永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(4)

シュリ・ラマナ・マハルシの遺された叡智の言葉を辿ることで、わたしたちの本性である真我(アートマン)について、少しでも理解を深めることができるように、特に重要だと思われる部分を抜粋して、ご紹介しています。

 

前回ご紹介した中では、ラマナは、真のシッディ(神通力、超能力)とは、

「それはあなたが真我を実現したときに自然と現れる力と智慧だ。

それは真我に到達した人の自然なタパス(霊的修練)から生じたシッディなのだ。

それはひとりでに現れ、神から与えられたものだ。」と語っています。

 

真我に到達し、自然に生じたシッディにより、他者を真我に導くことができる存在を、ヨーガの世界では、「グル」(師)と呼んでいます。

 

シュリ・ラマナ・マハルシが、「グル」について質問した質問者にお答えになったお言葉を読んだ時、これは正に<ナーナ先生のことを仰っているのだ!>と言うことが、ハッキリとわかったのでした。

 

神の恩寵の経路そのものであるナーナ先生のシッディは、己の本性を悟るのを防げている障害を消滅させ、神秘への扉を開く力を持つ強力なシャクティ・プラーナのパワーです。

それは、クンダリニー覚醒体験が何度も起き、真我そのものになっていらっしゃるからこその臨在の力なのですが、その真価に気づいている人はまだまだ極僅かしかいません。

 

その臨在の恩寵により、真我が目覚めていくというダイレクトな体験が起きた者には、シュリ・ラマナ・マハルシが語る「グル」の重要性がよく理解できるのです。

 

真のグルとは誰なのか?何なのか?

また、何故、すべての存在の真の本性である真我が、個(ジーヴァ)の中で目覚めていくには、グル(師)が必要なのか?

 

早速、シュリ・ラマナ・マハルシのお言葉を見て行きましょう。

 

 

『質問者

「グルの恩寵とは何でしょうか?

どのようにして、それは真我の実現に導くのでしょうか?」

 

マハルシ

「グルとは真我である。

ときおり、人は人生に満たされなくなり、自分の持っているものに満足できなくなる。

彼は欲望を満たすために神に祈り、それを通して心は徐々に純粋になっていく。

彼は神を知りたいと願うようになり、世俗的な欲望を満たすよりは神の恩寵を求めるようになる。

そのとき、神の恩寵が現われはじめる。

神はグルの姿をとって帰依者の前に現れ、真理を教え、さらに彼と親密に混じわることによって彼の心を浄める。

帰依者の心は強くなり、内側に向かうようになる。

瞑想によって心はさらに浄化され、わずかなさざ波さえない静寂のなかにとどまる。

その静かな広がりが真我である。

グルは外面と内面の両方だ。

外面からは、心が内面に向かうように後押しをし、内面からは、心を真我に引きこみ静かになるように助ける。

それがグルの恩寵である。

神、グル、真我の間には何の違いもない。」

 

質問者

「神智学協会では、人びとは自分を導いてくれる師を求めて瞑想します。」

 

マハルシ

「師は内側にいる。

師が外側にしかいないという無知をぬぐい去るために瞑想がある。

もし、彼があなたの待っている見知らぬ人であるなら、彼はかならずまたいなくなるだろう。

そんなつかの間の存在が何の役に立つというのだろう?

だが、あなたが自分を分離した身体であると考えているかぎり、外側の師は必要であり、彼は身体をもって現れるだろう。

身体との誤った同一視がやんだとき、師が真我以外の何ものでもなかったことを知るだろう。」

 

質問者

「グルはイニシエーションを通して私たちが真我を知るのを助けてくれるのでしょうか?」

 

マハルシ

「グルはあなたを手で抱きかかえ、耳にささやくのかね?

あなたは師があなた自身のようだと想像している。

あなたは自分が身体のなかに存在すると思っているので、彼もまた身体をもち、あなたに蝕知できるような何かをしてくれるだろうと考えるのである。」

 

質問者

「どうすればグルを見つけられるでしょうか?」

 

マハルシ

「すべてに内在する神は、その恩寵によって愛する帰依者に憐れみを与え、帰依者の進歩に応じて彼自身の姿を現す。

帰依者は師を人間だと思い、二つの物理的身体の間に関係をもとうと期待する。

けれども、神あるいは真我の化身であるグルは内側から働きかけ、弟子が道を誤ったことを気づかせ、内なる真我を実現するまで正しい道を行くように導くのである。」

 

質問者

「真の師(サットグル)の特徴とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「真我の内にしっかりと確立していること、すべてを平等の目で見ること、いつでも、どこでも、どんな状況でも揺るぎない勇気をもっていることである。」

 

質問者

「多くの霊的な師たちがさまざまな方法を教えています。

自分の師として誰を選ぶべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたがシャンティ(平和)を見いだしたなら、その人を師として選ぶがいい。」

 

質問者

「彼の教えも考慮に入れるべきではないでしょうか?」

 

マハルシ

「熱心な探究者に対して、あれやこれをしなさいと指導する人は本当の師ではない。

探究者はすでに彼の活動に苦しみさいなまれて、平和と休息を求めている。

言わば、彼は活動を止めたいと願っているのである。

もし、師がこの上何かをするように指導するなら、それが探究者の助けになるだろうか?

活動は創造である。

活動とは、人が生まれながらにもっている幸福を破壊することである。

もし活動が勧められるなら、助言者は師ではなく殺し屋である。

そのような状況は、師の姿をした死の神(ヤマ)、あるいは創造の神(ブラフマー)が現われたのだと言えるだろう。

そのような人に真理の探究者を解放することはできない。

彼は束縛を強めるだけである。」

 

質問者

「どうすれば自分の師を見いだせるのでしょうか?」

 

マハルシ

「強烈な瞑想によってである。」

 

質問者

「もし「グルは弟子自身の真我である」ということが真実ならば、どれほど弟子に学問があろうとも、どれほど神秘的な力をもっていようとも、グルの恩寵なしに真我を実現することはできないと言われるのは、どのような根拠に基づくのでしょうか?」

 

マハルシ

「絶対的真理においては、グルと自己(真我)の状態が同じであることは真実だが、無知ゆえに個人(ジーヴァ)となった自己にとって、グルの恩寵なしに真の本性を実現することは、きわめてむずかしい。」

 

質問者

「グルの恩寵のしるしとは何でしょうか?」

 

マハルシ

「それは言葉や想念を超えたものである。」

 

質問者

「そうだとすれば、グルの恩寵によって弟子が真の本性を実現すると言われているのはどうしてでしょうか?」

 

マハルシ

「真の知識あるいは神に達しようと願い、人は絶え間なく帰依に励む。

その帰依が熟すと、彼と同じ本性をもち、彼を内側から見守っている主がその姿を現す。

主は彼自身の三つの自然な特質であるサット―チット―アーナンダ(存在-意識-至福)の助けによって人間の名前と姿を借りて現れ、弟子に祝福を与えんとして近づき、彼を主の内に溶けこませるのである。

この教義によれば、実にグルは主と呼ばれうるものである。」

 

質問者

「それでは、何人かの偉大な人たちはどうやってグルなしで知識を達成したのでしょうか?」

 

マハルシ

「ごくわずかな機の熟した人たちには、神は形なき知識の光として輝き、真理の目覚めを与えたのである。」

 

質問者

「どのようにして正しいグルだと決めるのでしょうか?

グルのスワルーパ(真の姿あるいは本性)とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの心が順応する人、その人が正しいグルである。

あなたは「どうやって誰が正しいグルかを決めるのか、彼のスワルーパは何か?」と尋ねている。

グルは平静、忍耐、寛容、その他の徳を兼ね備えているべきである。

彼には磁石が鉄を引きつけるように、彼の目だけでも他の者たちを引きつける能力がなければならない。

彼はすべてに対して平等の感覚をもっていなければならない。

このような徳を備えた人が真のグルである。

だが、もしグルのスワルーパを知りたいと望むなら、まず自分のスワルーパを知らなければならない。

自己の本性を知らずに、どうしてグルのスワルーパを知ることができよう?

もしグルの真の本性あるいは真の姿を見たいと望むなら、まず宇宙全体をグルの姿としてみることを学ばなければならない。

生きとし生けるものすべてのなかにグルを見なければならない。

自分の真我を知らない人に、どうして神やグルの真の姿を見ることができるだろう?

どうやって決定するというのだろう?

それゆえ、まずあなた自身の真の本性、真の姿を知りなさい。」

 

質問者

「たとえそれを知ることにさえ、グルが必要なのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「そのとおりだ。

世界には数多くの偉大な人びとがいる。

あなたの心が順応する人をグルとして敬いなさい。

あなたが信頼できる人があなたのグルである。」

 

質問者

「解脱の達成におけるグルの恩寵の意義とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「解脱とは、どこかあなたの外側にあるのではない。

それは内側だけにある。

もし解放を熱望するなら、内なるグルはあなたを内面へと引き入れ、外面のグルは外側から真我のなかへと後押しをする。

これがグルの恩寵である。」(続く)

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

 

 肉体的修行 苦行について言えば

神々を礼拝し 長上の人や

師 賢者を敬って仕え

清潔 正直 節制 非暴力であること

 

言葉の修行はーー真実を語ること

やさしく快い言葉 有益な言葉を語ること

他人の心を乱したり扇動したりせぬこと

そしてヴェーダ聖典を規則的に読誦すること

 

 

(バガヴァッド・ギーター第17章14-15)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(3)

わたしは誰か?

