永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

自由への道(カルマ・ヨーガ)その3

これまで2回に渡って「カルマ・ヨーガ」について、詳しくご紹介してきましたが、

自分には、到底実践することは難しいと感じている方もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、スポーツでも音楽でも、どのような分野であれ、

上手になり、自分が目指す高い目標に到達するには、実践は必要不可欠です。

そして、結果はどうなるかはわからないけれど、諦めずに実践を重ねた人のみが、その掲げた目標に到達できるということは、よく知られていることです。

 

オリンピックで金メダルを取りたいと願うならば、そのために練習し、努力する以外にはありません。

頭の中で思い描いていても、練習し、努力しなければ、金メダルを手にすることはできないのです。

 

「カルマ・ヨーガ」は、個人を束縛から解放し、完全なる自由へと導いてくれる、私たちが日常生活の中にあっても、心がけ次第でいつでも実践できる解脱への道(行=ヨーガ)です。

 

今日もまた、大聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますヴィヴェーカーナンダの「カルマ・ヨーガ」からの抜粋をご紹介することで、

「カルマ・ヨーガ」をどのように実践すべきであるか、についてご紹介いたします。

 

何事においても、効果的な方法、コツのようなものを心得ておくことで、進歩の度合いは異なってきます。

 

カルマ・ヨーガの真髄を正しく理解することは、道の短縮につながります。

解脱を目指すならば、そのための実践は必要不可欠なのです。

 

「われわれはバガヴァッド・ギーターの中でくり返し、われわれはみな、絶えず働かなければならない、ということを読みます。

すべての働きは本来、善と悪とから成り立っています。

われわれは、どこかで何か悪いことをしないような働きをすることはできません。

また、どこかで何かの害を起こさないような働きは、あり得ません。

あらゆる働きは必然的に、善と悪との混合です。

それでもわれわれは、不断に働くよう、命ぜられているのです。

善と悪はともに、その結果をもたらすでしょう。

つまり彼らのカルマを生み出すでしょう。

善い行動は善い結果を、悪い行動は悪い結果を残すでしょう。

しかし、善も悪もともに、魂の束縛であります。

この束縛をもたらす働きの性質についてギーターの中で到達されている解決法は、もしわれわれが、自分の行う働きに執着しないなら、それは決してわれわれの魂を束縛しないであろう、というものです。

この働きへの「無執着」とは何を意味するのか、理解するように努めてみましょう。

 

もし人が始終悪い言葉を聞き、悪い思いを思い、悪い行為をするなら、彼の心は悪い印象に満たされ、それらは彼の知らぬ間に、彼の思いと働きに影響を与えることでしょう。

同様に、もし人が善い思いを思い、善い働きをするなら、これらの印象の総計は善であって、それらは同じような形で、たとえ彼がすまいと思っても、善いことをせずにはいられないようにしむけます。

人が、内部に善をなそうという、抵抗し難い傾向を持つようになればなるほど、多くの善い働きをし、多くの善い思いを思いつづけたとき、彼の傾向の総計である心は、彼の意志にかかわらず、たとえ彼が何か悪いことをしようと思っても、そうすることを許さないでしょう。

その傾向が彼を引き戻すでしょう。

 

この善い傾向を持つ状態よりもっと高い状態があります。

それは、解脱への願望です。

皆さんは、魂の自由がすべてのヨーガの目標であり、それぞれのヨーガが同等に同じ結果に到達するのである、ということを覚えていなければなりません。

働きだけによって人びとは、ブッダが主として瞑想により、キリストが祈りによって得た境地に到達するでありましょう。

 

ここに困難があります。

解脱とは、完全な自由のこと、つまり、悪の束縛から解放されると同時に、善の束縛からも解放されることなのです。

黄金の鎖も鉄の鎖と同様に鎖です。

私の手の指にとげがささったとします。

私はもう一本のとげを持って来て、それでとります。

とれたら、とげは二本ともすてるでしょう。

第二のとげをとっておく必要はありません。

結局どちらもとげなのです。

そのように、悪い傾向は善い傾向によって中和されるべきであり、心に刻まれた悪い印象は、ほとんど消えてしまうか、または弱められて心の片すみに小さくなるまで、善い印象の新しい波によって除かれなければなりません。

