クンダリニーについて(9)
これまで「クンダリニー」という人間に内在する生命エネルギーの源の力(シャクティ)について、それがどのようなモノであるか?ご紹介してきましたが、今回は、実際に「クンダリニー」が覚醒した方の体験記をご紹介したいと思います。
クンダリニーは、誰にでも内在している本質の力ですが、一般的には、眠った状態であるため、その存在を知っている人は、ごく僅かです。
日本では、ヨーガを通して、その呼称だけは知っている人が少しずつ増えてきてはいますが、ヨーガの発祥地インドでは、クンダリニーを覚醒させたヨーギーは、ごく限られた人々であったため、彼らを「聖者」として崇めてきました。
このクンダリニーを目覚めさせるためのヨーガとして、クンダリニー・ヨーガがあります。
大聖ラーマクリシュナも、「クンダリニーが目覚めないと、真の霊性は目覚めない」と語っていらっしゃいます。
今回は、初めに、スワミ・シバナンダの「クンダリニー・ヨーガ」(Kundalini Yoga:日本未刊行)から、クンダリニーが目覚めると、どのようになるのか?どのようなことが起きるのか?という具体的な変化について、ご紹介したいと思います。
そして、その次に、実際に、初めてクンダリニーが目覚めた時の貴重な実体験を新鮮な感覚で語って下さいましたナーナ先生の手記をご紹介したいと思います。
クンダリニーの目覚めは、誰にでも起こり得る可能性はありますが、通常は、クンダリニーは眠ったままでいます。
そして、最後まで、その存在にすら気づかずに、肉体を離れていくことが、一般的な人間の一生と言えます。
それ故、古来より、霊的な探求として、ヨーガや瞑想などが実践されてきたのです。
クンダリニーの目覚めは、霊的な力の目覚めです。
それは、誰にでも内在する神聖なる力なのです。
まずは、スワミ・シバナンダの「クンダリニーの目覚めに関する体験」(Experiences on Awakening of Kundalini)からご紹介いたします。
『瞑想の最中に、神聖なるヴィジョンを見たり、神聖なる香りや味、神聖なる触感を経験したり、アナハタ(チャクラ)の音を聞いたりする。
神から指示を受け取る。
これらは、クンダリニー・シャクティ(クンダリニーの力)が目覚めたことを意味する。
ムーラダーラ(チャクラ)でうねるような躍動があった時、髪の毛が根元で立った時、ウッディヤーナ(腹部筋肉の引き締め)、ジャランダーラ(喉の引き締め)、ムーラーバンダ(肛門、会陰の引き締め)が不意にやって来た時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。
呼吸が、いかなる努力も無しに停止する時、ケラバ・クンバカ(自然に起こる呼吸の休止状態)が、どんな努力も無しに、自ずとやって来た時、クンダリニー・シャクティが活性化したことを知りなさい。
プラーナの流れがサハスラーラにまで上昇していくのを感じる時、至福を経験する時、自動的にオームを繰り返す時、心に世界のどんな考えもない時、クンダリニー・シャクティが目覚めたことを知りなさい。
瞑想中に、目が眉間のトゥリクティに固定された時、シャンブハビ・ムドラ(眉間の中央に目を向けて凝視すること)が起きた時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。
プラーナの振動をあなたの体内の各部分で感じる時、電気のショックのような躍動を経験する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。
瞑想中に、体が無くなったように感じる時、瞼が閉じて、どんな努力をしても開かなくなった時、電気のような流れが神経を上下に流れる時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。
瞑想している時に、霊感や洞察を得る時、自然がその秘密を明らかにする時、すべての疑問が消滅し、ヴェーダ聖典の意味を明確に理解する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。
体が空気のように軽くなり、混乱した状態でも、バランスの取れた心を持つ時、仕事に対して疲れを知らないエネルギーを持つ時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。
神聖なる恍惚感を得た時、演説が上手になった時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。
少なくとも痛みや疲れなく、不意に異なったヨーガのポーズやアーサナを実践する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。
美しい崇高な讃美歌や詩歌を不意に詠む時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。』
(KUNDALINI YOGA by Swami Sivananda)
次にご紹介しますのは、ナーナ先生のクンダリニー覚醒時の鮮明な体験談です。
『2010年の1月から、アシュタンガヨガセンターに行き始め、クンダリニーが覚醒したのは、その2ヶ月くらい後です。
その間に既に、毎回始まりのマントラとスタンディングポーズだけで、天と地が一本の柱のように通って、全身が太いエナジーの柱になり、体がグルグル回転して静止できないことが多々ありました。
ヨガセンターには、気づいたら真我一体になっていた2012年12月の少し前まで通い、アーサナを実践していました。
毎日早朝に排泄を済ませて、必ず朝風呂に入って全身を洗い身体を清めてから、スーリャ・ナマスカーラAからできるところまでを行いました。
アシュタンがヨガセンターへ行くことはさかのぼって5〜6年前からの目標でした。
そのために身体を整える準備をしていました。
元々子供の頃から柔軟、バランス、深層筋、持久力(精神力)を要する運動が好きで、そのための必要なストレッチは毎朝20年以上続けていました。
2010年、春の訪れを感じて間もないある日のことでした。
帰宅するため電車に乗って席に座っていました。
すると突然、体の中の根底辺りに何か物凄い力のエナジーの活動を感じました。
ゥアー!!これは何??
それは暴発した火の玉のようでした。
高速回転している光のようにも感じました。
間もなく脊椎に沿って下腹部へ上がってきました。
このとき目前に体の細胞が大きく拡大されて映り、生々しい体内の長い長いトンネルのような管の中を光の玉が超高速スピードで昇っていくのが見えると同時に体で感じていました。
そのトンネルの距離は時間のようでした。
光の高速エレベーターがとてつもない距離と年月を超高速スピードで一気に昇っていく感覚です。
更に上へ、胃の辺りから胸まで達するときには圧力を感じていたので、このままこの強力なエナジーが頭頂に昇り詰めたら!脳や血管も頭もろとも破裂して、と、一瞬よぎりましたが、恐怖感はありませんでした。
このとき既に首から顔の半分まで達していて、今起こっているがまま次の瞬間!
頭頂のてっぺんの大きな蓋が 勢いよく「ポン!!」っと、大きな音を響かせて吹っ飛びました。
その様も音もシャンパンのコルクが飛ぶ音に似ていて、それは白っぽく平たい丸皿に似た頭頂の蓋に圧が掛かって勢いよく音を響かせて飛んだ瞬間、体の一部であるその蓋を眼で追いかけていました。
と同時に体がスーッと軽くなり、椅子からお尻が数センチ浮き上がっていて、重さや重力も感じられなくなっていました。
この感覚は何?何が起きているの?いったい何か起こっているの?と自分に問いかけました。
この間一駅から二駅くらいの間でした。
降りる駅に着き、この感覚のまま立ち上がりドアに向かって一歩二歩と歩き出すと、足の裏の床を踏む感覚がまるで感じられないのです。
足の裏が靴を感じることも、靴の底が床を踏む感覚もありません。
更に確かめるように前へと進みましたが、確実に体が宙に浮いてしまっていて重さも全く感じられません。
反対側のホームの改札へ向かうため階段を下りはじめると、周りの空気全体がほわ~~んとほんわりしてきて、柔らかく温かくなり、それに優しく包まれてとてもいい気持ちになりました。
連絡路を歩き階段を上がりはじめる頃には、わたしを包む周りの空気の一つ一つの微細な粒子が 愛 愛 愛……全て愛でできているように感じました。
超微細なのに、それは目前に拡大されて見えていてはっきりとわかるのです。
とても幸せな気持ちになり、幸せの中に漂っていて、何か大きな愛に包まれていて、守られていて、心地よくて温か~いのです。
この時わたしは既に体も無くなっていて同化した中に、意識と感覚だけが“そこ”にありました。
ここは別の世界、別の次元、天界です。
まるで母なる宇宙の子宮の中にいるような、地球上では味わうことのできない至福の感覚のなかでわたしは漂っています。
その微細な粒子のエナジーは密度が濃くて柔らかいのですがしっかりはっきりしています。
これだ!!と実感したと同時に、人間が暮らす地球上は泥沼に映りました。
柔らか~な薄い膜で覆われた愛の風船のようなものが、ときより触れてきて気持ちよ~いのです。
気が付くと階段を上がりきったところで改札に向かって歩いていました。
体の重さが全く感じられないので手や腕を見てみると、形の枠だけあって中は透明に近い状態で透けていて背景が見えました。
子供の頃テレビ映画で観た透明人間が、輪郭(線)だけのボディーで動いていたのを思い出しました。
この状態のまま改札を出て住まいに向かいました。
帰宅後も宙に浮いた状態で重さも感じられないまま、いつもの家事を済ませました。
それでも尚、現象は続いていました。
突然起きたこの体験に予備知識もなく、聞いたこともなく、わたしはこのまま天に昇ってしまうのではないか?と少し不安もよぎりました。
今起こっていることに頭では理解できないまま夜も更けてベッドに入ることにしました。
眠りについた後どうなってしまうのかはわかりませんが、全てお任せする他にわたしの選択の余地などありません。
至福のエナジーに包まれてリラックスしていたので直ぐに眠りにつきました。
目が覚めると朝になっていて、体は元に戻っていました。
その後も短期間に連続して数回、同じ様な体験が起こりました。
後にクンダリニーの覚醒だとわかりました。』 (ナーナ)
『何の修行もしないのに神をつかむ人もいる。
その人たちは永遠(ニティヤ)の完成者(シッダ)と呼ばれる人だ。
称名誦経や苦行をして神をつかむ人は修行完成者(サーダナシッダ)と呼ばれる。
それから恩寵完成者(クリバシッダ)――千年も暗闇だった部屋にランプを持って入れば、途端に明るくなってしまう!
