永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(2)

前回より、これまでと趣向を変えて、あらゆるウパニシャッドの文献が究極の真理として語っている「わたしは誰か?-アートマン(真我)である」という最奥の叡智に至る手法として、シュリー・ラマナ・マハルシの「真我探究」についてご紹介しています。

 

人には、それぞれ生まれ持った気質がありますが、その気質に応じて、究極の真理へと至る道は、数多く用意されています。

 

これまでの記事で、その内の数個をご紹介させて頂きましたが、「真我探究」はジニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)の道です。

 

アーサナやプラーナヤーマなどの肉体的な修行はせず、どちらかと言うと、哲学的思考と瞑想により、個我を消滅させ、真我を目覚めさせる方法です。

(結論を言ってしまえば、個我が存在すると思っているのは、個我だけであり、実際には、個我は存在せず、実在しているのは、真我(アートマン)だけなのです。

このことを知る、知らないは、個我だけに起きていることなので、知っていても、知らなくても、私たちが常に真我そのものである、と言うことに変わりはありません)

 

クンダリニー・ヨーガやタントラ・ヨーガなどの修行を通して、クンダリニーを目覚めさせなくとも、「真我探究」により、真の自己である本性を悟ることは可能であると、ラマナは語っています。

 

上にも書きましたが、真の自己である真我(アートマン)だけが真の実在であるという叡智に至る道は、いろいろと用意されています。

 

そして、それらの内、どのような道を通っても、私たちが行き着くゴール(目的地)はひとつしかありません。

 

わたしは誰か?

 

その答えがゴールです。

 

それでは、前回の続きをご紹介したいと思います。

 

 

『質問者

「ひとたび瞑想のなかでサット-チット-アーナンダ(存在-意識-幸福)を体験した人が、瞑想が終わるとともに再び身体と同一化することはありうるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それはありうる。

しかし、彼は修練によってその自己同一性を徐々に失っていくだろう。

そして真我のあふれる光のなかで、幻想の闇は永遠に消え去るだろう。

すべてのヴァーサナー(精神的傾向)が根絶されないまま得られた体験は、定着することができない。

ヴァーサナーを消滅させるための努力が必要である。

すべてのヴァーサナーが根絶されたときにのみ、知識は揺るぎないものとなるのである。

われわれは長年の精神的傾向と闘わなければならない。

それらはみな消えるだろう。

ただ、過去においてサーダナ(修練)を重ねてきた者の場合は比較的早く消え、他の者たちの場合はより遅いだろう。」

 

質問者

「心の潜在的傾向は段階的に消えるのでしょうか、それとも突然消えるのでしょうか?

私がこのことを尋ねるのは、長年この場所にいるにもかかわらず、何の段階的な変化も見られないからです。」

 

マハルシ

「太陽が昇るとき、闇は徐々に消えるだろうか、それとも突然消え去るだろうか?」

 

質問者

「私が探求において進歩しているかどうかを、どうすれば知ることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「真我の実現に向けての進歩は、想念の不在の度合によって知られる。

しかし、真我の実現自体に進歩は見られない。

それはつねに変わらない。

真我はつねに実現されているからである。

障害は想念だけであり、進歩の度合は、真我がつねに実現されているという理解への障害をどの程度取り除いたかによって知られるのである。

それゆえ、想念は起こっているのかと探ることによって調べられなければならない。

源を探るところに想念は起こらない。」

 

質問者

「疑問はつねに起こってきます。

それゆえの質問です。」

 

マハルシ

「疑問が起こり、それは解放される。

別の疑問が湧き、それも解決され、そしてまた新たな疑問がつづいていく。

すべての疑問を解くことは不可能である。

誰にその疑問が起こるのかを見てみなさい。

その源へ行き、そのなかにとどまりなさい。

そうすれば疑問は起こらない。

これが疑問を解消する方法である。」

 

質問者

「私は答えることなしに、「私は誰か?」と尋ねつづけるべきなのでしょうか?

誰が誰に尋ねるのでしょうか?

どのようなバーヴァナー(態度)で探究にのぞめばよいのでしょうか?

「私」とは何でしょうか、真我でしょうか、あるいは自我でしょうか?」

 

マハルシ

「「私は誰か?」という探究における「私」とは自我である。

その問いの真意は、自我の源、本性とは何かということである。

そのためにはどんなバーヴァナーも必要ない。

ただあなたがこのような名前をもった、このような姿の身体だというバーヴァナーを放棄する必要があるだけである。

あなたの真の本性に対してバーヴァナーは必要ない。

それはつねにあるがままに在る。

それは実在であり、バーヴァナーではない。」

 

質問者

「しかし、「私」が「私」を探さなければならないということは、おかしなことではないでしょうか?

「私は誰か?」という問いは、結局、空虚な形式に終わってしまうのではないでしょうか?

それとも、私はそれをある種のマントラのように繰り返しながら、際限なく自分自身に問いつづけるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我探究が空虚な形式でないことは明らかだ。

それはどんなマントラの復唱よりも優れたものである。

「私は誰か?」という問いが単なる知的な質疑でしかないなら、たいした価値はないないだろう。

真我探究の目的そのものは、心を完全にその源へ集中させることにある。

それゆえ、それはひとつの「私」がもうひとつの「私」を探し求めることではない。

真我探究は純粋な真我の覚醒の内に不動の安定を確立すべく、心のすべてを注ぎこむ強烈な活動を要する。

そのため、けっして空虚な形式などではありえない。」

 

質問者

「もし私が朝と夕方にいくらかの時間をアートマ・ヴィチャーラのためにあてがえばじゅうぶんでしょうか?

それとも、たとえ執筆しているときも、歩いているときもつねにするべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの真の本性とは何だろうか?

それは書くことや歩くことだろうか、それとも在ることだろうか?

唯一不変の真実とは在ることである。

あなたが純粋な存在状態を実現するまでは、探究を貫き通すべきである。

ひとたびあなたがそのなかに確立すれば、いかなる問題もなくなるだろう。

想念が湧き上がってくるまでは、誰も想念の源を探究することはないだろう。

あなたが「私は歩いている」や「私は書いている」と考えるかぎりは、誰がそれらをするのかと尋ねなさい。」

 

質問者

「もし私が想念を拒否つづけるならば、それをヴィチャーラ(探究)と呼ぶことができるでしょうか?」

 

マハルシ

「それはヴィチャーラへのひとつの足がかりにはなるかもしれない。

だが、あなたが真我に固執し、精神的な動きである想念の波がもはややんだときこそ、本当のヴィチャーラが始まるのである。」

 

質問者

「それではヴィチャーラは知的なものではないのでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや、これはアートマ・ヴィチャーラ、内面の探究である。

心をつかみ、それを調べていくようにと初心者は教えられる。

しかし、結局心とは何だろうか?

それは真我の投影である。

それがどこから現れ、誰にとって現れるのかを見いだしなさい。

すると、「私」という想念がその根本原因であることが知れるだろう。

さらに深く見極めなさい。

すると、「私」という想念は消え、そこには「私」という意識の無限の広がりがあるだろう。」

 

質問者

「私はシュリー・オーロビンド・アーシュラムのマザーに次のように尋ねました。

「私は神が本当の姿で現れることを祈って、想念を起こすことなく、心を空白状態に保つ修練をしましたが、何も見ることはできません」。

すると、彼女の答えはこのようなものでした。

「その態度は正しいものです。

力は天から降りてくるでしょう。

それは直接体験なのです」。

私はこれ以上何かするべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あるがままのあなたで在りなさい。

天から降りてくるようなものは何もないし、現れもしない。

必要なのは自我を失うことだけだ。

在るものは、つねにそこに在る。

今このときでさえ、あなたはそれである。

空白状態はあなたによって見られている。

空白を見ているあなたはそこに存在している。

何を待つというのだろうか?

「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとする欲望はすべて自我の作用である。

あなたは自我の罠に陥っている。

これらのことはあなたではなく、すべて自我が言っているのである。

あるがままのあなたで在りなさい。

それ以上何も必要ない!

ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達する。

そしてそれを達成したら、再び戻ってくるのだ。

それゆえ、そのような無駄なことはすべてやめるがいい。

あるがままに在りなさい。

あなたが誰なのかを知りなさい。

生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。

そして真我としてとどまりなさい。」

 

質問者

「人はどのようにして真我を知るのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我を知ることは、真我として在ることである。

あなたは真我を知らないと言えるだろうか?

鏡がなければ目を直接見ることはできない。

だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?

同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいている。

それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろうか?

あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対的知識の点から見た不在を意味している。

なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため自分自身をそれと同一視するからである。

真我を対象化することはできない。

そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを困難にしてしまう。

そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあなたは尋ねるのである。」

 

質問者

「あなたは在ることについて語っています。

何として在ることでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。

「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理の要諦である。

その方法は、「静かに在ること」に尽きる。

では静寂とは何を意味するのだろうか?

それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。

なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。

「私はこれである」という観念を放棄しなさい。

真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。

それ以上簡単なことがあるだろうか。

それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なことなのである。

唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるものである。

それを注意の的として射止め、ハートのなかで強烈にそれを知るべきである。

この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、明晰で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。

ハートのなかで絶えず輝き続ける意識こそが真我であり、存在や非存在である何か、などと考えることなく、ただ静かに在ることによって知られるもの、ただそれだけが完全な実在であると知りなさい。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)によって

人の好む食物にも三種類ある

供犠 苦行 布施についても同様

この相違にについて話すから聞きなさい

 

サットワの人の好む食物は

生命力を増進し 体を浄化して

力と健康と幸福と喜びをもらたし

水分と脂肪に富み健康的で心を和ませる

 

ラジャスの人の好む食物は

苦味 酸味が強いもの 塩からいもの

熱いもの 乾燥したもの 刺激性のもの

こうした食物は心身の病の原因となる

 

タマスの人の好む食物は

古いもの 味のないもの

残り屑 またはそれが入っているもの

それから 不浄なもの

(バガヴァッド・ギーター第17章7-10)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(1)

これまでの記事で、私たちの体に眠っている生命エネルギーの源であるクンダリニーについてご紹介してきました。

また、前回の記事では、シュリー・ラマナ・マハルシが「クンダリニーアートマン(真我)である」と語っていらっしゃることも、ご紹介しました。

 

ヨーガの修行の目的は、この眠った状態にあるクンダリニーを目覚めさせることですが、シュリー・ラマナ・マハルシは、アーサナやプラーナヤーマなどの体を使ったヨーガの修行とは異なる「真我探究」という方法を提唱しています。

 

これは、心を使って自己の本性を悟るための精神的修練であり、「心のヨーガ」ともいえる方法であり、「ジニャーナ・ヨーガ」(智慧のヨーガ)と呼ばれています。

 

わたしは誰か?

 

この直接的な問いを自らに問うことで、その答えが得られると、シュリー・ラマナ・マハルシは語っています。

 

それでは、ジニャーナの道とは一体どのようなものなのでしょうか?

 

『自分は真我そのものである』という智慧に達することは、霊的探求の目的と言えます。

 

目覚めるのは、クンダリニーであり、真我であり、「わたし」が何かに目覚める訳ではありません。

(ずっと在ったにも拘わらず、その存在が知られていないがために、「眠っている」と表現され、それが表に顕わになることで、「目覚める」と表現されるだけで、実際には、真我は眠っている訳でも、眠りから目覚める訳でもありませんが、人間からすると、そのように感じられるということなのでしょう)

 

アートマン(真我)へと到る直接的な方法『真我探究』(アートマン・ヴィチャーラ)とはどのようなものなのか?早速、シュリー・ラマナ・マハルシの遺されたお言葉をご紹介したいと思います。

 

 

『質問者

「どうすれば平和な心を得られるでしょうか?

ヴィチャーラ(探究)によって平和になったようには思えません。」

 

マハルシ

「平和とはあなたの自然な状態である。

その自然な状態を防げているのは心なのだ。

あなたが平和を体験していないとすれば、それはあなたのヴィチャーラが心のなかだけでされてきたということである。

その心とは何かと調べなさい。

そうすれば、それは消え失せるだろう。

想念を離れて心というものは存在しない。

それでも想念は現れつづけるため、想念がそこから起こりそこへと消えていくそれが心だと推測するのである。

それはいったい何なのかと綿密に調べていけば、心といったものは存在しないことが見いだされるだろう。

このようにして心が消え去ったとき、あなたは永遠の平和を実現するのである。」

 

質問者

「私が「私」という想念の現れるその源へと探り入ると、これ以上先へ進むことのできない心の静寂にたどり着きます。

そこにはどんな想念もなく、虚空、空白の状態があるばかりです。

柔らかな光が広がり、あたかも身体がないかのようです。

身体や形態の認識もありません。

その体験はおよそ半時間ほどつづき、喜ばしいものです。

自由あるいは解放、名前は何であれ、永遠の幸福を確保するということは、この体験が何時間、何日、何か月も維持されるように修練をつづけていくことだと結論づけてよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「これは自由でも解放でもない。

このような状態は、マノラヤ、一時的な心の静止と呼ばれている。

マノラヤとは、思考の動きを一時的に抑えた集中を意味する。

この集中が止まるやいなや、以前のように古い想念や新しい想念が急激に湧き上がってくる。

そしてこの一時的な心の静止がたとえ千年つづいたとしても、誕生と死からの解放がある心の完全な破壊に至ることはけっしてない。

それゆえ、修行者はつねに油断することなく、「この体験は誰に起こったのか」、「この喜びを体験しているのは誰なのか」と尋ねなければならない。

この探究なしでは、彼は長時間のトランス状態あるいは深い眠り(ヨーガ・ニドラー)に陥ってしまうだろう。

この段階における霊的修練の正しい指導者の不在がもとで、多くの修行者が偽りの解放感覚のとりこになって惑わされてきた。

そして無事に目的地にたどり着いたのは、ほんのひと握りの人たちだけだったのである。

一時的な心の静止(マノラヤ)と想念の永久的な破壊(マノナーシャ)の違いを理解するサーダカ(修行者)は非常にまれである。

マノラヤでは想念の波が一時的に静まるが、たとえそれが千年つづいたとしても、マノラヤが止まったとたん、一時的に静止された想念の波は湧き上がってくる。

それゆえ、人は自分の霊的修練の進展を注意深く見守っていなければならず、そのような思考の静止に魅了されるのを許してはならない。

これを体験した瞬間意識を取り戻し、この静寂を体験しているのは誰かと内側に向けて尋ねるべきである。

いかなる想念が入り込むことも許さず、と同時に深い眠り(ヨーガ・ニドラー)あるいは自己催眠にも襲われないようにしなければならない。

これも目的に向けての向上の兆候ではあるが、それはまた解放への道とヨーガ・ニドラーへの道の分岐点でもある。

やさしく直接的な解放への近道がヴィチャーラ・マールガ、真我探究の道である。

探究によって、あなたは想念の流れを深くその源に達するまで導き、そのなかへと溶け去る。

そのときこそあなたは内なる感応を得るだろう。

すべての想念を破壊して、ついに永久のやすらぎを見いだすのである。」

 

質問者

「この「私」という想念は私から現れます。

しかし、私は真我を知らないのです。」

 

マハルシ

「これらはみな精神的観念にすぎない。

現在のあなたは、あなた自身を偽りの「私」、つまり「私」という想念と同一化している。

この「私」という想念は立ち現れては沈みゆく。

それに反して、真の「私」はそのどちらも超えている。

あなたの存在が途切れるということはありえない。

眠っていたそのあなたが、今日覚めているのである。

深い眠りのなかに不幸はなかったが、今それはある。

これらの違いが体験されるのは何が起こったからだろうか?

眠りのなかに「私」という想念はなかったが、今それはある。

真の「私」ははっきりと見えないが、偽りの「私」は自分を誇示している。

この偽りの「私」があなたの正しい智慧を防げているのである。

どこからこの偽りの「私」が立ち現れてくるのか見いだしなさい。

そうすれば、それは消え去るだろう。

そのとき、あなたはあるがままのあなたである絶対的実在として在るだろう。」

 

質問者

「どうすればいいのでしょうか?

いままで私は成功してこなかったのです。」

 

マハルシ

「「私」という想念の源を探究しなさい。

するべきことはそれだけである。

宇宙は「私」という想念が原因で存在している。

「私」という想念が終焉すれば、不幸もまた終焉する。

偽りの「私」という想念は、その源を探ることによってのみ終焉するのである。

人びとはどのように心を制御すべきかと尋ねてくる。

私は彼らに言う。

「心を見せてみなさい。

そうすれば何をすべきかがわかるだろう」と。

心とは単なる一束の想念にすぎない。

それが事実である。

どうしてそれを思ったり、望んだりすることで絶滅させることができるだろうか?

あなたの想念も歓喜も心の一部分なのである。

新たな想念が湧き上がるごとに心は肥えていく。

それゆえ、心によって心を殺そうとすることはばかげている。

心を殺す唯一の方法は、その源を見いだし、それをとらえることである。

そうすれば心はひとりでに消え去るだろう。

ヨーガはチッタ・ヴリッティ・ニロダ(心の活動の静止)を教える。

だが、私はアートマ・ヴィチャーラ(真我探究)を教える。

これは実際的な方法である。

チッタ・ヴリッティ・ニロダは眠り、気絶あるいは飢餓状態によっても引き起こされる。

その原因が絶たれた瞬間、想念は再び起こってくる。

だとすればいったい何の役に立つというのだろう?

麻痺状態のなかでは平和があり、不幸はない。

だが、麻痺状態が消えれば不幸も再び起こる。

それゆえ、ニロダ(コントロール)は役に立たず、その効果も長つづきしないのである。

では、どうすればその効果が持続するのだろうか?