その答えは、簡単です。

真我(アートマン)です。

 

しかし、この自己の本性である真我(アートマン)を知ることは、現実には、そう簡単ではありません。

個我(ジーヴァ)は、アートマンであるにも拘わらず、アートマンを知らずに、一生を終えます。

このことを「無知」と言うことがありますが、通常、人は無知で生まれ、無知で死んでいくのが一般的であると言えます。

 

そして、真我(アートマン)を知ることにより、この「無知」が取り除かれることで、人は最高の智慧に至り、この智慧の光で無知という暗闇が消え去ると言われています。

 

よって、私たちが抱いているあらゆる疑問も消え去ります。

 

疑問や質問は、「無知」から生じているのです。

 

「わたしは誰か?」という質問も、「無知」が原因で生じているのですが、その質問が起きる源は、「わたし」なので、畢竟、「わたし」とは「無知」そのもの、ということになります。

 

真我探究は、この「無知」(=わたし)を取り除いていく作業である、と言えます。

 

それは、「わたし」(=無知)の源を探って、その正体を知ることで、最高の智慧(ジニャーニ)に至る道なのです。

 

それでは、前回に引き続き、多くの人が興味を持っていると思われるシッディ(神通力、超能力)について、シュリ・ラマナ・マハルシのお言葉を見ていきましょう。

 

 

 

『質問者

「ラーマクリシュナがしたように、イーシュワラ神(名前を持った創造神)と話をすることは可能でしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん、われわれが今たがいに語りあっているように、イーシュワラ神と語りあうことはできる。」

 

質問者

「それなら、なぜそれは私たちに起こらないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それには力強く純粋な心と瞑想が必要とされるのだ。」

 

質問者

「それらの条件が満たされれば、神の存在は証明されるのでしょうか?」

 

マハルシ

「神はあなた自身の実在と同じだけの実在性をもって現れる。

言い換えるなら、目覚めの状態のように自分自身を身体と同一視すれば、あなたは粗大な対象物を見るだろう。

夢見のときのように、あなたが精神的次元あるいは微細身のなかに存在すれば、同じように対象物も微細なものとして見るだろう。

深い眠りのなかでは対象物も存在しないように、あなたは何も見ない。

見られた対象物は見る者の状態と関係しているのである。

神の幻影にもこれと同じことが当てはまる。

神の姿に長い間瞑想をつづければ、それは夢のなかに現れ、のちには目覚めの状態にさえ現れるだろう。」

 

質問者

「ここを訪れる多くの人たちが、あなたから幻影や想念の流れを受け取っていると私に語っています。

私がここに来てすでに一カ月半が経っていますが、まったくそのような体験の兆候がありません。

それは私があなたの恩寵を受けるに値しないということなのでしょうか?」

 

マハルシ

「幻影や想念の流れは心の状態に依存する。

それは個人に依り、普遍の存在に依るのではない。

そのうえ、そのようなことは問題ではない。

問題は心の平和である。

真我の実現とは何だろうか?

それは四本の腕を持ったような奇抜な神の姿を見ることだろうか?

たとえ神がそのような姿で現れたからといって、弟子の無知をぬぐい去ることができるのだろうか?

真理は永遠の実現でなければならない。

直接の知覚は常在の体験である。

神が直接知覚されたとき、神自身が知られるのである。

神が何か特別な姿で弟子の前に現れることを意味するのではない。

永遠のものでなければ、実現は何の役にも立たない。

四本の腕を持った神の顕現が永遠の実在と言えるだろうか?

それは単なる現象であり、幻想でしかない。

そこには見る者がいなければならない。

その見る者こそが実在であり、永遠なるものである。

神が百万の太陽として現れるなら、そうあらしめるがいい

だが、それがプラティヤクシャ(直接体験)と言えるだろうか?

神の幻影を見るには目と心が必要だ。

それは間接的知識であるが、見る者は直接的体験である。

見る者こそがプラクティヤクシャなのである。」

 

質問者

「『パタンジャリ・スートラ』のなかに言及されているシッディは真実なのでしょうか。

それともそれは夢のなかだけのことなのでしょうか?」

 

マハルシ

ブラフマンあるいは真我を実現した人は、シッディを重んじない。

パタンジャリ自身、それらはみな心によって為され、真我の実現を防げると言っている。」

 

質問者

「超人と呼ばれる人たちの能力についてはどうでしょうか?」

 

マハルシ

「二つの種類のシッディが存在する。

そのひとつは実現へ向けての障害となる。

マントラによって、魔術的な効果をもった何かの薬によって、厳しい苦行によって、ある種のサマーディによって、その力は獲得されると言われている。

だが、そのような力は真我実現の助けにはならない。

たとえそれらを得たとしても、あなたは無知のままとどまるだろう。」

 

質問者

「もうひとつの種類とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「それはあなたが真我を実現したときに自然と現れる力と智慧だ。

それは真我に到達した人の自然なタパス(霊的修練)から生じたシッディなのだ。

それはひとりでに現れ、神から与えられたものだ。

それはその人の運命にしたがってやってくる。

だが、シッディを得ようと得まいと、至高の平和に住まうジニャーニは気にとめない。

なぜなら彼は真我を知っており、それこそが不動のシッディである。

彼らは努力によってシッディを得ようとはしない。

あなたが真我の実現の状態にあるとき、その力が何であるかを知るだろう。」

 

質問者

「賢者たちは他の者たちに真我を実現させるため、超自然的な力を用いるのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼の真我実現の力は、他のすべての力よりもはるかに強力なものである。

シッディには多くの種類があると言われているが、ジニャーニだけがそのなかで最高位のものである。

なぜなら、他のシッディを達成した者たちはジニャーナを求めるが、ジニャーナを達成した者たちがシッディを求めることはないからである。

それゆえ、ジニャーナだけを熱望しなさい。

シッディは、それを所有しない者たちにとっては素晴らしいものと映るかもしれない。

だが、それはつかの間のものでしかない。

はかないものを追いかけるのは、はかないことである。

ひとつの不変の真我のなかにすべての不思議が含まれているのである。

全存在である神、自ら進んで与える用意のある神から、役にも立たない超能力を欲深く乞うことは、すべてを喜んで与えようとする慈悲深い人から、古くてかびくさくなった薄がゆを乞うようなものだ。

究極の帰依に輝く炎で灯されたハートのなかには、すべての超能力がひとつとなって備わるようになる。

だが、主の御足元の完全な虜となったハートを持つ帰依者がシッディを望むことはない。

解脱への途上で努力を重ねる探求者が超自然的な力の獲得を目標とすれば、彼らの固い束縛はさらに強められていくだろう。

そしてそのために自我の威力はますます増大していくだろう。

完全なる全体性、解脱の輝きである真我の達成(シッディ)だけが真の知識の成就である。

一方、別の類のシッディは、アニマ(原子ほど小さくなる能力)をはじめとする愚かな心の想像力の妄想なのだ。

人びとはシッディよりもはるかに奇跡的なものごとをたくさん見ている。

だがそれらには驚きもしない。

なぜならそれらは毎日起こっているからだ。

人は生まれたとき、この電球ほどの大きさもない。

ただ成長すると、巨大なレスラー、または世界的に有名な芸術家、講演者、政治家、または聖者になる。

人びとはこれを奇跡とは見なさないで、死体が口をきいたことに驚嘆するのだ。」

 

質問者

「私はこの二十年間、形而上学に興味をもちつづけてきました。

しかし、多くの人たちが主張しているような不思議な体験をしたことがありませんし、透視能力や透過能力ももちません。

私はただの身体のなかに閉じこめられただけの存在なのです。」

 

マハルシ

「それは正しい。

真理はひとつであり、それが真我である。

他のすべては真我のなかで、真我に属し、真我によって起こる単なる現象にすぎない。

見る者、見られるもの、見ることはすべて真我でしかない。

真我を離れて見たり聞いたりすることができるだろうか?

すぐそばにいる人を見たり聞いたりすることと、途方もなく離れたところにいる人を見たり聞いたりすることに何の違いがあろう?

どちらの場合も視覚器官と聴覚器官が必要とされ、また心も必要となる。

どちらの場合も視覚器官と聴覚器官と心のどれかがなければ無理であり、互いに依存しあっているのだ。

それなら、なぜ透視能力や頭頂能力に魅せられるというのだろう?

