わたしは誰か?-アートマンについて(6)
前回の記事でも書きましたが、
私たちは、自分の肉体を見て、または、他者の肉体を見て、同じ形をしていると判断できる場合は、同じ「ヒト」という生物であると認識します。
その肉体は、この地上に現れてから、日々、成長を続け、やがて成長はピークに達し、その後は、衰退が始まり、終には、肉体にある機能のすべてが停止する日がやって来て、肉体は滅びます。
私たちが、自分たちを、この「肉体」と同一視している限りは、個体としての消滅を宿命として受け入れるしかありません。
自分たちを、「肉体」と限定してしまうと、肉体の消滅と共に、「個人」のすべてが消滅します。
「わたし」という意識は、寝ている間は、ありませんから、肉体に属していることは明らかです。
ですから、「わたし」という意識(自我意識)は、肉体の消滅と共に、消滅します。
これは、個人にとっては、完全なる消滅を意味し、死への恐怖心が育ちます。
ここにもう一つの考えがあります。
それは、「肉体」の消滅後も、何らかの形で「個人」は存在し、また、この地上に生まれ変わる、というもので、これが、現在言われているところの「輪廻転生」の考え方です。
個人にとっては、死後は、何も無くなる、と考えるか?、それとも、魂は死なずに、何らかの形で存在し続け、それが輪廻転生する、と考えるか?という二通りの考えしかありません。
前者は、肉体がすべてである、という考えに根差しており、
後者は、肉体が滅んでも、(個の)魂は生きている、という考えに根差しています。
人それぞれに、どちらの考え方を選ぶか?は、それぞれでしょう。
完全なる消滅と考えると、死の際に、人は、死に対して恐怖を感じることでしょう。
しかし、輪廻転生すると思っていても、今生が輪廻転生の結果であるわけですから、
次の転生先が不可測であるという理由で、やはり、人は不安を感じることでしょう。
どんな「人間」になるのかわかりませんし、前回の記事でご紹介した内容から言えることは、「人間」になるかどうかも、わからない、ということなのですから。
これら二者択一の考え方に対して、もう一つの考え方があります。
それが、アドヴァイタ(不二一元論)です。
アドヴァイタ(不二一元論)を理解していくにつれ、私たち「人間」という存在事由が次第に明らかになって行きます。
そして、それに伴い、「死」に対する疑問への答えが明らかになり、やがて、疑問は消滅します。
しかし、それまでは、これらの疑問を念頭に置きながら、真理解明のために「アートマン」への理解を深めていく必要があります。
それでは、前回の続きから見ていきたいと思います。
(以下の文は、インド独立よりも約50年ほど前のイギリスの植民地時代に行われたインド人に向けた講演会で話された内容であることを、念頭に置いて読んで下さい)
『ところがここに、すさまじい論争が始まります。
ここに仏教徒がいて、同じように肉体を物質の流れにまで分析し、心をも同様にもう一つの物質の流れにまで分析します。
そしてこのアートマンについては、彼らは、”それ”は不必要であると言うのです。
だからわれわれはアートマンを仮定する必要などは全くない。
実体とその実体にくっついている性質とが何の役に立つのか。
われわれは言う、グナ、すなわち性質、それだけだ。
一つの原因が全体を説明し得るのに、二つの原因を仮定するのは非論理的である、と。
そして論争はつづき、(アートマンの)実体説を掲げるすべての学説は仏教徒によってなぎ倒されてしまいました。
実体および性質を認める説、すなわちあなたも私も、そして各人がそれぞれに、心および肉体とは別個の魂を持っている、とする説を固守する人々の系列全体が崩壊しました。
今まではわれわれは、二元論の考えは差し支えないと見て来ました。
肉体があり、それから精妙な体すなわち心があり、このアートマンがあり、すべてのアートマンに遍満して、かのパラマートマン、すなわち神がある、というのです。
難点はここにあります。
すなわち、このアートマンとパラマートマンとが両方とも実体と呼ばれ、そこに心、肉体、およびいわゆる物質が、さまざまの性質のようにくっついています。
誰も未だかつて(アートマンという)実体なるものを見たことはないし、誰もそれを思い浮かべることもできはしません。
何でこの実体を考える必要があるのか。
クシャニカヴァーディンになって、存在するものはことごとく、この心の流れの連続であってそれ以上の何ものでもない、と言ったらよいではないか。
それらは互いにくっついているものではない、それらは一単位を構成しているものではない、一つがもう一つを追いながら、海の波のように、決して完成することはなく、決して一つの完全な単位をつくることは無いのである。
人間は波の連続、一波が消えるとき、それは次の波を生み出す、そしてこれらの波動の停止が、ニルヴァーナと呼ばれるものである、と。
この説の前に二元論は沈黙してしまうこと、ごらんの通りです。
いかなる反論も不可能なのです。
そして二元論的な神もまた、ここでは存続することはできません。
遍在であるがしかし手を使わないで創造を行ない、足がなくて歩きまわったりする一人格神、クンバカーラ(陶工)がガタ(瓶)を作るようにして宇宙を創造した一人格である神、があると思うのは子供じみている、と仏教徒は言います。
そして、もしこれが神であるなら、これを拝むようなことはせずこれと戦おう、と言うのです。
この世界は不幸にみちています。
もしこれが神の仕事であるなら、この神と闘いましょう。
そして第二に、皆さん全てがご存知のように、この神は不合理であり、そして不可能です。
神の「計画説」の欠点は、すでに我らのクシャニカたちすべてが十分によく示していますから、われわれが説明する必要はありません。
こういう次第で、この人格神は粉砕されてしまったのでした。
あなたの神と、”かれ”のグナと、そして実体であるところの無限数の魂とを認めつつ、あなたはどのようにして”かれ”の実在を証明するのでしょうか。
しかも各々の魂が独立の個体なのです。
何の中で、あなたは個体なのですか。
肉体として個体なのではない。
なぜなら今日あなたは昔の仏教徒よりもよく、太陽の中の物質だったかも知れないものがたった今あなたの体内の物質となり、そして出て行って植物の中の物質となるであろうということを知っているのですから。
では、何某氏よ、あなたの個体性はどこにあるのか。
同じことが心にもあてはまります。
どこにあなたの個体性はあるのか。
あなたは今晩ある思いを思い、明日は別の思いを思います。
あなたは子供のときに考えたのと同じ様には考えません。
また老いた人々は若い時に考えたのと同じ様には考えません。
それではあなたの個人性はどこにあるのか。
意識つまりこのアハンカーラの中にある、などと言うことはできません。
これはあなたの存在のごく僅かの部分を占めているにすぎないのですから。
私が今こうして皆さんに話をしている間も私の身体のすべての器官ははたらきつづけているのですが、私はそれを意識していません。
もし意識が存在の証拠であるなら、それは存在しないことになります。
私がそれらを意識していないのですから。
するとあなたの人格神説のもとであなたはどこにいることになるのか。
どのようにして、あなたはこのような神を証明することができるのですか。
また、仏教徒は立ち上って宣言するでしょう。
それは不合理であるばかりでなく不道徳でもある、なぜならそれは、人に卑怯者になって外部に援助を求めることを教えるのだから、しかも誰もかれにそんな助けを与えたりはしないのだ、と。
ここに宇宙があります。
人がそれをつくったのです。
それになぜ、未だかつて誰も見たことも感じたこともない、また助けて貰ったこともない、外部の想像上の存在に依り頼むのですか。
なぜ卑怯者になって、人間の最高境地は、犬のようになってこの想像上の存在の前に這って行き、私は弱くて悪い者でございます、この宇宙間のあらゆる悪を背負っております、と申し上げることである、などと自分の子供たちに教えるのですか。
他方、仏教徒は、あなたは虚言をついている、と主張するだけでなく、あなたは子供たちの上に莫大な不幸をもたらしつつある、と言うでしょう。
なぜなら、よくおききなさい。
この世界は催眠術の結果です。
皆さんは皆さんが自分に言ってきかせるものになるのです。
偉大な仏陀がほとんど最初に語った言葉は、「あなたが思うもの、あなたはそれである、あなたが思うであろうもの、あなたはそれになるであろう」と言うものでした。
もしこれが真実であるなら、自分はつまらないものである、などということを、そうです、ここに住んではいないが雲の上にすわっているある者の助けを借りなければ自分は何事もなし得ないのだ、などということを自分に教えてはなりません。
その結果、皆さんは日ごとに層一層弱くなって行くでしょう。
「私たちは大そう不純でございます。主よ、どうぞ私たちを浄めて下さい」とたえずくり返していると、その結果は皆さんがあらゆる種類の悪を犯すよう自分に暗示をかけていることになるのです。
そうです、仏教徒は、あらゆる社会にみられるこれらの悪徳の90パーセントはこの人格神の思想から来る、と言っています。
生命のこの表現、生命のこのすばらしい表現の最後の目的が犬のようになることだというのは、人間としてひどい考え方です。
仏教徒はヴィシュヌ派の信者に向かって、もしあなたの理想、あなたの目標が、神の住居であるヴァイクンタという所に行ってそこでいつまでも手を組み合わせて”かれ”の前に立つ、ということであるなら、そんなことをするよりは自殺をした方がましだ、と言います。
仏教徒はこうまでも言い張るでしょう。
それだから自分は、これを逃れるために絶滅、すなわちニルヴァーナに入ろうとしているのだ、と。
私は、少しの間だけ仏教徒になったつもりで、これらの考えを皆さんの前にお示ししているのです。
なぜなら近頃これらすべてのアドワイタ的な思想が皆さんを不道徳にしている、と言われているので、もう一つの面はどんな風に見えているのかを皆さんにお話ししたいと思うからです。
われわれは大胆かつ勇敢に両方の面を直視しようではありませんか。
われわれはまず第一に、これは証明することができない、ということを知りました。
この、世界を創造する人格神、という考え、今日これを信じることのできる子供がいるでしょうか。
クンバカーラはガタを作る、それだから神は世界をつくったのだ!