不幸の原因を突き止めることによってである。

不幸は対象物を知覚することによって起こる。

もし知覚されるものがなければ、それによって引き起こされる想念もなく、不幸も一掃される。

「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の問題である。

聖典や聖者は、「対象物は単なる心の想像物にすぎない」と言っている。

それらは実質的な存在をもっていない。

物質を調査してみなさい。

そしてこの表明の真実性を確かめるがいい。

すると、客観的な世界は主観的意識のなかにあるという結論に達するだろう。

それゆえ、真我こそが世界に浸透し、それを包み込む唯一の実在なのである。

そこに二元性は存在せず、それゆえあなたの平和を防げる想念も起こらない。

これが真我の実現である。

真我は永遠であり、その実現もまた永遠のものである。

アビャーサ(霊的修練)は想念に平和を乱されるたびに、真我のなかへと退くことで成り立っている。

それは集中でも心の破壊でもなく、真我のなかに退くことなのである。」

 

質問者

「なぜ集中には効果がないのでしょうか?」

 

マハルシ

「心に心を殺すように頼むのは、泥棒を警官と見なすようなものだ。

彼はあなたと一緒に泥棒を捕まえにいくかのように装うだろう。

だが、それでは何にもなるまい。

あなたは内面に向かい、「私」という想念がどこから起こるのかを見いださなければならない。

そうすれば心は存在しなくなるだろう。」

 

質問者

「心を内面に向けることも、いまだに心を用いていることにならないでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん心を用いている。

心の助けによってのみ、心を殺すことができるのはよく知られ、認められていることである。

だが、そこに心が存在すると想定し、それからそれを殺したいと言うよりも、まず心の源を探究しなさい。

すると、心などまったく存在していなかったことを発見するだろう。

外面に向いた心は想念や対象物を生みだす。

内面に向かえば、心そのものが真我となるのである。」

 

質問者

「しかし、まだよく理解できません。

あなたは「私」が偽りの「私」だと言われます。

いったいどうやって偽りの「私」を消滅させるのでしょうか?」

 

マハルシ

「偽りの「私」を消滅させる必要はない。

いったいどうやって偽りの「私」がそれ自身を消滅させると言うのだろう?

あなたがすべきことは「私」の源を見いだし、そこにとどまることだけである。

そうすることによってのみ、あなたの努力は実る。

そのあとは彼方なるものに身を任せるだけでいい。

そこでは、あなたは無力である。

努力によってそこに到達することはできないのだ。」

 

質問者

「もし「私」が今ここに在るなら、なぜ私はそう感じないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それを感じないと言っているのは誰だろうか?

本当の「私」が言うのか、それとも偽りの「私」が言うのだろうか?

調べてみなさい。

すると、それが偽りの「私」であることがわかるだろう。

偽りの「私」が障害なのである。

真実の「私」が隠れないように、偽りの「私」は取り除かれなければならない。

「私は実現していない」という想いが実現への障害である。

実際には、それはすでに実現されている。

それ以上実現されるべきものはない。

さもなければ実現とは何か新しいものだろう。

いままでなかったものなら、これから起こるということである。

誕生したものは死ななければならない。

実現が永遠のものでなければ、得る価値もない。

それゆえ、われわれが探究するものは、新しく起こる何かではない。

それは永遠なるものなのだ。

ただ障害によって知られていないだけである。

永遠なるものは無知のために知られない。

無知が障害である。

無知をぬぐい去りなさい。

そうすればすべてうまくいくだろう。

無知は「私」という想念と同一のものである。

その源を見つけだしなさい。

そうすれば、それは消滅するだろう。

「私」という想念は霊魂のようなものである。

目には見えないが、身体とともに立ち現れ、成長し、身体とともに消え去る。

身体意識が偽りの「私」なのだ。

この身体意識を棄て去りなさい。

それは「私」の源を探ることによって為される。

身体が「私」を主張することはない。

「私は身体だ」と言うのはあなたである。

この「私」とは誰かを見いだしなさい。

源を探ることによって、それは消え去るだろう。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

サットワの影響下にある者たちは

諸天善神を礼拝し

ラジャスの者たちは魔神 鬼神の類を拝み

タマスの者たちは死霊や幽鬼を拝む

 

また 聖典に示されていない方法で

激しい禁欲や苦行をする者は

虚栄心や我執のために行うのであり

欲と執着のとりこになっているのだ

 

こうした愚かな者どもは

肉体を構成する要素を衰弱させ

体内に住むわたしをも苦しめる

彼らの行為は魔的であると知れ

(バガヴァッド・ギーター第17章4-6)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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クンダリニーについて(10)

前回の記事では、ナーナ先生の実際のクンダリニー覚醒体験をご紹介させて頂きましたが、このクンダリニーとは一体何なのでしょうか?

 

人の体の仙骨辺りにあるムーラダーラ・チャクラに眠っていると言われている「蛇の力」とは、一体何なのでしょうか?

 

ジニャーナ(智慧の道)を説く聖者として、日本でもよく知られていらっしゃいますラマナ・マハルシが、このクンダリニーについて明確に説明して下さっていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

質問者

クンダリニーシャクティクンダリニーの力)はシャクティ(力)を得るヨーガの道にしたがう者だけに現れるのでしょうか、それとも帰依や愛の道にしたがう者にとっても現れるのでしょうか?」

 

マハルシ

クンダリニーシャクティをもたない人がいるだろうか?

シャクティの真の本性が知られたとき、それはアカンダーカーラ・ヴリッティ(純粋意識)あるいはアハム・スプーラナ(「私」の光輝)と呼ばれる。

いかなる道にしたがおうとも、クンダリニーシャクティはすべての人にとって存在している。

ただ名前が異なっているだけである。」

 

質問者

「『シュリー・ラマナ・ギーター』のなかに述べられているチット・ジャダ・グランティ(身体と意識との結び目)を断ち切るために、プラーナ(生気)をスシュムナー・ナーディ(脊柱のなかにある霊的神経)に送りこむにはどうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「「私は誰か?」と探求することによってである。

確かにヨーギはクンダリニーを目覚めさせ、スシュムナーまで送り上げようとしているかもしれない。

一方、ジニャーニにとってはこれが彼の目的ではないかもしれない。

だが、どちらもプラーナをスシュムナーに送り上げてチット・ジャダ・グランティを断ち切るという同じ結果に到達するのである。

クンダリニーとはアートマ、真我あるいはシャクティのもうひとつの名前にすぎない。

われわれはクンダリニーを身体のなかにあるように語る。

なぜならわれわれ自身をこの身体によって限定された存在と見なしているからである。

だが、実際クンダリニーは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである。」

 

質問者

「どのようにナーディ(霊的神経)を撹拌し、クンダリニーを目覚めさせてスシュムナーまで昇らせるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ヨーギはこの目的のために呼吸の制御法をするだろうが、ジニャーニには探求の方法しかない。

探求によって心が真我に溶け去ったとき、真我と異ならないクンダリニーあるいはシャクティは自動的に目覚めるだろう。

ヨーギたちはクンダリニーを目覚めさせ、サハスラーラ、頭頂点の霊的センターもしくは千の花弁の蓮に送り上げることを最も重要なこととしている。

彼らは聖典のなかにある「生命の気の流れは頭の泉門から身体に入る」という言葉を指摘し、ヴィヨーガ(分離)がそのようにして起こるため、ヨーガ(合一)は逆の経路から起こるのだと主張している。

それゆえ、ヨーガの成就のためには修練によってプラーナを集め、泉門に到達しなければならないと彼らは言う。

その反対にジニャーニは、ヨーギが身体の存在を認め、身体が真我から分離していると仮定していることを指摘する。

この分離という見解が受け入れられて、はじめてヨーギはヨーガの修練によって再び合一するための努力を推奨できるのである。

だが真実は、身体は心のなかに存在し、脳をその中枢としている。

脳が別の源から借りた光によって機能していることは、ヨーギ自身も泉門の理論のなかで認めている。

ジニャーニはさらに一歩進めて議論する。

もし光が借り物であれば、それはそれが生じた源から来たに違いない。

それゆえ、その源に直接行きなさい。

借り物に依存してはならない。

その源こそがハート、真我なのである。

真我がどこか他のところからやってきて、頭頂から身体のなかに入るわけではない。

真我はただあるがままに在る。

それは永遠に輝き、永遠に不動であり、揺らぐことも変わることもない。

個人ははかなく変化する身体や心の限界に閉じこめられている。

その身体と心も、不変の真我からその存在を得ているのである。

ただこの誤った自己同一化が放棄されなければならない。

それさえできれば、永遠に輝く真我は単一の非二元性の真理として見られるだろう。

もしサハスラーラに精神を集中すれば、サマーディの歓喜が得られることは疑いない。

だが、それでもヴァーサナー、心の潜在的傾向が破壊されることはない。

それゆえ、ヨーギはサマーディから目覚めざるをえない。

なぜなら、束縛からの解放がまだ達成されていないからである。

彼はまだ生来のヴァーサナーを根絶しなければならない。

そうでなければヴァーサナーは彼のサマーディを防げるだろう。

そのため、クンダリニーはスシュムナーを通ってサハスラーラに達し、サハスラーラからジーヴァナーディを通ってハート(真我)へ降りていく。

スシュムナーは曲線を描く。

それは最も低いチャクラから始まり、脊髄を通って脳に昇りつめ、そこから曲がって降りていき、ハートのなかに到達する。

ヨーギがハートに到達したとき、サマーディは永久的なものとなるのである。

これでハートこそが最終のセンターであることが理解できるだろう。」

 

 

質問者

「自由意志というものは存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰の意志だろうか?