しかも、獲得されたものはやがて失われてしまう

それらはけっして永遠のものではないのである。」

 

質問者

「テレパシーのような能力を得るのは良いことではありませんか?」

 

マハルシ

「テレパシーやラジオは遠くのものを見たり聞いたりすることを可能にする。

それらは見ることと聞くことという点においては同じである。

近くの音を聞こうと、遠くの音を聞こうと、聞く人にとって違いはない。

基本的な要因は聞く人、主体にある。

超自然的な力(シッディ)は、それゆえ心のなかにしか存在しない。

それは真我にとって生来のものではない。

生来のものではなく、あとから獲得されたものは永遠ではない。

したがって、努力して獲得するだけの価値もないのである。

シッディとは能力が拡大されたものだ。

限定された能力をもつ者は不幸である。

それゆえ、幸福になるために能力を拡大しようとするのである。

だが、本当にそうなのか考えてもみなさい。

もし限定された能力のために不幸だというのなら、能力が拡大するにしたがって不幸も拡大するはずである。

超能力は幸福をもたらすのではなく、人をより不幸にするのである。

しかも、何のための能力なのか?

超能力者になろうとする人は自分の力を他の者たちに誇示して、賞賛を求めているのであり、賞賛が得られなければ幸福にもなれないだろう。

そしてそこには彼を賞賛する他者の存在も必要とされる。

彼は自分より高い能力をもった者に遭遇することさえあるだろう。

それは嫉妬を生みだし、さらに不幸を招くだろう。

どちらが本当の力だろうか?

虚栄を満たす力か、平和をもたらす力か?

平和をもたらすもの、それが最高の成就(シッディ)である。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

サットワの人は供犠をなすに際して

あくまで聖典の指示に従い

何の報いも求めずに

ただ自らの義務として行う

 

しかし バラタ王家の最も優れた者よ

物質次元の利益を得るため または

虚栄のため 人に見せびらかすための供犠は

ラジャスの行為であると知れ

 

聖典の指示するところに従わず

食物を供えず 讃歌も唱わず

僧侶に布施をせず そして信仰もない供犠は

タマスに属するものである

(バガヴァッド・ギーター第17章11-13)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(2)

前回より、これまでと趣向を変えて、あらゆるウパニシャッドの文献が究極の真理として語っている「わたしは誰か?-アートマン(真我)である」という最奥の叡智に至る手法として、シュリー・ラマナ・マハルシの「真我探究」についてご紹介しています。

 

人には、それぞれ生まれ持った気質がありますが、その気質に応じて、究極の真理へと至る道は、数多く用意されています。

 

これまでの記事で、その内の数個をご紹介させて頂きましたが、「真我探究」はジニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)の道です。

 

アーサナやプラーナヤーマなどの肉体的な修行はせず、どちらかと言うと、哲学的思考と瞑想により、個我を消滅させ、真我を目覚めさせる方法です。

(結論を言ってしまえば、個我が存在すると思っているのは、個我だけであり、実際には、個我は存在せず、実在しているのは、真我(アートマン)だけなのです。

このことを知る、知らないは、個我だけに起きていることなので、知っていても、知らなくても、私たちが常に真我そのものである、と言うことに変わりはありません)

 

クンダリニー・ヨーガやタントラ・ヨーガなどの修行を通して、クンダリニーを目覚めさせなくとも、「真我探究」により、真の自己である本性を悟ることは可能であると、ラマナは語っています。

 

上にも書きましたが、真の自己である真我(アートマン)だけが真の実在であるという叡智に至る道は、いろいろと用意されています。

 

そして、それらの内、どのような道を通っても、私たちが行き着くゴール(目的地)はひとつしかありません。

 

わたしは誰か?

 

その答えがゴールです。

 

それでは、前回の続きをご紹介したいと思います。

 

 

『質問者

「ひとたび瞑想のなかでサット-チット-アーナンダ(存在-意識-幸福)を体験した人が、瞑想が終わるとともに再び身体と同一化することはありうるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それはありうる。

しかし、彼は修練によってその自己同一性を徐々に失っていくだろう。

そして真我のあふれる光のなかで、幻想の闇は永遠に消え去るだろう。

すべてのヴァーサナー(精神的傾向)が根絶されないまま得られた体験は、定着することができない。

ヴァーサナーを消滅させるための努力が必要である。

すべてのヴァーサナーが根絶されたときにのみ、知識は揺るぎないものとなるのである。

われわれは長年の精神的傾向と闘わなければならない。

それらはみな消えるだろう。

ただ、過去においてサーダナ(修練)を重ねてきた者の場合は比較的早く消え、他の者たちの場合はより遅いだろう。」

 

質問者

「心の潜在的傾向は段階的に消えるのでしょうか、それとも突然消えるのでしょうか?

私がこのことを尋ねるのは、長年この場所にいるにもかかわらず、何の段階的な変化も見られないからです。」

 

マハルシ

「太陽が昇るとき、闇は徐々に消えるだろうか、それとも突然消え去るだろうか?」

 

質問者

「私が探求において進歩しているかどうかを、どうすれば知ることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「真我の実現に向けての進歩は、想念の不在の度合によって知られる。

しかし、真我の実現自体に進歩は見られない。

それはつねに変わらない。

真我はつねに実現されているからである。

障害は想念だけであり、進歩の度合は、真我がつねに実現されているという理解への障害をどの程度取り除いたかによって知られるのである。

それゆえ、想念は起こっているのかと探ることによって調べられなければならない。

源を探るところに想念は起こらない。」

 

質問者

「疑問はつねに起こってきます。

それゆえの質問です。」

 

マハルシ

「疑問が起こり、それは解放される。

別の疑問が湧き、それも解決され、そしてまた新たな疑問がつづいていく。

すべての疑問を解くことは不可能である。

誰にその疑問が起こるのかを見てみなさい。

その源へ行き、そのなかにとどまりなさい。

そうすれば疑問は起こらない。

これが疑問を解消する方法である。」

 

質問者

「私は答えることなしに、「私は誰か?」と尋ねつづけるべきなのでしょうか?

誰が誰に尋ねるのでしょうか?

どのようなバーヴァナー(態度)で探究にのぞめばよいのでしょうか?

「私」とは何でしょうか、真我でしょうか、あるいは自我でしょうか?」

 

マハルシ

「「私は誰か?」という探究における「私」とは自我である。

その問いの真意は、自我の源、本性とは何かということである。

そのためにはどんなバーヴァナーも必要ない。

ただあなたがこのような名前をもった、このような姿の身体だというバーヴァナーを放棄する必要があるだけである。

あなたの真の本性に対してバーヴァナーは必要ない。

それはつねにあるがままに在る。

それは実在であり、バーヴァナーではない。」

 

質問者

「しかし、「私」が「私」を探さなければならないということは、おかしなことではないでしょうか?

「私は誰か?」という問いは、結局、空虚な形式に終わってしまうのではないでしょうか?

それとも、私はそれをある種のマントラのように繰り返しながら、際限なく自分自身に問いつづけるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我探究が空虚な形式でないことは明らかだ。

それはどんなマントラの復唱よりも優れたものである。

「私は誰か?」という問いが単なる知的な質疑でしかないなら、たいした価値はないないだろう。

真我探究の目的そのものは、心を完全にその源へ集中させることにある。

それゆえ、それはひとつの「私」がもうひとつの「私」を探し求めることではない。

真我探究は純粋な真我の覚醒の内に不動の安定を確立すべく、心のすべてを注ぎこむ強烈な活動を要する。

そのため、けっして空虚な形式などではありえない。」

 

質問者

「もし私が朝と夕方にいくらかの時間をアートマ・ヴィチャーラのためにあてがえばじゅうぶんでしょうか?

それとも、たとえ執筆しているときも、歩いているときもつねにするべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの真の本性とは何だろうか?

それは書くことや歩くことだろうか、それとも在ることだろうか?

唯一不変の真実とは在ることである。

あなたが純粋な存在状態を実現するまでは、探究を貫き通すべきである。

ひとたびあなたがそのなかに確立すれば、いかなる問題もなくなるだろう。

想念が湧き上がってくるまでは、誰も想念の源を探究することはないだろう。

あなたが「私は歩いている」や「私は書いている」と考えるかぎりは、誰がそれらをするのかと尋ねなさい。」

 

質問者

「もし私が想念を拒否つづけるならば、それをヴィチャーラ(探究)と呼ぶことができるでしょうか?」

 

マハルシ

「それはヴィチャーラへのひとつの足がかりにはなるかもしれない。

だが、あなたが真我に固執し、精神的な動きである想念の波がもはややんだときこそ、本当のヴィチャーラが始まるのである。」

 

質問者

「それではヴィチャーラは知的なものではないのでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや、これはアートマ・ヴィチャーラ、内面の探究である。

心をつかみ、それを調べていくようにと初心者は教えられる。

しかし、結局心とは何だろうか?

それは真我の投影である。

それがどこから現れ、誰にとって現れるのかを見いだしなさい。

すると、「私」という想念がその根本原因であることが知れるだろう。

さらに深く見極めなさい。

すると、「私」という想念は消え、そこには「私」という意識の無限の広がりがあるだろう。」

 

質問者

「私はシュリー・オーロビンド・アーシュラムのマザーに次のように尋ねました。

「私は神が本当の姿で現れることを祈って、想念を起こすことなく、心を空白状態に保つ修練をしましたが、何も見ることはできません」。

すると、彼女の答えはこのようなものでした。

「その態度は正しいものです。

力は天から降りてくるでしょう。

それは直接体験なのです」。

私はこれ以上何かするべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あるがままのあなたで在りなさい。

天から降りてくるようなものは何もないし、現れもしない。

必要なのは自我を失うことだけだ。

在るものは、つねにそこに在る。

今このときでさえ、あなたはそれである。

空白状態はあなたによって見られている。

空白を見ているあなたはそこに存在している。

何を待つというのだろうか?