もしそうであるなら、皆さんのクンバカーラもやはり神です。
そしてもし誰かが皆さんに、かれは頭も手もなくて行動している、と告げたら、皆さんはかれを精神病院につれて行くでしょう。
皆さんが一生呼びつづけている皆さんの人格神、世界の創造主が、かつて皆さんを助けたことがあるのか、と言うのが、現代科学からの次なる挑戦です。
皆さんが得た助けはことごとく、皆さん自身の努力によってそれ以上にも得られるはずのものだったのだ、皆さんはあのような叫びにエネルギーを消耗しないでもよかったのだ、あのように泣いたり叫んだりしなくてももっとうまくやりとげることができたのである、ということを彼らは証明するでありましょう。
そしてわれわれは、この人格神の思想と共に圧制と聖職者の政略とがやって来るのを見て来ました。
この思考が存在したところには必ず、圧制と聖職者の政略とがはびこって来たのです。
この虚偽がぶちこわされない限り、圧制はやまないだろう、と仏教徒は言います。
人は自分は超自然的な存在の前に畏まらなければならないのだと考えている間は、この種の哀れな人たちは相変わらず、祭祀に携わる者たちにとりなしを頼むでありましょうから、権利と特典を主張して人々を自分の前に畏まらせるような聖職者はあとをたたないでしょう。
ブラーミン(ヒンドゥ教の祭祀、聖職者階級)は斥けることができるかも知れませんが、しかしよくおききなさい。
そういうことをする者たちがブラーミンのあとがまにすわるでしょう。
そしてブラーミンよりも悪いことをするでしょう。
ブラーミンはある程度の雅量を持っていますがこの種の成り上り者は常に最悪の暴君になるからです。
乞食が富を獲ると、全世界をわらくずのように思うものです。
そういうわけでこの人格神思考が存続する間はこれらの聖職者たちはあとをたたず、従って社会に大きな道徳性を期待することはできないでしょう。
聖職者の権力欲と圧制とは共に行くものです。
なぜそれが発明されたのか。
昔、ある強い者たちが、人々を自分たちの手中に納めて、従わなければ殺すぞ、と言いました。
要するにそれだったのです。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
このブログを通して、お伝えしているのは、これまでに何度も書いてきましたが、
ギャーナ・ヨーガ(智識のヨーガ)です。
論理的な思考により、<至高の自己>である「アートマン」に到る道です。
ですから、内容が難解であることは、当たり前なのです。
難解であればあるほど、「錯覚」というヴェールが剥がれ落ちた後に現れる「叡智」は、この上もない人類の「宝」であるという確信が起こることでしょう。
その確信に到るために、次回も続きを見ていきたいと思います。
富の征服者 アルジュナよ もし
わたしに不動の信心決定ができないなら
信愛行(バクティ・ヨーガ)の実習に努めよ
これによってわたしへの愛が目覚めるのだ
(バガヴァッド・ギーター第12章9)
わたしは誰か?-アートマンについて(5)
「わたしは誰か?」
普段、私たちは、こんな問いを発することなく、日々の生活を送っています。
「わたしは誰か?」なんて、考えるまでもなく、答えは決まっている。。。
まずは、一般的でオーソドックスな答えとしては、「人間です」というものでしょう。
本当にそうですか?
この形と習性を持った動物を、確かに、「人間」と呼ぶことにしたのは、紛れもなく自分たちである「人間」です。
「わたしは人間です」というのは、自称なのです。
自分で、自分のことを、そう呼んでいるということから、私たちは「人間」となっただけである、と考えることも可能だと言うことなのです。
けっして、そのように、私たちの創造者が、決められた訳ではないのです。
私たちが、犬や猫や他の生物、無生物を形で区別し、それぞれに名前を付けたので、
それらは、そういうものになりました。
そして、その延長で、同じ形と習性を持った「自分たち」を「人間」と呼ぶことにしたのです。
もし、すべてのモノを区別する、ということがなかったら、それぞれに名前をつけることもなかったことでしょう。
これらの形と名前は、人間と人間の間だけの「決まり事」として機能しているだけで、全宇宙的な視点からすると、そのような区別はなく、従って、「決まり事」というようなモノは存在していません。
「決まり事」というのは、人間の脳(頭)の中だけに、存在しているのです。
人間は、神を想定し、「神」X「人間」という構図を造り上げています。
もし、「神」が、「あなたは神なのだ」と仰ったら、
私たちは、「人間」ではなく、「神」でしょう。
しかし、私たちは、「神」がどういう存在であるのか?を知らないので、私たちは、
自分たちを「人間」として定義してきたのです。
ここで、以前の記事でご紹介した「ヒツジライオン」の話を思い出して下さい。
本当は「ライオン」なのに、「自分はヒツジだと思い込んで生きているライオン」を「ヒツジライオン」と称し、
その「ヒツジライオン」が、最後には「自分は、正真正銘のライオンであることを思い出す」というお話でした。
このお話をそっくりそのまま、今の私たちに当てはめると、どうなるか?と言いますと、
私たち人間は、「人間だと思い込んで生きている神」であり、最後には、人間は「自分は、正真正銘の神であることを思い出す」ということになります。
ですから、私たちは、すでにアートマンであるのですが、<わたし>(という自我)は、そのことをそのまま受け入れられずに、「自分は人間である」と思っている、ということになります。
これは、単に、脳にそういう”想い”が起きている、ということなのですが、
生まれてこの方、あの「ヒツジライオン」の話のように、「ヒツジ」だと思い込まされて生きてきたのですから、自分を「ヒツジ」だと思うのは、無理のないことではあります。
確かに、形としての肉体は、猿が進化した形である哺乳類サル目(霊長類)の分類群 のひとつである「ヒト」ということになりますが、
私たちは、滅びて消滅する「肉体」という物質ではありません。
ヴェーダでは、この物質である体は、アートマンが宿る「器」としています。
「器」は、分解された後、また、集められ、別の形を取りますが、それは「永遠」の存在ではなく、一時的な、この世に在るための「道具」なのです。
それでは、前回の続きを見ていきたいと思います。
『ここにもう一つの思想があります。
おそらくびっくりなさるでしょう。
しかしそれは極めてインド的な性格をもった思想でありまして、もしわれわれのすべての宗派に共通の考え方があるとすれば、それはこれです。
ですから、この一つの思想によく注意を払い、それを憶えていて下さるようお願いします。
なぜなら、これこそまさに、われわれインド人が持つすべてのものの土台なのですから、その思想というのはこれです。
皆さんは、西洋でドイツやイギリスの学者たちが説いている、自然界の進化の説のことは聞いておいででしょう。
それはわれわれに、異なる動物たちの身体は実は一つのものである、われわれが眼にする差異は同じ一続きの中の表現の差異にすぎないのである、最低の虫けらから最高かつ最も聖なる人間に到るまでたった一つのものーーそれが完成をとげるまで、より高くもっと高くと変化しつづけて行く一つのものーーにすぎないのである、と教えています。
この考え方もまた、われわれは持っていました。
我らのヨギ、パタンジャリは言明しています。
一種ーージャーティは種ですーーが他種に変化するーー進化のことです。
パリナーマというのは、ちょうど一つの種が別の種に変るように一つのものが別のものに変ることを言うのです。
どこで、われわれはヨーロッバ人と違うのでしょうか。
パタンジャリは、プラクルティヤープラート「自然のthe infillingによって」と言っています。
ヨーロッパ人は、一つの体に別の体の形を取ることを強いるのは、競争、自然および異性の選択等々である、と言います。
しかしここに、もっと優れた分析であり、もっと深く物の核心をついている、もう一つの考えがあって、「自然のインフィリング作用によって」と言うのです。
この自然のインフィリングと言うのは何でしょうか。
われわれは、アメーバが次第々々に高く昇ってついに一人の仏陀となる、ということは認めます。
われわれはそれは認めます。
しかし同時に、一つの機械にどんな形にせよ一定量のエネルギーを投入しておかなければ、それにふさわしい結果は得られない、ということもよく分かっています。
それがどのような形をとるにせよ、エネルギーの総計は常に変らないのです。
これらの端で一定量のエネルギーを欲するのなら、もう一方の端からそれだけのものを注入しておかなければなりません。