行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は存在するだろう。

だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。

ジニャーナ(真我の知識)によって運命は克服される。

真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。」

 

質問者

「人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死などにおける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足らないことまで、すでに決定されているのでしょうか?

例えば、今私は手の中の扇を床の上に置きました。

それはこの日、この時間に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、すでに決定されているということなのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろんだ。

何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在を現わしたときにすでに決定されているのである。」

 

質問者

「それでは、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーナを得ることである。

それが彼と身体との同一化を断ち切る。

身体はプラーラブダ(前世に作られたカルマ)によって宿命づけられた、避けることのできない行為を通り抜けていくだろう。

人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だけをもっているのである。」

 

質問者

「それでは、自由意志とは作り話なのでしょうか?」

 

マハルシ

「自由意志は個人性に関わる領域で維持される。

個人性が維持されるかぎり、自由意志は存在する。

すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、自由意志を正しい経路に向けるように努めている。

誰にとって自由意志が問題となるのか見いだしなさい。

それらがどこから来るのか見いだし、そしてその源にとどまりなさい。

もしあなたがそうするなら、その両方とも超越される。

それがこの質問について議論する唯一の目的なのである。

誰にとってこの質問が起こったのか?

それを見いだして、心やすらかになりなさい。」

 

質問者

「もし、起こる運命にあることは起こるというなら、祈りや努力が何の役に立つというのでしょう、あるいは私たちはただ怠惰に、無為のままでいるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つだけある。

ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探求し、そして運命に束縛されているのは、真我でなく自我だけであって、自我は存在しないということを発見する方法。

もうひとつの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです」とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して、神の意のままにあなたをゆだねることである。

帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しはけっして完全なものになりえない。

真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり、ただそれだけのためにある。

解脱のためでさえない。

言葉を換えれば、真我探求の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

神の恩寵の力の働きによって、自己の本性を悟る「真我探求」の道は、短縮することが可能です。

 

 

「真我の目覚め」にご興味のある方、もっと詳しく知りたい方は、前回の記事で、自らのクンダリニー覚醒体験を公開して下さいましたナーナ先生が主催されますサット・サンガやマインドフルネス瞑想会にご参加下さい。

 

 http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

 

 「クリシュナよ 聖典の教えには従わないが

自分たち独得の信仰をもって

神を礼拝する人びとは

サットワ ラジャス タマスのどれに属しますか?」

 

「肉体をもった者たちの信仰には三種あり

それは生まれつきの性質によって決まる

三種とはサットワ ラジャス タマスーー

これからその説明をしよう

 

アルジュナよ 人は生まれつきの性格によって

異なった相(かたち)の信仰をもつようになる

信仰はその人の性質を表し

信仰はその人自身のすがたである 

 (バガヴァッド・ギーター第17章1-3)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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クンダリニーについて(9)

これまで「クンダリニー」という人間に内在する生命エネルギーの源の力(シャクティ)について、それがどのようなモノであるか?ご紹介してきましたが、今回は、実際に「クンダリニー」が覚醒した方の体験記をご紹介したいと思います。

 

クンダリニーは、誰にでも内在している本質の力ですが、一般的には、眠った状態であるため、その存在を知っている人は、ごく僅かです。

日本では、ヨーガを通して、その呼称だけは知っている人が少しずつ増えてきてはいますが、ヨーガの発祥地インドでは、クンダリニーを覚醒させたヨーギーは、ごく限られた人々であったため、彼らを「聖者」として崇めてきました。

 

このクンダリニーを目覚めさせるためのヨーガとして、クンダリニー・ヨーガがあります。

大聖ラーマクリシュナも、「クンダリニーが目覚めないと、真の霊性は目覚めない」と語っていらっしゃいます。

 

今回は、初めに、スワミ・シバナンダの「クンダリニー・ヨーガ」(Kundalini Yoga:日本未刊行)から、クンダリニーが目覚めると、どのようになるのか?どのようなことが起きるのか?という具体的な変化について、ご紹介したいと思います。

 

そして、その次に、実際に、初めてクンダリニーが目覚めた時の貴重な実体験を新鮮な感覚で語って下さいましたナーナ先生の手記をご紹介したいと思います。

 

クンダリニーの目覚めは、誰にでも起こり得る可能性はありますが、通常は、クンダリニーは眠ったままでいます。

そして、最後まで、その存在にすら気づかずに、肉体を離れていくことが、一般的な人間の一生と言えます。

 

それ故、古来より、霊的な探求として、ヨーガや瞑想などが実践されてきたのです。

 

クンダリニーの目覚めは、霊的な力の目覚めです。

 

それは、誰にでも内在する神聖なる力なのです。

 

まずは、スワミ・シバナンダの「クンダリニーの目覚めに関する体験」(Experiences on Awakening of Kundalini)からご紹介いたします。

 

 

『瞑想の最中に、神聖なるヴィジョンを見たり、神聖なる香りや味、神聖なる触感を経験したり、アナハタ(チャクラ)の音を聞いたりする。

神から指示を受け取る。

これらは、クンダリニーシャクティクンダリニーの力)が目覚めたことを意味する。

ムーラダーラ(チャクラ)でうねるような躍動があった時、髪の毛が根元で立った時、ウッディヤーナ(腹部筋肉の引き締め)、ジャランダーラ(喉の引き締め)、ムーラーバンダ(肛門、会陰の引き締め)が不意にやって来た時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。

呼吸が、いかなる努力も無しに停止する時、ケラバ・クンバカ(自然に起こる呼吸の休止状態)が、どんな努力も無しに、自ずとやって来た時、クンダリニーシャクティが活性化したことを知りなさい。

プラーナの流れがサハスラーラにまで上昇していくのを感じる時、至福を経験する時、自動的にオームを繰り返す時、心に世界のどんな考えもない時、クンダリニーシャクティが目覚めたことを知りなさい。

瞑想中に、目が眉間のトゥリクティに固定された時、シャンブハビ・ムドラ(眉間の中央に目を向けて凝視すること)が起きた時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

プラーナの振動をあなたの体内の各部分で感じる時、電気のショックのような躍動を経験する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

瞑想中に、体が無くなったように感じる時、瞼が閉じて、どんな努力をしても開かなくなった時、電気のような流れが神経を上下に流れる時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。

瞑想している時に、霊感や洞察を得る時、自然がその秘密を明らかにする時、すべての疑問が消滅し、ヴェーダ聖典の意味を明確に理解する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

体が空気のように軽くなり、混乱した状態でも、バランスの取れた心を持つ時、仕事に対して疲れを知らないエネルギーを持つ時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

神聖なる恍惚感を得た時、演説が上手になった時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。

少なくとも痛みや疲れなく、不意に異なったヨーガのポーズやアーサナを実践する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

美しい崇高な讃美歌や詩歌を不意に詠む時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。』

(KUNDALINI YOGA by Swami Sivananda)

 

 

次にご紹介しますのは、ナーナ先生のクンダリニー覚醒時の鮮明な体験談です。

 

『2010年の1月から、アシュタンガヨガセンターに行き始め、クンダリニーが覚醒したのは、その2ヶ月くらい後です。
その間に既に、毎回始まりのマントラとスタンディングポーズだけで、天と地が一本の柱のように通って、全身が太いエナジーの柱になり、体がグルグル回転して静止できないことが多々ありました。
ヨガセンターには、気づいたら真我一体になっていた2012年12月の少し前まで通い、アーサナを実践していました。
毎日早朝に排泄を済ませて、必ず朝風呂に入って全身を洗い身体を清めてから、スーリャ・ナマスカーラAからできるところまでを行いました。
アシュタンがヨガセンターへ行くことはさかのぼって5〜6年前からの目標でした。
そのために身体を整える準備をしていました。
元々子供の頃から柔軟、バランス、深層筋、持久力(精神力)を要する運動が好きで、そのための必要なストレッチは毎朝20年以上続けていました。

 

2010年、春の訪れを感じて間もないある日のことでした。

帰宅するため電車に乗って席に座っていました。

すると突然、体の中の根底辺りに何か物凄い力のエナジーの活動を感じました。

ゥアー!!これは何??

それは暴発した火の玉のようでした。

高速回転している光のようにも感じました。

間もなく脊椎に沿って下腹部へ上がってきました。

このとき目前に体の細胞が大きく拡大されて映り、生々しい体内の長い長いトンネルのような管の中を光の玉が超高速スピードで昇っていくのが見えると同時に体で感じていました。

そのトンネルの距離は時間のようでした。

光の高速エレベーターがとてつもない距離と年月を超高速スピードで一気に昇っていく感覚です。

更に上へ、胃の辺りから胸まで達するときには圧力を感じていたので、このままこの強力なエナジーが頭頂に昇り詰めたら!脳や血管も頭もろとも破裂して、と、一瞬よぎりましたが、恐怖感はありませんでした。

このとき既に首から顔の半分まで達していて、今起こっているがまま次の瞬間!