「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとする欲望はすべて自我の作用である。

あなたは自我の罠に陥っている。

これらのことはあなたではなく、すべて自我が言っているのである。

あるがままのあなたで在りなさい。

それ以上何も必要ない!

ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達する。

そしてそれを達成したら、再び戻ってくるのだ。

それゆえ、そのような無駄なことはすべてやめるがいい。

あるがままに在りなさい。

あなたが誰なのかを知りなさい。

生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。

そして真我としてとどまりなさい。」

 

質問者

「人はどのようにして真我を知るのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我を知ることは、真我として在ることである。

あなたは真我を知らないと言えるだろうか?

鏡がなければ目を直接見ることはできない。

だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?

同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいている。

それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろうか?

あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対的知識の点から見た不在を意味している。

なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため自分自身をそれと同一視するからである。

真我を対象化することはできない。

そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを困難にしてしまう。

そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあなたは尋ねるのである。」

 

質問者

「あなたは在ることについて語っています。

何として在ることでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。

「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理の要諦である。

その方法は、「静かに在ること」に尽きる。

では静寂とは何を意味するのだろうか?

それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。

なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。

「私はこれである」という観念を放棄しなさい。

真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。

それ以上簡単なことがあるだろうか。

それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なことなのである。

唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるものである。

それを注意の的として射止め、ハートのなかで強烈にそれを知るべきである。

この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、明晰で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。

ハートのなかで絶えず輝き続ける意識こそが真我であり、存在や非存在である何か、などと考えることなく、ただ静かに在ることによって知られるもの、ただそれだけが完全な実在であると知りなさい。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)によって

人の好む食物にも三種類ある

供犠 苦行 布施についても同様

この相違にについて話すから聞きなさい

 

サットワの人の好む食物は

生命力を増進し 体を浄化して

力と健康と幸福と喜びをもらたし

水分と脂肪に富み健康的で心を和ませる

 

ラジャスの人の好む食物は

苦味 酸味が強いもの 塩からいもの

熱いもの 乾燥したもの 刺激性のもの

こうした食物は心身の病の原因となる

 

タマスの人の好む食物は

古いもの 味のないもの

残り屑 またはそれが入っているもの

それから 不浄なもの

(バガヴァッド・ギーター第17章7-10)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(1)

これまでの記事で、私たちの体に眠っている生命エネルギーの源であるクンダリニーについてご紹介してきました。

また、前回の記事では、シュリー・ラマナ・マハルシが「クンダリニーアートマン(真我)である」と語っていらっしゃることも、ご紹介しました。

 

ヨーガの修行の目的は、この眠った状態にあるクンダリニーを目覚めさせることですが、シュリー・ラマナ・マハルシは、アーサナやプラーナヤーマなどの体を使ったヨーガの修行とは異なる「真我探究」という方法を提唱しています。

 

これは、心を使って自己の本性を悟るための精神的修練であり、「心のヨーガ」ともいえる方法であり、「ジニャーナ・ヨーガ」(智慧のヨーガ)と呼ばれています。

 

わたしは誰か?

 

この直接的な問いを自らに問うことで、その答えが得られると、シュリー・ラマナ・マハルシは語っています。

 

それでは、ジニャーナの道とは一体どのようなものなのでしょうか?

 

『自分は真我そのものである』という智慧に達することは、霊的探求の目的と言えます。

 

目覚めるのは、クンダリニーであり、真我であり、「わたし」が何かに目覚める訳ではありません。

(ずっと在ったにも拘わらず、その存在が知られていないがために、「眠っている」と表現され、それが表に顕わになることで、「目覚める」と表現されるだけで、実際には、真我は眠っている訳でも、眠りから目覚める訳でもありませんが、人間からすると、そのように感じられるということなのでしょう)

 

アートマン(真我)へと到る直接的な方法『真我探究』(アートマン・ヴィチャーラ)とはどのようなものなのか?早速、シュリー・ラマナ・マハルシの遺されたお言葉をご紹介したいと思います。

 

 

『質問者

「どうすれば平和な心を得られるでしょうか?

ヴィチャーラ(探究)によって平和になったようには思えません。」

 

マハルシ

「平和とはあなたの自然な状態である。

その自然な状態を防げているのは心なのだ。

あなたが平和を体験していないとすれば、それはあなたのヴィチャーラが心のなかだけでされてきたということである。

その心とは何かと調べなさい。

そうすれば、それは消え失せるだろう。

想念を離れて心というものは存在しない。

それでも想念は現れつづけるため、想念がそこから起こりそこへと消えていくそれが心だと推測するのである。

それはいったい何なのかと綿密に調べていけば、心といったものは存在しないことが見いだされるだろう。

このようにして心が消え去ったとき、あなたは永遠の平和を実現するのである。」

 

質問者

「私が「私」という想念の現れるその源へと探り入ると、これ以上先へ進むことのできない心の静寂にたどり着きます。

そこにはどんな想念もなく、虚空、空白の状態があるばかりです。

柔らかな光が広がり、あたかも身体がないかのようです。

身体や形態の認識もありません。

その体験はおよそ半時間ほどつづき、喜ばしいものです。

自由あるいは解放、名前は何であれ、永遠の幸福を確保するということは、この体験が何時間、何日、何か月も維持されるように修練をつづけていくことだと結論づけてよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「これは自由でも解放でもない。

このような状態は、マノラヤ、一時的な心の静止と呼ばれている。

マノラヤとは、思考の動きを一時的に抑えた集中を意味する。

この集中が止まるやいなや、以前のように古い想念や新しい想念が急激に湧き上がってくる。

そしてこの一時的な心の静止がたとえ千年つづいたとしても、誕生と死からの解放がある心の完全な破壊に至ることはけっしてない。

それゆえ、修行者はつねに油断することなく、「この体験は誰に起こったのか」、「この喜びを体験しているのは誰なのか」と尋ねなければならない。

この探究なしでは、彼は長時間のトランス状態あるいは深い眠り(ヨーガ・ニドラー)に陥ってしまうだろう。

この段階における霊的修練の正しい指導者の不在がもとで、多くの修行者が偽りの解放感覚のとりこになって惑わされてきた。

そして無事に目的地にたどり着いたのは、ほんのひと握りの人たちだけだったのである。

一時的な心の静止(マノラヤ)と想念の永久的な破壊(マノナーシャ)の違いを理解するサーダカ(修行者)は非常にまれである。

マノラヤでは想念の波が一時的に静まるが、たとえそれが千年つづいたとしても、マノラヤが止まったとたん、一時的に静止された想念の波は湧き上がってくる。

それゆえ、人は自分の霊的修練の進展を注意深く見守っていなければならず、そのような思考の静止に魅了されるのを許してはならない。

これを体験した瞬間意識を取り戻し、この静寂を体験しているのは誰かと内側に向けて尋ねるべきである。

いかなる想念が入り込むことも許さず、と同時に深い眠り(ヨーガ・ニドラー)あるいは自己催眠にも襲われないようにしなければならない。

これも目的に向けての向上の兆候ではあるが、それはまた解放への道とヨーガ・ニドラーへの道の分岐点でもある。

やさしく直接的な解放への近道がヴィチャーラ・マールガ、真我探究の道である。

探究によって、あなたは想念の流れを深くその源に達するまで導き、そのなかへと溶け去る。

そのときこそあなたは内なる感応を得るだろう。

すべての想念を破壊して、ついに永久のやすらぎを見いだすのである。」

 

質問者

「この「私」という想念は私から現れます。

しかし、私は真我を知らないのです。」

 

マハルシ

「これらはみな精神的観念にすぎない。

現在のあなたは、あなた自身を偽りの「私」、つまり「私」という想念と同一化している。

この「私」という想念は立ち現れては沈みゆく。

それに反して、真の「私」はそのどちらも超えている。

あなたの存在が途切れるということはありえない。

眠っていたそのあなたが、今日覚めているのである。

深い眠りのなかに不幸はなかったが、今それはある。

これらの違いが体験されるのは何が起こったからだろうか?

眠りのなかに「私」という想念はなかったが、今それはある。

真の「私」ははっきりと見えないが、偽りの「私」は自分を誇示している。

この偽りの「私」があなたの正しい智慧を防げているのである。

どこからこの偽りの「私」が立ち現れてくるのか見いだしなさい。

そうすれば、それは消え去るだろう。

そのとき、あなたはあるがままのあなたである絶対的実在として在るだろう。」

 

質問者

「どうすればいいのでしょうか?