それから、突然完成者(ハタ―トシッダ)というのもある。
大金持ちの目にとまった貧しい家の倅のようなものだ。
旦那は娘をその息子にめあわせる。
娘といっしょに、家屋敷、馬車、男女の召使い、みんな付けてくれる。
それから、夢中完成者(スヴェプナシッダ)というのもある――夢で見神した人だ
永遠完成者(ニティヤシッダ)は別格だよ。
アラニの木(こすって火をとるための木片)のように、ちょっとこすりさえすればすぐ火がつく――こすらなくてもいい場合さえある。
ほんの少し修行すれば永遠完成者(ニティヤシッダ)は神をつかむし、また修行しなくても覚る。
しかし、永遠完成者(ニティヤシッダ)は神をつかんだ後修行する。
ヒョウタンやカボチャみたいに、先に実がなってそのあとで花だ』
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
今回クンダリニーが目覚めた時の体験談をご紹介させて頂きましたナーナ先生のご指導により、奈良県関谷駅近郊に新しく開設されました関谷ニルヴァーナセンターにて、「マインドフルネス瞑想会」が開催されます。
瞑想会についての詳細は、コチラ(https://nirvana777.org/)をご覧ください。
また、ナーナ先生のシャクティプラーナによる脳波の変化を実証する脳波計測データ
(脳波の計測例)も併せてご覧ください。
この三つの地獄門を避け得た人は
真我実現(さとり)に到る行いに励み
アルジュナよ 次第に進歩向上して
究極の目的を達するであろう
聖典に示された教えを軽視して
欲望のままに行動する者は
生命体としての完成に達せず 真の幸福を得られず
至高の目的地に到達することができない
故に人間は聖典に示された教えによって
為す(する)べきことと為(な)してはならぬことを知れ
その規則を知り それに従うことにより
向上の道を着実に歩んで行きなさい」
(バガヴァッド・ギーター第16章22-24)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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クンダリニーについて(8)
私たちの肉体に眠ったように内在している生命エネルギーの源の力を、古くインドでは、クンダリニーと命名し、このクンダリニーを目覚めさせることが、ヨーガの目的のひとつとされました。
その技法は、クンダリニー・ヨーガとしてまとめられ、今日でも、その詳細な技法や訓練方法に、グルを通して直接、或いは、本を通して間接的に触れることができます。
そのクンダリニー・ヨーガの第一人者でいらっしゃいます成瀬雅春さんの著書から、クンダリニーを理解する上で欠かせないプラーナ(エネルギー)について、ご紹介しています。
クンダリニーは、尾骶骨辺りに眠ったように内在する凝縮された爆発的な瞬発力のあるプラーナ(エネルギー)の塊です。
プラーナは、微細エネルギーなので、体感しにくいと言えますが、クンダリニーが目覚めた時は、爆弾が爆発した時のような瞬発力のある力に満ちたエネルギーが、尾骶骨辺りに起こり、それが背骨に沿って頭頂へと上昇するエネルギーの流れをハッキリとした感覚として感じますので、わからないということはありません。
(ただ、それがクンダリニーだと直ぐにはわからない、ということはあり得ますが)
場合によっては、そのエネルギーの勢いに、体が持ち上げられたり、空中浮遊が起こることもあるようです。
これは、クンダリニーの目覚め(覚醒)と言われており、クンダリニーは目覚めないと体感できませんが、プラーナの方は、ある程度、訓練などにより体感できるようになります。
先ずは、プラーナの体感方法を、前回に続き、見て行きましょう。
『プラーナという言葉を知っていても実感していない人にとっては、どれだけ説明されても納得できるものではないでしょう。
プラーナ自体に秘密はありません。
しかし、実感していない人には、秘密と謎だらけに思えるでしょう。
プラーナを実感するには、細かな観察力、洞察力、的確な判断力などが必要です。
また、単なる知識ではなく豊かな感性と、知恵を使えるだけの頭脳の柔軟性も要ります。
たとえば、「部屋の中には空気が充満している」という知識は誰にでもありますが、それは単なる知識にすぎません。
その知識をいったん捨ててみるとどうなるでしょうか?
室内空間にはいったい何が存在しているのだろうか?というアプローチをしたときに、「空気がある」と答えるのは、いわば知識に毒された人なのです。
空気というのは学校の勉強で教わった知識であり、自分が見つけだした概念ではないはずです。
そうであれば、空気が見えないものである以上、「室内空間には何が存在しているのか」は判らないはずです。
その状態から、「何が存在しているのだろうか」と探っていったときに実感としてつかめるものこそが、本当にその人がつかんだ室内空間なのです。
プラーナというのは、そういったアプローチによって見つけるべきものであり、知識で把握できるものではありません。
仮に読者のあなたが、本章をここまで読んで納得したと思っても、それもやはり知識にすぎず、プラーナをつかんだことにはなりません。
しかし、プラーナは存在するし、知識に依らず実感することもできるのです。
最も判りやすいのは、ヨーガ呼吸法(プラーナーヤーマ)を実践して、自分の内側が生命エネルギーに満ちた状態に変わってくるのを感じることです。
そのときに感じられるエネルギーが、プラーナなのです。
さて、プラーナを肉体感覚として感じられるようになると、それを自在に取り込むこともできるようになります。
宇宙に存在するすべてがプラーナで構成されているので、何からでもプラーナを取り込めるし、何にでもプラーナを与えることができるのです。
最初はなるべく判りやすいものを対象にして練習するといいでしょう。
たとえば「植物の生命力を吸収する」というイメージを持って、花や樹木を見るのです。
そして、プラーナを取り込むイメージをしやすいように、自分の呼吸を利用するのです。
息を吸うときには、「吸う息とともにその植物の生命エネルギーが入り込んでくる」というイメージを持つようにします。
そして息を吐くときは、取り込んだプラーナを全身に巡らせていく様子をイメージします。
最初はイメージするだけでいいのです。
それを続けていると、肉体感覚として少しずつ繊細にプラーナがつかめるようになります。
こうして細かい状態まで肉体感覚としてつかめるようになると、生命力に満ちた状態になります。
少し慣れたら、植物からは離れて、直接「吸う息とともにプラーナが入ってくる」様子をイメージしましょう。
積極的にプラーナを取り入れるつもりで十呼吸を一セットとして、気づいたときや時間のあるときに、いつでも実践してください。
そして、生命力に満ちてくるのを肉体感覚として感じられるようになれば大成功です。』
(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)
言葉で表現できないブラフマンから生まれ、常に動揺している心は、考えることで宇宙を創造する。
この宇宙の魔術は心の中の思考から生じる。
宇宙があるように見えるのは、心の思考のせいである。
しかしすべてを超越した大いなる真の実在に到達することを目指す者は、まずこの思考を放棄しなければならない。
すべての考え、想像を放棄した者はヨーガの正道を確立したといえる。
思考が消え去れば、宇宙も消えてなくなる。
思考が絶滅すると、見るものと見られるものを区別する考えは消え去り、実在のブラフマンが遮られることなく光り輝く。
その時、動くものも動かないものも、あまねく宇宙の幻影はブラフマンただ一つ、その中に溶け込む。
「私」と考えることで、現世のすべてが始まる。
私がなくなれば、太陽が闇をかき消すように、現世もまたたく間に消え去る。
「世界の創造は心の想像である」と「ヨーガ・ヴァシシュタ」に書かれている。
世界と呼ばれるものは心だけだ。
