チャクラについて(31)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
私たちは、通常、左脳と右脳が同時に機能しているため、左脳独自の性質、右脳独自の性質があることを、そして、それらがどのようなものであるのか?を、体験を通して知ることは、まずあり得ません。
前回は、左脳を損傷したことで、右脳だけで過ごした経験より、右脳の性質を、そしてその後、左脳の機能を取り戻すリハビリテーションをしたことから、左脳の性質を知ることになったジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」から、
右脳の性質(右脳マインド)についてご紹介しました。
今日は、左脳の性質(左脳マインド)についてご紹介いたします。
私たちは、社会にあっては、左脳優位であることの方が、何かと都合が良いことが多いので、左脳優位であることが多いと書きましたが、
今日ご紹介する左脳の性質についての解説を読んで、左脳への理解が深まると、
私たちが、「自分」或いは、「自分の心」だとしているモノが、いかに左脳の働き(左脳マインド)であるか、を発見されることでしょう。
『わたしはたしかに、右脳マインドが生命を包み込む際の態度、柔軟さ、熱意が大好きですが、左脳マインドも実は驚きに満ちていることを知っています。
なにしろわたしは、10年に近い歳月をかけて、左脳の性格を回復させようと努力したのですから。
左脳の仕事は、右脳がもっている全エネルギーを受け取り、右脳がもっている現在の全情報を受け取り、右脳が感じているすばらしい可能性のすべてを受け取る責任を担い、それを実行可能な形にすること。
左脳マインドは、外の世界と意思を通じ合うための道具。
ちょうど右脳マインドがイメージのコラージュ(さまざまな断片の集まり)で考えるように、左脳マインドは言語で考えてわたしに話しかけます。
脳のおしゃべりを利用することにより、人生の荒波を乗り越えることができるし、わたしのアイデンティティーも顕してくれるのです。
左脳の言語中枢の、「わたしである」ことを示す能力によって、わたしたちは永遠の流れから切り離された、ひとつの独立した存在になります。
全体から分離したひとつの固体になるわけです。
左の脳は、情報をまとめる面では宇宙の中で最も優れた道具です。
左脳のキャラクターは、あらゆるものを分類し、組織化し、記述し、判断し、批判的に分析する能力を誇っています。
左脳はいつも熟慮と計算によってうまく立ち回ります。
口が動いていてもいなくても、左脳マインドは理論化し、合理化し、記録化するために忙しなく働いています。
左脳マインドは完全主義者で、まるで会社や家の管理人のよう。
それはこう言い続けています。
「全てのものには決まった場所があり、全てのものはその場所に属す」と。
右脳マインドのキャラクターは人間性を重視していますが、左脳マインドのキャラクターは財務や経済を重視しています。
何かをするとき、左脳マインドは複数の仕事を見事にこなし、同時にできるだけ多くの機能を演じるのを好みます。
左脳マインドは、そりゃもう働き者で、やらなくちゃいけない日課の項目をどれだけ線を引いて消せたかで、その価値を計ります。
左脳マインドは物事を順序だてて考えるので、機械的な操作に優れています。
違いに注目して特徴を見分ける能力は、生まれつきの組立屋さんといっていいでしょう。
左脳は、パターンを判別する特殊な才能を授けられています。
ですから、迅速に大量の情報を処理するのが得意なのです。
外の世界で起こるできごとに遅れをとらないよう、左脳マインドはものすごく早い情報処理をします。
対照的にゆっくりしている右脳の速さをはるかにしのいでいるのです。
左脳マインドは躁状態になる可能性がありますが、これに対し右脳マインドは、怠惰になる可能性を抱えています。
二つの大脳半球のあいだの思考、情報処理、言葉、行動面での速さの差は、異なる種類の感覚情報を処理するときのそれぞれの能力の差なのでしょう。
右脳は、長い波長の光を知覚します。
ですから右脳マインドの視覚的な知覚はやや溶けて柔らかい感じになります。
知覚が鈍いことで、右脳マインドは事物がどんなふうに関係しているかという、より大きな絵(心の像)に集中できるのです。
同様に、右脳マインドは低周波の音に同調しますが、それはわたしたちのからだ(お腹がグーと鳴ったり)や自然の中で普通に発生するものです。
そのために右脳マインドは、生理機能にすぐに耳を傾けるよう、生物学的に設計されているのです。
対照的に、左脳は短い波長の光を知覚して、明確に線を引いてはっきりした境界をつくる能力を高めます。
その結果として、左脳マインドは生物学的に、隣り合った物体のあいだを分かつ線を認識する能力が高いのです。
同時に、左脳の言語中枢は高い音に耳を傾けますが、通常は話し言葉が高い音であることが多いため、言葉を検出し、識別し、解釈することができるのです。
左脳の最も顕著な特徴は、物語を作り上げる能力にあります。
左脳マインドの言語中枢の物語の部分は、最小限の情報量に基づいて、外の世界を理解するように設計されています。
それはどんな小さな点も利用して、それらをひとつの物語に作り上げるように機能するのです。
最も印象的なのは、左脳は何かを作るとき、実際のデータに空白があると、その空白を埋めてしまう能力があること。
そのうえ、ひとつの話の筋をつくる過程で、シナリオの代替案を用意する天才的な能力まで持っています。
もし、あなたが、物語を書くことに情熱を燃やしているのであれば、うまいか下手かは別にして、その感情の回路とつなげて、「もしも~だったら?」という可能性を網羅するのがとても効果的でしょう。
左脳の言語中枢が回復してふたたび機能し始めたので、わたしは長い時間をかけて、最小限の情報をもとに、どのようにしてわたしの中の物語作家が話を簡潔させるのか観察してみました。
長いあいだ、自分の物語作家が妙なことばかりするので、ふざけているんじゃないかと思っていました。
ですがとうとう、左脳マインドは脳の残りの部分に、完成しつつある物語を信じさせようと心から願っていることに気づいたのです!