頭頂のてっぺんの大きな蓋が 勢いよく「ポン!!」っと、大きな音を響かせて吹っ飛びました。

その様も音もシャンパンのコルクが飛ぶ音に似ていて、それは白っぽく平たい丸皿に似た頭頂の蓋に圧が掛かって勢いよく音を響かせて飛んだ瞬間、体の一部であるその蓋を眼で追いかけていました。

と同時に体がスーッと軽くなり、椅子からお尻が数センチ浮き上がっていて、重さや重力も感じられなくなっていました。

この感覚は何?何が起きているの?いったい何か起こっているの?と自分に問いかけました。

この間一駅から二駅くらいの間でした。

降りる駅に着き、この感覚のまま立ち上がりドアに向かって一歩二歩と歩き出すと、足の裏の床を踏む感覚がまるで感じられないのです。

足の裏が靴を感じることも、靴の底が床を踏む感覚もありません。

更に確かめるように前へと進みましたが、確実に体が宙に浮いてしまっていて重さも全く感じられません。

反対側のホームの改札へ向かうため階段を下りはじめると、周りの空気全体がほわ~~んとほんわりしてきて、柔らかく温かくなり、それに優しく包まれてとてもいい気持ちになりました。

連絡路を歩き階段を上がりはじめる頃には、わたしを包む周りの空気の一つ一つの微細な粒子が 愛 愛 愛……全て愛でできているように感じました。

超微細なのに、それは目前に拡大されて見えていてはっきりとわかるのです。

とても幸せな気持ちになり、幸せの中に漂っていて、何か大きな愛に包まれていて、守られていて、心地よくて温か~いのです。

この時わたしは既に体も無くなっていて同化した中に、意識と感覚だけが“そこ”にありました。

ここは別の世界、別の次元、天界です。

まるで母なる宇宙の子宮の中にいるような、地球上では味わうことのできない至福の感覚のなかでわたしは漂っています。

その微細な粒子のエナジーは密度が濃くて柔らかいのですがしっかりはっきりしています。

これだ!!と実感したと同時に、人間が暮らす地球上は泥沼に映りました。

柔らか~な薄い膜で覆われた愛の風船のようなものが、ときより触れてきて気持ちよ~いのです。

気が付くと階段を上がりきったところで改札に向かって歩いていました。

体の重さが全く感じられないので手や腕を見てみると、形の枠だけあって中は透明に近い状態で透けていて背景が見えました。

子供の頃テレビ映画で観た透明人間が、輪郭(線)だけのボディーで動いていたのを思い出しました。

この状態のまま改札を出て住まいに向かいました。

帰宅後も宙に浮いた状態で重さも感じられないまま、いつもの家事を済ませました。

それでも尚、現象は続いていました。

突然起きたこの体験に予備知識もなく、聞いたこともなく、わたしはこのまま天に昇ってしまうのではないか?と少し不安もよぎりました。

今起こっていることに頭では理解できないまま夜も更けてベッドに入ることにしました。

眠りについた後どうなってしまうのかはわかりませんが、全てお任せする他にわたしの選択の余地などありません。

至福のエナジーに包まれてリラックスしていたので直ぐに眠りにつきました。

目が覚めると朝になっていて、体は元に戻っていました。

その後も短期間に連続して数回、同じ様な体験が起こりました。

後にクンダリニーの覚醒だとわかりました。』 (ナーナ)

 

 

 

 

『何の修行もしないのに神をつかむ人もいる。

その人たちは永遠(ニティヤ)の完成者(シッダ)と呼ばれる人だ。

称名誦経や苦行をして神をつかむ人は修行完成者(サーダナシッダ)と呼ばれる。

それから恩寵完成者(クリバシッダ)――千年も暗闇だった部屋にランプを持って入れば、途端に明るくなってしまう!

それから、突然完成者(ハタ―トシッダ)というのもある。

大金持ちの目にとまった貧しい家の倅のようなものだ。

旦那は娘をその息子にめあわせる。

娘といっしょに、家屋敷、馬車、男女の召使い、みんな付けてくれる。

それから、夢中完成者(スヴェプナシッダ)というのもある――夢で見神した人だ

永遠完成者(ニティヤシッダ)は別格だよ。

ラニの木(こすって火をとるための木片)のように、ちょっとこすりさえすればすぐ火がつく――こすらなくてもいい場合さえある。

ほんの少し修行すれば永遠完成者(ニティヤシッダ)は神をつかむし、また修行しなくても覚る。

しかし、永遠完成者(ニティヤシッダ)は神をつかんだ後修行する。

ヒョウタンやカボチャみたいに、先に実がなってそのあとで花だ』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)

 

 

 

今回クンダリニーが目覚めた時の体験談をご紹介させて頂きましたナーナ先生のご指導により、奈良県関谷駅近郊に新しく開設されました関谷ニルヴァーナセンターにて、「マインドフルネス瞑想会」が開催されます。

 

瞑想会についての詳細は、コチラhttps://nirvana777.org/)をご覧ください。

 

また、ナーナ先生のシャクティプラーナによる脳波の変化を実証する脳波計測データ

脳波の計測例)も併せてご覧ください。

 

 

 

この三つの地獄門を避け得た人は

真我実現(さとり)に到る行いに励み

アルジュナよ 次第に進歩向上して

究極の目的を達するであろう

 

聖典に示された教えを軽視して

欲望のままに行動する者は

生命体としての完成に達せず 真の幸福を得られず

至高の目的地に到達することができない

 

故に人間は聖典に示された教えによって

為す(する)べきことと為(な)してはならぬことを知れ

その規則を知り それに従うことにより

向上の道を着実に歩んで行きなさい」

 (バガヴァッド・ギーター第16章22-24)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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クンダリニーについて(8)

私たちの肉体に眠ったように内在している生命エネルギーの源の力を、古くインドでは、クンダリニーと命名し、このクンダリニーを目覚めさせることが、ヨーガの目的のひとつとされました。

 

その技法は、クンダリニー・ヨーガとしてまとめられ、今日でも、その詳細な技法や訓練方法に、グルを通して直接、或いは、本を通して間接的に触れることができます。

 

そのクンダリニー・ヨーガの第一人者でいらっしゃいます成瀬雅春さんの著書から、クンダリニーを理解する上で欠かせないプラーナ(エネルギー)について、ご紹介しています。

 

クンダリニーは、尾骶骨辺りに眠ったように内在する凝縮された爆発的な瞬発力のあるプラーナ(エネルギー)の塊です。

 

プラーナは、微細エネルギーなので、体感しにくいと言えますが、クンダリニーが目覚めた時は、爆弾が爆発した時のような瞬発力のある力に満ちたエネルギーが、尾骶骨辺りに起こり、それが背骨に沿って頭頂へと上昇するエネルギーの流れをハッキリとした感覚として感じますので、わからないということはありません。

(ただ、それがクンダリニーだと直ぐにはわからない、ということはあり得ますが)

場合によっては、そのエネルギーの勢いに、体が持ち上げられたり、空中浮遊が起こることもあるようです。

 

これは、クンダリニーの目覚め(覚醒)と言われており、クンダリニーは目覚めないと体感できませんが、プラーナの方は、ある程度、訓練などにより体感できるようになります。

 

先ずは、プラーナの体感方法を、前回に続き、見て行きましょう。

 

 

『プラーナという言葉を知っていても実感していない人にとっては、どれだけ説明されても納得できるものではないでしょう。

プラーナ自体に秘密はありません。

しかし、実感していない人には、秘密と謎だらけに思えるでしょう。

プラーナを実感するには、細かな観察力、洞察力、的確な判断力などが必要です。

また、単なる知識ではなく豊かな感性と、知恵を使えるだけの頭脳の柔軟性も要ります。

たとえば、「部屋の中には空気が充満している」という知識は誰にでもありますが、それは単なる知識にすぎません。

その知識をいったん捨ててみるとどうなるでしょうか?