別の形をとってはいるかも知れませんが、そこから生み出されるべきエネルギーの量は同じであるに違いないのです。
ですから、もし一人の仏陀が一連の変化の終りであるなら、そのアメーバもやはり仏陀であったに違いありません。
もしその仏陀が進化をとげたアメーバであるのなら、そのアメーバもまた、内に含まれた仏陀であったのです。
もしこの宇宙がほとんど無限と言ってよいほどのエネルギーの現れであるのなら、この宇宙がプララヤ(解消)の状態であったときも、それは同じ分量の内に含まれたエネルギーを代表していたに違いありません。
それ以外ではあり得ないのです。
そういうわけですから、当然あらゆる魂が無限である、ということになります。
われわれの足もとを這いまわる最低のうじ虫から、最も高貴で最も偉大な聖者たちに到るまで、すべてがこの無限の力、無限の浄らかさ、および無限の一切物を持っているのです。
違いはただ表現の程度にあるだけです。
虫はただ、その無限のエネルギーのほんの少しを現わしているだけです。
皆さんはもっとたくさん現していらっしゃる。
もう一人の神人は更にもっと沢山現しました。
それが違いのすべてです。
その無限の力は全く同じようにそこにあるのです。
パタンジャリは言っています。
「自分の畑を灌がいする農夫のように」と。
畑の隅に小さな水門をあけて、かれはどこかにある貯水池から水を引き入れいます。
そして多分、かれはせきを作って、水がドッと流れ込むのを防げているのです。
かれが水を欲するならただそのせきを切りさえすればよいのであって、そうすれば水はおのずからドッと流れ込むはずです。
水に力を加える必要はありません。
それはすでに、貯水池にたたえられているのです。
そのようにわれわれの誰もが、あらゆる生きものが、各自の背後にこのような、無限の力、無限の純粋さ、無限の至福、および無限の存在という力の貯蔵庫を持っているのであって、ただこれらのせきが、すなわちこれらの肉体が、われわれが自分の真の姿を十二分に発揮するのを防げているのです。
そしてこれらの肉体が層一層精妙に組織されて来るにつれて、タモグナ(タマスの性質=暗性優位)がラジョグナ(ラジャスの性質=活動優位)となるにつれ、ラジョグナがサトワグナ(サットワの性質=善性優位)になるにつれて、この力と純粋性とが層一層明らかになります。
ですから、わが国の人々は飲み食いや食物のことについて非常に深い注意を払って来たのです。
今は本来の考え方は忘れられてしまっているのかも知れません。
これが、インドにおけるわれわれもろもろの宗派の何れもが信じなければならない、アートマンの思想です。
ただ、あとでお分かりになることですが二元論者たちは、このアートマンは悪い行為によってサンクチタになる、すなわちその力とその性質が全部収縮し、よい行為によって再びその性質が拡大する、と説きます。
するとアドワイティストは、アートマンは決して拡大も収縮もしない、ただそう思われるだけだ、と言います。
収縮したように見えるのです。
それが違いのすべてです。
すべての宗教が、我らのアートマンはすでに全ての力を持っている、外部から何かが”それ”のところに来る、ということはない、天空から何かが”それ”の中に落ちて来る、というようなことは決してない、という、同一の考えを持っています。
皆さん注目して下さい。
皆さんのヴェーダは、吹き込まれるto be inspiredものではなく、引き出されるto be expiredものです。
外部のどこかからやって来たものではなくて、それはあらゆる魂の内に生きている永遠の法則なのです。
ヴェーダはアリの魂の中にあり、神の魂の中にもあります。
アリはただ進化して賢者すなわちリシの身体を得ればよいので、そうすれば永遠の法則がみずからを表現し、ヴェーダが出て来るでしょう。
われわれの力はすでにわれわれのものである、われわれの救いはすでにわれわれの内にある、ということ、これは理解すべき一つの偉大な思想です。
それは収縮したのであると言っても、それはマーヤー(幻想)のヴェイルにおおわれているのだ、と言ってもよろしい。
問題ではありません。
アイディヤはすでにそこにあるのです。
それを信じなければなりません。
すべての人間の可能性を信じなければなりません。
最低の人間の内部にも、仏陀の内にあるのと同じ可能性がひそんでいるのです。
それがアートマンの教義です。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
少しずつ、朧気ながらでも、私たちの「真の自己」である「アートマン」について、その姿を掴み、イメージを描くことができましたでしょうか?
今回の記事の内容について、
スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」では、このように語られています。
『私たちすべての内側には2つの面があります。
真の自己と単なる自己です。
後者は前者の鏡でしかありません。
一方は不滅で変化を超えていますが、他方は楽しむ者であり苦しむ者です。
ヤマはナチケータに言いました。
「一方(絶対者)は自ら光り輝く太陽のようである。
他方(エゴ、あるいは、限られた自己)はイメージ、あるいは、反射であり、光と闇の間にあるような関係を持っている。
一方は目撃者のようであり、他方はそれ自身の考えや行いの果実を食べる」
目撃者はアートマンです。
9世紀のインドの偉大な聖者であり哲学者であるシャンカラは述べています。
”アートマンの性質は純粋な意識である。
アートマンは心と物質のこの全宇宙を明らかにしている。
それは限定されない。
目覚めている、夢見ている、寝ているという意識の様々な状態を通して、それは私たちの継続する自己認識の自覚を維持している。
それは知性の目撃者として現れる”
カタ・ウパニシャドは、アートマンはけっして生まれず、けっして死なないと言っています。
そしてそれは広大な空間よりもさらに広大で、最も小さな原子よりさらに小さなものだとも言っています。
それはすべての生き物の心臓の中に隠れています。
シャンカラは、ちょうど瓶が壊れても瓶の中の空気は存在しなくならないように、肉体が分解するときでもアートマンは分解しないと言いました。
不変であり、変化することなく、不生であり、不死であり、永遠であるアートマンは、私たち自身の最奥の部屋に座し、個人と心のすべての活動を知っています。
”それは体のすべての行動、感覚器官と生命力の目撃者である”とシャンカラは言いました。
”ちょうど、火が鉄の玉と同じだとされるように、これらすべてと同じだと思われている。
しかしそれは行動もせず、ほんの少しも変化することはない”
バガヴァッド・ギーターは、大いなる自己であるアートマンについて述べています。
”彼はけっして生まれず、けっして死なない。
在ったことはなく、再び在らなくなることもない。
不生であり、永遠であり、永久である、この太古のひとつなるものは、体が殺されても殺されない。
これが、不滅であり、永遠であり、不生であり、代わりとなる者がないと知る者は。。。”
”使い古した衣類を脱いだ人が、その後、新しい服を着るように、肉体の所有者も同じように、使い古した肉体を脱ぎ捨て、新しい肉体を身に着ける。。。”
”武器は彼を裂かず、火は彼を燃やさず、水は彼を濡らさず、風は彼を乾かすこともない”
”彼は裂かれることなく、燃えることなく、濡らされることなく、乾かされることなく、永遠で、すべてに浸透し、絶対であり、不動である。
彼は遍在し、全知である。
彼は太古よりひとつである”』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
次回は、更に深く、アートマンについて、どのような説明がなされているか?見ていきたいと思います。
「わたしは誰か?」--「アートマンである」
このことを知るために、人生を使いなさい、とスワミ・ラーマは書いています。
それが、生の奥義であり、死を超越する唯一の道なのです。
常に心をわたしに結びつけている者たちを
プリターの息子よ
わたしは速やかに
生死の海から救い出す
常にわたしのことのみを想い
知性(ブッディ)のすべてをわたしに委ねよ
そうすることによって疑いなく
君はわたしのなかに住んでいるのだ
(バガヴァッド・ギーター第12章7ー8)
わたしは誰か?-アートマンについて(4)
「わたしとは誰か?」との問いに対する答えは、「アートマン」である、とウパニシャッドでは説かれています。
それは、信じるに値する真実であるのか?どうか?
