永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

弟子に準備ができたとき、師が現れる

三月末に発売予定の「聖なる旅」の著者であるスワミ・ラーマの既に日本で発売されている「ヒマラヤ聖者とともにー偉大なる霊性の師と過ごした日々」より、

師(グル)と生徒の関係について書かれているところがありますので、ご紹介させて頂きます。

 

「どの生徒にも、師とはどうあるべきかイメージがある。

 

師たるにふさわしい師をどうしたら見つけることができるのか、経典は言う。

「弟子に準備ができたとき、師が現れる」

準備ができていなければ、そこに師がいても気づかず、応じることもない。

ダイヤモンドがどんなものか知らなければ、すぐそばにあろうと気にもとめずに通りすぎ、ただのガラスのかけらと思うだろう。

さらには、違いを知らなければ、ガラスのかけらを手にとりダイヤモンドと思いこみ、生涯大切にし続けることになる。

探求を続ける間、生徒はサハジャ・バーヴァ(瞬時の直観)を無視して理性的になりすぎるか、逆に理性を無視して感情的になりすぎることがある。

感情の高まりは理性の高まりと等しく危険であり、いずれもエゴを助長させる。

修養を信じない者は覚醒を期待すべきではない。

ただ欲しがるからといって、与えることのできる師も、与えようという師もいない。

 

真の霊性の師、伝統に続き教えを授ける役割を与えられた師は、良い生徒を探し求める。

何らかの印や兆候を探り、誰の準備が整っているか知ろうとする。

どんな生徒も師をだますことはできない。

師は、生徒がどこまで準備できているかたやすく察する。

準備ができていないと分かれば、その生徒に徐々により高次の教えの準備をしていく。

生徒の火芯とオイルが正しく準備されたなら、師がランプの火をともす。

それが師の役割だ。

そうしてともった炎は神である。

誰が自分を導くかは心配することではない。

大切な問いは、私には導かれる準備ができているか、だ。

 

師が教える方法には様々であり、ときには謎めいている。

言葉やふるまいをつうじて教えもするがーー場合によっては、まったく言葉でのコミュニケーションなしに伝える。

よく思ったものだ。

最も重要な教えは、直観にその源があり、言葉によるコミュニケーションの力をも超える。

 

愛とともに、この世での責務を行うことだ。

それのみが、覚醒の道での前進に大きく貢献することになる。

事実、導き助ける者は必要だ。

外界でのグルを、自らの内なるグルに達する手段として要する。

利己心から「私にグルは必要ない」と思うこともあるかもしれない。

それはエゴの声だ。

飼いならさねばならない。」

(ヒマラヤ聖者とともにー偉大なる霊性の師と過ごした日々 スワミ・ラーマ)

 

 

この文章の中に、多くのヒントが書かれていると感じます。

霊性の探求者とは、どうあるべきか?が、やさしくわかりやすく書かれています。

 

スピリチュアルへの単なる興味本位からではなく、人間という存在の最終ゴールを目指す霊性の探求者とは、どうあるべきか?が書かれています。

 

このブログに出会い、記事を読むことも、探求のひとつではありますが、

読むだけでは、霊的な進化は起こらないでしょう。

 

何よりも、実践を通して、体験していくことが大切です。

 

これは、いつも、ナーナさんが、サットサンガでお話しされていることです。

 

悟りや目覚め、覚醒を望む人は多いですが、そのためには、どのような人であれ、自己努力による準備が必要です。

 

何もしないで、棚からボタ餅は起こらない、ということになります。

 

人間にとっては、少々厳しく聞こえるかもしれませんが、

このことは、ダルマ(法)として理解し、受け入れ、

それではその上で、自分はどうするか?という選択をするしかありません。

 

 

虚妄の名声を求めず妄想を払い除けた人

執着心を克服し 欲を失くした人

苦楽の二元性を超越して真我(アートマン)に安住する人

このような人々は至上神に順(したが)うことを知って永遠の楽土に入る

 (バガヴァッド・ギーター第15章5)