左脳マインドの性格と機能が復活するまでのあいだ、自分の脳が最善の仕事をしていると思い続けることがとても重要でした。
しかし、知っていることと、知っていると思っていることのあいだに大きな隔たりがあることを忘れてはいけません。
自分の物語作家が、ドラマやトラウマ(心的外傷)を引き起こしかねないことにもっと注意を払うべきだったのです。
同じ調子で、左脳が真実だと信じこんで作る物語には、冗長な傾向も見られました。
まるで反響しているかのように、心にくりかえしこだまする、思考パターンのループができてしまうのです。
ふつう、こういう思考のループは頭の中に「はびこって」しまいます。
そしてわたしたちは知らず知らずのうちに、最悪の事態ばかり考えるようになります。
残念なことに、社会は子供たちに「心の庭を注意深く手入れする」必要をちゃんと教えません。
なんらかの骨組みや検閲や規律がないと、思考は自動操縦で勝手に動きまわります。
わたしたちは、脳の内側で起きていることを注意深く管理する方法を学んでいません。
ですから、自分について他人が考えていることだけでなく、広告や政治による操作に対しても、無防備でなされるがままなのです。
わたしがあえて回復しないようにしたのは、自分や他人に対して意地悪になったり、絶え間なく不安になったり、あるいは、口汚くののしってしまうような左脳の一部でした。
はっきり言って、生理的に感じるこんな感情が嫌でたまらなかったのです。
胸は苦しくなり、血圧が上がるのを感じ、眉間が寄って頭痛がします。
痛ましい過去の記憶をその場で再生しようとする古い感情的な回路なんか、みんな捨ててしまいたかった。
過去の苦痛に心を奪われるには、人生はあまりにも短いことを知ったから。
回復するまでに、頑固で傲慢で皮肉屋で、嫉妬深い性格が、傷ついた左脳の自我(エゴ)の中枢に存在することを知りました。
エゴの心の部分には、わたしが痛手を負った負け犬になり、恨みがましくなり、嘘をつき、復讐さえしようとする力が残っていました。
こんな人格がまた目覚めたら、新しく発見した右脳マインドの純粋さを台無しにしてしまいます。
だから、努力して、意識的にそういう古い回路の一部を蘇らせずに、左脳マインドの自我の中枢を回復させる道を選んだのです。』
(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー)
前回、今回と、右脳マインドと左脳マインドについて、ご紹介させて頂きましたが、
これまで自分が「自分」だと思っていた「自分」は、実は、単なる脳の働きだった、ということに、気づかれた方もいらっしゃるかもしれません。
今もこの文を読んで、理解しようとしているのは、左脳の自動反応なのです。
思考、感情、判断、は、左脳の働き。
直観、感覚、意識、は、右脳の働き。
ジル・ボルト・テイラー博士は、自らの体験から、そう書かれていますが、
これからわかることは、「わたし」が、この体で体験していることは、すべて左脳と右脳の働きだということになります。
このバレーボールくらいの大きさの頭(脳)のどこに、「わたし」がいるのでしょうか?
「わたし」とは、脳の働きが生み出している(脳のニューロン回路の複雑な働きから生じている)ある種の「想い」なのです。
いつも同じ思考回路を使っているので、同じ感情の回路が反応するので、その結果、まるでひとつの決まった人格があるかのように感じているだけと言えます。
その幻の人格を持っているという想いが、脳に生じた結果、脳内に個別性が誕生し、それが「わたし」となったのです。
脳が脳を理解する、「わたし」が「わたし」を理解することは、以前の記事でご紹介した脳科学者の池谷裕二さんも、その難しさを強調されていましたが、
これは、ヨーガの中でも非常に難解とされている「ギャーナ・ヨーガ(智識によるヨーガ)」の道です。
「個」であるという感覚を消滅させることは、通常、人間には不可能ですが、
その感覚は、頭頂の方向定位連合野が働いているからだと、ジル・ボルト・テイラー博士は、「奇跡の脳」の中で書いています。
そして、それぞれの脳の部位の働きを理解するにつれ、私たちは、自分の脳内で
どのようなことが起きているのか?を知ることで、「自分」について知って行くことができるのです。
そして、この理解が、やがては、「個」を超えて、「全体」への帰還へと通じていきます。
頭頂にある第7チャクラであるサハスラーラ・チャクラは、「個」から「全体」へ通じている私たちの体にある唯一の門(扉)なのです。
ヴェーダを学んだ人びとが
不死の世界とよんでいる処について説明しよう
偉大な哲人 賢者たちはここに入るために
きびしい禁欲の修行をする
ヨーガ修行は全ての感覚的快楽を
離脱することから始まる
五官の門を閉じて 心を心臓に
生気を眉間に集中して精神統一をする
ブラフマンそのものを表すところの
聖なる音節オームをとなえ
至上者(わたし)を想いながら肉体を離れる者は
必ず至高の世界へ往く
(バガヴァッド・ギーター第8章11ー13)
チャクラについて(30)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
今回は、脳卒中により、左脳を損傷したことで、右脳の機能だけで過ごした体験を経て、その後、左脳の働きを取り戻したジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」より、