また、真実であるなら、その「アートマン」とは、どのようなモノなのか?ということを知ることは、絶対真理探究者にとっては、永遠の命題です。
この「アートマン」について知ることは、自分を含めた「人間」について、地球を含む「宇宙」について、そして、この両者の創造者ということになっている「神」について、正しく理解することにつながっていきます。
科学は、物質世界における様々な現象の中に、ある種の「法則」を見出してきましたが、
人間の真の自己である「アートマン」については、未だ何の発見もなされていません。
現代科学は、ウパニシャッドが唱える真の自己である「アートマン」、及び、この宇宙に遍在する「ただひとつ」である「ブラフマン」を発見するには、時期尚早であるので、その存在にすら気づいていません。
ですから、今の段階では、私たちは、「わたしは誰か?」についての理解を得るためには、「アートマン」について説かれている唯一の文献であるウパニシャッドに頼らなくてはならないのです。
それでは、今回も、前回の続きを見ていきたいと思います。
『次に理解しなければならないことはこれです。
この肉体は一つの連続した物質の流れの名前ではないか、という質問が起こりました。
一瞬間毎にわれわれはそれに新たな物質を加えつつあり、そして各瞬間に、若干の物質がそれから捨て去られて行きます。
それは絶えず流れつつある一すじの川のようなもの、川は莫大な量の水が常にその場所を変えつつあるのですが、それにもかかわらずわれわれはその全体を心に描いて、それを同一の川と呼ぶのです。
われわれは川を何と呼びますか。
各瞬間に水は変わっています。
岸は変わって行きます。
各瞬間に環境は変化しつつあります。
それでは川とは何なのでしょうか。
それはこの一続きの変化の名前です。
心の場合も同じことです。
これがあの偉大なクシャニカ・ヴィジャニヤーナ・ヴェーダという学説でありまして、最も難解なのですが、仏教哲学の中でも精密にそして論理的に説かれています。
しかもこの学説は、インドではヴェーダンタのある部分に反対するものとして生まれました。
それに対して答えが出されなければならなかったのでありまして、他の何ものを以てしても不可能であるがアドワイティズムによってのみ、これに応酬することができるのだ、ということが、後ほど明らかになるでありましょう。
デュアリズム(二元論)およびその他のもろもろのイズムは礼拝の手段としてはまことに良く、非常に心を満足させるものであり、またおそらく、それらは心の進歩を助けて来たでありましょう。
しかしもし人が合理的であってしかも同時に宗教的でありたいと思うなら、その人にとってはアドワイタが唯一の体系です。
さて、今、われわれは心をば、一方で絶えずそれ自身を満たしつつ他方でそれを空にしつつある川のようなもの、と見ましょう。
ではわれわれがアートマンと呼ぶあの単一体はどこにあるのでしょうか。
その考えはこうです。
すなわち、肉体におけるこの不断の変化にもかかわらず、また心におけるこの不断の変化にもかかわらず、われわれの内部には、われわれのものの観念を不変のものと現れさせる、変わらざる何ものかがある、というのです。
異なった方向から来る光線は、一枚のスクリーンか壁かまたは他の、不動のものの上に堕ちたときに始めて、一つの個体をつくることができます。
一つの完全な全体を形成することができます。
さまざまの観念が、言ってみれば、人間器官の上に落ちて結合し、一つの完成された個体となるのですが、この個体は人間器官のどこにあるのでしょうか。
心もまた変化するものであるのを見れば、これは決して心そのものではありません。
ですから、そこには、肉体でもなければ心でもないあるもの、変化しないもの、われわれのすべての思い、われわれの感覚がその上に落ちて完全な統一体をつくるような恒久的なあるもの、がなければなりません。
そしてこれが人の真の魂、アートマンなのであります。
そして、皆さんが精妙な物質と呼ぼうと心と呼ぼうと物質的な一切のものは常に変化しなければならないのを見れば、皆さんが粗大な物質と呼ぶものすなわち外部世界も、それに比べてやはり変化にみちたものであるのを見れば、この変わらざるあるものは、物質定な材料からできたものであろうはずはなく、従ってそれは霊的なものであります。
すなわち、それは物質ではなく、破壊されることなく変ることのないものであります。
次にもう一つの質問がやって来ます。
外界に関してのみ論じるあの古い議論、誰がこの外部世界を造ったのか、誰が物質を創造したのか、などというような議論とは別に、考えはここでは、人の内面の性質からのみ真理を知ろう、というものであって、質問は、それが魂について尋ねられたときと全く同じ形で生まれています。
各人の内部に不変の、心でも肉体でもない魂がある、というのは議論の余地のないこととしても、更に、魂たちの間に観念の統一、感情の統一、共鳴があります。
どうして、私の魂があなたの魂にはたらきかけることができるのでしょうか。
それがよって以て働くことのできる、作用することのできる媒介物はどこにあるのでしょうか。
どのようにして、私は皆さんの魂について何かを感じることができるのでしょうか。
皆さんの魂と私の魂との両方に接触があるのは何なのでしょうか。
ですからそこには、もう一つの魂の存在を認めるべき、形而上学的必然性があります。
なぜならそれは、すべての異なれる魂たちに接触し、また物質を通して、はたらく一個の魂に違いないからです。
世界のすべての無限数の魂をおおい、その中に遍満し、それを通して彼らは生き、それを通して彼らは同感し、愛し、互いのために働くという一つの”魂”です。
そしてこの普遍的な魂が、パラマートマン、宇宙の”主”なる神なのです。
また、魂は物質でできているのではないから、それは霊性であるから、物質の法則には従わない、物質の法則によって判定することはできない、ということは当然です。
ですからそれは、征服され得ないもの、不生、不死、そして不変のものです。
「この自己、武器も突き通すことはできず、火も焼くことはできず、水もぬらすことはできず、空気も干すことはできない。
”変わることなく、一切所に遍満し、動かず動かされず、不死である、人の内なるこの”自己”は」われわれはギーターおよびヴェーダンタによって、この個々の”自己”は同時にヴィブVivhuである、と知り、またカピラによって、それは遍在である、と教えられています。
もちろん、インドには、”自己”はAnuである、つまり無限に小さい、と主張する学派もありますが、彼らは、その現れがAnuである、と言っているのです。
それの真の性質はヴィブ、すなわち全てに遍満しているものであります。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
ウパニシャッドで説いているように、すべてに遍満している存在は、不生、不死、不変である、なら、
私たちにも、この普遍的な魂「パラマートマン」(宇宙の”主”なる神)が遍満しているはずであり、
そうであるならば、私たちは、不生であり、不死であり、不変な存在であるはずです。
しかし、実際には、物質である肉体は生まれ、滅び、消滅しますので、
もし、私たちが肉体であるなら、生まれ、滅び、消滅する存在ということになります。
私たちは、肉体と共に消滅する存在として、この世界に生まれてきたのでしょうか?
この世には、初めがあれば、終わりがある、ことになっていて、変化せずに、永遠に存在し続けるものはありません。
生まれては消滅を繰り返すだけのために、今、ここに在るのでしょうか?
