永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

真の師である完全に覚醒したマスターに出会うには?

自分の内側に、神が宿ったならば、師(グル)は必要ではありません。

真のグルは、内なる神であることは、言うまでもありません。

 

しかし、まだ内側に神が宿っていないなら、心の中に神が灯となって灯るまで、

探求者にとって、目に見える形の師(グル)は必要です。

 

それは、エゴは気まぐれであり、その声に従って人生を享楽的に送っていると、

真の人生の目的を忘れてしまい、短い今生での人生が終わる時には、何もわからず、

真理を掴むことなく、肉体を離れていくしかない、ということになるからです。

そして、それですべてが終わるわけではなく、真理を掴むまで、この世に戻って来て、

再び、人間を生きなくてはならなくなる、ということが起きるのです。

 

このことについては、また別の機会にお話ししたいと思いますが

今回は、前回の記事の続きをご紹介させて頂きます。

 

 

「自らが良い生徒であるなら、決して悪いグルに出会うことはないだろう。

しかしその逆もまた真であり、悪い生徒であるなら、良い師に出会うこともない。

どうして良い師が悪い生徒をうけおおうとするだろう。

誰もゴミを集めようとは思わない。

グルを探すなら、まず自らの内を探すことだ。

ヨギになるとは、今ここで自分のおかれた状況を知り、自ら参与することだ。

師がいないと不平を言ってはいけない。

自分がそれに値するか問うことだ。

師を引きよせるだけの力があるだろうか。

 

かつて師に、私に教えを授けないと文句を言ったことがある。

師は言った。

「来なさい、これから私がおまえの弟子をやる。おまえは師をやりなさい。

ふだん私がしているようにふるまいなさい」

私は言った。

「マスター、どうすればいいか分かりません」

「心配するな、ちゃんと分かる」

師は両目を閉じて私の前に来て、大きな穴の開いた器を手にして言った。

「マスター、私に何かください」私は答えた。

「私に何が与えられると?

その器には穴が空いているというのに」すると、師が目を開けて言った。

「おまえは頭に穴が空いているのに、私から何かえようとしているのだ」

技量を高めること。身を浄めること。内に静かなる強さを培うこと。神が訪れ、こう言うだろう。

「君という生ける寺院に宿りたい」そのときのため、自らを整えることだ。

不純なものをとりのぞいたときはーー真理を知りたいと思った者が、真理の源泉という自分自身であったのを知るだろう。

 

あらゆる信条のスワミや師にたくさん出会ったが、完全に覚醒していたのはごくわずかだ。

師にこの問題を持ちだしたことがある。

私は言った。

「マスター、あまりに多くの人がスワミや聖者と呼ばれています。

世の人びとはだまされています。

真に師になる準備のできていない師、彼ら自身いまだ弟子である不十分な師が、これほど多くいるのはなぜですか」

師は笑みを浮かべ言った。

「花咲く庭の周囲には、庭園を守る塀や囲いがあるだろう?

そうした人々は、私たちを護るため主が創られたものだ。

彼らにはふりをさせておきなさい。

いつかは彼らにも、まさに完全に悟る日が訪れよう。

今のところは自分をあざむいているだけだ」

真のグル、完全な叡智の師に出会いたいなら、まず自らを整えねばならない。

そのとき、囲いを超えるだろう。」

(ヒマラヤ聖者とともにー偉大なる霊性の師と過ごした日々 スワミ・ラーマ)

 

 

この世の中には、自称マスター・覚者を自負する人びと、スピリチュアル・リーダーを装っている人びと、いろいろな人がいます。

 

それらの人びとがすべて、ダイヤモンドに似せかけたガラスである、とは言いませんが、

彼らは、人びとを”真の自己”であるアートマン、つまり、サット・チット・アーナンダ(実在・智慧、至福)に至らせてくれるでしょうか?

 

時に、師の言葉は鋭く、エゴを粉砕するために、聞く耳を持たない者には、過酷に感じることがあります。

 

それは、真のグルであるマスターが、その人の分厚いエゴの層を破壊するために、意図的になされていることなのですが、

人々は、耳に心地よい、エゴを満足させる美しい言葉に、引き寄せられる傾向があります。

 

しかし、そのようなエゴが好む言葉には、実際にはどんな力もなく、

せいぜい、その場限りの安心感を得るだけで、やがては、再び同じ状況が訪れて、同じようなことが起こり、繰り返されるだけで、

本人は、以前と同じ迷路の中にいるという状況には変わりないでしょう。

 

つまり、エゴを増長させるような言葉は、どこにも誰をも導いてはくれないでしょう。

 

ましてや、神が宿っていない師に従っても、生徒の内側に、神が宿ることはないでしょう。

 

厳しく聞こえるかもしれませんが、これが現実であり、ダルマ(法則)なのです。

 

探求者は、常に試されています。

 

どんな時も、神に出会うことを望む心を忘れないことです。

 

聖書の中にも、同じことが書かれていますので、少しご紹介させて頂きます。

 

 

求めなさい。

そうすれば与えられます。

捜しなさい。

そうすれば見つかります。

たたきなさい。

そうすれば開かれます。

だれであれ、求める者は受け、

捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

(マタイの福音書第7章7-8)

 

 

 

幾多の生涯を経て真智を得た人は

わたしがあらゆる原因の大原因であり

全ての全てであることを知ってわたしに従う

このような偉大な魂は実に稀である

 (バガヴァッド・ギーター第7章19)