通常、両脳が同時に働いている(ことになっている)私たちには、およそ想像もつかない右脳と左脳の働きの違いについて、非常に詳しく書かれている部分がありますので、ご紹介したいと思います。
ジル・ボルト・テイラー博士の奇跡の体験によって導き出された右脳と左脳の働きの違いを知ることにより、自分の脳に起きていることを理解し、第7チャクラのサハスラーラ・チャクラについての理解を深めていきたいと思います。
まず、今回は、右脳の働き(右脳マインド)について、ご紹介いたします。
『大脳の左右の半球のそれぞれで、どんな情報が処理されているか(あるいは、処理されていないか)にかかわらず、自分全体を、ひとつの心をもった、統一された存在として体験していることは、充分にわかっているつもりです。
そもそも意識とは、機能している細胞による集合的な意識にほかならないとわたしは考えています。
そして大脳半球の両方が補い合い、継ぎ目のないひとつの世界という知覚を生じさせるのだと、確信しています。
もし、顔を見分ける細胞と回路が正しく機能していれば、あなたのことを顔で認識することができます。
もしそれがなければ、あなたの声や癖や歩きぶりといった他の情報を利用して認識するでしょう。
もし、言語を理解する細胞の回路が無傷なら、あなたの話を聞くことであなたを理解できます。
自分が誰でどこに住んでいるかをいつも思い出せる細胞と回路が破壊されると、わたしは自分自身を永遠に見失ってしまうのです。
(これは、そういった特殊な機能を他の細胞が肩代わりしない場合の話です)
ちょうどコンピューターにワープロのプログラムがなければ、文書作成という機能を実行できないのと同じです。
右脳と左脳はそれぞれユニークな特徴をもっており、ちがったやり方で情報を処理するわけですから、それが別々の価値体系となってあらわれ、結果的に非常に異なる人格が生じるのは、あたりまえかもしれません。
左右の脳が持つ両方の性格を育て、脳の両側の機能と個性をうまく利用し、人生の中で両方がお互いに支え合い、影響し合い、調節し合うようにできる人もいます。
でも、ほとんどの人は、どちらか一方に考え方が偏り、常に分析し、批判的になり、柔軟さに欠けるパターン(極端な左脳状態)を示すか、あるいは、周囲とほとんど現実を分かち合うことなく、ほとんどの時間を「うわのそら」(極端な右脳状態)で過ごしています。
二つの性格のあいだの健全なバランスを生み出すことによって、初めて、変化に対して柔軟に対応できる(右脳)認知力を持ちながら、同時に道を踏み外さず具体的に行動できる(左脳)ようになります。
与えられた認知能力を100パーセント大切にし、うまく使うことにより、まさに「生命の傑作」とも言えるわたしたちに見合った人生への道が開けます。
決意さえすれば、慈愛に満ちた世界をつくることが可能なのです。
悲しいかな、わたしたちの社会では思いやりが示されることは滅多にありません。
「間違った」あるいは「悪い」判断をした自分や他人を見下げたり、侮辱したり非難することばかりに、あまりにも多くの時間とエネルギーを費やしてしまうのです。
あなたは自分自身を厳しく責め立てるとき、こんな質問をしたことがありますか?
「あなたの中の誰が怒鳴っているの?あなたは誰に対して怒鳴っているの?」
こうした否定的な思考パターンには、内なる敵意と不安の増加を助長する傾向があることに気づきませんか?
さらに厄介なことに、心の中での否定的な対話が、他の人たちへの態度にも、ひいてはあなた自身の魅力にも悪い影響を及ぼすことに気づいたことがありますか?
生き物として、わたしたちは底知れぬほど強力です。
神経ネットワークは、ニューロンが他のニューロンとコミュニケーションをとる回路からできているので、そのふるまいは充分に予測できます。
特定の回路に意識的な注意を払えば払うほど、あるいは特定の思考により多くの時間を費やすほど、そういった回路や思考パターンは、外部からのほんのちょっとの刺激によって容易に働くようになります。
わたしたちの心は、高度に進んだ「求めよ、さらば与えられん」式の器械なのです。
心は、探しているものに集中するようにできています。
もし世界の中で赤を求めようとすれば、それをどこでも見つけられるようになります。
最初は見つけにくくても、ずっと赤を求めることに集中していると、意識せずとも赤をいろんなところで見ることになるのです。
脳の左右の人格は、物事に対して違う考えを持つだけでなく、感情を処理し、すぐにわかる方法でからだを動かします。
肩のすぼめ具合で誰が部屋に入って来たかわかるし、額のしわの深さで何が起きているかを知ることができます。
右脳はすべて、「いま、ここで」に関係しています。
それは歯止めなく熱狂し、はねまわり、どうなろうと知ったこっちゃありません。
よく微笑み、やたらとフレンドリーです。
それと比べて、左脳は細部で頭が一杯で、分刻みのスケジュールで人生を突っ走ります。
左脳はクソ真面目なのです。
歯ぎしりしながら、過去に学んだことに基づいて判断を下します。
一線を超えることなく、あらゆる事を「正しい・間違っている」、あるいは「良い・悪い」で判断します。
あ、それから、その判断はわたしの場合眉の形に現れるんですよ。
右脳はとにかく、現在の瞬間の豊かさしか気にしません。
それは人生と、自分にかかわるすべての人たち、そしてあらゆることへの感謝の気持ちでいっぱい。