それに対する答えとして、ウパニシャッドを題材に、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、力強く、「わたしもあなたもアートマンという永遠の存在である」と仰っているのです。
これは、死後、アートマンになる、という意味ではありません。
昔も今もこれからも、実在するのはアートマンである、と言っているのです。
ですから、今、これを読んでいる「あなた」も、アートマンなのです。
俄かには信じがたいことかもしれませんが、
次回も、このことを深く理解するために、続きを見ていきたいと思います。
至上者の非人格的な相(すがた) 即ち非顕現の真理に
心をよせる者たちの進歩は甚だ困難である
肉体をもつ者たちにとって
その道は険しく様々な困難を伴う
だが わたしに熱い信仰をもって
すべての行為をわたしのために行い
常にわたしを想い 念じ
常にわたしを礼拝し 瞑想する者たち
常に心をわたしに結びつけている者たちを
プリターの息子よ
わたしは速やかに
生死の海から救い出す
(バガヴァッド・ギーター第12章5-6)
わたしは誰か?-アートマンについて(3)
「ただひとつ」という単一性には、すべてが含まれます。
宇宙も、地球におけるすべての存在、そして、この<わたし>という個人も。
これらの形ある、また、形無い物質だけでなく、すべてがそこに帰結する「ただひとつ」が在り、
それが、真の実在であり、有形、無形の物質は、「ただひとつ」の反射であり、鏡に映った虚像のようなもので、実際には実在しない、非実在だという考えが、アドヴァイタ(アドワイタ)、つまり、不二一元論です。
この鏡に相当するものが、人間の「心」(脳)である、ということを、これまでの記事で見てきましたが、
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの詳しい説明をご紹介することで、更に理解を深めていきたいと思います。
『次なる単一体は、古い神話の中でブラマー、四つの頭を持つブラマー、として知られており心理学的にはマハト(宇宙知)と呼ばれている、遍在の非個人格神です。
これが、右の二つの要素が結合する場所なのです。
あなたの心と呼ばれているものは、脳というわなに捕らえられたこのマハトの一断片にすぎません。
そして、脳(複数)の網の中に捕らえられたすべての心(複数)の総計は、皆さんがサマシュティ(同種の存在の総合体を言う)と呼んでおられるもの、総計の(心)、宇宙の(心)です。
分析は更に進められなければなりませんでした。
まだ完成したのではありませんでした。
われわれの一人一人は言わば小宇宙であって、この世界全体は大宇宙です。
しかし、ヴィヤシュティつまり個別の存在、の内部にあるものは何であれ、同じような事物が外界でも起こりつつある、と推測して間違いありません。
もしわれわれが自分の心を分析する力を持っていたとしたら、同じことが宇宙の心の中でも起こりつつある、と推測して間違いはないでしょう。
この心とは何か、と言うのが問題です。
現代西洋諸国では、物質科学が急速な進歩をとげつつあるので、生理学が一歩また一歩と古い宗教のとりでを次々に征服しつつあるので、西洋人は自分がどこに立ったらよいのかを知りません。
なぜなら、彼らにとって絶望すべきことには、近代の生理学は常に心と脳と同一のものと見てきたからです。
しかしインドではわれわれは常にこのことを知っていました。
心は物質である、ただもっと精妙な物質であるだけだ、というのは、ヒンドゥの少年が学ぶ最初の命題です。
肉体は粗大なもの、そして肉体の背後に、われわれがスクシュマ・シャリラ、精妙な身体、または心、と呼ぶものがあります。
これもやはり物質的なものであって、ただもっと精妙であるだけ、アートマンではないのです。
私は皆さんのためにはこの言葉を英語には訳しますまい。
この観念はヨーロッパにはないのです。
それは翻訳が不可能です。
現代のドイツの哲学者は、アートマンをSelf(自己、自我)という言葉で訳そうとしていますが、その言葉が広く認められるようになるまでは、それを使うわけには行きません。
それゆえ自己とでも何とでも呼ぶがよろしい、とにかくそれは我らのアートマンです。
このアートマンが、背後にある真の人間なのです。
物質である心をその道具として、そのアンタッカラナ(心を指す心理学上の専門語ですが)として、使うのはアートマンです。
そして心は、一連の内部器官を用いて目に見える肉体の諸器官を動かします。
この心は何でしょうか。
西洋の哲学者たちが、眼は見るための器官ではなく、眼の背後に別の器官インドリヤがあって、もしこれらが破壊されれば、かりに人がインドラのように千個の眼を持っていてもかれは見ることができないのだ、ということを知るようになったのは、つい最近のことです。
ああ、皆さんの哲学は、視界は外部にあるのではない、という仮定から出発しているのです。
真の視覚は内部器官、内なる脳の中枢の働きです。
皆さんはそれらを何とお呼びになってもよろしいが、インドリヤ(ス)は眼でもなければ鼻でも耳でもありません。
そしてこれらすべてのインドリヤスにマナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラ等々が加わったのが心と呼ばれるものです。
ですからもし現代の生理学者が皆さんの処にやって来て、脳は心と呼ばれているものである、そして脳は実に幾多の器官によって形成されているのだ、と言っても、皆さんは少しも恐れることはありません。
皆さんの哲学者たちはとうからそれを知っていた、それは皆さんの宗教※のまさに最初の原理の一つであるのだ、ということを言っておやりなさい。
(※インドにおける講演なので、聴衆は、インド人)
さて今度は、このマナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラ等々と言うのは何であるか、理解しなければなりません。
まず最初にチッタをとり上げましょう。
これは心の素材ーーマハト(宇宙知)に一部分ーーであり、そのさまざまの状態のすべてを含む、心それ自身の総称です。
ある夏の宵、水面にさざ波ひとつ立っていない静かな湖がそこにあるとします。
そして誰かが、この湖に小石を投げ込むとします。
すると何が起こりますか?
まずそこに活動、すなわち水に与えられた打撃があります。
次に水が高まり、小石に向かって反動を送ります。
そしてその反動は波という形をとります。
まず水が少し振動し、そして直ちに波という形で反動を送り出すのです。
チッタはこの湖にたとえましょう。
そして
チッタがこれらインドリヤ(ス)によってーーこれら外界の対象を内部に運ぶために、そこにはインドリヤがなければなりませんーー何らかの外界の対象と接触するや否や、そこに振動が起こります。
マナスと呼ばれる、決定力のないものです。
次に反動が見られます。
決定をする能力、ブッディです。
そしてこのブッディと共に、アハム(エゴ)と外界対象という観念がひらめきます。
私の手に蚊がとまっているとします。
この感覚は私のチッタにまで運ばれ、チッタはちょっと振動します。
これが、心理的なマナスです。
それからそこに反動が起こります。
そして即座に、自分の手には蚊がとまっているという、そして自分はこれを追い払わなければなるまいという、考えがやって来ます。
このようにこれらの石は湖に投げ込まれるのですが、湖水の場合にはやって来る打撃は常に外界からであるのに対して、心という湖の場合には、打撃は外界から内界かのどちらからかやって来るでしょう。
この一連の現象の全体が、アンタッカラナと呼ばれるものです。
それと共に、皆さんはもう一つのことを理解しておかなければなりません。
それは、後にわれわれがアドワイタ体系を理解するのを助けることになるのです。
それはこのことです。
皆さんが真珠を見たことがおありでしょうし、また大部分の人が、真珠はどのようにしてできるものであるかということをご存知でしょう。
砂の一粒が真珠貝の殻の中に入り、そこで貝に刺激を与えます。
すると貝の身体がその刺激に反応して、分泌液でこの小物体を包みます。
それが結晶して真珠を形成するのです。
全宇宙もそのようなものです。
それは、われわれによって形成されつつある真珠なのです。
われわれが外界から得るものは要するに打撃です。
その打撃を意識するためにも、われわれは反応しなければなりません。
そしてわれわれが反応するや否や、われわれは実は、自分自身の心の一部分を打撃に向かって突き出すのです。
そして、われわれがその打撃について知るようになる、と言うのは、実はそれは、その打撃によって形を与えれたわれわれ自身の心なのです。