心が世界であり、心は外の世界として顕われる。
夢の中で夢を見るように、見える形を持たない心が、実在しない見える形をつくる。
この現世で経験すること、不安、心配は心の働きに起因する。
苦痛も快楽も心から生じる。
純粋な識別と修行を通じて心が滅びれば、幸せや不幸、苦痛と快楽も滅びる。
天国、地獄、現世の三つの世界は心の楽しみのために創造されたものである。
心の滅却とともに、過去、現在、未来の三つの時世も消え失せる。
心を支配することにより、すべては超常能力を獲得することができるのだ。
オームのシンボルは、三つの世界や時世とそれを超越した神をあらわしている。
心は必ず時間、空間、因果律の枠の中で働く。
この三つの枠は心が創造したものにすぎない。
椰子の木は実際には6メートルの高さではない。
高さは心の解釈である。
外界にあるのはただ「バイブレーション(振動)」だけである。
長さ、幅、高さ、厚み、寸法、空間などは心が創造しているだけである。
3キロの道のりは単なる観念であり、それだけの距離を歩いたと感じるだけだ。
心をブラフマンに集中し、超越すれば、この枠は外されて全く消え去る。
そこは時間も空間もない、「空」の世界だ。
私の友人、ナーラーヤン氏は私の前に立っている-これは心の創造である。
この現世は私自身の心の創造物である。
しかし実在しないというのならば、どこかほかにその物が実在しているということである。
観念論によれば、実際にはこの現世は全く存在しない。
この世界は心の想像にしかすぎない。
これが仏教のヴィニャーナ(純粋知性)説である。
実存主義によれば、世界は実在である。
マーダヴァの二元論、ラーマーヌジャの限定二元論、パタンジャリのラージャ・ヨーガは、現世は実在であると主張する。
カントは時間、空間、因果律は客観的な実在ではなく、知性の主観的な形にすぎないと論証している。
この主張の必然的な結論としては、「世界は空間の中に広がり、時間の中に起こり、因果律で普遍的に支配されている、だから世界は心の表現にしかすぎず、それ以上のものではない」。
時間、空間、因果律で制限された物質的で有限な心は、宇宙がなぜ、どのように生じたかを理解できない。
この質問は超越した神聖な質問なのである。
誰にもこの質問には答えられない。
聖典も聖者も答えていない。
あなたもこの問題で心を悩ます必要はない。
この問題は決して解決できないのだ。
この宇宙の創造は、ブラフマンの楽しみなのである。
神の遊び、神の神通力であり、神の恩寵からできている。
宇宙が存在しない、あるいは宇宙が崩壊するとは、実際の山や湖、木や川が消え失せることを意味しているのではない。
あなたの中でこの世界が偽りの幻だという確信が強まり、この世界は蜃気楼のようなイリュージョンなのだとしっかり思えた時、この世界が崩壊したということなのである。
山を破壊することはできないが、山という考えを破壊することはできるのである。
宇宙は目覚めた状態の夢のように、この世界は心の鏡に映った像にすぎない。
心はさまざまな絵が描かれた巨大な布地でもある。
しかしここには画家も、キャンパスも、筆、パレット、オイル、絵の具などの画材は何もない。
宇宙の絵は汚れのない知識の空間に描かれる雄大な絵画である。
純粋意識から生じる心の活動が宇宙を構成する。
心はマーヤーである。
心が名前や形に魅せられ、執着を断ちがたいのは迷いである。
自分を心だと考えるのは、幻影であり迷いである。
プラーナのバイブレーションや活動が心を動かす。
心の活動が宇宙を生じる。
心は外の世界として自らを顕す。
マーヤーの力の一つ、振動させる力から名前と形は生じる。
振動させる力は目覚めた状態と夢見る状態の両方で働く。
全世界はこの力によって展開されているが、熟睡状態ではこれは消え去る。
現世は心の中に、目、耳、口と古い潜在意識の印象、を通じて入り込む。
隠遁生活をすれば、最初の三つの入口を閉じることができる。
真の大いなる存在の探求によって、四番目の印象をも破壊することができる。
青く見える空の色は、実際には存在しない。
同様に幻の心には、この世が真の世界として輝いて見える。
その実、輝いているのはアートマンそのものであるのだが、心はブラフマンの知性の力であり、物質は物質化する力であり、プラーナは活動の力である。
すべてはブラフマンのものである。
欲望に引きずられて楽しむ心は、無知ゆえに、この偽りの宇宙が存在すると思い込む。
しかし、世界の本当の成り立ちを心に知らせなければならない。
そうして、心はブラフマンそのものであることを知ろう。
(ヨーガとこころの科学 スワミ・シバナンダ)
嫉妬心 羨望心が極めて強く
他者に害毒を与える最低の人間どもを
わたしは繰り返しくりかえし物質界の
魔族の胎内に投げ入れるのである
魔族の間で再生をくりかえす彼らは
アルジュナよ 決してわたしに近づくことはない
彼らは次第に下方へと沈んで行き
ついに最も忌まわしい形の存在になる
地獄に到るには三つの門があり
肉欲 怒り 貪欲がそれである
これらは魂を堕落させる原因ゆえ
正気の人間はこの三つを切り捨てよ
(バガヴァッド・ギーター第16章19-21)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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クンダリニーについて(7)
クンダリニーは、体の中に存在しているにも拘わらず、通常は目覚めていない眠った状態でいるため、一般的には、その存在を知られずにいます。
しかし、私たちを生かし、存在せしめているのは、膨大なエネルギーの源であるクンダリニーであると言っても過言ではなく、誰の体にも宿っている神秘の力(エネルギー)なのです。
あらゆるヨーガの道は、このクンダリニーを目覚めさせることに集約されます。
この宇宙の神秘の力を目覚めさせることにより、探求者は求めているものを手にすることができるようになります。
これまで少数の人のみに開示された究極の真理を掴むことができるようになるのです。
真理の探求は、実践により達成されるものですが、ここでは、そのエッセンスのみご紹介することで、知識としての理解ではありますが、真実の姿の輪郭だけでも理解して頂けるように、クンダリニーやプラーナについて、体験者の言葉をご紹介したいと思います。
『プラーナは宇宙に満ちているというのは先に説明した通りですが、言葉を換えれば、宇宙のあらゆる構成要素がプラーナでできているとも言えます。
そのことは、プラーナを「素粒子」という言葉に置き換えれば判りやすくなるでしょう。
人間も道路も椅子も、素粒子で構成されているということです。
そのプラーナは、人間が感じ取れる現象界に現れるとき、いろいろと形を変えます。
たとえば、椅子を構成しているプラーナと人間を構成しているプラーナは違います。
その違いは、いわば水と氷の状態が違うようなものです。
水と氷という、構成している要素が同じものでも、触った感じが違うし、飲んだり食べたりしたときに感じるものも違います。
ダイヤモンドと石炭の関係と同じとも言えます。
構成要素が同じでも、状態はまったく違うのです。
そんなプラーナを繊細に感じ取る方法の一つは、自分の心の動きを感じ取ることです。
特に精妙な心の動きを感じ取ることで、プラーナへの理解が深まります。
ただし、自分で自分の心を精妙だなと思っているだけでは、本当に精妙な心の状態を感じ取ることはできません。
最初は、心の粗雑な状態を確認することが大切です。
粗雑な状態が確認できたら、精妙な呼吸法などでそれよりちょっと心を精妙にする。
それが確認できたら、さらにもうちょっと精妙にする・・・という具合につなげていって、初めて本当に精妙な状態が体感できるようになるのです。
たとえば呼吸でも、「ゆっくりと呼吸をしなさい。きめ細かい呼吸をしなさい」と言われた場合、「はいっ。やります」と答えてやってみて、実際にゆっくりときめ細かい呼吸ができるでしょうか?