いままで私は成功してこなかったのです。」

 

マハルシ

「「私」という想念の源を探究しなさい。

するべきことはそれだけである。

宇宙は「私」という想念が原因で存在している。

「私」という想念が終焉すれば、不幸もまた終焉する。

偽りの「私」という想念は、その源を探ることによってのみ終焉するのである。

人びとはどのように心を制御すべきかと尋ねてくる。

私は彼らに言う。

「心を見せてみなさい。

そうすれば何をすべきかがわかるだろう」と。

心とは単なる一束の想念にすぎない。

それが事実である。

どうしてそれを思ったり、望んだりすることで絶滅させることができるだろうか?

あなたの想念も歓喜も心の一部分なのである。

新たな想念が湧き上がるごとに心は肥えていく。

それゆえ、心によって心を殺そうとすることはばかげている。

心を殺す唯一の方法は、その源を見いだし、それをとらえることである。

そうすれば心はひとりでに消え去るだろう。

ヨーガはチッタ・ヴリッティ・ニロダ(心の活動の静止)を教える。

だが、私はアートマ・ヴィチャーラ(真我探究)を教える。

これは実際的な方法である。

チッタ・ヴリッティ・ニロダは眠り、気絶あるいは飢餓状態によっても引き起こされる。

その原因が絶たれた瞬間、想念は再び起こってくる。

だとすればいったい何の役に立つというのだろう?

麻痺状態のなかでは平和があり、不幸はない。

だが、麻痺状態が消えれば不幸も再び起こる。

それゆえ、ニロダ(コントロール)は役に立たず、その効果も長つづきしないのである。

では、どうすればその効果が持続するのだろうか?

不幸の原因を突き止めることによってである。

不幸は対象物を知覚することによって起こる。

もし知覚されるものがなければ、それによって引き起こされる想念もなく、不幸も一掃される。

「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の問題である。

聖典や聖者は、「対象物は単なる心の想像物にすぎない」と言っている。

それらは実質的な存在をもっていない。

物質を調査してみなさい。

そしてこの表明の真実性を確かめるがいい。

すると、客観的な世界は主観的意識のなかにあるという結論に達するだろう。

それゆえ、真我こそが世界に浸透し、それを包み込む唯一の実在なのである。

そこに二元性は存在せず、それゆえあなたの平和を防げる想念も起こらない。

これが真我の実現である。

真我は永遠であり、その実現もまた永遠のものである。

アビャーサ(霊的修練)は想念に平和を乱されるたびに、真我のなかへと退くことで成り立っている。

それは集中でも心の破壊でもなく、真我のなかに退くことなのである。」

 

質問者

「なぜ集中には効果がないのでしょうか?」

 

マハルシ

「心に心を殺すように頼むのは、泥棒を警官と見なすようなものだ。

彼はあなたと一緒に泥棒を捕まえにいくかのように装うだろう。

だが、それでは何にもなるまい。

あなたは内面に向かい、「私」という想念がどこから起こるのかを見いださなければならない。

そうすれば心は存在しなくなるだろう。」

 

質問者

「心を内面に向けることも、いまだに心を用いていることにならないでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん心を用いている。

心の助けによってのみ、心を殺すことができるのはよく知られ、認められていることである。

だが、そこに心が存在すると想定し、それからそれを殺したいと言うよりも、まず心の源を探究しなさい。

すると、心などまったく存在していなかったことを発見するだろう。

外面に向いた心は想念や対象物を生みだす。

内面に向かえば、心そのものが真我となるのである。」

 

質問者

「しかし、まだよく理解できません。

あなたは「私」が偽りの「私」だと言われます。

いったいどうやって偽りの「私」を消滅させるのでしょうか?」

 

マハルシ

「偽りの「私」を消滅させる必要はない。

いったいどうやって偽りの「私」がそれ自身を消滅させると言うのだろう?

あなたがすべきことは「私」の源を見いだし、そこにとどまることだけである。

そうすることによってのみ、あなたの努力は実る。

そのあとは彼方なるものに身を任せるだけでいい。

そこでは、あなたは無力である。

努力によってそこに到達することはできないのだ。」

 

質問者

「もし「私」が今ここに在るなら、なぜ私はそう感じないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それを感じないと言っているのは誰だろうか?

本当の「私」が言うのか、それとも偽りの「私」が言うのだろうか?

調べてみなさい。

すると、それが偽りの「私」であることがわかるだろう。

偽りの「私」が障害なのである。

真実の「私」が隠れないように、偽りの「私」は取り除かれなければならない。

「私は実現していない」という想いが実現への障害である。

実際には、それはすでに実現されている。

それ以上実現されるべきものはない。

さもなければ実現とは何か新しいものだろう。

いままでなかったものなら、これから起こるということである。

誕生したものは死ななければならない。

実現が永遠のものでなければ、得る価値もない。

それゆえ、われわれが探究するものは、新しく起こる何かではない。

それは永遠なるものなのだ。

ただ障害によって知られていないだけである。

永遠なるものは無知のために知られない。

無知が障害である。

無知をぬぐい去りなさい。

そうすればすべてうまくいくだろう。

無知は「私」という想念と同一のものである。

その源を見つけだしなさい。

そうすれば、それは消滅するだろう。

「私」という想念は霊魂のようなものである。

目には見えないが、身体とともに立ち現れ、成長し、身体とともに消え去る。

身体意識が偽りの「私」なのだ。

この身体意識を棄て去りなさい。

それは「私」の源を探ることによって為される。

身体が「私」を主張することはない。

「私は身体だ」と言うのはあなたである。

この「私」とは誰かを見いだしなさい。

源を探ることによって、それは消え去るだろう。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

サットワの影響下にある者たちは

諸天善神を礼拝し

ラジャスの者たちは魔神 鬼神の類を拝み

タマスの者たちは死霊や幽鬼を拝む

 

また 聖典に示されていない方法で

激しい禁欲や苦行をする者は

虚栄心や我執のために行うのであり

欲と執着のとりこになっているのだ

 

こうした愚かな者どもは

肉体を構成する要素を衰弱させ

体内に住むわたしをも苦しめる

彼らの行為は魔的であると知れ

(バガヴァッド・ギーター第17章4-6)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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クンダリニーについて(10)

前回の記事では、ナーナ先生の実際のクンダリニー覚醒体験をご紹介させて頂きましたが、このクンダリニーとは一体何なのでしょうか?

 

人の体の仙骨辺りにあるムーラダーラ・チャクラに眠っていると言われている「蛇の力」とは、一体何なのでしょうか?

 

ジニャーナ(智慧の道)を説く聖者として、日本でもよく知られていらっしゃいますラマナ・マハルシが、このクンダリニーについて明確に説明して下さっていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

質問者

クンダリニーシャクティクンダリニーの力)はシャクティ(力)を得るヨーガの道にしたがう者だけに現れるのでしょうか、それとも帰依や愛の道にしたがう者にとっても現れるのでしょうか?」

 

マハルシ

クンダリニーシャクティをもたない人がいるだろうか?

シャクティの真の本性が知られたとき、それはアカンダーカーラ・ヴリッティ(純粋意識)あるいはアハム・スプーラナ(「私」の光輝)と呼ばれる。

いかなる道にしたがおうとも、クンダリニーシャクティはすべての人にとって存在している。

ただ名前が異なっているだけである。」

 

質問者

「『シュリー・ラマナ・ギーター』のなかに述べられているチット・ジャダ・グランティ(身体と意識との結び目)を断ち切るために、プラーナ(生気)をスシュムナー・ナーディ(脊柱のなかにある霊的神経)に送りこむにはどうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「「私は誰か?」と探求することによってである。

確かにヨーギはクンダリニーを目覚めさせ、スシュムナーまで送り上げようとしているかもしれない。

一方、ジニャーニにとってはこれが彼の目的ではないかもしれない。

だが、どちらもプラーナをスシュムナーに送り上げてチット・ジャダ・グランティを断ち切るという同じ結果に到達するのである。

クンダリニーとはアートマ、真我あるいはシャクティのもうひとつの名前にすぎない。

われわれはクンダリニーを身体のなかにあるように語る。

なぜならわれわれ自身をこの身体によって限定された存在と見なしているからである。

だが、実際クンダリニーは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである。」

 

質問者

「どのようにナーディ(霊的神経)を撹拌し、クンダリニーを目覚めさせてスシュムナーまで昇らせるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ヨーギはこの目的のために呼吸の制御法をするだろうが、ジニャーニには探求の方法しかない。

探求によって心が真我に溶け去ったとき、真我と異ならないクンダリニーあるいはシャクティは自動的に目覚めるだろう。

ヨーギたちはクンダリニーを目覚めさせ、サハスラーラ、頭頂点の霊的センターもしくは千の花弁の蓮に送り上げることを最も重要なこととしている。

彼らは聖典のなかにある「生命の気の流れは頭の泉門から身体に入る」という言葉を指摘し、ヴィヨーガ(分離)がそのようにして起こるため、ヨーガ(合一)は逆の経路から起こるのだと主張している。