右脳は満ち足りて情け深く、慈しみ深い上、いつまでも楽天的。
右脳の人格にとっては、良い・正しい・間違いといった判断はありません。
これを右脳マインドと呼ぶことにしましょう。
ですから右脳マインドでは、あらゆることが相対的なつながりの中にあるのです。
ありのままに物事を受け取り、今そこにあるものを事実として認めます。
昨日より今日のほうが涼しい。
ただそれだけ。
今日、雨が降る。
特に問題なし。
右脳マインドは、ある人が別の人より背が高いと観察するでしょうし、この人はあの人よりお金を持っている、などと観察しますが、こうした観察結果は判断につながりません。
右脳マインドにとっては、わたしたちはみんな、人類という家族の平等な一員なのです。
右脳マインドは国境や、人種や宗教のような人工的な教会などわからないし、気にもとめません。
今回の脳卒中の体験から得た最も大きな「恵み」は、純粋な内なるよろこびの神経回路を若返らせ、さらに強められたこと。
脳卒中のおかげでわたしは、子供のような好奇心をもって、ふたたび自由に世界を探検するようになりました。
差し迫った危険はなく、世界中が安全に感じられ、自分の裏庭のように地球を闊歩しました。
右脳の意識の中では、わたしたちは人類の可能性を秘めた宇宙のタペストリーに織り込まれているのだと感じ、人生の素晴らしさを感じ、ありのままを美しく感じます。
右脳マインドの性格は冒険好きで、豊かさを喜び、とても社交的、言葉のないコミュニケーションに敏感で、感情移入し、感情を正確に読み取ります。
宇宙とひとつになる永遠の流れを気持ちよく受け入れます。
それは聖なる心、智者、賢人、そして観察者の居場所なのです。
直観と高度な意識の源泉です。
右脳マインドは常にその時を生きていて、時間を見失います。
右脳マインドの自然な機能のひとつは、時代遅れの情報が入っている古いファイルを最新のものに更新できるように、今この瞬間に新しい発見の機会を与えてくれることです。
たとえば、わたしは子供のころから南瓜や瓜があんまり好きではありませんでした。
でも、右脳のおかげで、南瓜にもう一度チャンスをあげてもいいかな、と思うようになって、今では南瓜が大好き。
わたしたちは、左脳のところで決断してしまい、なかなか最新のファイルを探すために右へ一歩(つまり、右脳の意識の中へ)進もうとしないのです。
というのも、いったんある決定をしてしまうと、いつまでもその決定に執着するから。
支配権を確立した左脳にとって、自由奔放な右の伴侶と狭い頭蓋のスペースを分け合うことなんて、そりゃもう、許せないことなんだと思います。
右脳マインドは新しい可能性を受け入れて、枠にとらわれず自由に考えます。
左脳マインド(とこちらも同様に呼ぶことにします)が決めた枠内の規則や規制なんかには縛られません。
ですから右脳マインドは、新しいことにトライしようという意欲があり、とても創造的なのです。
それは混沌さえも、創造的なプロセスの第一歩として評価します。
運動感覚があり、機敏で、世界の中で流体のように動くからだの能力が大好き。
細胞が「直観」として伝える微妙なメッセージにも耳を傾けます。
右脳マインドは触って体験して学習するのです。
右脳マインドはひたすらに自由な宇宙を求め、過去や未来の不安によって身動きがとれなくなることはありません。
わたしの生命と、あらゆる細胞の健康を讃えます。
気遣うのは自分のからだだけじゃありません。
あなたのからだが健康かどうか、社会の精神的な健康、そして母なる地球とわたしたちの関係までも気にするのです。
右脳マインドは、(赤血球を除いた)すべての細胞が母親の卵細胞と父親の精子細胞が結ばれてできた細胞であり、どれもが天才的な資質をもつ50兆もの細胞の生命力によって巧くつくられていることを知っています!
(そしていつも、右脳マインドはそのことを歌っている!)
右脳マインドは、宇宙が織物のように複雑にからみあい、お互いに結びついていることを理解しています。
そして自分のドラムのビートに合わせて熱狂的に行進するのです。
境界についての知覚が全くないので、右脳マインドはこんなふうに言います。
「わたしは全ての一部。
わたしたちは、この惑星上の兄弟姉妹。
わたしたちは、この世界をもっと平和で温かい場所にするのを手伝っている」。
右脳マインドは、生きとし生けるものがひとつに調和することを思い描きます。
そして、自分自身の中のこうした性格を、あなたにもっと知ってほしいと願っています。』
(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー)
私たち人間は、現代社会においては、便宜上、左脳優位であることの方が、都合が良い場合が多いので、畢竟、左脳ばかりを使う習慣が身についている人が多いようですが、
左脳の働きが優位であることは、思考、判断、言葉によるコミュニケーション(他者との関わり)、感情を言葉で表現すること、観念、概念などにより、脳内が一杯になっている状態と言えます。
ですから、ジル・ボルト・テイラー博士の右脳マインド(右脳の働き)についての体験報告は、私たちの想像できない世界ではありますが、
同時に、実際の体験から導き出されたものなので、説得力のある解説になっていると感じます。
それでは、右脳とは別に、左脳の働きとは、どのようなものなのでしょうか?