まず、それはできません。
とにかく最初は、粗雑な呼吸、粗雑な心であることを確認するところから始めます。
そして、今自分ができる範囲で、少し呼吸をゆっくりさせてみます。
心も少し精妙に持ってみようとします。
それが確認できたら、次に、それよりももう少しゆっくりな状態、精妙な状態をめざしてみます。
そういうふうに、段階を踏んで進めていく必要があるのです。
それをしないで、いきなり精妙な状態になろうと試みても、頭の中で考えるだけでおわってしまいます。
精妙な状態になればなるほど、頭の中で考えないほうがいいのです。
自分が「これで精妙になった」と思っているレベルでは、間違いなく精妙ではありません。
心が精妙になればなるほど「もっと精妙にできる」と判るようになるのです。
それによって、プラーナも次第に繊細に感じ取れるようになります。
しかし、プラーナを感じ取るときに、しばしば勘違いをしやすいことがあります。
その一つが、他人の経験と自分の感じ取り方を混同してしまう点です。
たとえば私が「プラーナには粘り気がある」とか「どろっとした感じがする」と言ったとします。
すると、それを聞いた人は、そういう先入観が植え付けられ、いつしかそういうものだと思い込んでしまいます。
そして、プラーナの粘り気やどろっとした感じを、自分で体感したように錯覚してしまうのです。
実際にプラーナの粘着力や粘り気を体感として感じられればいいのですが、話を聞いただけで、そう感じたように思い込んでしまうのです。
また、私はときどき
「○○の感じがしたんですけど、それってプラーナなのですか?」
「プラーナって△△のような味がしますか?」
といった質問を受けることがありますが、答えないようにしています。
明らかにプラーナを理解したときには、そういう質問が出ないからです。
前にも触れましたが、プラーナを感じるというのは、たとえて言えば、うどんを食べてその味がわかるのと同じ状態だからです。
うどんの味を知っている人は、「○○の味ってうどんの味なんですか」とは聞きません。
プラーナの場合も、「あの感じでいいんですか」と聞いてきた場合は感じ取れていないのです。
完全に体感としてつかめた人は、私に聞いたりしません。
聞きにくるのは、うどんを知らないのにうどんを食べた夢を見た人や、「うどんってどんな味なのかな」と想像をめぐらせている人だけです。
プラーナを感じ取るとき、まず大切なのは、あまり頭で考えずに人や物からプラーナを吸収したり、与えたりすることです。
そのやり方を見つけてほしいのです。
そんなに難しいことではありません。
人や物に向かい合ったとき、そこから何かを受け取ろう、あるいは与えようというふうに、ほんのちょっとした意識を働かせてみて、そのときにどう感じるかを意識してください。
そして、さまざまな人や物に向かい合って、そこから受ける感じの違いも意識してみるのです。
たとえば、壁に面と向かったときの感じと、目の前に人がいるときの感じでは全然違うでしようから、その違いを確認します。
両者では明らかに雰囲気が異なり、自分の中で生じる感覚が異なります。
それはもちろん、受け取るプラーナが異なるからです。
目の前に人がいて向かい合ったときには、当然、相手とプラーナの交流が発生します。
それと同じように、達磨大師ではないけれども、壁と対峙したときにも壁とプラーナの交流はあるのです。
つまり、やり取りする相手によって、プラーナは全然異なってくるのです。
ですから、自分が何かに対峙したときに感じことを、プラーナから受ける感覚として、まずは素直に純粋に、ただ感じ取ってもらいたいのです。
それを手掛かりにして、頭であれこれ考えずに感覚を磨いていけば、プラーナは肉体感覚としてつかめます。
頭で考え始めると、だいたい変な迷路に迷い込んでしまいます。
(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)
我々の周囲に存在する物質世界のあらゆるものは、まず「人の考え」の中で創造される。
そしてその考えが形となるのである。
城、彫刻、絵画、さまざまなメカニズム、これらすべては、物質として出現する前に、その人の心の中で最初に生まれるものである。
画家がキャンパスに絵を描こうとする時、あらかじめ心の中に自分が受けた物や風景の形を考える。
それにもとづいて、実際の絵をキャンパスに画く。
つまるところ、世界はひたすら思考、人の思いだけなのである。
ちょうど種子が、適切な時と場所を得て芽を出すように、心の中の思考によって感知されたものが、現実の物体という形をとるのである。
心が考えることをやめた時、物質世界は消え、いいあらわし難い歓びだけが存在する。
しかし心が再び考え始めると、世界が現われ苦悩も始まる。
「我思う、ゆえに我あり」はデカルト哲学の真髄である。
これはシャンカラの考えと一致する。
真の偉大なる自己、アートマンは幻影ではない、真の実在だ。
たとえばこれを否定する人がいても、否定しながらその実在を認めているのだ。
心が宇宙を目に見える形にしている。
だが、聖者以外には誰も心を見ることができないのは残念である。
心の性質について真剣に絶え間なく考えれば、実際何もない。
すべては「空」だとわかるであろう。
心は消え去ってしまう。
心は考えの集まりにしかすぎない。
「私」という考えがすべての考えの根本である。
しかし、この「私」という主張は間違った考えであり、実在ではない。
考えの元が「無」と消えなくなれば、自慢げな心はどこに存在しうるのか。
万人の心に最初に起きる考えは「私」である。
しかし最後には、人は永遠の存在であるという想いに到達し、そして心がブラフマンの中に融合して無限の至福を感じる。
宇宙は個人の心が創造したものではない。
ヒラニヤガルバと呼ばれる大宇宙心が一つにまとまって物質化し、目に見える幻の宇宙として顕現したものだ。
現象としての宇宙は創造主である神の意志の結果であり、人の心の働きを通じてあたかも実在するもののように見えるのである。
劇作家はドラマを書く前に、劇の全体像をはっきりと心の中でイメージする。
それからたとえば四幕ものに仕上げる。
上演は一幕ごとに順を追って演じられる。
同じことがこの宇宙創造にも当てはまる。
活動的な宇宙は、宇宙の真理=神の中の鮮明な心象なのである。
神にとっては過去も未来もない。
すべてが「現在」のみである。
神にとっては近くも遠くもない。
すべての場所が「ここ」であり、すべての時間が「今」である。
この悠久の宇宙のドラマの舞台には、時間の経過とともに次々と事件が繰り広げられる。
原子(アトム)は絶え間なく循環する。
古いものは新しくなり、新しいものは古くなる。
しかし事実は、古いものも新しいものもないのだ。
魂は個々の心を通じて次々に起こる事件を目撃しているだけである。
しかし、神はすべての出来事を一瞬にして知る。
神は全知であり、全能である。
神は自らの創造物については細部にわたって熟知している。
個々の心は事物を虚構の中で見ているにすぎない。
この宇宙はもっぱら心の現象にすぎず、宇宙の源であるブラフマンから、自ずと進化したものである。
心を通してのみ顕われる宇宙は、心の形態でしかない。
心は内に向かうと意識であり、外に向かうと現世である。
あまねく遍在する実在の世界は、純粋意識そのものである。
すべての印象は幻(マーヤー)の中に浮いている。
ここに大きな鏡があるとしよう。
通りを行き交う人びとや車などがすべて鏡の中に映るのが見える。
見る側は少しも影響されることなく、離れて鏡に映った光景を眺めている。
そのように、全宇宙の光景が幻の巨大な鏡の中に映し出され、宇宙の神はすべてを見ている。
神は沈黙の傍観者である。
個々の魂のカルマの期が熟した時、初めて神は意図し、その意志が宇宙に投影されて個々の人として顕現する。
(ヨーガとこころの科学 スワミ・シバナンダ)
さまざまな心配と焦燥に右往左往し
幻影の網に捕らえられた彼らは
欲望の満足に執着して
地獄へと真っ逆さまに落ちていく
自己満足で常に無礼 無遠慮であり
自らの富と虚名に目がくらみ
時々自己宣伝のために一切の規則を無視して
誇らしげに祭祀や寄付を行ったりする
これらの魔的人間どもは利己主義 権力欲 自尊心
そして情欲と怒りに惑乱して
彼ら自身と他者の体に内在(やど)る
わたしを軽蔑し 見向きもしない
(バガヴァッド・ギーター第16章16-18)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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クンダリニーについて(6)
クンダリニーという肉体に眠ったように内在している生命エネルギーの源の力についての理解を深めるために、宇宙に満ち満ちている宇宙エネルギー、プラーナについて、成瀬雅春さんの著書からの抜粋をご紹介しています。
今回は、前回の続きです。
プラーナは感じ取ることが可能なばかりでなく、動かすことも可能であることが書かれています。
ひとたびプラーナを感覚的に掴むことができるようになると、プラーナを使うことができるようになります。
具体的には、どんな方法があるのか?見て行きましょう。
『ここで、意識とイメージの違いについて説明します。
「意識する」と「イメージする」はどう違うのでしょうか。
たとえば、「イメージトレーニング」という言葉は耳にしますが、「意識トレーニング」という言葉は聞きません。
「企業のトップになった〇〇をする」と「企業のトップになろうと○○する」の丸の部分に「イメージ」と「意識」を入れてみると、どうなるでしょうか。
「企業のトップになったイメージをする」のは自然ですが、「企業のトップになった意識をする」というのは言葉として不自然です。
ところが「企業のトップになろうと意識する」ならば自然で、「企業のトップになろうとイメージする」のは不自然なのです。
この違いがあるのは、イメージは「単に頭で思い描くこと」であり、意識は「希望する未来に向けて実感をもって近づこうとすること」だからです。
企業のトップになったイメージを思い描くだけなら楽ですが、企業のトップになろうとするなら、イメージを思い描いでも無駄なのです。