それゆえ、ヨーガの成就のためには修練によってプラーナを集め、泉門に到達しなければならないと彼らは言う。

その反対にジニャーニは、ヨーギが身体の存在を認め、身体が真我から分離していると仮定していることを指摘する。

この分離という見解が受け入れられて、はじめてヨーギはヨーガの修練によって再び合一するための努力を推奨できるのである。

だが真実は、身体は心のなかに存在し、脳をその中枢としている。

脳が別の源から借りた光によって機能していることは、ヨーギ自身も泉門の理論のなかで認めている。

ジニャーニはさらに一歩進めて議論する。

もし光が借り物であれば、それはそれが生じた源から来たに違いない。

それゆえ、その源に直接行きなさい。

借り物に依存してはならない。

その源こそがハート、真我なのである。

真我がどこか他のところからやってきて、頭頂から身体のなかに入るわけではない。

真我はただあるがままに在る。

それは永遠に輝き、永遠に不動であり、揺らぐことも変わることもない。

個人ははかなく変化する身体や心の限界に閉じこめられている。

その身体と心も、不変の真我からその存在を得ているのである。

ただこの誤った自己同一化が放棄されなければならない。

それさえできれば、永遠に輝く真我は単一の非二元性の真理として見られるだろう。

もしサハスラーラに精神を集中すれば、サマーディの歓喜が得られることは疑いない。

だが、それでもヴァーサナー、心の潜在的傾向が破壊されることはない。

それゆえ、ヨーギはサマーディから目覚めざるをえない。

なぜなら、束縛からの解放がまだ達成されていないからである。

彼はまだ生来のヴァーサナーを根絶しなければならない。

そうでなければヴァーサナーは彼のサマーディを防げるだろう。

そのため、クンダリニーはスシュムナーを通ってサハスラーラに達し、サハスラーラからジーヴァナーディを通ってハート(真我)へ降りていく。

スシュムナーは曲線を描く。

それは最も低いチャクラから始まり、脊髄を通って脳に昇りつめ、そこから曲がって降りていき、ハートのなかに到達する。

ヨーギがハートに到達したとき、サマーディは永久的なものとなるのである。

これでハートこそが最終のセンターであることが理解できるだろう。」

 

 

質問者

「自由意志というものは存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰の意志だろうか?

行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は存在するだろう。

だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。

ジニャーナ(真我の知識)によって運命は克服される。

真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。」

 

質問者

「人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死などにおける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足らないことまで、すでに決定されているのでしょうか?

例えば、今私は手の中の扇を床の上に置きました。

それはこの日、この時間に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、すでに決定されているということなのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろんだ。

何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在を現わしたときにすでに決定されているのである。」

 

質問者

「それでは、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーナを得ることである。

それが彼と身体との同一化を断ち切る。

身体はプラーラブダ(前世に作られたカルマ)によって宿命づけられた、避けることのできない行為を通り抜けていくだろう。

人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だけをもっているのである。」

 

質問者

「それでは、自由意志とは作り話なのでしょうか?」

 

マハルシ

「自由意志は個人性に関わる領域で維持される。

個人性が維持されるかぎり、自由意志は存在する。

すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、自由意志を正しい経路に向けるように努めている。

誰にとって自由意志が問題となるのか見いだしなさい。

それらがどこから来るのか見いだし、そしてその源にとどまりなさい。

もしあなたがそうするなら、その両方とも超越される。

それがこの質問について議論する唯一の目的なのである。

誰にとってこの質問が起こったのか?

それを見いだして、心やすらかになりなさい。」

 

質問者

「もし、起こる運命にあることは起こるというなら、祈りや努力が何の役に立つというのでしょう、あるいは私たちはただ怠惰に、無為のままでいるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つだけある。

ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探求し、そして運命に束縛されているのは、真我でなく自我だけであって、自我は存在しないということを発見する方法。

もうひとつの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです」とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して、神の意のままにあなたをゆだねることである。

帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しはけっして完全なものになりえない。

真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり、ただそれだけのためにある。

解脱のためでさえない。

言葉を換えれば、真我探求の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

神の恩寵の力の働きによって、自己の本性を悟る「真我探求」の道は、短縮することが可能です。

 

 

「真我の目覚め」にご興味のある方、もっと詳しく知りたい方は、前回の記事で、自らのクンダリニー覚醒体験を公開して下さいましたナーナ先生が主催されますサット・サンガやマインドフルネス瞑想会にご参加下さい。

 

 http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

 

 「クリシュナよ 聖典の教えには従わないが

自分たち独得の信仰をもって

神を礼拝する人びとは

サットワ ラジャス タマスのどれに属しますか?」

 

「肉体をもった者たちの信仰には三種あり

それは生まれつきの性質によって決まる

三種とはサットワ ラジャス タマスーー

これからその説明をしよう

 

アルジュナよ 人は生まれつきの性格によって

異なった相(かたち)の信仰をもつようになる

信仰はその人の性質を表し

信仰はその人自身のすがたである 

 (バガヴァッド・ギーター第17章1-3)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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クンダリニーについて(9)

これまで「クンダリニー」という人間に内在する生命エネルギーの源の力(シャクティ)について、それがどのようなモノであるか?ご紹介してきましたが、今回は、実際に「クンダリニー」が覚醒した方の体験記をご紹介したいと思います。

 

クンダリニーは、誰にでも内在している本質の力ですが、一般的には、眠った状態であるため、その存在を知っている人は、ごく僅かです。

日本では、ヨーガを通して、その呼称だけは知っている人が少しずつ増えてきてはいますが、ヨーガの発祥地インドでは、クンダリニーを覚醒させたヨーギーは、ごく限られた人々であったため、彼らを「聖者」として崇めてきました。

 

このクンダリニーを目覚めさせるためのヨーガとして、クンダリニー・ヨーガがあります。

大聖ラーマクリシュナも、「クンダリニーが目覚めないと、真の霊性は目覚めない」と語っていらっしゃいます。

 

今回は、初めに、スワミ・シバナンダの「クンダリニー・ヨーガ」(Kundalini Yoga:日本未刊行)から、クンダリニーが目覚めると、どのようになるのか?どのようなことが起きるのか?という具体的な変化について、ご紹介したいと思います。

 

そして、その次に、実際に、初めてクンダリニーが目覚めた時の貴重な実体験を新鮮な感覚で語って下さいましたナーナ先生の手記をご紹介したいと思います。

 

クンダリニーの目覚めは、誰にでも起こり得る可能性はありますが、通常は、クンダリニーは眠ったままでいます。

そして、最後まで、その存在にすら気づかずに、肉体を離れていくことが、一般的な人間の一生と言えます。

 

それ故、古来より、霊的な探求として、ヨーガや瞑想などが実践されてきたのです。

 

クンダリニーの目覚めは、霊的な力の目覚めです。

 

それは、誰にでも内在する神聖なる力なのです。

 

まずは、スワミ・シバナンダの「クンダリニーの目覚めに関する体験」(Experiences on Awakening of Kundalini)からご紹介いたします。

 

 

『瞑想の最中に、神聖なるヴィジョンを見たり、神聖なる香りや味、神聖なる触感を経験したり、アナハタ(チャクラ)の音を聞いたりする。

神から指示を受け取る。

これらは、クンダリニーシャクティクンダリニーの力)が目覚めたことを意味する。

ムーラダーラ(チャクラ)でうねるような躍動があった時、髪の毛が根元で立った時、ウッディヤーナ(腹部筋肉の引き締め)、ジャランダーラ(喉の引き締め)、ムーラーバンダ(肛門、会陰の引き締め)が不意にやって来た時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。

呼吸が、いかなる努力も無しに停止する時、ケラバ・クンバカ(自然に起こる呼吸の休止状態)が、どんな努力も無しに、自ずとやって来た時、クンダリニーシャクティが活性化したことを知りなさい。

プラーナの流れがサハスラーラにまで上昇していくのを感じる時、至福を経験する時、自動的にオームを繰り返す時、心に世界のどんな考えもない時、クンダリニーシャクティが目覚めたことを知りなさい。

瞑想中に、目が眉間のトゥリクティに固定された時、シャンブハビ・ムドラ(眉間の中央に目を向けて凝視すること)が起きた時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

プラーナの振動をあなたの体内の各部分で感じる時、電気のショックのような躍動を経験する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

瞑想中に、体が無くなったように感じる時、瞼が閉じて、どんな努力をしても開かなくなった時、電気のような流れが神経を上下に流れる時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。

瞑想している時に、霊感や洞察を得る時、自然がその秘密を明らかにする時、すべての疑問が消滅し、ヴェーダ聖典の意味を明確に理解する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

体が空気のように軽くなり、混乱した状態でも、バランスの取れた心を持つ時、仕事に対して疲れを知らないエネルギーを持つ時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

神聖なる恍惚感を得た時、演説が上手になった時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。

少なくとも痛みや疲れなく、不意に異なったヨーガのポーズやアーサナを実践する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

美しい崇高な讃美歌や詩歌を不意に詠む時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。』

(KUNDALINI YOGA by Swami Sivananda)

 

 

次にご紹介しますのは、ナーナ先生のクンダリニー覚醒時の鮮明な体験談です。

 

『2010年の1月から、アシュタンガヨガセンターに行き始め、クンダリニーが覚醒したのは、その2ヶ月くらい後です。
その間に既に、毎回始まりのマントラとスタンディングポーズだけで、天と地が一本の柱のように通って、全身が太いエナジーの柱になり、体がグルグル回転して静止できないことが多々ありました。
ヨガセンターには、気づいたら真我一体になっていた2012年12月の少し前まで通い、アーサナを実践していました。
毎日早朝に排泄を済ませて、必ず朝風呂に入って全身を洗い身体を清めてから、スーリャ・ナマスカーラAからできるところまでを行いました。
アシュタンがヨガセンターへ行くことはさかのぼって5〜6年前からの目標でした。
そのために身体を整える準備をしていました。
元々子供の頃から柔軟、バランス、深層筋、持久力(精神力)を要する運動が好きで、そのための必要なストレッチは毎朝20年以上続けていました。

 

2010年、春の訪れを感じて間もないある日のことでした。

帰宅するため電車に乗って席に座っていました。

すると突然、体の中の根底辺りに何か物凄い力のエナジーの活動を感じました。

ゥアー!!これは何??

