永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

神 対 人間

私たちは、地球の素晴らしい風景を見たとき、美しい花や生き物に出会ったとき、言葉では言い表せないほど感動したり、

また、夜空を見上げて、頭上高く光り輝く星々を眺めながら、その大宇宙の美しさと壮大なスケールに打たれ、言葉を失い圧倒された経験がある方も多くいらっしゃることでしょう。

 

そして、その時に、これらを創造した存在に思いを巡らし、人間をはるかに超えた、人間の想像も及ばない大きな存在がこの宇宙にはいらっしゃるのではないか、という想いを漠然と、または、はっきりと持つ人もいることでしょう。

 

この宇宙を造った造り主は、多くの人間から「神」と呼ばれ、古代から、絶大なパワーを持つ存在として、多くの人間たちに崇拝されてきました。

 

この宇宙を造ったのは、人間ではないことは確かです。

それでは、誰が、この宇宙全体のすべてのモノを創造したのでしょうか?

 

その素朴な疑問から、宇宙の造り主としての「神」という存在に行き着き、

その結果、「神」は、この宇宙を創造し、そして破壊することができる唯一の主体である、ということになりました。

 

「神」は創造主であり、「人間」は被造物という”この世”が誕生したのです。

 

創造主である「”神」と、被造物である「人間」は、常に、相対する位置にいます。

人間が、「神」を意識するようになってからというもの、両者は、主人と召使、支配者と奴隷のような、対極の関係であり、両者の間の溝は永遠のものとなりました。

 

その結果、人間が人間である限りは、人間は、被造物として、この世の法則に縛られて、一生を終えることになりました。

そして、被造物となった存在は、永遠に時間と空間と因果の法則に縛られた存在として、「神」を創造主として仰ぎながら、生きて死んでいく存在となってしまったのです。

 

「神」によって一切のモノが創造されたのですから、この世に例外はないということになります。

神」は創造主として、人間を創造したと同時に、人間の運命をも造り出す主体となりました。

 

しかし、時として、人間は、自分たちの運命が不公平であると感じています。

「神」が常に公平に、すべての存在を平等に扱ってはいないように感じることが、一生に一度や二度は起こります。

 

それ故、人間は、創造主であられる「神」に、出来たら自分だけは、何とか、人生において他人より優遇してもらおうと願い、その想いで「神」に祈ったりします。

 

「神」は、人間の願いを聞き入れ、それを叶えて下さる有り難い存在として崇めらており、人間は、いかなる時でも「神」の支配下にあるのだというのが、神に対する人間の一般的な認識です。

 

このようなことを踏まえて、それでは、昨日の ”あなたは「神」に対して、どのようなイメージを持っていますか?” という質問には、どのような答えを持たれたでしょうか?

 

人間を含む宇宙のすべてを創造し、育み、そして破壊する「神」。

人間の運命を決定し、生と死を決定し、あらゆることを決定される「神」。

人間の為す悪い行為を罰する「神」。

または、人間に慈悲を授けて下さる「神」。

 

などなど。。。。

 

ある人には、優しい神さまでも、他の人には、厳しくて恐い神さまかもしれません。

 

少なくとも、人間は、「神」とは人間とは違い、人間には無い能力や無い面を持つ存在としてのイメージがあります。

 

人間が有限なら、神は無限です。

人間が不完全なら、神は完全です。

人間が死すべき存在なら、神は不死であり、永遠の存在です。

 

という具合に。。。

 

人間は、人間が考え得る限りの最高のイメージを、「神」に与えているのです。

 

そのようにして、人間は、自分たちの理想を「神」に投影し、名前と形を与えてきました。

 

これにより、この世の創造主であられる「神」は、いつの間にか、人間の頭の中で創造(想像)され、人間的な色彩を帯びた存在となったと言えます。

 

人間は、人間がなりたくてもなれない理想の姿を「神」のイメージに投影し、それを崇拝することで、形のない「神」の姿を具体的に思い描こうとした、とも言えます。

 

しかし、実はそれは、観念上の「神」であり、その「神」は、人間にとっては実現不可能な人間の最高の理想像を反映しているに過ぎません。

「神」は存在するけれども、人間の頭の中の「神」は、人間と同じ姿形を持ち、人間のような人格を有し、人間のように考え、話し、行動する「神」であって、

本当にそれが、「神」そのものであるかどうか?は、人間には、実際にはわからないにも拘わらず、人は、この「神」のイメージを持ち続け、そのイメージは、名前と形と一体化して、人びとの心の中に鮮明な存在感の印象を伴って、「神」と呼ばれるようになりました。

 

数千年前には、そのような人間が創造(想像)した「神」は、ギリシャ神話やローマ神話、その他の国々にある神話の中に登場し、まるで実際に存在するかのように、崇められ、信仰の対象となりました。

 

その後、時代を超えて、地域を超えて、人間の想像は、名前と形を持った多くの神さまを造り出してきました。

それらの神々は、その時代、その土地に生きる人間の要求に応じて、それぞれに想像(創造)され、崇拝の対象となったのです。

 

しかし、ここで問題が生じます。

 

それは、その時代、その土地に生きる人間の要求に応じて想像(創造)された神と神が、時として、どちらが優位であるか、を人間同士が戦いを通して、争うようになったことです。

 

多くの宗教戦争が、人間の歴史の中で繰り返されてきたことは、周知の通りです。

ある特定の神の名の下に、多くの人間の血が流されてきました。

 

宗教戦争やあらゆる宗教的な争いは、自分たちの「神」を崇拝し熱烈に愛するあまり、他の「神」を憎むことで、自分たちの「神」への愛を表現しようとした人間の低い心が起こした悲惨な結果です。

 

これは、バクティという神への愛の低い準備段階(ガウニ)に見られる傾向で、神に対する愛が最高に高まったパラーという段階に入ると、このようなことは起こりません。

 

それでは、次回は、人間の「神」に対する一般的な態度を分析してみましょう。

 

それにより、自分がどのように「神」を捉えているか?考えているか?が、はっきりとわかるようになると思います。

 

そして、実は、この「神」に対する意識が、神秘の扉の向こうに入って行くことができるか?否か?の大切な要素であると言えるのです。

 

 

 

 だが全てのヨーギーのなかで最勝の人は

大いなる信をもって わたしに帰命し

常に信愛を捧げて礼拝奉仕する人だ

彼はわたしの最も親しい身内なのだ

(バガヴァッド・ギーター第6章47)