ですから、外部世界というものの動かし難い真実性を信じようとする人でさえも、生理学の発達したこの時代には次の事実を認めないわけには行かない、ということは明らかです。
すなわち、もし外部世界を「X」で現すなら、われわれがほんとうに知っているものは「X」プラス心であって、この心という要素は非常に大きく、「X」の全部をおおっていて「X」は相変わらず未知のままであり、また全然知ることのできないものである、従って、もしそこに外部世界というものがあっても、それは常に知られざるものであり、また知ることのできないものである、という事実です。
それについてわれわれが知っているのは、それがわれわれの心によってこね上げられ、形づくられたところのものなのです。
内なる世界についても同じことが言えます。
同じことがわれわれの魂、アートマンにもあてはまるのです。
アートマンを知るためには、われわれは”それ”を心によって知らなければなりますまい。
それゆえ、このアートマンについてわれわれが知るごく僅かのことは、要するにアートマン、プラス心です。
すなわち心によって包まれ形をつけられたアートマンであってそれ以上の何ものでもないのです。
もう少したってから、またこの問題に戻って来ることになります。
それまで、今ここで申し上げたことをよく憶えているようにしましょう。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
「心」(脳)が、外界を認識する反射鏡であることは、直ぐに理解するには、難しいかもしれませんが、
このことへの理解なしには、真の自己である「アートマン」について、正しく理解していくことは不可能でしょう。
反射鏡である「心」(脳)は、独立して機能している訳ではありません。
その背後にあって、反射鏡を機能せしめている存在こそが、個人としての存在である<わたし>の本当の主人であるアートマンだということなのです。
<わたし>は、アートマンに仕える者であり、聖ラーマ・クリシュナのお言葉をお借りするならば、「召使い、下僕」ということになります。
ですから、本当は、「自分」でやっていることは何もありません。
その「自分」という”想い”も、脳の働きによって、脳内に起きており、
このことを理解するために、脳科学から見た人間の「心」(脳)について、長々とご紹介しました。
それは、「わたしは、○○××という個人ではなく、アートマンである」という結論に、論理的に到達するためです。
これは、ギャーナ・ヨーガ(智識のヨーガ)と言い、私たちを至高の自己に導くための人間が辿ることが可能なひとつの道なのです。
それでは、次回では、これまでの記事の内容を踏まえて、更に、アートマンへの道を辿って行きましょう。
だが 非顕現の実在
知覚を超え すべてに遍満し
不可思議 不変 不動の
非人格的真理を礼拝する者たち
そして 諸々の感覚を抑制し
あらゆる生きものを平等に扱い
広く世界の福利のため働く者たちーー
彼らも終にはわたしのもとに来る
(バガヴァッド・ギーター第12章3-4)
わたしは誰か?-アートマンについて(2)
前回の記事から、始まりました、このブログの最終テーマである「わたしは誰か?」について、
聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺された講演会の資料から抜粋して、ご紹介させて頂くことで、
その答えである「アートマン」について、言葉による説明ではありますが、そのイメージだけでも掴めるように、見ていきたいと思います。
『ウパニシャッドが、「それを知ることによって他の一切物を知ることができるところのものは何か」という、この一つのテーマをかかげていることは事実です。
現代の言葉で現せば、ウパニシャッドのテーマは、事物の究極の合一を見出すこと、です。
知識とは要するに、多様性のまん中に一体性を見出すことです。
あらゆる科学は、このことに立脚しています。
すべての人間の知識は、多様性のまっただ中に単一性を発見することなのです。
それでもし、僅かばかりの異なった現象の中に単一性を見出すことがわれわれの科学と呼んでいる人間知識の小さな切れはしの仕事であるのなら、われわれの前のテーマがこの驚くべき多様な宇宙の中に単一性を見出すことである場合には、仕事は途方もないものとなります。
各々の思いは他のすべての思いとは異なり、そこには名と形の、物質と精神の、無数の差異が充満しているのです。
それでも、これら無数の階層や尽きることのないロカ(ス)(生きものの住む世界)を調和させること、この無限の多様性の中に単一性を見出すこと、がウパニシャッドのテーマなのです。
一方、アルンダティ、ニヤーヤ(アルンダティの法則)という昔の考え方が適用されます。
美しい星アルンダティを人に示す場合、これに最も近い、大きな光の強い星を取り上げてまずこれを見つめるよう命じると、かれの視線を非常にらくにアルシダティに向けてやることができる、と言うのです。
これが、われわれがなすべき仕事です。
そして私の考えを証明するためには、私はただ、皆さんにウパニシャッドをお見せしさえすればよいのです。
それで皆さんはお分かりになるでしょう。
ほとんどすべての章が、ウパーサナー(字義は、そばにすわる。神を礼拝または瞑想すること)すなわち二元論的な教えで始まっています。
神は最初は、この宇宙の”創造者”である何者かとして、それの”維持者”として、そして、一切物が最後には”かれ”のもとに帰する、そのような存在として教えられます。
”かれ”は礼拝さるべきものであり、”支配者”であり、外および内なる自然の”ガイド”なのですが、まるで自然の外に、つまり外界にいるかのように現れているのです。
更に一歩進むと、われわれはその同じ教師が、この神は自然界の外にいるのではなく自然界に内在しているのである、と教えているのを見出します。
そして最後には、どちらの考えも捨てられ、実在するものはことごとく”かれ”であって、そこに差異はありません。
「シュヴェターケトゥよ、汝は”それ”であるぞ」かの”内在”の”一者”はついに、人間の魂の内にあるものと同一である、ということが宣言されるのであります。
ここには妥協はありません。
ここには他者の見解への恐れはありません。
真理、大胆な真理が、大胆な言葉で教えられています。
われわれも今日、これと同じ大胆な言葉で真理を説くことを、恐れる必要はありません。
神の恩寵によって、私も少なくとも、そのような大胆な説教者であることを希っているのです。
前置きの方に戻りましょう
ます最初に理解しておくべき二つのことがあります。
一つはヴェーダンタのすべての学派に共通の心理学的な面、そしてもう一つは、宇宙論的な面です。
私は最初に後者を取り上げようと思います。
今日われわれはかつて無想だにしなかった驚くべき事実に対して眼を開かしめつつ青天のへきれきのようにわれわれに襲いかかって来る現代科学の驚嘆すべき諸発見を見ています。
しかしこれらの大部分は、すでに幾千年の昔に見出されたものの再発見にすぎないのです。
さまざまに異なる力は本来一つのものである、ということを近代科学が発見したのはついこの間のことでした。
近代科学はごく最近、それが熱、電気、等々と呼んでいるところのもはすべてこれを、たった一つの力に変えることができる、ということを発見し、そういうわけで、これらすべてを、何という名を選んでもかまわないのですがとにかく、一つの名で表現しています。
しかしこのことはすでに、サムヒター(ヴェーダはそれぞれ、サムヒターとブラーマナの二つの部分に分かれている。前者は讃歌や聖句の集)の中においてさえ、なされているのです。
非常に古いものでありますが、われわれはその中で、他でもない、いま申し上げたこの力の概念に逢着します。
それらを重力と呼ぼうと引力と呼ぼうと、または排斥力と呼ぼうと、それらを熱と表現しようと電気と表現しようと、または磁力と表現しようと、すべての力はその単一のエネルギーのヴァリエイションであるにすぎません。
それらがアンタッカラナ(心および精妙な感覚器官)すなわち人の内部器官から反射されて思いとしてみずからを現そうと、または外部器官から来る活動として現そうと、それらを生み出す単一体は、プラーナと呼ばれているものです。
ではプラーナとは何でしょうか。
プラーナはスパンダナ、すなわち振動です。
この宇宙全部が解消して原始の状態に戻ってしまったときには、この無限の力はどうなるのでしょうか。
それは消滅する、と彼らは考えているのでしょうか。
もちろん、そう考えてはいません。
もしそれが消滅してしまったら、運動は高揚し、衰退し、また高揚し、また衰退して波形を作りながら進行するものであるのに、次なる波動の原因はどうなるでしょう?