トップになることへ向けて、「意識」をして、一歩ずつ近づくための努力を始めなければならないのです。
大学に入ったイメージを描いても、実際に入れる訳ではありません。
大学に入ろうと「意識」して勉強をしなければダメなのです。
食べ過ぎて肥った人が、痩せたイメージを描くだけで食べ続けていれば、いつまでも肥ったままです。
しかし、痩せようと「意識」して、そのための努力を始めれば、必ず実感を伴った手応えが得られるのです。
プラーナを取り入れるときも、大切なのは「意識する=実感を伴う」ことなのです。
プラーナを取り入れたような気分になっても、プラーナを取り入れたイメージをしても、それには意味がありません。
実感を得なければならないのです。
毎日同じ要領でこなしてきている仕事でも、意識してやってみると、意外な気づきがあるものです。
もっと効率よくこなせることに気づいたり、やるべき作業が抜けていることが判って、大失敗に至らずに済んだり、といったこともあるでしょう。
また、つまらないと思ってやっていた仕事でも、意識して取り組むと、楽しくなったり面白くなったりするものです。
積極的に取り組めば、どんな仕事でも面白さを見つけられます。
同じように、プラーナを取り込むときも「意識」を働かせなければなりません。
そうすれば、前に述べたように、プラーナを取り込んだという「体感」が生まれ、プラーナをきちんと把握することができるのです。
意識がプラーナを動かす表れの一つが、たとえば天気です。
「天気予報は当たらない」とよく言われますが、天気とは何に反応して決まっているのでしょうか。
実は、人間の意識に対する反応で決まっているウエイトが大きいのです。
人間一人一人の意識が集合して、ある一つの大きな意識になります。
たとえば「日本人意識」と呼ぶべきものがあります。
個々の日本人の意識が集まって、集合的に大きな一つの意識状態ができあがった状態です。
その日本人意識が、日本の国土の上空には存在しています。
日本の上空の天候は、その集約的な意識によって、ある程度決まっているのです。
意識の大きな力がプラーナを動かし、天気を決める訳です。
もちろん、ただ全員が願えば晴天が続くといった単純な話ではありませんが、多くの人たちの意識が集まり、絡まり合って、大気に満ちているプラーナの流れを作り、たとえばある地方では、ほとんど一年中雨が降らないといったことが起こります。
中国には、雲を操作する仙人の話があります。
雲がパーッと垂れ込めて厚い状態になっているところに向けて、エイヤッと気合を発すると、雲が割れてしまうという話です。
これは、多くの人の意識というよりも、仙人と呼ばれた人が、人並みはずれて意識の量が多かったせい、あるいは意識の力が強かったせいです。
昔は中国の他にも、世界各地で、人がそうやって天候を左右した話がたくさんありました。
代表的なのは、キリスト、仏陀、空海といった聖人たちが、天気を操作したという話です。
雨乞いが成功した話も少なくありません。
それは、聖人の意識や雨乞いした人の意識、そして、その周りにいた人たちの意識によります。
個人あるいは集団の意識の量がどれだけ大きいか、どれだけパワーがあるか、そしてどんなふうに動くかによって、プラーナの動きが決まり、天候を左右していくのです。
もともと、人の意識の量には限りがありません。
「このくらいで、もうあなたの意識の量は終わりですよ」という限界がないのです。
だから人の意識はいくらでも多くなり得るし、意識のパワーも強くなり得ます。
そして、そういう人になればなるほど、天候を左右できる可能性が高くなるのです。』
(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)
何百、何万年もの長い間修行を行って、天国、地獄、現世という三つの世界を瞬時に往き来できたとしても、過去、現在、未来という三つの時世が見えても、想像力の根絶という確実な道以外に、曇りのない悟りに到達することはできない。
想像力を破壊するように努力しなさい。
想像力の破壊について一人静かに瞑想してみるがよい。
そうすれば、全世界を支配する国王の地位もつまらないものになるだろう。
心はすぐに世俗の物を思う。
これが多分に心の性質である。
心は慣れた俗事に向きやすく、神を考えることはむしろ苦手で骨の折れる仕事である。
心を事物から引き離して神に向かわせるのは、ちょうど海へ向かうガンガーの流れを上流に向かって逆流させるほどむずかしい。
ヤムナー川の流れに逆らって船をこぐようなものでもある。
しかし生と死の輪廻から解放されたいのなら、心に逆らって、激しい努力と欲望の放棄を通じて、心を神に向けるように鍛錬しなければならない。
世の中の不幸、苦痛をなくしたいのなら、これより他の方法はないと知るが良い。
識別の力とたゆまない努力によって、想像という汚れ、曇りを破壊し、真理の知識でブラフマンの歓びの大海に浸りなさい。
識別の働きで想像を破壊しようとしても、想像は何度も顔を出す。
事物への執着から心を引き離し、師の教えに従って行動しなさい。
ひとときもこの世の事物のことを思い患ってはならない。
想像を除くのに努力しすぎることはない。
この世は架空、虚像であることがはっきりとわかれば、名前と形を持った虚像の世界はゆっくりと消え去っていく。
「ブラフマンだけが真実。
この世界は虚構であり、神聖なブラフマンの世界の転写にすぎない。
自己とブラフマンは一体だ」、この言葉を繰り返しなさい。
常に繰り返すことで、あなたは大きな力と心の平安を得るだろう。
周りの事物への欲望から離れ、心の中に生じるすべての想像を除去しなさい。
想像によって生じる心は想像によって滅ぼすことができる。
風に煽られる火は、風が吹き消す。
諸悪の根源である想像を滅却すると、無知とその結果である心も絶滅する。
想像がなくなれば歓びだけがそこにある。
誰もいない部屋に一人坐り、目を閉じなさい。
心を観察し、エネルギーを込めた努力で、一つ一つ心の中に湧き起こる波を破壊しなさい。
すると自然に超越的瞑想が続いて起こるだろう。
その時、遠い過去から引きずって来た迷いの厚い霧は消え去る。
そして、秋の青い空のように、ブラフマンだけが燦然と光り輝く。
それは、至福、永遠不滅、姿も形もなく、生死を超えた唯一の「その存在」である。
心の平安は、お金儲けや異性や飽食の中にはない。
心の欲望がなくなった問、真の自己が輝き始め、永遠の歓びと平和を感じる。
人はなぜ、無益に外の事物に幸福を求めるのか。
それは空しい努力だ。
自分の内に歓びを求めよ。
純粋な真理、永遠の存在そのものを見つけなさい。
(ヨーガとこころの科学 スワミ・シバナンダ)
幾百幾千の欲望の網に捕らえられ
情欲と怒りに身心をゆだねて
感覚的快楽を追求するために
不法なやりかたで金を蓄積する
魔族の人々は思うーー
『現在これだけの富を所有しているが
計画を練ってもっと増やしていこう
現在これだけは私の所有だが 将来もっともっと増やしていくのだ
彼は私の敵だから殺した
ほかの敵どもも やがて殺してやる
私はすべての主人公だ 私はすべてを楽しむ
私は成功者だ 有力者だ 幸福者だ 富裕な人間だ
高貴な血筋の縁者たちにかこまれ
私ほど有力で幸福な者はほかにいない
さあ祭祀(まつり)もしよう 慈善もしよう それが私の喜びだ」
このように彼らは無知のため妄想している
(バガヴァッド・ギーター第16章12-15)
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詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
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クンダリニーについて(5)
前回の記事でご紹介しました成瀬雅春さんの著書からの引用文、
『プラーナは体感する、つまり肉体感覚でつかむことができます。逆に、肉体感覚としてつかめないうちは、知識でどんなに「プラーナが判った」と思っても、本当に判ったことにはなりません。プラーナを体験するというのは、まさに実際にうどんを食べてその味を知ることと同じです。』とありましたが、
このことは、プラーナを体験した人には、至極納得のいく説明であることと思います。
このブログでもご案内させて頂いておりますナーナ先生のシャクティ・プラーナは、正にこの「プラーナの体験」を私たちに、自然な形で起こさせて下さいます。
何度も何度も、シャクティ・プラーナを受けることで、初めは微かな感覚だったものが、次第にハッキリとした感覚として掴めるようになり、最後には、「これがプラーナだ」とはっきりと判るようになります。
何故そう言えるのか?と言いますと、ナーナ先生のサットサンガや個人セッションで、「プラーナを体験した」人が、実際にいるからです。
かく言う私も、「実際にうどんを食べてその味を知る」ように、ナーナ先生のシャクティ・プラーナの力のお陰で、プラーナを知ることができた一人です。
これは、以前の記事でご紹介しました「ヒツジライオン」の例え話が、実際に起きたことになります。
(「ヒツジライオン」の例え話は、このブログの2017年3月7日の「ヒツジ(人間)だと思っているライオン(神)のお話」という記事をご覧下さい)
このように、「プラーナを体感する」ことは可能なのです。
(もし、本当に「プラーナを判りたい」ということであるならば、ナーナ先生のサットサンガや個人セッションに参加することで、その可能性が非常に高くなるということは、実際にそのような人がいるということから、実現可能であるということは言えるかと思います。)
それでは、更に、プラーナとはどういうものか?を理解するために、前回の続きをご紹介いたしましょう。
『このように、何からでもプラーナを取り込めるし、何にでもプラーナを与えることができるのです。
たとえば「花に自分のプラーナを注ぎ込む」というのは比較的判りやすい例でしょう。
それで、花が元気になることがあります。
花からプラーナを取り込むこともできます。
取り込んだから花が枯れるということはありません。
取り込んだ分のプラーナは、外から花へ入ってきます。