室内空間にはいったい何が存在しているのだろうか?というアプローチをしたときに、「空気がある」と答えるのは、いわば知識に毒された人なのです。

空気というのは学校の勉強で教わった知識であり、自分が見つけだした概念ではないはずです。

そうであれば、空気が見えないものである以上、「室内空間には何が存在しているのか」は判らないはずです。

その状態から、「何が存在しているのだろうか」と探っていったときに実感としてつかめるものこそが、本当にその人がつかんだ室内空間なのです。

プラーナというのは、そういったアプローチによって見つけるべきものであり、知識で把握できるものではありません。

仮に読者のあなたが、本章をここまで読んで納得したと思っても、それもやはり知識にすぎず、プラーナをつかんだことにはなりません。

しかし、プラーナは存在するし、知識に依らず実感することもできるのです。

最も判りやすいのは、ヨーガ呼吸法(プラーナーヤーマ)を実践して、自分の内側が生命エネルギーに満ちた状態に変わってくるのを感じることです。

そのときに感じられるエネルギーが、プラーナなのです。

 

さて、プラーナを肉体感覚として感じられるようになると、それを自在に取り込むこともできるようになります。

宇宙に存在するすべてがプラーナで構成されているので、何からでもプラーナを取り込めるし、何にでもプラーナを与えることができるのです。

最初はなるべく判りやすいものを対象にして練習するといいでしょう。

たとえば「植物の生命力を吸収する」というイメージを持って、花や樹木を見るのです。

そして、プラーナを取り込むイメージをしやすいように、自分の呼吸を利用するのです。

息を吸うときには、「吸う息とともにその植物の生命エネルギーが入り込んでくる」というイメージを持つようにします。

そして息を吐くときは、取り込んだプラーナを全身に巡らせていく様子をイメージします。

最初はイメージするだけでいいのです。

それを続けていると、肉体感覚として少しずつ繊細にプラーナがつかめるようになります。

こうして細かい状態まで肉体感覚としてつかめるようになると、生命力に満ちた状態になります。

少し慣れたら、植物からは離れて、直接「吸う息とともにプラーナが入ってくる」様子をイメージしましょう。

積極的にプラーナを取り入れるつもりで十呼吸を一セットとして、気づいたときや時間のあるときに、いつでも実践してください。

そして、生命力に満ちてくるのを肉体感覚として感じられるようになれば大成功です。』

(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)

 

 

 

 

言葉で表現できないブラフマンから生まれ、常に動揺している心は、考えることで宇宙を創造する。

この宇宙の魔術は心の中の思考から生じる。

宇宙があるように見えるのは、心の思考のせいである。

しかしすべてを超越した大いなる真の実在に到達することを目指す者は、まずこの思考を放棄しなければならない。

すべての考え、想像を放棄した者はヨーガの正道を確立したといえる。

思考が消え去れば、宇宙も消えてなくなる。

思考が絶滅すると、見るものと見られるものを区別する考えは消え去り、実在のブラフマンが遮られることなく光り輝く。

その時、動くものも動かないものも、あまねく宇宙の幻影はブラフマンただ一つ、その中に溶け込む。

「私」と考えることで、現世のすべてが始まる。

私がなくなれば、太陽が闇をかき消すように、現世もまたたく間に消え去る。

「世界の創造は心の想像である」と「ヨーガ・ヴァシシュタ」に書かれている。

世界と呼ばれるものは心だけだ。

心が世界であり、心は外の世界として顕われる。

夢の中で夢を見るように、見える形を持たない心が、実在しない見える形をつくる。

この現世で経験すること、不安、心配は心の働きに起因する。

苦痛も快楽も心から生じる。

純粋な識別と修行を通じて心が滅びれば、幸せや不幸、苦痛と快楽も滅びる。

天国、地獄、現世の三つの世界は心の楽しみのために創造されたものである。

心の滅却とともに、過去、現在、未来の三つの時世も消え失せる。

心を支配することにより、すべては超常能力を獲得することができるのだ。

オームのシンボルは、三つの世界や時世とそれを超越した神をあらわしている。

 

心は必ず時間、空間、因果律の枠の中で働く。

この三つの枠は心が創造したものにすぎない。

椰子の木は実際には6メートルの高さではない。

高さは心の解釈である。

外界にあるのはただ「バイブレーション(振動)」だけである。

長さ、幅、高さ、厚み、寸法、空間などは心が創造しているだけである。

3キロの道のりは単なる観念であり、それだけの距離を歩いたと感じるだけだ。

心をブラフマンに集中し、超越すれば、この枠は外されて全く消え去る。

そこは時間も空間もない、「空」の世界だ。

私の友人、ナーラーヤン氏は私の前に立っている-これは心の創造である。

この現世は私自身の心の創造物である。

しかし実在しないというのならば、どこかほかにその物が実在しているということである。

観念論によれば、実際にはこの現世は全く存在しない。

この世界は心の想像にしかすぎない。

これが仏教のヴィニャーナ(純粋知性)説である。

実存主義によれば、世界は実在である。

マーダヴァの二元論、ラーマーヌジャの限定二元論、パタンジャリのラージャ・ヨーガは、現世は実在であると主張する。

カントは時間、空間、因果律は客観的な実在ではなく、知性の主観的な形にすぎないと論証している。

この主張の必然的な結論としては、「世界は空間の中に広がり、時間の中に起こり、因果律で普遍的に支配されている、だから世界は心の表現にしかすぎず、それ以上のものではない」。

時間、空間、因果律で制限された物質的で有限な心は、宇宙がなぜ、どのように生じたかを理解できない。

この質問は超越した神聖な質問なのである。

誰にもこの質問には答えられない。

聖典も聖者も答えていない。

あなたもこの問題で心を悩ます必要はない。

この問題は決して解決できないのだ。

この宇宙の創造は、ブラフマンの楽しみなのである。

神の遊び、神の神通力であり、神の恩寵からできている。

 

宇宙が存在しない、あるいは宇宙が崩壊するとは、実際の山や湖、木や川が消え失せることを意味しているのではない。

あなたの中でこの世界が偽りの幻だという確信が強まり、この世界は蜃気楼のようなイリュージョンなのだとしっかり思えた時、この世界が崩壊したということなのである。

山を破壊することはできないが、山という考えを破壊することはできるのである。

宇宙は目覚めた状態の夢のように、この世界は心の鏡に映った像にすぎない。

心はさまざまな絵が描かれた巨大な布地でもある。

しかしここには画家も、キャンパスも、筆、パレット、オイル、絵の具などの画材は何もない。

宇宙の絵は汚れのない知識の空間に描かれる雄大な絵画である。

純粋意識から生じる心の活動が宇宙を構成する。

心はマーヤーである。

心が名前や形に魅せられ、執着を断ちがたいのは迷いである。

自分を心だと考えるのは、幻影であり迷いである。

 

プラーナのバイブレーションや活動が心を動かす。

心の活動が宇宙を生じる。

心は外の世界として自らを顕す。

マーヤーの力の一つ、振動させる力から名前と形は生じる。

振動させる力は目覚めた状態と夢見る状態の両方で働く。

全世界はこの力によって展開されているが、熟睡状態ではこれは消え去る。

現世は心の中に、目、耳、口と古い潜在意識の印象、を通じて入り込む。

隠遁生活をすれば、最初の三つの入口を閉じることができる。

真の大いなる存在の探求によって、四番目の印象をも破壊することができる。

青く見える空の色は、実際には存在しない。

同様に幻の心には、この世が真の世界として輝いて見える。

その実、輝いているのはアートマンそのものであるのだが、心はブラフマンの知性の力であり、物質は物質化する力であり、プラーナは活動の力である。

すべてはブラフマンのものである。

欲望に引きずられて楽しむ心は、無知ゆえに、この偽りの宇宙が存在すると思い込む。

しかし、世界の本当の成り立ちを心に知らせなければならない。

そうして、心はブラフマンそのものであることを知ろう。

(ヨーガとこころの科学 スワミ・シバナンダ)

 

 

 

嫉妬心 羨望心が極めて強く

他者に害毒を与える最低の人間どもを

わたしは繰り返しくりかえし物質界の

魔族の胎内に投げ入れるのである

 

魔族の間で再生をくりかえす彼らは

アルジュナよ 決してわたしに近づくことはない

彼らは次第に下方へと沈んで行き

ついに最も忌まわしい形の存在になる

 

地獄に到るには三つの門があり

肉欲 怒り 貪欲がそれである

これらは魂を堕落させる原因ゆえ

正気の人間はこの三つを切り捨てよ

 

(バガヴァッド・ギーター第16章19-21)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

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☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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クンダリニーについて(7)

クンダリニーは、体の中に存在しているにも拘わらず、通常は目覚めていない眠った状態でいるため、一般的には、その存在を知られずにいます。

 

しかし、私たちを生かし、存在せしめているのは、膨大なエネルギーの源であるクンダリニーであると言っても過言ではなく、誰の体にも宿っている神秘の力(エネルギー)なのです。

 

あらゆるヨーガの道は、このクンダリニーを目覚めさせることに集約されます。

 

この宇宙の神秘の力を目覚めさせることにより、探求者は求めているものを手にすることができるようになります。

 

これまで少数の人のみに開示された究極の真理を掴むことができるようになるのです。

 

真理の探求は、実践により達成されるものですが、ここでは、そのエッセンスのみご紹介することで、知識としての理解ではありますが、真実の姿の輪郭だけでも理解して頂けるように、クンダリニーやプラーナについて、体験者の言葉をご紹介したいと思います。

 

 

『プラーナは宇宙に満ちているというのは先に説明した通りですが、言葉を換えれば、宇宙のあらゆる構成要素がプラーナでできているとも言えます。

そのことは、プラーナを「素粒子」という言葉に置き換えれば判りやすくなるでしょう。

人間も道路も椅子も、素粒子で構成されているということです。

そのプラーナは、人間が感じ取れる現象界に現れるとき、いろいろと形を変えます。

たとえば、椅子を構成しているプラーナと人間を構成しているプラーナは違います。

その違いは、いわば水と氷の状態が違うようなものです。

水と氷という、構成している要素が同じものでも、触った感じが違うし、飲んだり食べたりしたときに感じるものも違います。

ダイヤモンドと石炭の関係と同じとも言えます。

構成要素が同じでも、状態はまったく違うのです。

 

そんなプラーナを繊細に感じ取る方法の一つは、自分の心の動きを感じ取ることです。

特に精妙な心の動きを感じ取ることで、プラーナへの理解が深まります。

ただし、自分で自分の心を精妙だなと思っているだけでは、本当に精妙な心の状態を感じ取ることはできません。

最初は、心の粗雑な状態を確認することが大切です。

粗雑な状態が確認できたら、精妙な呼吸法などでそれよりちょっと心を精妙にする。

それが確認できたら、さらにもうちょっと精妙にする・・・という具合につなげていって、初めて本当に精妙な状態が体感できるようになるのです。

たとえば呼吸でも、「ゆっくりと呼吸をしなさい。きめ細かい呼吸をしなさい」と言われた場合、「はいっ。やります」と答えてやってみて、実際にゆっくりときめ細かい呼吸ができるでしょうか?