ここに、宇宙を意味する、スリシュティという言葉があります。
この言葉が創造という意味を持っていないことに注目して下さい。
私は英語を話すときに当惑するのです。
サンスクリット語は、出来る範囲内で最善をつくして訳すより仕方がありません。
それはスリシュティ、つまり放射です。
一つの周期の終わりには、一切のものが次第に微かになって、それがかつてそこから生まれ出たのであるところの原始の状態に再び溶け込んでしまい、再び飛び出す用意はしながら、しばらくの間静止したままでいます。
それがスリシュティ、つまり放射(projection)です。
そして、これらすべての力、プラーナ(ス)(=複数)はどうなるのでしょうか。
彼らは原始のプラーナの中に溶け込んでしまいます。
そしてこのプラーナは、ほとんど不動の状態ーー完全な不動状態ではなくーーとなります。
それがすなわち、「それは振動なしに振動した」(アーニダヴァーダム)と言われている状態です。
ウパニシャッドの中には、理解することが難しい多くの専門語があります。
例えばこのヴェーダという言葉ですが、それはしばしば空気を意味し、またしばしば運動motionを意味ます。
それで人はよく両者を混同するのです。
われわれはそれを要心しなければなりません。
そして皆さんが物質と呼んでおられるものがどうなるのでしょうか。
力(=複数)が、すべて物質の中に充満しているのですが、それらはすべてアーカーシャの中に溶け込み、そこから再び出て来るのです。
このアーカーシャが物質の始まりです。
皆さんがそれをエーテルと訳されようと何と訳されようと、その概念は、このアーカーシャが物質の原始の形だということです。
このアーカーシャがプラーナの活動によって振動し、次のスリシュティが始まろうとすると、振動が速くなって、アーカーシャはわれわれが太陽とか月とか宇宙とか呼ぶこれらすべての波形にまで振動せしめられるのです。
もう一度読みましょう。
「この宇宙の一切物は放射されたのである。プラーナが振動して」Ejatiという語に注目して下さい。
それはEja振動する、という言葉から来ているのですから。
これが宇宙論的な面の一部です。
その中にそう入されるべきさまざまのもっとこまかい事実があります。
例えば、この過程はどのようにして起こるのか、どのようにして最初のエーテルはあるのか。
どのようにしてエーテルから他のものが出て来るのか。
どのようにしてそのエーテルが振動を始め、それからヴァーユ(空気)が出て来るのか。
しかし、一つの考え方がここにあります。
それは、粗大なものがより精妙なものから出て来た、と言うものです。
粗大な物質は最後に出現したものであって、一番外側のものであり、この粗大な物質はそれの前にもっと精妙な物質を持っていたのです。
しかしわれわれは、全体が二つのものに溶解したのを見ましたが、まだそこには、究極の単一体はありません。
そこには力、すなわちプラーナと呼ばれる単一体があり、物質、アーカーシャと呼ばれる単一体があります。
更にこの二つの中に何らかの統一体が見出されるでしょうか。
この二つが一つに溶けあうことができるのでしょうか。
われわれの現代科学はここで黙ってしまいます。
まだそこからの出口は見出していないのです。
それで、もし現代の科学が、そろそろと昔のプラーナと同じものを発見し、古代のアーカーシャと同じものを発見して来たように、次なる発見も行なおうとしているのであれば、それはやはり同じ線に沿って動いて行かなければなりますまい。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉から、プラーナについての説明をご紹介いたしました。
今回の記事を読んで、プラーナについての理解が深まると、それは、宇宙の仕組みやアートマンへとつながり、やがて、おぼろげながら、アートマンのイメージを掴めるようになるではないか?と思われます。
真の自己であるアートマンについては、スワミ・ラーマも以下のように書いています。
『ヴェーダンタ文学の最も価値があり気高い貢献は、真我、あるいは神は私たちから離れておらず、あるいは遠くにおらず、私たちの存在の内側に住んでいらっしゃるということなのです。』
『アートマンが答えです。
私はアートマンです。
あなたはアートマンです。
私とあなたはアートマンなのです。
それが答えです。
ヤマがナチケータに語ったように、アートマンについて聞くだけでは十分ではありません。
アートマンは到達され、理解され、経験によって知られなくてはなりません。
ヤマは学ぶことだけでなく、知性を使うことでも聖なる教えでも、アートマンに到達するには十分でないことを説明しました。
アートマンに到達することは、選択と行動を必要とします。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
「アートマンは、私たちの存在の内側に住んでいらっしゃる」からこそ、私たちは見出すことが可能であると言えます。
アートマンが真の自己である、ということを少しでも理解できるように、次回も続きを見ていきたいと思います。
クリシュナよ 私は
プラクルティとプルシャについて
用地と用地の認識者について また
知識と知識の対象について学びたいのです。
「クンティーの息子よ
この肉体が用地であり
この肉体を知覚認識している者が
用地を認識者(しるもの)である。
(バガヴァッド・ギーター第12章1-2)
プラクルティ(自然、物質界)
プルシャ(精神源)
わたしは誰か?ーアートマンについて(1)
これまで、かなりの時間を割いて、人間の心について、その働きや仕組みを理解するために、脳科学の分野で明らかになって来ている事実をご紹介してきました。
そして、それが、ヨーガやウパニシャッドでは、どのように表現されているか?を、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より、ご紹介いたしました。
このことを心の底から理解するには、本から得た知識ではなく、実際の体験を通して理解することが大切です。
その体験は、個人においては、様々な形で起こるため、一様ではないのですが、
ここでご紹介した脳の働きや仕組みを念頭に置き、自分の内面で起きていることに気付いていることは、体験ための準備として、非常に有効だと言えるでしょう。
何故、そういう気持ちになったのか?
何故、そういう行動を取ったのか?
何故、そういう反応をしたのか?
何故、そう考えたのか?
そこには、必ず理由があります。
潜在意識の中には、自動反応を引き起こす種が眠っていて、それが、個人の心に投影され、私たちの思考、感情、行動の元になっていることが多いのです。
この自分の脳の中で、どのようなことが起きているか?を知ることは、
前回の記事でもご紹介しましたスワミ・ラーマの言葉につながっていきます。
『最初に心を静かにすることが必要です。
最初の方で言ったように、マナスが訓練されず、エゴが制御されていないままだと、心は荒れ狂い制御不能となります。
同時にチッタの内容は膨れ上がり、意識の中に表面化し続けます。
個人はこの混乱の奴隷となり、常軌を逸した感情と強力な願望の鎖で引っ張りまわされます。
この混乱は静められなくてはなりません。
静けさは瞑想で築くことができます。
人の体が静かで呼吸が静かで規則正しいなら、心は集中し始めることができます。
集中が保たれると、顕在意識はだんだんと静かになり、心の明晰さがより深くなっていきます。
この種の瞑想が達成されると、心をきれいにし、古い願望や思考、恐れの心を空にし、完全にブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタを統合するという真の仕事が始まります。
完全なる統合により心は、純粋意識はあらゆるところに在り、君主であることを理解します。
そのとき心は、すべての力と権威は命の源である純粋意識から生じていることを理解するので降伏します。
エゴは消滅し、死は打ち負かされます。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
「わたし」については、チャクラの章で、いろいろ見てきました。
このブログ最後のテーマは、「わたしは誰か?」です。
これは、このブログの最初の方の記事でも取り上げました。
スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」の中では、
『アートマンが人の本質的な性質だと理解されるとき、人はアートマンへの道をきれいにするという仕事を始めることができます。
アクセスは心の枠組みや人間の構造を理解するこで始まります』
とあります。
このことから、人間の心の枠組みや人間の構造を知るために、脳科学における人間の脳についてご紹介してきたのです。
『最初の段階は私たちの真の本性は何かを思い出すことです。
私たちは体でも、感情でも、思考でも、エゴでも、心でもありません。
私たちはアートマンーー神聖で純粋な意識なのです。』
というスワミ・ラーマの言葉を理解するために、次の段階へ移っていきたいと思います。
スワミ・ラーマが「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」で語っているのは、たったひとつの結論です。
『わたしは誰か?ーーアートマンです』
ですから、このアートマンについての理解が、自分という存在への真の理解であり、真理探究者の最終ゴールと言えます。
アートマンを知ることは、唯一なる実在であるブラフマンを知ることである、とウパニシャッドでは説いています。
この自己の本質への真の理解は、体験によってもたらされますが、
その前に、先人の多くの智慧に耳を傾けることで、その片鱗だけでも知っておくことは、ブッディ(知性)が本来の働きをする際に、大いに役に立つことでしょう。
ということで、次回から、アートマンについての理解を深めていきたいと思います。
『”私””と”私のもの”が無智だ。
よくよく考えをおしつめていくと、その、私、私、といっているものはあの御方、つまり、アートマン(真我)のほかの何者でもないと覚るだろう。
考えてもごらん、あんたはその肉体か、それとも骨か、筋肉か、それともまた他の何だね?