次回は、左脳の働き(左脳マインド)について、ジル・ボルト・テイラー博士による解説を見てみることにしましょう。
プリターの息子よ 常に訓練して
至上者(わたし)を瞑想せよ
決して他のものに心を散らしてはいけない
そうすれば必ず至上者(わたし)のもとに来るのだ
全知全能なる大宇宙の支配者
最も古く最小のものより微細な万有の維持者
物質界を超えて千万の太陽の如く輝く
難思絶妙なる一(ひとり)の人格神として至上者(わたし)を瞑想せよ
ヨーガの行力と不動の信念により
臨終のとき生気を眉間に集中し
満心の思慕をもって至上主(わたし)を憶念すれば
必ずわたしのもとに来ることができる
(バガヴァッド・ギーター第8章8ー10)
チャクラについて(29)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
今回も、脳卒中により、左脳が働かなくなった脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士が、自らの体験を元に書かれた「奇跡の脳」より、
ひとつの脳でありながら、脳梁により接続されているとは言え、左脳と右脳のそれぞれの働きの違いを通して、両者は、別々の世界を体験している、という驚きの報告をご紹介しました。
左脳は、思考、感情を、右脳は、直観、感覚を役割分担しているということですが、通常は、私たち人間は、両方の脳が同時に機能しているのですが、
そうは言っても、人間社会においては、左脳優先であることが求められることが多いため、常に左脳が優先になっており、思考、判断、感情、などが、頭の中を占め、
右脳が感知している世界の情報をかき消してしまっていることが多いと考えられます。
また、今回ご紹介する内容の中に、ジル・ボルト・テイラー博士の体験とよく似た体験を実験により検証することで、実際に、脳のどの部位に変化があったのか?ということが明らかになっています。
それでは、続きをご紹介しましょう。
『回復するまでのわたしの目標は、二つの大脳半球が持っている機能の健全なバランスを見つけることだけでなく、ある瞬間において、どちらの性格に主導権を握らせるべきか、コントロールすることでした。
これはきわめて重要なことだと思っています。
なぜなら、右脳の個性の最も基本的な特色は、深い内なる安らぎと愛のこもった共感だからです。
内なる安らぎと共感の回路を動かせば動かすほど、より多くの平和と共感が世界に発信され、結果的により多くこの地球上に広がるでしょう。
脳のどちら側が、どんな種類の情報を処理しているかをハッキリさせることにより、個人としてだけでなく、人類の一員としてどのように考え、感じ、行動するかについて、より多くの選択ができるようになるはずです。
神経解剖学的な見地からは、左脳の言語中枢および方向定位連合野が機能しなくなったとき、わたしは右脳の意識のなかにある、深い内なる安らぎを体験することができたのです。
2001年以降は、アンドリュー・ニューバーグと故ユージーン・ダキリ両博士によって行われた研究が、わたしの脳の中でなにが起きているかを正確に理解する助けになりました。
ニューバーグとダキリはSPECT技術(単一光子放射断層撮影法といい、体内に注入した放射性同位体から出るガンマ線を利用して、脳やからだの輪切り映像を撮影する)を利用して、宗教的もしくはスピリチュアル(神秘)体験をもたらす神経構造を明らかにしました。
ニューバーグとダキリは、脳のどの領域が意識の変容をもたらし、個人の意識から離れて、宇宙と「ひとつ」であるという感じ(神、ニルヴァーナ、幸福感)を生み出すのか、知りたいと思ったのです。
チベットの僧侶とフランシスコ会の修道女が、SPECT装置の中で瞑想あるいは祈るために招かれました。
彼らは、瞑想のクライマックスに達するか神と一体になったと感じたときに、ひもを引くように指示されました。
こうした実験によって、脳の中の非常に特殊な領域で、神経学的な活動が変化することが明らかになりました。
まずはじめに、左脳の言語中枢の活動の減少が見られ、脳のおしゃべりが沈黙します。
次に、左脳の後部頭頂回にある方位定位連合野の活動の減少が見られました。
この部分は、その人の肉体の境界の判別に役立っています。
この領域が抑制されるか、感覚系からの信号の流入が減少すると、まわりの空間に対して、自分がどこから始まりどこで終わっているかを見失ってしまうのです。
こうした最近の研究のおかげで、左の言語中枢が沈黙してしまい、左の方向定位連合野への正常な感覚のインプットを防げられたとき、わたしに何が起きていたのかを、神経学的に説明することができます。
わたしの意識は、自分自身を固体として感じることをやめ、流体として認知する(宇宙とひとつになったと感じる)ようになったのです。
脳卒中により、わたしは内なる自分を発見しました。
ほんの少し、考え方や感じ方を変えるだけで、深い心の安らぎが得られることに気づいたのです。
安らぎを体験するといっても、人生がいつも歓喜に満ちあふれている、という意味ではありません。
あわただしい人生の、あたりまえの混乱の中にあっても、心の歓びに触れることができるという意味なのです。
多くの人にとっては「考える頭」と「思いやる心」のあいだの距離は、ときとして横切って進みます。
またある人は、絶望や怒りやみじめさに深くとらわれて、心の安らぎなんて別世界のものです。
左脳マインドを失った経験から、深い内なる安らぎは、右脳にある神経学上の回路から生じるものだと心の底から信じるようになりました。
この回路はいつでも機能しており、いつでもつなげることができます。
安らぎの感覚は、現在の瞬間に起こる何かです。
それは過去を反映したものや、未来を投影するものではありません。
内なる安らぎを体験するための第一歩は、まさに「いま、ここに」いる、という気になること。
どんなときに、深い心の安らぎのループが働いているのかに気づくことができれば、その回路に意識的につなげることが容易になります。
どんなときにこの回路が働いているのかわからず、悪戦苦闘している人もいるでしょう。
その唯一の理由は、他の思考に心が向かっているせいです。
これは、当然のことです。
なぜなら、西洋の社会は左脳の「する」(doing)機能を右脳の「ある」(being)機能よりずっと高く評価し、報酬を与えるものだから。
