人を教え導く師とは?
前回の記事では、良い師、師たるに相応しい師とは、どういう師であるか?について書きました。
ダイヤモンドに似せたガラスが存在するように、
師に相応しくない者が、師のふりをすることも十分起こりうると、考えられます。
それでは、わたしたちは、どのようにして、ダイヤモンドとただのガラスとを見分けたら良いのでしょうか?
その見分け方とは、このブログの最初の記事でご紹介したラーマクリシュナの言葉が明確にしてくれていると感じます。
もう一度、ここでご紹介しますと、
「この世にいる人間は、大ざっぱに分けて四種類あるんだよ。
ーー縛られた人。解脱を求める人。解脱した人。それから、永遠の人。
永遠の人は--人びとを幸福にするため、人びとに真理を教えるためにだけ、この世にいる。
縛られた人は--世間のことに心を奪われてしまい、神のことをすっかり忘れている。夢にも神のことなど考えたりはしない人間だ。
解脱を求める人は--この世のカセから、自由になりたいと思って努力している人たちだ。だが彼らのなかでも解脱できる人もあり、できない人もある。
解脱した人は--この世の”女と金”に縛られない。聖者や、偉大な魂の人だ。この人たちの心には世俗的な思いは全然なく、ひたすら神の蓮華の御足を想っている。」
この文章からわかることは、師たるに相応しい師とは、”永遠の人”である、ということになります。
「あなた方は皆を導くために講演をするそうだが、神に触れ、神を見てから講演や説教すれば、ほんとうに人のためになる。
あの御方のお指図がないうちに人に教えるのは、何のためにもならないよ。
神様をつかまなければ、あの御方のお指図は受けられない。
神をつかんだ人には特徴(しるし)がある。
子供のようになったり、ふつうの感覚がないように見えたり、気狂いのように見えたり、食屍鬼のようになったりする。」
「もしも、自分の胸の宮に神像を祀ろうと思ったり、もし至誠なるものを掴もうと思うのなら、先ず、心の掃除をしなけりゃね。
心がキレイになったら、至聖清浄の御方が入っていらっしゃってお座り下さる。
コウモリのフンも片付けないのであっては、祭神をお招きすることはできないよ。
十一匹のコウモリというのは十一の器官のことだ--つまり五つの感覚器官(目耳鼻舌皮膚)と五つの行動器官(口手足肛門生殖器)と心だよ。
先ず第一に祭神をしっかり据えて、それから、望みとあれば講演でもしたらいい!
先ずは最初に深く沈むことだ。
沈んでいって宝玉を取って、そうしてから他の仕事をすることだ。
ところが、沈もうとする人は滅多にいない。
修行もせず、祈りもせず、識別も離欲も実行しないで、二つ三つ何か覚えるとじきに講演だ!
人を教え導くということは、難しいことなんだよ。
至聖(かみ)なるものを覚った後で、もしその御方の指図があれば、はじめて人を導くことができるようになる」
「人を導くことは、たいそう難しいことなんだよ。
あの御方がじかに会って下すって、お命じになったのなら出来るがね。
あの御方のご命令がなかったら、いったい誰があんた方の話を聞こうとするかね?
それからね、心の内でお許しをいただいたような気がする、程度のものではだめなのだ。
あの御方はね、実際にアリアリとしたお姿で人に会って下さるし、お話して下さるのだよ。
そのとき初めて”人に教えなさい”というご命令を受けるのだ。
至聖(かみ)をつかんだ人は心眼が開けて、どんな心の病気でもわかるようになる。
そうなれば人を導いてやることもできる」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
古今東西、多くの人間に敬意を表されている聖者と呼ばれる人びとは、少なくとも”解脱した人”であることは確かでしょう。
そして、その中には、”永遠の人”もいらっしゃることでしょう。
ラーマクリシュナの言葉に依れば、真の師たるに相応しい師は、神から”人に教えなさい”という命令を受けた”永遠の人”だということになります。
ですから、当然、”永遠の人”は、神に出会っていなければなりません。
一瞥体験くらいを体験したからと言って、神に出会ったこともない人間が、何か勘違いをして、自称覚者と称し、人を導く師のようにふるまい、人に教えるとしたら、
それは、神の命令ではなく、その人の我執、利己心からしている、ということになります。
この世には、多くの師(グル)のふりをした教師もどきの人びとがいますが、
彼ら自身、まだ完全に悟っていないので、人を最終段階へと導くことは不可能でしょう。
完全に悟った者だけが、人を人間の最終段階である悟りに至らせることが可能なのです。
これは、理屈から考えても、当たり前のことなのですが、ほとんど人の脳裏から忘れ去られています。
それでは、次回は、完全に悟った者とは、どういう人か?について書いてみたいと思います。
自己の本性を知ることの重要さを認識すること
絶対真理への探究心ーー
以上のことは智慧の本質であり
これに反することは無知無明である
(バガヴァッド・ギーター第13章12)