植物好きの人が、よく「植物と対話する」という言い方をします。
「動物との心の交流」という言い方もあります。
これらは、植物や動物とのプラーナの交流のことです。
心という言葉が出ましたが、心もプラーナでできていると理解してください。
人は自分の持ち物に愛着を持ちますが、それは持ち物と自分の間にプラーナの交流があるからです。
物が持ち主の肌になじむ、という現象もあります。
肌になじむというのは、やはりプラーナの交流があることです。
私の持っている物は、他人が持ったときと、私が持ったときでは感じが完全に違います。
それは誰の持ち物でも同じです。
他人の腕時計を借りて嵌めたときには、何か違和感があるものです。
ところが自分のを嵌めているときは、まったく違和感を感じません。
その差は、それまでにプラーナの交流をしてきたかどうかによります。
人が何かからプラーナを取り込むとき、取り込むものを限定する必要はありません。
人間からでも、生き物からでも、目の前の壁からでも、何でもいいのです。
取り込むときにどういう感じがするかが、重要な第一の鍵になります。
私が椅子に坐ると、その椅子は私のプラーナが入り込みます。
それは椅子でも人の場合でも同じです。
人に会った場合、私がその人のプラーナを取り込むと、その取り込まれた人には同時に、宇宙に満ちているプラーナが入り込んできます。
椅子の例で説明を続けましょう。
私が椅子に坐ると、私のプラーナの構成要素が椅子に注ぎ込まれます。
そうすると、私のプラーナの一部が、椅子のプラーナの構成要素に同化してしまうのです。
溶け込むという表現でもいいでしょう。
溶け込んだ結果、私という人間の性質が、その椅子にいくらか残るのです。
椅子のプラーナの構成要素に同化する私のプラーナは、量で見ると非常に少ないものです。
ほんの少しなのです。
そんな微量ではあるけれど、溶け込んだせいで、私はその椅子に対してなじむ感覚を覚えるようになります。
持っているものに肌がなじみ、愛着が出てくるというのは、そういうことなのです。
こうして、長年持って使っている物ほど、持ち主になじんできます。
持ち主の性質を受け継ぎ、言うことを聞いてくれるようになります。
長年使っている自分の椅子が座り心地がいいのは、そのせいです。
しかし、プラーナはいつも容易に取り込めるわけではありません。
自分がイメージした通りにプラーナを取り込めるかというと、そんなことはありません。
たとえば、ある人が富士山をイメージして、富士山のプラーナを全部吸い取ってしまおうと思ったとします。
しかし、思っただけでは、その量のプラーナは入ってきません。
宇宙に満ちているプラーナを取り込むためには、ヨーガの呼吸法(プラーナヤーマ)を実践するのが有効です。
全身をどのくらいプラーナがきちんと流れているかによって、取り込める量が違ってきますが、その滞りない流れを作るためには、呼吸法をしっかり行わなければなりません。
また、すでに身体の中を強いエネルギーが流れているということも、新たにプラーナを取り込む上で重要です。
体内にエネルギーの強い流れを作るための技法として、「クンダリニー・ヨーガ」というものがあります。
このクンダリニー・ヨーガについて説明しましょう。
人間は、とてつもないエネルギーを自分の身体の中に取り込むことができる可能性があります。
ところが、それが普通はなかなかできないのです。
なぜかというと、ナーディー(身体の中に無数にあると言われているプラーナの通り道)が詰まっていたり、ナーダィーが細くなっている部分があったりするからです。
それだけでなく、エネルギーがきれいに流れていても、流れるスピードや、取り込んだエネルギーを身体に流すスピードが足りないと、取り込むエネルギーの量は多くならないのです。
細い小川の水の流れをエネルギーに換えようとしても、せいぜい水車を回せる程度です。
しかし、大きな人造湖に溜まっている大量の水を、落差をつけて放流すると、ものすごいエネルギー量が得られます。
体内でそれと同じことをして、大量のエネルギーをきれいに、スピーディに流そうという技法がクンダリニー・ヨーガです。
人間の尾骶骨の周辺には、「クンダリニー・エネルギー」という巨大なエネルギーが眠っているとされています。
クンダリニー・ヨーガとは、簡単に言えば、そのクンダリニー・エネルギーを目覚めさせて、頭頂部まで持ち上げていく技法です。
それによって身体の中を大量のエネルギーが高スピードで流れ、その結果、外部からも巨大なエネルギーを取り込むことができるようになるのです。
ところが、このクンダリニー・ヨーガを行うとき、身体の準備ができていないと危険なことになります。
たとえば、百ボルトの家庭用電流の回線にいきなり百万ボルトを流したら、大変なことになります。
前もって、百万ボルトの電流が流れても大丈夫な通り道を、きちんと作っておかなければならないのです。
それと同じように、クンダリニー・ヨーガによってクンダリニー・エネルギーを頭頂まで通すときも、その通り道をきちんと整えておかなければなりません。
クンダリニー・エネルギーというのはそれほど巨大なものであり、通り道の準備もなくクンダリニー・ヨーガを行うのは本当に危険なのです。
その通り道を作る作業と言うのが、ヨーガのポーズ(アーサナ)や呼吸法(プラーナヤーマ)、瞑想といった技法です。
そうやって通り道をきちんと整備しておいて、その上でエネルギーを覚醒させれば、危険性はありません。
そうすれば、外からのプラーナも大量に取り込めるようになります。
プラーナを確実に取り入れるには、意識も関係します。
意識は「無意識」「顕在意識」「潜在意識」「深層意識」といった言葉で表されています。
その意識を、どれだけ「意識的」に機能させることができるかが、第二の鍵です。
ヨーガによって意識的に顕在意識を操作できるようになると、潜在意識もコントロールできるになり、深層意識のコントロールも不可能ではなくなります。
学問的には明らかにされていないかもしれませんが、ヨーガは実践哲学です。
実際には自分の内部に存在しているものであれば、どんな意識でも自在にコントロールできる可能性があるのです。
現にヨーガの実践者の中には、それをやっている人が少なくありません。』
(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)
ブラフマンは心と感覚器官をそれぞれ独立して外に向くようにつくった。
心は昔から外に向かうようになっている。
だから外の世界に魅せられて、内なる本来の自己の姿を見ない。
惑わしの力が外にひっぱり出すのである。
子供のころから外の世界を見るように教えられ、内にある精神世界を見るようには教えられてこなかったのである。
内省の能力は完全に失われている。
内部の心の工房で何が行われているかを把握するには、内省の能力をそなえた、純粋で鋭い知性が必要である。
心を内に向け、力を集中し、心そのものに向けなければならない。
心の性質を知り、分析するのである。
一所懸命に内を探しなさい。
心や感覚器官は信用できない。
心や感覚器官は敵である。
内省では、心の一つの部分が心の他の部分を調べる。
高い心が低い心を調べる。
内省は、より高い知覚である。
人夫の仕事を監督するように、心のある部分が、心の他の部分の働きを監督する。
心が心の傍観者になり、気をつけて観察すれば、多くの欠点を見つけることができる。
これは適切な修行で除くことができる。
静かな部屋に入り、毎日、毎晩15分ほど静かに内省をする。
心を注意深く観察する。
この内省の実践には、内に向かう心と鋭敏な知性が必要である。
聖典の学習、聖者との交流、自制、純粋な食べ物などで知性は鋭くなる。
自分自身が自分の心を一番よく判断することができる。
一人で一時間、静かな部屋に籠って瞑想する。
目を閉じ、心の活動をじっと観察する。
こうすれば、自分の欠点や弱点を実にはっきり知ることができる。
その後で、これらの欠点を除きたいと感じるはずである。
自分の性質を変え、欠点を除く正しい方法を知らなければならない。
絶えず修行を行うことは絶対不可欠である。
一週間に一度、二週間に一度、一か月に一度というように、進歩の具合を精神日記として記録するのが良い。
もし心が散漫ならば、その原因を一つずつ忍耐強く、適切な修行で取り除かなければならない。
もし一つの方法がうまく行かなれば、二つの方法を合わせて行うべきである。
三つのことを憶えておきなさい。
自己分析、自己信頼、自己決意である。
この三つはあなたの霊的修行に計り知れないほど役に立つ。
内省で自己分析をする。
自分の心に浮かぶ波の性質を知る。
ある瞬間に、純粋さ、活動的、惰性のどの要素が優勢かを知る。
心をどれだけ長く対象に集中できるか。
たとえば他のすべての対象を除外して、バラの花にだけ集中する。
二秒、二分、五分、三十分集中できるか。
このように観ていくのが「自己分析」である。
自分自身に信頼をおきなさい。
自分を救うのは自分だけである。
誰も解脱を与えてはくれない。
一歩一歩、自分で精神修行の道を歩まなければならない。
教典やグルは道を示し、案内してくれるが、歩むのはあなた自身だ。
これが、「自己信頼」である。
「私は神を悟る」と強く決意しなさい。
いつかわからない将来ではなく、この今、自己実現、神との融合を体験する。
これが自己決意である。
俗人は常に忙しい。
人生の課題、人生の謎などをほんの数分間でも考える暇がない。
俗人の心は執着のために特別な欲望の対象を追い掛ける。
俗人の心は世間一般の事柄にエネルギーを費やすだけだ。
食べること、着ること、妻、子供、友だち、仕事。
こうして一日は過ぎ去っていく。
同じことを毎日、毎週、毎年繰り返す。
その人の人生はかようにして終わる。
なんと淋しく嘆かわしいことか。
心よ、感覚器官とその対象ばかりと付き合っていて、自分を忘れてはならない。
ブラフマンに集中しなさい。
ブラフマンがおまえの故郷なのだ。
オームを唱える時、ブラフマンと融合した波動を受ける。
このブラフマンの真理の助けで自分の故郷に帰るのだ。
そうすれば、あらゆる無益な考えは消え、目覚めの状態、夢見の状態、熟睡状態を超えた、第四の悟りの状態に到達する。