それは暴発した火の玉のようでした。

高速回転している光のようにも感じました。

間もなく脊椎に沿って下腹部へ上がってきました。

このとき目前に体の細胞が大きく拡大されて映り、生々しい体内の長い長いトンネルのような管の中を光の玉が超高速スピードで昇っていくのが見えると同時に体で感じていました。

そのトンネルの距離は時間のようでした。

光の高速エレベーターがとてつもない距離と年月を超高速スピードで一気に昇っていく感覚です。

更に上へ、胃の辺りから胸まで達するときには圧力を感じていたので、このままこの強力なエナジーが頭頂に昇り詰めたら!脳や血管も頭もろとも破裂して、と、一瞬よぎりましたが、恐怖感はありませんでした。

このとき既に首から顔の半分まで達していて、今起こっているがまま次の瞬間!

頭頂のてっぺんの大きな蓋が 勢いよく「ポン!!」っと、大きな音を響かせて吹っ飛びました。

その様も音もシャンパンのコルクが飛ぶ音に似ていて、それは白っぽく平たい丸皿に似た頭頂の蓋に圧が掛かって勢いよく音を響かせて飛んだ瞬間、体の一部であるその蓋を眼で追いかけていました。

と同時に体がスーッと軽くなり、椅子からお尻が数センチ浮き上がっていて、重さや重力も感じられなくなっていました。

この感覚は何?何が起きているの?いったい何か起こっているの?と自分に問いかけました。

この間一駅から二駅くらいの間でした。

降りる駅に着き、この感覚のまま立ち上がりドアに向かって一歩二歩と歩き出すと、足の裏の床を踏む感覚がまるで感じられないのです。

足の裏が靴を感じることも、靴の底が床を踏む感覚もありません。

更に確かめるように前へと進みましたが、確実に体が宙に浮いてしまっていて重さも全く感じられません。

反対側のホームの改札へ向かうため階段を下りはじめると、周りの空気全体がほわ~~んとほんわりしてきて、柔らかく温かくなり、それに優しく包まれてとてもいい気持ちになりました。

連絡路を歩き階段を上がりはじめる頃には、わたしを包む周りの空気の一つ一つの微細な粒子が 愛 愛 愛……全て愛でできているように感じました。

超微細なのに、それは目前に拡大されて見えていてはっきりとわかるのです。

とても幸せな気持ちになり、幸せの中に漂っていて、何か大きな愛に包まれていて、守られていて、心地よくて温か~いのです。

この時わたしは既に体も無くなっていて同化した中に、意識と感覚だけが“そこ”にありました。

ここは別の世界、別の次元、天界です。

まるで母なる宇宙の子宮の中にいるような、地球上では味わうことのできない至福の感覚のなかでわたしは漂っています。

その微細な粒子のエナジーは密度が濃くて柔らかいのですがしっかりはっきりしています。

これだ!!と実感したと同時に、人間が暮らす地球上は泥沼に映りました。

柔らか~な薄い膜で覆われた愛の風船のようなものが、ときより触れてきて気持ちよ~いのです。

気が付くと階段を上がりきったところで改札に向かって歩いていました。

体の重さが全く感じられないので手や腕を見てみると、形の枠だけあって中は透明に近い状態で透けていて背景が見えました。

子供の頃テレビ映画で観た透明人間が、輪郭(線)だけのボディーで動いていたのを思い出しました。

この状態のまま改札を出て住まいに向かいました。

帰宅後も宙に浮いた状態で重さも感じられないまま、いつもの家事を済ませました。

それでも尚、現象は続いていました。

突然起きたこの体験に予備知識もなく、聞いたこともなく、わたしはこのまま天に昇ってしまうのではないか?と少し不安もよぎりました。

今起こっていることに頭では理解できないまま夜も更けてベッドに入ることにしました。

眠りについた後どうなってしまうのかはわかりませんが、全てお任せする他にわたしの選択の余地などありません。

至福のエナジーに包まれてリラックスしていたので直ぐに眠りにつきました。

目が覚めると朝になっていて、体は元に戻っていました。

その後も短期間に連続して数回、同じ様な体験が起こりました。

後にクンダリニーの覚醒だとわかりました。』 (ナーナ)

 

 

 

 

『何の修行もしないのに神をつかむ人もいる。

その人たちは永遠(ニティヤ)の完成者(シッダ)と呼ばれる人だ。

称名誦経や苦行をして神をつかむ人は修行完成者(サーダナシッダ)と呼ばれる。

それから恩寵完成者(クリバシッダ)――千年も暗闇だった部屋にランプを持って入れば、途端に明るくなってしまう!

それから、突然完成者(ハタ―トシッダ)というのもある。

大金持ちの目にとまった貧しい家の倅のようなものだ。

旦那は娘をその息子にめあわせる。

娘といっしょに、家屋敷、馬車、男女の召使い、みんな付けてくれる。

それから、夢中完成者(スヴェプナシッダ)というのもある――夢で見神した人だ

永遠完成者(ニティヤシッダ)は別格だよ。

ラニの木(こすって火をとるための木片)のように、ちょっとこすりさえすればすぐ火がつく――こすらなくてもいい場合さえある。

ほんの少し修行すれば永遠完成者(ニティヤシッダ)は神をつかむし、また修行しなくても覚る。

しかし、永遠完成者(ニティヤシッダ)は神をつかんだ後修行する。

ヒョウタンやカボチャみたいに、先に実がなってそのあとで花だ』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)

 

 

 

今回クンダリニーが目覚めた時の体験談をご紹介させて頂きましたナーナ先生のご指導により、奈良県関谷駅近郊に新しく開設されました関谷ニルヴァーナセンターにて、「マインドフルネス瞑想会」が開催されます。

 

瞑想会についての詳細は、コチラhttps://nirvana777.org/)をご覧ください。

 

また、ナーナ先生のシャクティプラーナによる脳波の変化を実証する脳波計測データ

脳波の計測例)も併せてご覧ください。

 

 

 

この三つの地獄門を避け得た人は

真我実現(さとり)に到る行いに励み

アルジュナよ 次第に進歩向上して

究極の目的を達するであろう

 

聖典に示された教えを軽視して

欲望のままに行動する者は

生命体としての完成に達せず 真の幸福を得られず

至高の目的地に到達することができない

 

故に人間は聖典に示された教えによって

為す(する)べきことと為(な)してはならぬことを知れ

その規則を知り それに従うことにより

向上の道を着実に歩んで行きなさい」

 (バガヴァッド・ギーター第16章22-24)

 

 

 

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☆自己変容したい人

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☆束縛から解放され真の自由を得たい人

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☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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クンダリニーについて(8)

私たちの肉体に眠ったように内在している生命エネルギーの源の力を、古くインドでは、クンダリニーと命名し、このクンダリニーを目覚めさせることが、ヨーガの目的のひとつとされました。

 

その技法は、クンダリニー・ヨーガとしてまとめられ、今日でも、その詳細な技法や訓練方法に、グルを通して直接、或いは、本を通して間接的に触れることができます。

 

そのクンダリニー・ヨーガの第一人者でいらっしゃいます成瀬雅春さんの著書から、クンダリニーを理解する上で欠かせないプラーナ(エネルギー)について、ご紹介しています。

 

クンダリニーは、尾骶骨辺りに眠ったように内在する凝縮された爆発的な瞬発力のあるプラーナ(エネルギー)の塊です。

 

プラーナは、微細エネルギーなので、体感しにくいと言えますが、クンダリニーが目覚めた時は、爆弾が爆発した時のような瞬発力のある力に満ちたエネルギーが、尾骶骨辺りに起こり、それが背骨に沿って頭頂へと上昇するエネルギーの流れをハッキリとした感覚として感じますので、わからないということはありません。

(ただ、それがクンダリニーだと直ぐにはわからない、ということはあり得ますが)

場合によっては、そのエネルギーの勢いに、体が持ち上げられたり、空中浮遊が起こることもあるようです。

 

これは、クンダリニーの目覚め(覚醒)と言われており、クンダリニーは目覚めないと体感できませんが、プラーナの方は、ある程度、訓練などにより体感できるようになります。

 

先ずは、プラーナの体感方法を、前回に続き、見て行きましょう。

 

 

『プラーナという言葉を知っていても実感していない人にとっては、どれだけ説明されても納得できるものではないでしょう。

プラーナ自体に秘密はありません。

しかし、実感していない人には、秘密と謎だらけに思えるでしょう。

プラーナを実感するには、細かな観察力、洞察力、的確な判断力などが必要です。

また、単なる知識ではなく豊かな感性と、知恵を使えるだけの頭脳の柔軟性も要ります。

たとえば、「部屋の中には空気が充満している」という知識は誰にでもありますが、それは単なる知識にすぎません。

その知識をいったん捨ててみるとどうなるでしょうか?