わかるだろう、あんたはそのドレでもないんだよ。
どんな性質もないんだ。
そこで念のためだ、いいかいーー”私は何もしていない。私のアヤマチなぞというものはない。性格もない。罪もなければ手柄もない”
これは金、それは真鍮ーーこういうのが無智。
何もかもすべて金ーーこれが智慧』
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
物質界(このよ)を去るにあたって
明るい道と暗い道があり
明道を行く人は戻らず
暗道を行く人は戻ってくる
プリターの息子 アルジュナよ
この二つの道を知る修行者は
捨身(死)のとき決して迷わない
故に たゆむことなくヨーガに励め
わたしのこの教えを理解した修行者は
ヴェーダの学習や供犠 苦行
慈善などの行事に心を費やさず
それらを超えた至高の浄土へ往く
(バガヴァッド・ギーター第8章26-28)
チャクラについて(35)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
前回より、「真の自己」への理解を深めるために、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より、「ただの自己」について、その働きや仕組み、構造などをご紹介しました。
カタ・ウパニシャッドを題材にしているので、日本人には馴染みのないサンスクリット語が頻繁に使われているため、分かり難く感じるかもしれませんが、
少し前に、ジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」をご紹介しましたが、その内容と照らし合わせて、
現代の脳科学ではどのように表現されているのか?と比較しながら、読んで頂けると、より理解がスムーズになると思います。
自分自身の「心」について知ることが、「ただの自己」と「真の自己」を識別する智慧となります。
カタ・ウパニシャッドとヨーガの叡智から導かれたその智慧を、スワミ・ラーマが遺して下さった最後の著書から、ご紹介したいと思います。
(本文中の、ブッディ(理智)は前頭葉の働き、マナス(意思)は大脳辺縁系(主に、扁桃体)の働き、アハンカーラは自我意識(=(わたし)という意識)、チッタ(心素=記憶)は海馬の働き、と当てはめて読むと、理解しやすくなると思われます)
『ひとたびブッディが訓練されると、人には暗く思われる選択がより早く明らかになります。
ブッディの訓練と識別の術がうまく働く前では、判断力は楽しいものの方に傾きます。
ブッディは一時的な楽しみや永続しないものに人生を賭ける無益さに光を放ちます。
ブッディはそのとき、より高次な自己へと人を運ぶのに必要な行動や思考の進路へと人を導き始めます。
ブッディはエゴとより高次な自己との関係とは何なのかを問います。
ブッディが機能することを許されないと、真の自己は隠されたままです。
マナスとエゴを満足させるための無駄な努力で人生は浪費されます。
そしてそれは単に内部器官である心全体のただの一面であるだけなのです。
マナスとエゴは人間にとっては道具ですが、それらが引き継ぐことを許されると、それらは主人になってしまいます。
心の4番目の要素はチッタという、私たちの印象や思考、願望、感情が保存されている広大な無意識の海です。
この海から泡立つものは私たちが人生から人生を通して蓄積してきたものです。
たいていの人にとっては、チッタは広大な種々の材料で作ったスープのようなものです。
彼らの好みと性格で他を支配するものもあれば、ネガティブなものやボジティブなものもあります。
チッタにおけるこれらの材料は、私たちの態度、思考、行動に影響を与えます。
例えば、私たちはアイスクリームに強い願望を持ったり、ある人格に強く反応したり、他よりある風土を好んだり、特別な刺激に対する感情的な反応を持つかもしれません。
これらの願望や反応は、まるで突然にやって来たかのようで私たちの手には負えないように思われます。
しかしこれらの思考や感情は全く突然にやって来たのではありません。
それらは内側からやって来たのであり、アクセス可能であり、コントロールすることができます。
最初に私たちは知り、あるいは少なくとも、私たちの心の内側には途方もなく大きな感情と経験の貯蔵庫があるということを合理的な命題として快く受け入れる必要があります。
事実、あるいは命題として私たちはそれに基づいて行動し、それを試し、調べることができます。
潜在意識の心へのアクセスは、顕在意識の心である表面を静かにすることから生じます。
ほとんど常に心の表面上にはある程度の乱れがあります。
ひとつの思考から別の思考へとはね飛びながら、これからあれへ、そしてまたこれへと戻る心があります。
ときには乱れは大きく、他のときには表面はより静かです。
ほとんど常に顕在意識の中には潜在意識の心へアクセスさせないようにする活動があります。
どのように心が機能するかを知り、それを適切に訓練することは、人間の真の義務なのです。
これは霊的な仕事です。
なぜなら適切に訓練された心が内なる神にそれ自身を現わすことを許すからです。
人類に平和と喜びをもたらすのは、この勤めであり義務なのです。
最初の段階は私たちの真の本性は何かを思い出すことです。
私たちは体でも、感情でも、思考でも、エゴでも、心でもありません。
私たちはアートマンーー神聖で純粋な意識なのです。
私たちの体と心とエゴはアートマンに仕えるようにはなっていません。
もし私たちがその真理を知らないなら、少なくとも私たちが神聖であり永遠であるということを、ひとつの理論として受け入れる価値はないでしょうか?
神聖なる性質の可能性は探求に値しないでしょうか?
それは生と死の関係を知ることにおける批判的な疑問ではないでしょうか?
何が死ぬのでしょうか?
何が生きるのでしょうか?
何が死ぬことができないのでしょうか?
アートマンが人の本質的な性質だと理解されたとき、人はアートマンへの道をきれいにするという仕事を始めることができます。
アクセスは心の枠組みや人間の構造を理解することで始まります。
2番目の段階は、ブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタという心の4つの面と機能を理解することです。
訓練されていない心では、マナスはそれにとっては不適切な役割を引き受け、エゴであるアハンカーラは正当な場所よりもより大きな力と権威の地位につきます。
アハンカーラは、実際には個人に形を与える一時的な構造です。
アハンカーラは永続しません。
それは個人の真の本性ではなく、主人であると思う傾向を持つ召使いなのです。
心の4つの要素は統合されなくてはなりません。
それぞれは他と協力し調和して果たす必要のある惑割を持っています。
マナスとアハンカーラはそれらの仕事をすべきで、それだけにすぎません。
ブッディは人に成長と喜びをもたらす決定をするために訓練され用いられなくてはなりません。
この心の要素の統合を完成するためには、心と感情のさらに詳しい理解が必要とされます。
4つの基本的な衝動は個人的な感情とそれらの心への影響を決定します。
原始的で基本的で全人類や他の生物たちによって共有されているこれらの衝動は食物、睡眠、性交、自己保存のためのものです。
これらの衝動の観点から人間と他の動物の間に違いはそれほどありません。
違いは、これらの衝動をコントロールする能力において、人間の心が卓越していることです。
他の動物はこれらの衝動に従属しています。
彼らの一生はこれらにより決定され導かれます。
一方、人間はマナスとブッディを適切に使うことで、これらの衝動をコントロールすることができます。
もし心の要素が調和して働かないと、これらの4つの基本的な衝動は、機能障害や情緒不安定という一般的に不健康な方法でそれらを表現するでしょう。
食事の不摂生、中毒、行き過ぎた性行為は人の心身の健康に影響を与えます。
多眠、小眠、断続的な睡眠は心と体に同じ影響があります。
自己保存の中心的な問題である死の恐れは、所有物を喪失する恐れや、人間関係における所有欲の強いことや、飛行機恐怖症や他の恐怖症を含む広範囲な恐れに通じます。
これらの不摂生と中毒は、それらの感情的な混乱を伴ってチッタの中に流れ込み、個性を形作り、何年間も一生の間でさえ癖を作り出します。
すべての心の要素が真に統合されると、人は悟りのより高いレベルに跳ぶことができます。
かつて心の総合的な統御なしに覚醒あるいは悟りを達成した偉人はいません。
この統合は努力、実践、技術を必要とします。
それは心を一点に集中し内部へ向かわせることを意味します。
心が統合されないと、それは巧みな行動をとることができません。
なぜなら、思考のプロセスと願望のより繊細な紐は、自由への道においては障害となるからです。
最初に心を静かにすることが必要です。
最初の方で言ったように、マナスが訓練されず、エゴが制御されていないままだと、心は荒れ狂い制御不能となります。
同時にチッタの内容は膨れ上がり、意識の中に表面化し続けます。
個人はこの混乱の奴隷となり、常軌を逸した感情と強力な願望の鎖で引っ張りまわされます。
この混乱は静められなくてはなりません。
静けさは瞑想で築くことができます。
人の体が静かで呼吸が静かで規則正しいなら、心は集中し始めることができます。
集中が保たれると、顕在意識はだんだんと静かになり、心の明晰さがより深くなっていきます。
この種の瞑想が達成されると、心をきれいにし、古い願望や思考、恐れの心を空にし、完全にブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタを統合するという真の仕事が始まります。
完全なる統合により心は、純粋意識はあらゆるところに在り、君主であることを理解します。
そのとき心は、すべての力と権威は命の源である純粋意識から生じていることを理解するので降伏します。
エゴは消滅し、死は打ち負かされます。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く)
今回ご紹介した内容は、そのまま理解するには、少し難しいかもしれませんが、
前回までにご紹介しました脳科学の解説とジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」からのご紹介と併せて、照合しながら読んで頂けると、自分の脳(心)の中で、何が起きているのか?を、少なからず把握できるのではないか?と思います。
これは、無知という覆い(ヴェール)に覆われているブッディ(理智)のその覆いを取り除き、ブッディの本来の働き(訓練された理智)を発揮させるのに、役立つと思います。
スワミ・ラーマも書いている通り、無知という覆い(ヴェール)がブッディを包み込んでいるので、
私たちに「ロープをヘビに見間違える」という「錯覚」が起きているのですが、
ブッディを覆っているその無知が取り除かれると、「錯覚」が消えるということになります。
その「錯覚」が、一瞬の体験で取り除かれることもあります。
また、玉ねぎの皮を一枚一枚剥いていくように、少しずつ剥がれ落ち、最後に「何も無くなる」(錯覚という覆いが取り除かれる)ということも起きます。
たったひとつのゴールに到達するためのアプローチ(道)は、いろいろあるということです。
「ただの自己」を理解し、それを「真の自己」を発見する道具として上手く使いこなすためには、訓練と実践が必要です。
次回は、「真の自己」について、引き続きスワミ・ラーマの著書より、ご紹介いたします。
その非顕現の清浄界こそ
不滅の妙楽世界であり
そこに到達した者は決して物質界に戻らない
そこがわたしの住処である
すべてに勝る至上者のもとには
不動の信仰によってのみ到達できる
かれは至上の住処に在ってしかも全宇宙に充満し
万生万物はかれの内に存在する
(バガヴァッド・ギーター第8章21-22)