そこで生死の繰り返しから自由に解放されるのだ。
再び骨と肉をまとう必要はなくなる。
自己の源、真理(サット)、知性(チット)、歓喜(アーナンダ)だけのブラフマンに溶け込むのだ。
(ヨーガとこころの科学 スワミ・シバナンダ)
魔性の人の欲望は飽くことなく
自惚れと虚栄に身を浸している
一時的な物事に魅惑されて
常に不浄なことを行っている
彼らはこう信じているーー『人間の文明進化にとって
最も必要なのは欲望を満足させることだ」と
したがって彼らは死に至るまで
無数の心配と焦燥に苦しめられる
(バガヴァッド・ギーター第16章10-11)
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
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☆真我の目覚めを体験したい人
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詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
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☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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クンダリニーについて(4)
クンダリニーという私たちの体に眠っている生命エネルギーの源の力(シャクティ)について正しく理解するために、この宇宙に満ち満ちている宇宙エネルギー、プラーナについて、正しく理解する必要があります。
気功などで知られている「気エネルギー」と「プラーナ」は、同じものでしょうか?
それとも、違うのでしょうか?
もし同じでないとすると、どう違うのでしょうか?
その辺りの解説をご紹介することで、よりプラーナ、そしてクンダリニーについて、理解が深まることと思います。
プラーナは、肉体感覚として掴むことができると、空中浮遊を成功させたヨーギーの成瀬雅春さんは、書いています。
どのように体感すれば良いのか?また、どのような体感なのか?見て行きましょう。
『では、プラーナの存在を、どうやって把握し、理解することができるのでしょうか。
プラーナは体感する、つまり肉体感覚でつかむことができます。
逆に、肉体感覚としてつかめないうちは、知識でどんなに「プラーナが判った」と思っても、本当に判ったことにはなりません。
いや、それはまったく判っていないのと一緒だと思ってください。
たとえば、日本食を食べたことがない外国人に、盛りそばやきつねうどんの味を言葉で説明しても、理解してもらうのは大変です。
いろいろな角度から、きつねうどんの味をさまざまな言い回しで説明して、さてどのくらい判ってもらえるかというと、ほとんど判ってはもらえません。
では、どうやれば判ってもらえるかというと、きつねうどんを実際に食べてもらうしかないのです。
美味しいとかまずいといった感想は別として、「きつねうどんとはこういうものだ」ということは、食べたとたんに判ってしまいます。
プラーナを体験するというのは、まさに実際にうどんを食べてその味を知ることと同じです。
夢の中で食べるとか、食べる真似をするというのとは違います。
ところが実際には、プラーナを体感せずにプラーナを理解したと思っている人が少なくありません。
だから、たいていの場合は自信を持って「プラーナを体感した」とはならず、「あれ、これはプラーナの動きかな?」とクエスチョンマークがついた感覚になってしまいます。
これでは、体感していることにはなりません。
うどんを実際に食べている人は、「これがうどんの味だ」とはっきり判ります。
決して「食べているのかな?」「こんな味なのかなあ?」という疑問は生じません。
そういう疑問を感じるのは、食べることを想像しているときや、夢の中で食べているときです。
同じようにプラーナを体感していない人は、判ったと思っても、どうしても「これがプラーナかな?」という疑念を拭い去ることができません。
逆にきちんと体感すれば、「これがプラーナだ」とはっきり理解することができます。
では、そのプラーナをどう体感すればいいのでしょうか。
そのために、まずプラーナを意識的に取り込む方法を説明しましょう。
プラーナは宇宙に満ちている生命エネルギーですから、誰からでもどこからでも取り込むことができます。
たとえば私が、誰か別の人からプラーナを取り込むとしましょう。
そのときに、その人の生命エネルギー(=プラーナ)は、私に取られたからなくなってしまう訳ではありません。
生命エネルギーがなくなってしまえば、その人は死んでしまいますが、取られた分のプラーナは、他の人や生物、物質などからその人に入り込んできます。
このことからも、「プラーナ=気」とする解釈が正確ではないことが判ります。
「気」については、「他人の気を奪う」とか「自分の気を弱っている人に与える」といった言い方をします。
しかし、それはあくまで人間が相手の場合に限られ、「椅子の気を養う」とか「時計に気を与える」という表現はありません。
しかし、「気」ではなく、「プラーナ」であれば、相手が椅子でも時計でも、与えたりもらったりするのはごく自然なことです。
人のプラーナを取り込んで、人にプラーナを与えることもできるし、椅子のプラーナを取り込んで、時計にプラーナを与えることもできます。
「すべてがプラーナに満ちており、プラーナでできている」と解釈することが重要なのです。
それが、プラーナを体感するときの手掛かりになります。
ただし、すべてがプラーナでできているとは言っても、どこからプラーナを取り込んだかで、感じ方がいくらか異なります。
人からプラーナを取り込んだときと、椅子から取り込んだとき、時計から取り込んだときでは、それぞれ手応えというか、感じが違うのです。
「粘り気が違う」という表現もできます。
それは、プラーナを与える場合でも同じです。』
(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)
>アストラル体(幽体)とは何か知りたい。
スワミ・シバナンダ
アストラル体とは微細体で、幽体とも呼ばれる。
我々の感知できる肉体と相対する形で、非感覚に我々の肉体の中に存在する。
その関係は、サッカーボールの表皮(肉体、物質界)と内側に層をなす内袋(アストラル体)に似ている。
肉体とアストラル体はそれぞれの部分で正確に呼応している。
五つの行為器官(手、足、口、排泄、生殖)、五つの知覚器官(眼、耳、鼻、舌、皮膚)、五つのプラーナ(アパーナ、サマーナ、プラーナ、ウダーナ、ヴィヤーナ)、さらにマインド、インテレクト、チッタ、ブッディ、アートマンとなる。
これを「多重構造」と呼ぶ学者もいる。
ヨーガでいうパンチャ・コーシャ(五つの鞘)の内、マノーヤマ・コーシャ(意識の鞘)ニャーナマヤ・コーシャ(知識の鞘)がアストラル体である。
死後に肉体から抜け出して天国に行くのはこのアストラル体である。
さらに、永遠不滅の存在(大いなる神)を知り、アストラル体も消滅したとき、人は輪廻転生のサイクルから完全に解放される。
>死の時、体のどの部分から魂は抜けるのでしょうか。
スワミ・シバナンダ
生命エネルギーは、ナーディと呼ばれる管を通して体内を駆け巡っている
プラーナは流れを引き上げ、アパーナは下げる働きをする。
この働きが絶え間なく行われているから、我々の生命は維持されているのだ。
しかし、どちらか一方が弱くなった瞬間、そこが魂の出口となる。
アパーナが譲った時、魂は頭、鼻、口などから抜け出る。
プラーナが譲った時は肛門から出る。
>現世からの脱出が目標ならば、慈善事業や奉仕活動の意味はどこにあるのか。
スワミ・シバナンダ
現世からの脱出がゴールではなく、世俗的なことからの解放こそが真の目的である。
霊的修行において、ある段階までは慈善事業や奉仕は相当重要な意味を持つ。
しかしある時点以降は、より高い純粋意識によってすべてが超越される。
慈善事業が大きな変革や人類の救世主になれるわけではない。
しかし慈善や奉仕を行う人は、奉仕という行為によって自分のエゴを宇宙の愛の祭壇にささげ、お返しに心の浄化を得る。
心の浄化は霊的な向上には不可欠なことである。
(ヨーガと空の科学 スワミ・シバナンダ)
魔性の者たちはーー為(す)るべきことと
為(し)てはならぬことの区別を知らない
清らかさも無く 礼儀もわきまえず
不誠実 不正直である
彼らは言うーー『この世界は幻影であり
何の根拠もなく 神など存在しない
すべては性欲によって産まれ出たもので
そのほかには何もない』と
このような考えの結果として
彼らは堕落し 知性を失い
有害な恐ろしい仕事をして
世界を破滅させようとする
(バガヴァッド・ギーター第16章7-9)
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クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
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クンダリニーについて(3)
前回、前々回と「クンダリニー」という私たちの肉体に宿っている生命エネルギーの根源の力(シャクティ)についてご紹介しましたが、今回も、その続きの内容となります。
クンダリニーとプラーナもエネルギーではありますが、両者の関係を今一度整理してみましょう。
クンダリニーシャクティを覚醒させ、空中浮遊を成功させた成瀬雅春さんの著書より、両者の関係を説明している文をご紹介したいと思います。
これを理解するだけでも、目には見えないけれど、確実に存在するエネルギーの世界についての理解が深まることと思います。
神秘の扉が通じている世界は、人間の目には見えないけれど、確かに実在しているエネルギーの世界なのですから、解脱のプロセスにおいては、このエネルギーの世界に踏み込んで行く必要があります。
それは、どのような世界なのか?