室内空間にはいったい何が存在しているのだろうか?というアプローチをしたときに、「空気がある」と答えるのは、いわば知識に毒された人なのです。

空気というのは学校の勉強で教わった知識であり、自分が見つけだした概念ではないはずです。

そうであれば、空気が見えないものである以上、「室内空間には何が存在しているのか」は判らないはずです。

その状態から、「何が存在しているのだろうか」と探っていったときに実感としてつかめるものこそが、本当にその人がつかんだ室内空間なのです。

プラーナというのは、そういったアプローチによって見つけるべきものであり、知識で把握できるものではありません。

仮に読者のあなたが、本章をここまで読んで納得したと思っても、それもやはり知識にすぎず、プラーナをつかんだことにはなりません。

しかし、プラーナは存在するし、知識に依らず実感することもできるのです。

最も判りやすいのは、ヨーガ呼吸法(プラーナーヤーマ)を実践して、自分の内側が生命エネルギーに満ちた状態に変わってくるのを感じることです。

そのときに感じられるエネルギーが、プラーナなのです。

 

さて、プラーナを肉体感覚として感じられるようになると、それを自在に取り込むこともできるようになります。

宇宙に存在するすべてがプラーナで構成されているので、何からでもプラーナを取り込めるし、何にでもプラーナを与えることができるのです。

最初はなるべく判りやすいものを対象にして練習するといいでしょう。

たとえば「植物の生命力を吸収する」というイメージを持って、花や樹木を見るのです。

そして、プラーナを取り込むイメージをしやすいように、自分の呼吸を利用するのです。

息を吸うときには、「吸う息とともにその植物の生命エネルギーが入り込んでくる」というイメージを持つようにします。

そして息を吐くときは、取り込んだプラーナを全身に巡らせていく様子をイメージします。

最初はイメージするだけでいいのです。

それを続けていると、肉体感覚として少しずつ繊細にプラーナがつかめるようになります。

こうして細かい状態まで肉体感覚としてつかめるようになると、生命力に満ちた状態になります。

少し慣れたら、植物からは離れて、直接「吸う息とともにプラーナが入ってくる」様子をイメージしましょう。

積極的にプラーナを取り入れるつもりで十呼吸を一セットとして、気づいたときや時間のあるときに、いつでも実践してください。

そして、生命力に満ちてくるのを肉体感覚として感じられるようになれば大成功です。』

(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)

 

 

 

 

言葉で表現できないブラフマンから生まれ、常に動揺している心は、考えることで宇宙を創造する。

この宇宙の魔術は心の中の思考から生じる。

宇宙があるように見えるのは、心の思考のせいである。

しかしすべてを超越した大いなる真の実在に到達することを目指す者は、まずこの思考を放棄しなければならない。

すべての考え、想像を放棄した者はヨーガの正道を確立したといえる。

思考が消え去れば、宇宙も消えてなくなる。

思考が絶滅すると、見るものと見られるものを区別する考えは消え去り、実在のブラフマンが遮られることなく光り輝く。

その時、動くものも動かないものも、あまねく宇宙の幻影はブラフマンただ一つ、その中に溶け込む。

「私」と考えることで、現世のすべてが始まる。

私がなくなれば、太陽が闇をかき消すように、現世もまたたく間に消え去る。

「世界の創造は心の想像である」と「ヨーガ・ヴァシシュタ」に書かれている。

世界と呼ばれるものは心だけだ。

心が世界であり、心は外の世界として顕われる。

夢の中で夢を見るように、見える形を持たない心が、実在しない見える形をつくる。

この現世で経験すること、不安、心配は心の働きに起因する。

苦痛も快楽も心から生じる。

純粋な識別と修行を通じて心が滅びれば、幸せや不幸、苦痛と快楽も滅びる。

天国、地獄、現世の三つの世界は心の楽しみのために創造されたものである。

心の滅却とともに、過去、現在、未来の三つの時世も消え失せる。

心を支配することにより、すべては超常能力を獲得することができるのだ。

オームのシンボルは、三つの世界や時世とそれを超越した神をあらわしている。

 

心は必ず時間、空間、因果律の枠の中で働く。

この三つの枠は心が創造したものにすぎない。

椰子の木は実際には6メートルの高さではない。

高さは心の解釈である。

外界にあるのはただ「バイブレーション(振動)」だけである。

長さ、幅、高さ、厚み、寸法、空間などは心が創造しているだけである。

3キロの道のりは単なる観念であり、それだけの距離を歩いたと感じるだけだ。

心をブラフマンに集中し、超越すれば、この枠は外されて全く消え去る。

そこは時間も空間もない、「空」の世界だ。

私の友人、ナーラーヤン氏は私の前に立っている-これは心の創造である。

この現世は私自身の心の創造物である。

しかし実在しないというのならば、どこかほかにその物が実在しているということである。

観念論によれば、実際にはこの現世は全く存在しない。

この世界は心の想像にしかすぎない。

これが仏教のヴィニャーナ(純粋知性)説である。

実存主義によれば、世界は実在である。

マーダヴァの二元論、ラーマーヌジャの限定二元論、パタンジャリのラージャ・ヨーガは、現世は実在であると主張する。

カントは時間、空間、因果律は客観的な実在ではなく、知性の主観的な形にすぎないと論証している。

この主張の必然的な結論としては、「世界は空間の中に広がり、時間の中に起こり、因果律で普遍的に支配されている、だから世界は心の表現にしかすぎず、それ以上のものではない」。

時間、空間、因果律で制限された物質的で有限な心は、宇宙がなぜ、どのように生じたかを理解できない。

この質問は超越した神聖な質問なのである。

誰にもこの質問には答えられない。

聖典も聖者も答えていない。

あなたもこの問題で心を悩ます必要はない。

この問題は決して解決できないのだ。

この宇宙の創造は、ブラフマンの楽しみなのである。

神の遊び、神の神通力であり、神の恩寵からできている。

 

宇宙が存在しない、あるいは宇宙が崩壊するとは、実際の山や湖、木や川が消え失せることを意味しているのではない。

あなたの中でこの世界が偽りの幻だという確信が強まり、この世界は蜃気楼のようなイリュージョンなのだとしっかり思えた時、この世界が崩壊したということなのである。

山を破壊することはできないが、山という考えを破壊することはできるのである。

宇宙は目覚めた状態の夢のように、この世界は心の鏡に映った像にすぎない。

心はさまざまな絵が描かれた巨大な布地でもある。

しかしここには画家も、キャンパスも、筆、パレット、オイル、絵の具などの画材は何もない。

宇宙の絵は汚れのない知識の空間に描かれる雄大な絵画である。

純粋意識から生じる心の活動が宇宙を構成する。

心はマーヤーである。

心が名前や形に魅せられ、執着を断ちがたいのは迷いである。

自分を心だと考えるのは、幻影であり迷いである。

 

プラーナのバイブレーションや活動が心を動かす。

心の活動が宇宙を生じる。

心は外の世界として自らを顕す。

マーヤーの力の一つ、振動させる力から名前と形は生じる。

振動させる力は目覚めた状態と夢見る状態の両方で働く。

全世界はこの力によって展開されているが、熟睡状態ではこれは消え去る。

現世は心の中に、目、耳、口と古い潜在意識の印象、を通じて入り込む。

隠遁生活をすれば、最初の三つの入口を閉じることができる。

真の大いなる存在の探求によって、四番目の印象をも破壊することができる。

青く見える空の色は、実際には存在しない。

同様に幻の心には、この世が真の世界として輝いて見える。

その実、輝いているのはアートマンそのものであるのだが、心はブラフマンの知性の力であり、物質は物質化する力であり、プラーナは活動の力である。

すべてはブラフマンのものである。

欲望に引きずられて楽しむ心は、無知ゆえに、この偽りの宇宙が存在すると思い込む。

しかし、世界の本当の成り立ちを心に知らせなければならない。

そうして、心はブラフマンそのものであることを知ろう。

(ヨーガとこころの科学 スワミ・シバナンダ)

 

 

 

嫉妬心 羨望心が極めて強く

他者に害毒を与える最低の人間どもを

わたしは繰り返しくりかえし物質界の

魔族の胎内に投げ入れるのである

 

魔族の間で再生をくりかえす彼らは

アルジュナよ 決してわたしに近づくことはない

彼らは次第に下方へと沈んで行き

ついに最も忌まわしい形の存在になる

 

地獄に到るには三つの門があり

肉欲 怒り 貪欲がそれである

これらは魂を堕落させる原因ゆえ

正気の人間はこの三つを切り捨てよ

 

(バガヴァッド・ギーター第16章19-21)

 

 

 

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☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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