あなたが右脳マインドの意識に近づくのが難しいのは、あなたが成長するあいだに「こうしなさい」と教えられたことを、実にうまく学んできたからにほかなりません。
細胞たちのこれまでの成功を、褒めてあげてください。
そのうえで、わたしの仲の良い友人、カット・ドミンゴ博士が宣言しているように、「悟りは、学ぶことではなく、学んだことを忘れること」だと知りましょう。
内なる安らぎを体験するためにわたしが最初にするのは、自分がより大きな構造の一部であることを思い出すこと。
いいかえると、決して自分と切り離すことのできないエネルギーと分子の、永遠の流れの一部であることを思い出すこと。
自分が宇宙の流れの一部だと気づくことによって、わたしは生まれながらに安全だと感じ、地上の天国としての人生を体験できるのです。
自分を包み込む全体と一心同体なのですから、自分が脆いなんて感じるはずはありません。
左脳マインドはわたしを、いずれ死にいたる一人の脆弱な人間だと見ています。
右脳マインドは、わたしの存在の真髄は、永遠だと実感しています。
いずれ、わたしは自分をつくっている細胞を失い、三次元の世界を知覚する能力を失うかもしれませんが、このエネルギーはただ、幸せに満ちた穏やかな海に還ってゆくだけ。
このことに気づき、ここにいる間はずっと感謝し続けると同時に、命をつくってくれる細胞たちが満足した状態にあるよう、わたしは熱意をもって努力しています。
現在の瞬間に戻るためには、心を意識的にのんびりさせる必要があります。
それには、急ぐ必要はない、とまず決めることです。
左脳マインドが慌てふためいて、思いを巡らせ、熟考し、分析しているときでも、右脳マインドは、ゆっくりくつろいでいるのです。』
(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー)
誰でも、同じような体験をすることはできないため、ここに書かれていることが本当か、どうかは、自ら検証することは不可能ですが、
60億人の中のたった一人ですが、このような稀なる体験をし、言語を取り戻して、私たち一般人に、このような貴重な体験談を伝えてくれたことは、「脳」という未知なる領域に踏み込む第一歩となると感じます。
私たちは、自分の脳を、このように客観的には見ることが(考えることが)できないため、ジル・ボルト・テイラー博士の体験談には、私たちが自分と言う存在を考える時に、多くの示唆を与えてくれるものと思います。
次回は、もう少し、詳しく、左脳と右脳の働きについて、見ていきましょう。
そうすることで、「いまここ」にありながら、今まで認識してきた世界と同時に、まるで違う別世界が展開していることに気づくことでしょう。
誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき
心で憶念している状態に必ず移るのだ
クンディーの息子よ これが自然の法則ーー
常に思っていることが死時に心に浮かぶ
故にアルジュナよ 常にわたしを想いながら
同時に君の義務である戦いを遂行せよ
心と知性(ブッディ)をわたしに固く結びつけておけば
疑いなく君はわたしのもとに来るだろう。
(バガヴァッド・ギーター第8章6ー7)
チャクラについて(28)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
これまで3回にわたり、第7チャクラのサハスラーラ・チャクラを理解するために、
脳卒中により左脳が働かなくなった脳科学者ジル・ボルト・テイラー博士の体験談が書かれている「奇跡の脳」より、抜粋してご紹介しています。
私たちは、通常は、社会における他人とのコミュニケーションのために、言葉を使うことが多いため、左脳が優位であることが多いのですが、
その左脳が全く働かなくなった時、優位となった右脳が認知する世界は、通常の私たちが経験している世界とは別世界であるかのように記述されています。
今回もその続きを見ていきたいと思います。
『まったく予期していなかった脳の深部への旅のあと、からだの面でも、認識や感情や精神の面でも、完全に回復したことに感謝すると同時に驚いてもいます。
数年にわたって、左脳の特殊機能の回復はいろんな理由でとても厳しい状態でした。
左脳の神経学的なネットワークの機能を失ったとき、その機能だけでなく、適性の回路に関連した多様な人格的特徴も失ってしまいました。
過去にもっていた、感情的な反感やマイナス思考と解剖学的につながる機能細胞を回復させる段になり、わたしは思わずハッとしました。
基本的には、左脳の機能を取り戻したいと思っています。
でもそこには、今のわたしが右脳の観点から「こうなりたい」と考えている性格とは正反対の性格が、まるで左脳の遺灰から復活しようとばかり、待ちかまえていたのです。
神経解剖学や心理学の見地からは、わたしはまたとない魅惑的な数年間を過ごしたと言えるでしょう。
何度もくりかえし頭をよぎった疑問は、「回復したい記憶や能力と神経学的に結びついている、好き嫌いや感情や人格の傾向を、すべてそのまま取り戻す必要があるの?」ということでした。
たとえば自己中心的な性格、度を過ぎた理屈っぽさ、なんでも正しくないと我慢できない性格、別れや死に対する恐れなどに関係する細胞は回復させずに、(流体ではなく)固体のようで、宇宙全体とは切り離された「自己」を取り戻すことは可能なの?
あるいは、欠乏感、貪欲さ、身勝手さなどの神経回路につなぐことなしに、お金が大切だと思うことができるでしょうか?
この世界のなかで自分の力を取り戻し、地位をめぐる競争に参加し、それでも全人類への同情や平等な思いやりを失わずにいられる?
末っ子ゆえの不満を思い出さずに、ふたたび家族としてふるまえるかしら?
そして最も重要なことですが、左脳の個性を前にしても、新たに発見した「宇宙との一体感」を保ち続けることができるでしょうか?
知りたかったのは、左脳の機能を取り戻すために、せっかく見つけた右脳の意識、価値観、人格のどれくらいを犠牲にしなくてはいけないのか、という点でした。
宇宙との結びつきを失いたくなかったのです。
自分自身が周囲のすべてから切り離されたひとつの固体だなんて、感じたくなかった。
頭の回転ばかりが速くなって、真の自分に触れることを忘れてしまうのは嫌でした。
正直いって、涅槃(ニルヴァーナ)を諦めたくなかったのです。
周囲から「まとも」だと判定されるために、右脳の意識はどれだけの犠牲をはらうことになるのでしょう?