まず、それはできません。

とにかく最初は、粗雑な呼吸、粗雑な心であることを確認するところから始めます。

そして、今自分ができる範囲で、少し呼吸をゆっくりさせてみます。

心も少し精妙に持ってみようとします。

それが確認できたら、次に、それよりももう少しゆっくりな状態、精妙な状態をめざしてみます。

そういうふうに、段階を踏んで進めていく必要があるのです。

それをしないで、いきなり精妙な状態になろうと試みても、頭の中で考えるだけでおわってしまいます。

精妙な状態になればなるほど、頭の中で考えないほうがいいのです。

自分が「これで精妙になった」と思っているレベルでは、間違いなく精妙ではありません。

心が精妙になればなるほど「もっと精妙にできる」と判るようになるのです。

それによって、プラーナも次第に繊細に感じ取れるようになります。

 

しかし、プラーナを感じ取るときに、しばしば勘違いをしやすいことがあります。

その一つが、他人の経験と自分の感じ取り方を混同してしまう点です。

たとえば私が「プラーナには粘り気がある」とか「どろっとした感じがする」と言ったとします。

すると、それを聞いた人は、そういう先入観が植え付けられ、いつしかそういうものだと思い込んでしまいます。

そして、プラーナの粘り気やどろっとした感じを、自分で体感したように錯覚してしまうのです。

実際にプラーナの粘着力や粘り気を体感として感じられればいいのですが、話を聞いただけで、そう感じたように思い込んでしまうのです。

また、私はときどき

「○○の感じがしたんですけど、それってプラーナなのですか?」

「プラーナって△△のような味がしますか?」

といった質問を受けることがありますが、答えないようにしています。

明らかにプラーナを理解したときには、そういう質問が出ないからです。

前にも触れましたが、プラーナを感じるというのは、たとえて言えば、うどんを食べてその味がわかるのと同じ状態だからです。

うどんの味を知っている人は、「○○の味ってうどんの味なんですか」とは聞きません。

プラーナの場合も、「あの感じでいいんですか」と聞いてきた場合は感じ取れていないのです。

完全に体感としてつかめた人は、私に聞いたりしません。

聞きにくるのは、うどんを知らないのにうどんを食べた夢を見た人や、「うどんってどんな味なのかな」と想像をめぐらせている人だけです。

 

プラーナを感じ取るとき、まず大切なのは、あまり頭で考えずに人や物からプラーナを吸収したり、与えたりすることです。

そのやり方を見つけてほしいのです。

そんなに難しいことではありません。

人や物に向かい合ったとき、そこから何かを受け取ろう、あるいは与えようというふうに、ほんのちょっとした意識を働かせてみて、そのときにどう感じるかを意識してください。

そして、さまざまな人や物に向かい合って、そこから受ける感じの違いも意識してみるのです。

たとえば、壁に面と向かったときの感じと、目の前に人がいるときの感じでは全然違うでしようから、その違いを確認します。

両者では明らかに雰囲気が異なり、自分の中で生じる感覚が異なります。

それはもちろん、受け取るプラーナが異なるからです。

目の前に人がいて向かい合ったときには、当然、相手とプラーナの交流が発生します。

それと同じように、達磨大師ではないけれども、壁と対峙したときにも壁とプラーナの交流はあるのです。

つまり、やり取りする相手によって、プラーナは全然異なってくるのです。

ですから、自分が何かに対峙したときに感じことを、プラーナから受ける感覚として、まずは素直に純粋に、ただ感じ取ってもらいたいのです。

それを手掛かりにして、頭であれこれ考えずに感覚を磨いていけば、プラーナは肉体感覚としてつかめます。

頭で考え始めると、だいたい変な迷路に迷い込んでしまいます。

(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)

 

 

 

我々の周囲に存在する物質世界のあらゆるものは、まず「人の考え」の中で創造される。

そしてその考えが形となるのである。

城、彫刻、絵画、さまざまなメカニズム、これらすべては、物質として出現する前に、その人の心の中で最初に生まれるものである。

画家がキャンパスに絵を描こうとする時、あらかじめ心の中に自分が受けた物や風景の形を考える。

それにもとづいて、実際の絵をキャンパスに画く。

つまるところ、世界はひたすら思考、人の思いだけなのである。

ちょうど種子が、適切な時と場所を得て芽を出すように、心の中の思考によって感知されたものが、現実の物体という形をとるのである。

心が考えることをやめた時、物質世界は消え、いいあらわし難い歓びだけが存在する。

しかし心が再び考え始めると、世界が現われ苦悩も始まる。

我思う、ゆえに我あり」はデカルト哲学の真髄である。

これはシャンカラの考えと一致する。

真の偉大なる自己、アートマンは幻影ではない、真の実在だ。

たとえばこれを否定する人がいても、否定しながらその実在を認めているのだ。

心が宇宙を目に見える形にしている。

だが、聖者以外には誰も心を見ることができないのは残念である。

心の性質について真剣に絶え間なく考えれば、実際何もない。

すべては「空」だとわかるであろう。

心は消え去ってしまう。

心は考えの集まりにしかすぎない。

「私」という考えがすべての考えの根本である。

しかし、この「私」という主張は間違った考えであり、実在ではない。

考えの元が「無」と消えなくなれば、自慢げな心はどこに存在しうるのか。

万人の心に最初に起きる考えは「私」である。

しかし最後には、人は永遠の存在であるという想いに到達し、そして心がブラフマンの中に融合して無限の至福を感じる。

 

宇宙は個人の心が創造したものではない。

ラニヤガルバと呼ばれる大宇宙心が一つにまとまって物質化し、目に見える幻の宇宙として顕現したものだ。

現象としての宇宙は創造主である神の意志の結果であり、人の心の働きを通じてあたかも実在するもののように見えるのである。

劇作家はドラマを書く前に、劇の全体像をはっきりと心の中でイメージする。

それからたとえば四幕ものに仕上げる。

上演は一幕ごとに順を追って演じられる。

同じことがこの宇宙創造にも当てはまる。

活動的な宇宙は、宇宙の真理=神の中の鮮明な心象なのである。

神にとっては過去も未来もない。

すべてが「現在」のみである。

神にとっては近くも遠くもない。

すべての場所が「ここ」であり、すべての時間が「今」である。

この悠久の宇宙のドラマの舞台には、時間の経過とともに次々と事件が繰り広げられる。

原子(アトム)は絶え間なく循環する。

古いものは新しくなり、新しいものは古くなる。

しかし事実は、古いものも新しいものもないのだ。

魂は個々の心を通じて次々に起こる事件を目撃しているだけである。

しかし、神はすべての出来事を一瞬にして知る。

神は全知であり、全能である。

神は自らの創造物については細部にわたって熟知している。

個々の心は事物を虚構の中で見ているにすぎない。

この宇宙はもっぱら心の現象にすぎず、宇宙の源であるブラフマンから、自ずと進化したものである。

心を通してのみ顕われる宇宙は、心の形態でしかない。

心は内に向かうと意識であり、外に向かうと現世である。

あまねく遍在する実在の世界は、純粋意識そのものである。

 

すべての印象は幻(マーヤー)の中に浮いている。

ここに大きな鏡があるとしよう。

通りを行き交う人びとや車などがすべて鏡の中に映るのが見える。

見る側は少しも影響されることなく、離れて鏡に映った光景を眺めている。

そのように、全宇宙の光景が幻の巨大な鏡の中に映し出され、宇宙の神はすべてを見ている。

神は沈黙の傍観者である。

個々の魂のカルマの期が熟した時、初めて神は意図し、その意志が宇宙に投影されて個々の人として顕現する。

(ヨーガとこころの科学 スワミ・シバナンダ)

 

 

 

さまざまな心配と焦燥に右往左往し

幻影の網に捕らえられた彼らは

欲望の満足に執着して

地獄へと真っ逆さまに落ちていく

 

自己満足で常に無礼 無遠慮であり

自らの富と虚名に目がくらみ

時々自己宣伝のために一切の規則を無視して

誇らしげに祭祀や寄付を行ったりする

 

これらの魔的人間どもは利己主義 権力欲 自尊心

そして情欲と怒りに惑乱して

彼ら自身と他者の体に内在(やど)る

わたしを軽蔑し 見向きもしない

 

