

 

智慧(ジュナーナ)のヨーガというのは、極端に難しいんだよ。

肉体が自分だ、という感じがすっかり消えなければ智慧は得られない。

今は末世(カリユガ)で、食物を摂らなければ生命が保てないから、自分はこの肉体だという感じーー”我”の感じがどうしても消えないのだ。

だから、末世(カリユガ)には信仰のヨーガだ。

信仰の道は楽な道だ。

心の底からあの御方を慕って称名をしろ。讃歌をうたえ。祈れ。

至聖大霊(かみさま)がつかめるよ。何の疑いもないことだ。

水の上に竹の棒を置くんじゃなく、その棒で、ただ表面に線を引く。

すると、二つの別な水があるように見える。

だが、その棒はすぐに消える。

”召使の私”や”信者の私”や”子供の私”は、ちょうどこの水に引いた私の線にすぎない」

 

「信仰の道を進んでいけば、ブラフマン智に達する。

至聖全能のあの御方がその気になれば、ブラフマン智を授けて下さる。

だが信仰者たちは大体において、ブラフマン智を希んでいない。

”私は召使い、あなたは御主人””私は子供、あんたは母親”こういう誇りを持ち続けていたいのだ」

 

「とは言っても、信仰でも神様に触れられるわけではないよ。

愛の信仰でなけりゃ神様はつかめない。

愛の信仰は情熱的信仰とも言う。

愛と情熱がなけりゃ、至聖の御方はつかめない。

神様が何より大好きにならなければ、あの御方をつかまえることはできない。

もう一つ別な信仰の道がある。その名は規則的信仰。

これこれの回数だけ称名すべし、断食すべし、聖地巡礼すべし、これこれの供物を捧げて礼拝すべし、犠牲(いけにえ)の動物を何頭差し出すべし、こういうのを引っくるめて規則的信仰という。

こういう行事を長い間積み重ねているうちに、だんだん情熱的信仰に進んでくる。

情熱的信仰まで来なければ神様はつかめない。

とにかく、あの御方が大好きにならなけりゃね。

世間並の欲望を一切捨てて、心のすべてをあの御方に向ける、そうすればあの御方をつかめる。

けれども人によっては、はじめから情熱的信仰を持っている。

生まれつきなのだ。子供ころからあるのだ。

規則的な信仰とは、ちょうど風を入れるのにウチワをあおぐようなものでーー風を起こるためにはウチワが必要だ。

神様を好きになれるように称名したり、苦行したり、断食したりする。

だが、南の風がそよそよ吹いてくると人はウチワを置く。

自分から進んで神様に夢中になって恋い慕うようになれば、称名やその他の行事はしなくてもよくなる。

ハリの愛に酔ってしまえば、規則的な行事なんか誰がする?

神様を心から好きになれない間は、まだ未熟な信仰だ。

あの御方が大好きになった時、その信仰を成熟(うれ)た信仰と呼ぶのだ。

信仰が未熟(あお)い間は、神についての話も教えも、はっきり正しく理解することができない。

成熟(うれ)た信仰になれば、よくわかるようになる。

神様に対する愛がなければ、教えを身につけることはできない」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

神秘の領域に入って行くには、「神」に対する情熱的な信愛は必要不可欠である、ということになります。

 

また、この情熱的な信愛とは、”蛇に咬まれても、愛しい御方からお使いが来たと言うだけ”と表現されています。

つまり、自分に起こることは、何であれ、神様のなさることなので、その神様の御意志のすべてを喜んで受け入れる、ということが、パラー・バクティ(最高の信愛)なのです。

 

このパラー・バクティの信愛を持つ人々にとっては、神との合一は、神への愛が最も純粋に昇華した愛の結晶であり、結実した姿なのです。

 

 

富の征服者 アルジュナよ もし

わたしに不動の信心決定ができないなら

信愛行(バクティ・ヨーガ)の実習に努めよ

これによってわたしへの愛が目覚めるのだ

(バガヴァッド・ギーター第12章9)