現代の神経科学者たちは、右脳と左脳の非対称性を、神経学の面からのみ説明するだけで満足しているように思われます。
左右の脳の構造に含まれる心理学的、人格的なちがいについては、ほとんど語られることがありません。
よくあるのは、右脳の個性が、話し言葉や順序だった思考をよく理解できない、という理由だけで笑いものにされ、メチャメチャにけなされること。
『ジキル博士とハイド氏』の中でも、ハイド氏が象徴する右脳の個性は、制御不能で生まれつき凶暴な、卑しむべき無知な人格として描写されており、意識すら持っていないと非難され、いっそのこと右脳なんかないほうがいい!とすら言われています。
左脳はこれとは全く対照的に、言葉をあやつり、順序がわかり、方法を考え、理性があり、利口だと褒められ続け、意識の王座に君臨してきたのです。
脳卒中を体験する前のわたしは、左脳の細胞が右脳の細胞を支配していました。
左脳が司る判断や分析といった特性が、わたしの人格を支配していたのです。
脳内出血によって、自己を決めていた左脳の言語中枢の細胞が失われたとき、左脳は右脳の細胞を抑制できなくなりました。
その結果、頭蓋の中に共存している二つの半球の独特な「キャラクター」のあいだに、はっきり線引きできるようになったのです。
神経学的な面においては、二つの脳は全然違う方法で認知したり、考えたりすることはありません。
しかしこの二つは、認知する情報の種類にもとづいて、非常に異なる価値判断を示し、その結果、かなり異なる人格を示すことになります。
脳卒中によってひらめいたこと。
それは、右脳の意識の中核には、心の奥深くにある、静かで豊かな感覚と直接結びつく性質が存在しているんだ、という思い。
右脳は世界に対して、平和、愛、歓び、そして同情をけなげに表現し続けているのです。
これはもちろん、わたしに解離性人格障害の傾向があるという意味ではありません。
解離性人格障害は、わたしが経験したものよりずっと複雑なものです。
これまでは、右と左の脳の性質を判別することは、不可能ではなくとも難しかったといえるでしょう。
その理由は単に、わたしたちが自分自身を、ひとつの意識をもった一人の人間だとかんじているからです。
しかし、ごくわずかな糸口があれば、自分自身は難しいにしても、両親や親しい人の中になら、よく似た二つの脳の性質を見つけるのは簡単だと思うのです。
あなたが、左右それぞれの「キャラクター」に合った大脳半球の住み処を見つけてやれば、左右の個性は尊重され、世界の中でどのように生きていきたいのか、もっと主張できるようになります。
わたしは、そのお手伝いをしたいだけ。
頭蓋の内側にいるのは「誰」なのかをハッキリと理解することによって、バランスのとれた脳が、人生の過ごし方の道しるべとなるのです。
わたしたちは、頭の中に正反対の性格を抱え込んで、いつも苦労しているようです。
実際、わたしが話をしたことがある人は誰でも、自分の個性に相反する部分があることに敏感でした。
多くの人が、頭(=左脳)があることをしなさい、と伝えてくる一方で、心(=右脳)が全く反対のことをしろ、と伝えてくると話しています。
中には、考えること(=左脳)に対する、からだの本能的な意識(=右脳)について話す人もいます。
ちっちゃな自我(エゴ)の心(=左脳)と大きな自我の心(=右脳)を比べたり、あるいは小さな自己(=左脳)とホンモノの自己(=右脳)について話す人も。
ある人は、仕事の心(=左脳)と休暇の心(=右脳)のあいだに一線を引いています。
またある人は、研究室に閉じこもる心(=左脳)に対して社交的な心(=右脳)を引き合いに出します。
そしてもちろん、男性的な心(=左脳)に対する女性的な心(=右脳)というのもあります。
陽(=左脳)は陰(=右脳)と対になります。
もしあなたがカール・ユングのファンなら、そこには思考型の心(=左脳)に対する直観型の心(=右脳)があり、感情型の心(=左脳)に対して感覚型の心(=右脳)があるはずです。
(思考型と感情型は判断を下すので、左脳的で、直感型と感覚型は右脳的とされる)
二つの相反する存在を説明するのにどんな言葉を使おうとも、これは解剖学的に、頭の中にある二つのきわめて独特な大脳半球に起因するのだと、わたしは、経験上信じています。』
(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー)
これほど、左脳と右脳の働きが違う、ということは、両方の脳が同時に機能している通常の私たちには、想像できないことですが、
実際に、そのような稀なる体験をした人の報告は、私たちに多くの示唆や気づきを与えてくれるものと思います。
次回も、続きを見ていきたいと思います。
死の時が来て肉体を離れるとき
わたしだけを億念する者は誰でも
まっすぐにわたしの所に来る
ゆめゆめこのことを疑うな
(バガヴァッド・ギーター第8章5)
チャクラについて(27)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
前回、前々回と、ジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」よりご紹介していますが、
それまで働いていた脳の機能が停止したために、思いもよらぬ世界が展開されたのでした。
起きた現象を知ることで、私たちの脳がどのような感覚、意識、そしてそれらのプロセスを生み出しているのかを知る手掛かりになります。
ジル・ボルト・テイラー博士は、方向定位連合野という頭頂連合野が機能しなくなったために、前回ご紹介したような体験が起こるのですが、
頭頂連合野が機能しなくなると、空間認知の障害が起こり、物体間の距離、遠近、左右、上下の判断が困難となり、空間定位の障害や、歩きなれた街の道順が判らなくなる地誌的障害を起こすことが知られています。
ジル・ボルト・テイラー博士の体験は、「わたし」という個人として独立した存在であるという意識に、この頭頂葉の方向定位連合野が関与していることを示唆する興味深いものと言えます。
彼女の体験談の中に、その他にも多くの示唆的な現象が起きており、それは、私たちに、人間という存在を客観的に捉える別の視点を与えてくれることでしょう。
今回も、更に続きを見てみたいと思います。
『一日に何百万回も「かいふくするのよ」と意を新たにしなければなりませんでした。
挑戦するつもりはあるのか?
