永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

霊の教師(グル)の仕事

「人間がこの世の束縛から他人を解放していやることなど、出来っこない。

この、魂を虜にする現象(マーヤ―)をお創りになったあの御方だけが、

現象(マーヤ―)から解放することがおできになる。

サッチダーナンダ(真、智、喜)のほかには逃げ場所はない。

神様を掴んだこともなく、お指図を受けたこともなく、神の力で強くなったものでもない連中が、

生き物をこの世の鎖から解き放してやることなんか、どうしてできるものかね。」

 

「先生!どうして私どもはこんなふうに束縛されているのでしょうか?

どうして神を見ることができないのでしょうか」

 

衆生(ジーヴァ)の我執が、マーヤー(現象、迷妄)なんだよ。

我執があらゆるものを覆っているのだ。

”私がなくなれば悩みも消え去る”だよ。

神様のお恵みで、”私は全く無力である”ということがほんとにわかれば、

その人は生きながら解脱してしまう。

その人はもう、何の恐れも心配もないのだ。

このマーヤーとか””我”というのは雲のようなものだ。

つまらん雲があるために太陽が見えない。

雲が消えてゆけば太陽が見えるようになる。

師匠(グル)の助けで”我”の想いがなくなれば、そうすれば神様が見える。

 

衆生はサッチダーナンダ*(真・智・喜、宇宙の本体)そのもの。

けれども、マーヤーとか我執とかいうものがいろいろな添えもの(名前と等級)をこしらえてしまって、自分たちの本性を忘れている。

添えもので、それぞれの様子が変わってくる。」

 

「見神は、どうすれば経験できるのでしょうか」

 

「心が清く純粋でなければそれはできない。

女と金で心が汚れきって、いわば、心が泥まみれになっているのだ。

針だって泥まみれになっていれば、磁石の方に引かれていかない。

泥をきれいに拭ってやれば磁石に引かれる。

心の泥は涙で洗われる。

”ああ神様、もう二度とこんなことは致しません”と言って後悔の涙を流せば、泥はきれいに流れおちる。

すると神である磁石は、心の針を引っぱって下さる。

それから三昧に入って見神できる。

 

だが、何千遍試してみても、神様のお恵みがないかぎりはどうにもならない。

あの御方のお恵みがなければ、あの御方には会えないよ。

お恵みは簡単にいただけると思うかい?

我執高慢をすっかり捨てなけりゃならんのだ。

”私が行動しているんだ”と感じている間は、見神はできないよ。

自分が主人になりすましている人間の心のなかには、神様はなかなかお入りにならない。」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

*サッチダーナンダ(サット=永遠の実在、チット=完全円満な智慧、アーナンダ=絶対の至福)

 

 

 

物質自然の三性質*による活動を

我執の雲におおわれた魂は

自分自身が活動しているものと錯覚し

「私が成している」と思いこむ

(バガヴァッド・ギーター第3章27)

*トリグナ=サットワ、ラジャス、タマス