(バガヴァッド・ギーター第16章16-18)

 

 

 

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クンダリニーについて(6)

クンダリニーという肉体に眠ったように内在している生命エネルギーの源の力についての理解を深めるために、宇宙に満ち満ちている宇宙エネルギー、プラーナについて、成瀬雅春さんの著書からの抜粋をご紹介しています。

 

今回は、前回の続きです。

 

プラーナは感じ取ることが可能なばかりでなく、動かすことも可能であることが書かれています。

 

ひとたびプラーナを感覚的に掴むことができるようになると、プラーナを使うことができるようになります。

 

具体的には、どんな方法があるのか?見て行きましょう。

 

 

『ここで、意識とイメージの違いについて説明します。

「意識する」と「イメージする」はどう違うのでしょうか。

たとえば、「イメージトレーニング」という言葉は耳にしますが、「意識トレーニング」という言葉は聞きません。

「企業のトップになった〇〇をする」と「企業のトップになろうと○○する」の丸の部分に「イメージ」と「意識」を入れてみると、どうなるでしょうか。

「企業のトップになったイメージをする」のは自然ですが、「企業のトップになった意識をする」というのは言葉として不自然です。

ところが「企業のトップになろうと意識する」ならば自然で、「企業のトップになろうとイメージする」のは不自然なのです。

この違いがあるのは、イメージは「単に頭で思い描くこと」であり、意識は「希望する未来に向けて実感をもって近づこうとすること」だからです。

企業のトップになったイメージを思い描くだけなら楽ですが、企業のトップになろうとするなら、イメージを思い描いでも無駄なのです。

トップになることへ向けて、「意識」をして、一歩ずつ近づくための努力を始めなければならないのです。

大学に入ったイメージを描いても、実際に入れる訳ではありません。

大学に入ろうと「意識」して勉強をしなければダメなのです。

食べ過ぎて肥った人が、痩せたイメージを描くだけで食べ続けていれば、いつまでも肥ったままです。

しかし、痩せようと「意識」して、そのための努力を始めれば、必ず実感を伴った手応えが得られるのです。

 

プラーナを取り入れるときも、大切なのは「意識する=実感を伴う」ことなのです。

プラーナを取り入れたような気分になっても、プラーナを取り入れたイメージをしても、それには意味がありません。

実感を得なければならないのです。

毎日同じ要領でこなしてきている仕事でも、意識してやってみると、意外な気づきがあるものです。

もっと効率よくこなせることに気づいたり、やるべき作業が抜けていることが判って、大失敗に至らずに済んだり、といったこともあるでしょう。

また、つまらないと思ってやっていた仕事でも、意識して取り組むと、楽しくなったり面白くなったりするものです。

積極的に取り組めば、どんな仕事でも面白さを見つけられます。

同じように、プラーナを取り込むときも「意識」を働かせなければなりません。

そうすれば、前に述べたように、プラーナを取り込んだという「体感」が生まれ、プラーナをきちんと把握することができるのです。

 

意識がプラーナを動かす表れの一つが、たとえば天気です。

「天気予報は当たらない」とよく言われますが、天気とは何に反応して決まっているのでしょうか。

実は、人間の意識に対する反応で決まっているウエイトが大きいのです。

人間一人一人の意識が集合して、ある一つの大きな意識になります。

たとえば「日本人意識」と呼ぶべきものがあります。

個々の日本人の意識が集まって、集合的に大きな一つの意識状態ができあがった状態です。

その日本人意識が、日本の国土の上空には存在しています。

日本の上空の天候は、その集約的な意識によって、ある程度決まっているのです。

意識の大きな力がプラーナを動かし、天気を決める訳です。

もちろん、ただ全員が願えば晴天が続くといった単純な話ではありませんが、多くの人たちの意識が集まり、絡まり合って、大気に満ちているプラーナの流れを作り、たとえばある地方では、ほとんど一年中雨が降らないといったことが起こります。

中国には、雲を操作する仙人の話があります。

雲がパーッと垂れ込めて厚い状態になっているところに向けて、エイヤッと気合を発すると、雲が割れてしまうという話です。

これは、多くの人の意識というよりも、仙人と呼ばれた人が、人並みはずれて意識の量が多かったせい、あるいは意識の力が強かったせいです。

昔は中国の他にも、世界各地で、人がそうやって天候を左右した話がたくさんありました。

代表的なのは、キリスト、仏陀空海といった聖人たちが、天気を操作したという話です。

雨乞いが成功した話も少なくありません。

それは、聖人の意識や雨乞いした人の意識、そして、その周りにいた人たちの意識によります。

個人あるいは集団の意識の量がどれだけ大きいか、どれだけパワーがあるか、そしてどんなふうに動くかによって、プラーナの動きが決まり、天候を左右していくのです。

もともと、人の意識の量には限りがありません。

「このくらいで、もうあなたの意識の量は終わりですよ」という限界がないのです。

だから人の意識はいくらでも多くなり得るし、意識のパワーも強くなり得ます。

そして、そういう人になればなるほど、天候を左右できる可能性が高くなるのです。』

(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)

 

 

 

何百、何万年もの長い間修行を行って、天国、地獄、現世という三つの世界を瞬時に往き来できたとしても、過去、現在、未来という三つの時世が見えても、想像力の根絶という確実な道以外に、曇りのない悟りに到達することはできない。

想像力を破壊するように努力しなさい。

想像力の破壊について一人静かに瞑想してみるがよい。

そうすれば、全世界を支配する国王の地位もつまらないものになるだろう。

 

心はすぐに世俗の物を思う。

これが多分に心の性質である。

心は慣れた俗事に向きやすく、神を考えることはむしろ苦手で骨の折れる仕事である。

心を事物から引き離して神に向かわせるのは、ちょうど海へ向かうガンガーの流れを上流に向かって逆流させるほどむずかしい。

ヤムナー川の流れに逆らって船をこぐようなものでもある。

しかし生と死の輪廻から解放されたいのなら、心に逆らって、激しい努力と欲望の放棄を通じて、心を神に向けるように鍛錬しなければならない。

世の中の不幸、苦痛をなくしたいのなら、これより他の方法はないと知るが良い。

 

識別の力とたゆまない努力によって、想像という汚れ、曇りを破壊し、真理の知識でブラフマンの歓びの大海に浸りなさい。

識別の働きで想像を破壊しようとしても、想像は何度も顔を出す。

事物への執着から心を引き離し、師の教えに従って行動しなさい。

ひとときもこの世の事物のことを思い患ってはならない。

想像を除くのに努力しすぎることはない。

この世は架空、虚像であることがはっきりとわかれば、名前と形を持った虚像の世界はゆっくりと消え去っていく。

ブラフマンだけが真実。

この世界は虚構であり、神聖なブラフマンの世界の転写にすぎない。

自己とブラフマンは一体だ」、この言葉を繰り返しなさい。

常に繰り返すことで、あなたは大きな力と心の平安を得るだろう。

周りの事物への欲望から離れ、心の中に生じるすべての想像を除去しなさい。

想像によって生じる心は想像によって滅ぼすことができる。

風に煽られる火は、風が吹き消す。

 

諸悪の根源である想像を滅却すると、無知とその結果である心も絶滅する。

想像がなくなれば歓びだけがそこにある。

誰もいない部屋に一人坐り、目を閉じなさい。

心を観察し、エネルギーを込めた努力で、一つ一つ心の中に湧き起こる波を破壊しなさい。

すると自然に超越的瞑想が続いて起こるだろう。

その時、遠い過去から引きずって来た迷いの厚い霧は消え去る。

そして、秋の青い空のように、ブラフマンだけが燦然と光り輝く。

それは、至福、永遠不滅、姿も形もなく、生死を超えた唯一の「その存在」である。

心の平安は、お金儲けや異性や飽食の中にはない。

心の欲望がなくなった問、真の自己が輝き始め、永遠の歓びと平和を感じる。

人はなぜ、無益に外の事物に幸福を求めるのか。

それは空しい努力だ。

自分の内に歓びを求めよ。

純粋な真理、永遠の存在そのものを見つけなさい。

(ヨーガとこころの科学 スワミ・シバナンダ)

 

 

 

幾百幾千の欲望の網に捕らえられ

情欲と怒りに身心をゆだねて

感覚的快楽を追求するために

不法なやりかたで金を蓄積する

 

魔族の人々は思うーー

『現在これだけの富を所有しているが

計画を練ってもっと増やしていこう

現在これだけは私の所有だが 将来もっともっと増やしていくのだ

 

彼は私の敵だから殺した

ほかの敵どもも やがて殺してやる

私はすべての主人公だ 私はすべてを楽しむ

私は成功者だ 有力者だ 幸福者だ 富裕な人間だ

 

高貴な血筋の縁者たちにかこまれ

私ほど有力で幸福な者はほかにいない

さあ祭祀(まつり)もしよう 慈善もしよう それが私の喜びだ」

このように彼らは無知のため妄想している

(バガヴァッド・ギーター第16章12-15)

 

 

 

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