しかしそのあとで、善い傾向もまた、征服されなければならないのです。

このようにして、「執着している人びと」が、「無執着の人びと」となるのです。

お働きなさい、しかし活動または思いをして、心に深い印象を刻ませてはなりません。

どうしたらそれができるか。

われわれは、自分が執着する活動の印象は必ずあとに残る、ということを見ます。

私が一日のうちに数百人の人びとに会い、その中でまた、一人の愛する人にも会うとします。

夜一人になったとき、今日会った人びと全部の顔を思い浮かべようとします。

それでも心に浮かぶのはあの顔--おそらくたった一分しか見なかった、そして私が愛した--その顔だけでしょう。

他の顔は全部消えてしまうでしょう。

この特定の人物への私の執着が、他のすべての顔より深い印象を、私の心に刻んだのです。

ですから、「無執着」であれ。

ものごとは働かせるがよい。

絶えずお働きなさい。

しかし彼に心を征服させてはいけません。

この国のよそ者であるかのように、滞在者であるかのように、お働きなさい。

絶えずお働きなさい。

しかし自分を縛ってはいけません。

束縛は、恐るべきものです。

この世はわれわれのすみかではありません。

われわれが通りすぎつつある数多くの段階の中の、一つであるにすぎません。

魂が自然のためにあり、霊が肉のためにあるのだ、と考えており、よく言われている言葉が示すように、人は「食べるために生きる」のであって、「生きるために食べる」のではない、と考えています。

われわれは始終この誤りを犯しています。

自然を自分であると思って、それに執着するようになります。

そしてこの執着がやって来るや否や、魂に深い印象が刻まれ、それがわれわれを縛りつけて、自由からではなく奴隷のように、働かせるのです。

 

この教え全体の要点は、人は奴隷としてではなく、主人のように働け、というものです。

絶えずお働きなさい。しかし奴隷の働きをしてはいけません。

人類の99%は奴隷のように働いており、その結果は不幸です。

それはすべて利己的な働きです。

自由を通して働け!

愛を通して働け!

「愛」という言葉を理解することは大変にむずかしい。

愛は、自由のないところには決して、やっては来ません。

奴隷には真の愛は不可能です。

もしあなたが一人の奴隷を買い、彼を鎖でつないであなたのために働かせるなら、彼はあくせく働くでしょう。

しかし彼の心に愛はないでしょう。

そのように、われわれ自身が世間のものごとのために奴隷のように働くとき、われわれの内部に愛があるはずはなく、したがってわれわれの働きは真の働きではありません。

利己的な働きは奴隷の働きなのです。

 

そしてここに、見分ける基準があります。

愛の行為はいずれも、幸福をもたらします。

それの反応として平和と至福をもたらさない愛の行為は、ありません。

 

真の存在、真の知識および真の愛は永遠にたがいに結びついており、この三つは一つであります。

一つがあるところには他の二つがなければなりません。

それらは無二なる唯一者--存在・知識・至福(サット・チット・アーナンダ)--の三つの相なのです。

その存在が相対的になると、われわれはそれを世界として見ます。

その知識はそこで、世界の事物の知識と変わります。

そしてその至福は、人のハートに知られるすべての真の愛の、根底を形成するのです。

ですから、真の愛は決して、愛する人にも愛される人にも、苦痛を起こさせるようにははたらきません。

愛には、苦痛に満ちた反応はあり得ません。

愛は至福という反応をもたらすのです。

もしもたらさなければ、それは愛ではありません。

何か他のものを愛と間違えているのです。

あなたが自分の妻を、夫を、子供達を、全世界を、全宇宙を、そこにいささかの苦痛も嫉妬も利己的感情もなくなるような愛し方で、愛することができるようになったとき、そのとき、あなたは無執着であるに相応しい状態になったのです。

 

無執着の境地に達する、ということは、ほとんど生涯の仕事です。

しかしこの一点に達したとき、われわれは愛の目標に到達して自由を得たのです。

自然の束縛はわれわれから脱落し、われわれは自然のほんとうの姿を見ます。

彼女はもはや、われわれのために鎖を造るようなことはしません。

われわれは完全に自由に立ち、働きの結果などを考慮に入れません。

そうなったら、結果がどうあろうかなどと、誰が頓着しますか。

お返しに何ものも期待しないことです。

もし皆さんが一貫して与える人の立場をとることができ、与えるものはすべて世間への無料のささげものとして少しも報いを期待しないなら、あなたの働きが、執着をもたらすことはないでしょう。

執着は、われわれが報いを期待するところにだけ、やって来るのです。」

(カルマ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

 

 果報を求めずに働く人

正智によって疑いを切り捨てた人は

自己の本性に徹して 自由自在となり

カルマに縛られないのだ 富の征服者よ

 (バガヴァッド・ギーター第4章41)