ヨーギーの智慧に与ることで、未知なる世界への理解を深めていきましょう。
『私たちは誕生から成長を続け、やがて老化して死を迎えます。
その間、無数の細胞が誕生と死にあった細胞はすべてなくなってしまっているのに、同じ変形をした自分が存在しているというのは、生命の神秘です。
誕生から間もない赤ちゃんは、身体が柔軟です。
まもなく首が据わりますが、これは柔軟度が減ることを意味します。
そして成長するにしたがって、さらに柔軟度が減っていくのです。
やがて大人になって成長が止まり、老化現象が表れてきます。
そして、必ず死を迎えます。
誰一人の例外もなく、このルートをたどるのです。
その神秘的な「人間」を存在させている構成要素を、物理学的には細胞、素粒子、原子、電子、中性子などと呼んでいます。
物理学は究極の存在を求めて日進月歩で進化し、タキオン、クォーク、ニュートリノ、レプトンなどいろいろな名前をつけては、さらに微細な存在を探し求めます。
その先に、前に述べた究極の素粒子「ヒッグス粒子」があるわけです。
しかしヨーガでは「プラーナ」という概念で、そのすべてを言い表しています。
「宇宙のあらゆる構成要素はプラーナでできている」
というごく簡単な一言で、世界の究極の存在を説明しているのです。
究極の物質を追い求める物理学者をあざ笑うかのように、ヨーガではその問題を、はるか昔に解決してしまっているという訳です。
プラーナというのは、簡単に言うと、根源的な生命エネルギーのことです。
そのプラーナを取り込むことによって、人間は生きることができ、生活することができ、死ぬこともできるのです(生命エネルギーではありますが、プラーナは死ぬのにも使われます)。
生まれてきた瞬間から死の瞬間まで、肉体を持っている人間は、プラーナを使うことを一時たりとも休むわけにはいきません。
では、なぜそのプラーナが究極の存在なのか、それを説明していきましょう。
根源的生命エネルギーであるプラーナは、宇宙に満ち満ちています。
私たちはそのプラーナを取り込んで、活用することで生命活動を維持しています。
ただし「プラーナ」という概念については、やや誤解されている部分があります。
プラーナは一般的に「気」と訳されることが多いようですが、気という言葉では少し説明不足です。
インドのヨーガでいう「プラーナ」と「気」とは、イコールでは結べません。
なぜなら、気という概念は、たとえば道路や椅子、時計といった物質に対しては一般的には使いません。
「この椅子は気でできている」「この時計は気でできている」という言い方は聞いたことがありません。
しかしヨーガでは、そういうものもすべてプラーナでできていると考えます。
もちろん、いわゆる「気」に当たるものもプラーナです。
プラーナは、地球上はもちろん、宇宙に存在しているあらゆるものを形作っているエネルギーです。
動物、植物、鉱物、気体も全部含め、存在として考えられるものはすべてプラーナが作り上げている、と解釈されています。
ヨーガの呼吸法は、「プラーナヤーマ」というのですが、それはサンスクリット語で「プラーナをアーヤーマ(コントロール)する」という意味です。
プラーナという言葉の複数形は、生命を意味します。
また、生き物のことをプラーニン(プラーナを有するもの)と呼びます。
そしてアーヤーマという語には、「コントロールする」に加えて「伸ばす」「拡張する」「長さ」「幅」「規則的」などの意味があります。
つまりヨーガ呼吸法は、単に呼吸のテクニックだけではなく、生命エネルギーを拡張する、生命力を高めるための方法であるのです。』
(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)
>善人が苦しむのはなぜなのか。
前世のカルマのせいだと説明される。
では、カルマは天地創造の日までさかのぼるのか。
スワミ・シバナンダ
カルマの法則は一種冷酷な法である。
前世の行動の結果は必ず刈り取らなければならない。
善人がより苦しい目に遭うのは、精神的な向上の道を急いでいるからである。
過去生の悪いカルマは急いで消化され一掃されねばならない。
今生で救済されたいと熱望しているからである。
神の叡智は、彼に巨大な忍耐という力を与えられた。
霊的求道者や善人は多くの試練にぶつかると、その苦しみの中に神の恩恵を感じて歓喜する。
むしろ試練を歓迎する。
この世の一番の幸せは、痛みや苦しみを味わうことである。
なぜなら、苦痛は神への開眼の扉となるからである。
>慈悲深い神は、なぜ誠実な人を幸福にしないのか。
なぜ過去のカルマから救うことができないのか。
スワミ・シバナンダ
カルマは原因と結果というサイクルで回る車輪のようなものである。
いったん弓から矢が放たれると、矢を射た本人であっても引き戻せない。
同様に原因からくる結果は止められず、後ほど対処しなければならない。
プララブーダ・カルマ(前生で作られた原因カルマ)が今生で結果となって現れた場合、取り消すことはできず、経験されなくてはならない。
では、神は帰依者をカルマからいかに救うのか。
慈悲深い神はその恩寵で、求道者の意志の力を補強してくれる。
明るい笑顔でカルマに堪えられる強い意志を培ってくれる。
帰依者は、前生のカルマに翻弄されるまでは決してない。
見事に神の恩寵で守られる。
厳しい吹雪の日でも、暖かい服を着て、暖かい家の中にいれば寒さを感じない。
たとえ他人の目には、貧困や病気などで厳しい状況に見えても、神への信仰と熱愛によって神から守られた信者は、苦しみを感じない。
神に溶け込んで永遠の至福を味わう。
>スワミジ、どうすればカルマから解放されますか。
スワミ・シバナンダ
日々の暮らしや仕事に従事する時、自分が行為者ではなく、自分の行動も含めた、すべての出来事の傍観者であると感じるようにしなさい。
あなたの本質である霊性は、行動するあなたとは別のものであると理解する。
それがヴェーダンタの論理である。
同様に効果的で、簡単な方法がある。
それは、神のみがすべての行動の真の行為者であり、あなたは神の行為の道具にすぎないと感じること。
そうすれば、あなたの行動はすべて神を崇拝する行為となり、行為の結果に縛られることがなくなる。
行為に対する見返りをいっさい考えることなく、利己主義にならずに行動できる。
自分が行為を行うという考えを捨て、「行為者は、わたしではない」と感じるようにする。
そこであなたは、カルマの法則に縛られることがなくなり、新たなカルマも作らない。
プララブーダ・カルマ(過去生で作られ、現生を決めるカルマ)が消化されるのを待てば、いずれ解脱に至る。
(ヨーガと空の科学 スワミ・シヴァナンダ)
思い上がり 尊大な態度 うぬぼれ
怒り 荒々しさ 無知
これらの性質は プリターの息子よ
魔性に属するものである
神聖 高貴な性質は人を解脱に導き
魔の性質は人を束縛にみちびく
だがアルジュナよ 心配するな
君は神性をもって生れてきたのだ
この世界には二種の創造物がある
一つは神性をもつ者 他は魔性のもの
神性については既に話したから
次に魔性について説明しよう
(バガヴァッド・ギーター第16章4-6)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
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☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
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詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
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