新しく発見した「エクスタシー」と形容できるほどの幸福と、一時的に別れを告げ、ふたたび外部の世界と向き合って、外部の世界を理解するつもりはあるか?
回復の苦しみに耐えるつもりはあるのか?
手術直後の情報処理のレベルでは、自分に苦痛を与えるものと快楽を与えるものとの違いが、ハッキリわかってきていました。
右脳の夢の国に出かけているときは魅惑的でステキなのですが、なんでも分析したがる左脳にかかわることは苦痛でした。
回復に向けて挑戦することは、よくよく考えた上で決めたことですが、有能で思いやりのある看護人に囲まれていることがとても大切でした。
独りだったら、正直言って面倒くさい努力なんてしなかったでしょう。
左脳が判断力を失っているあいだに見つけた、神のような喜びと安らぎと静けさに身を任せるのをやめて、回復への混沌とした道のりを選ぶためには、視点を「なぜ戻らなくちゃいけないの?」から、「どうやって、この静寂な場所にたどり着いたの?」へ帰る必要がありました。
この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。
涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。
このことに気づいてから、わたしの回復により、他の人々の人生も大きく変わるにちがいないと考え、ワクワクしました。
他の人々とは、脳障害からの回復途中の人々だけでなく、脳を持っている人なら誰でも!という意味です。
幸福で平和な人々があふれる世界を想像しました。
そして、回復するために受けるであろう、どんな苦難にも耐えてみせよう、という気持ちでいっぱいになりました。
わたしが脳卒中によって得た「新たな発見」(insight)は、こう言えるでしょう。
「頭の中ではほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。
そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」
わたしがすごく大切だと思ったのは、感情がからだにどのような影響を与えるか、ということ。
喜びというものは、からだの中の感覚だったのです。
平和も、からだの中の感覚でした。
新しい感情が引き起こされたのを感じる、興味深い体験をしました。
新しい感情がわたしを通って溢れ出し、わたしを解放するのを感じるんです。
こうした「感じる」体験に名称をつけるための新しい言葉を学ばなければなりませんでした。
そして最も注目すべきことは、「ある感じ」をつなぎ留めてからだの中に長く残しておくか、あるいはすぐに追い出してしまうかを選ぶ力をもっていることに、自分自身が気づいたこと。
何かを決めなきゃいけないときは、自分の中でどう感じたかを大切にしました。
怒りや苛立ちや恐怖といった不快な感情がからだの中に押し寄せたときには、不快な感じは嫌だから、そういった神経ループにつなぎたくないと伝える。
わたしは左脳を利用し、言語を通じて自分の脳に直接話しかけ、自分がしたいことをしたくないことを伝えられるようになったのです。
このことを知り、自分が決して以前のような性格に戻れないことに気づきました。
突然、自分がどう感じたいのか、どれくらい長く感じ続けていたいのか、前より口うるさくなったからです。
そして絶対に、過去の痛い感情の回路を復活させまいと心に決めました。
からだの中でどんなふうに感情を「感じる」のかに注意深くなると、完全なる回復の兆しが見えてきました。
自分の心が、脳の中で起きているすべてのことを分析するのを、8年かけて見守ってきました。
それぞれの新しい日々が、新しい挑戦と発見(insight)をもたらしてくれました。
古いファイルを回収すればするほど、むかしの感情のページが表面に現れ、その根底にある神経回路が好ましいかどうかを決める必要がありました。
感情の治療は遅々として進みませんでしたが、努力のしがいはありました。
左脳が回復するにつれ、自分の感情や環境を、他人や外部の出来事のせいにするほうが自然に思われてきました。
でも現実には、自分の脳以外には、誰もわたしに何かを感じさせる力など持っていないことを悟ったのです。
外界のいかなるものも、わたしの心の安らぎをとり去ることはできません。
それは自分次第なのです。
自分の人生に起こることを完全にコントロールすることはできないでしょう。
でも、自分の体験をどうとらえるかは、自分で決めるべきことなのです。
いろんな人から
「回復するのにどれくらいかかりましたか?」
と訊かれます。
わたしはいつも、月並みで申し訳ありませんが、
「何の回復ですか?」
と逆に質問することにしています。
もし回復を「古い脳内プログラムへのアクセス権の再取得」と定義するなら、わたしは一部しか回復していません。
どの感情的なプログラムを持ち続けたいのか、どんな感情的なプログラムは二度と動かしたくないのか(たとえば、短気、批判、不親切など)を決めるには、やきもきしました。
この世界で、どんな「わたし」とどのように過ごしたいかを選べるなんて、脳卒中は案てステキな贈り物をくれたのでしょう。
脳卒中の前は、自分なんて脳がつくりだした「結果」に過ぎず、どのように感じ、何を考えるかについては、ほとんど口出しできないんだと信じ込んでいました。
出血が起きてからは、心の目が開かれ、両耳の間で起きることについて、実際にはいろいろと選べることがわかってきました。
脳卒中から7年目、必要とする睡眠時間が11時間から9時間半に短縮されました。
それまでは夜の長い睡眠に加え、心地よい昼のうたた寝もしていたのですが、初めの7年の間に見ていた夢は、脳の中で起きていた奇妙な出来事を反映していました。
登場人物もストーリーも関係なく、脳はそれぞれ関係のないデータの小さな断片をスクロールしていたのです。
これは、脳が混乱した情報をつなぎ合わせて、ひとつの完全なイメージにまとめる状態を反映したものだと、わたしは推測しています。
夢で人々が登場する物語がはじまったことは、衝撃的でした。
初めの頃、そういう場面はバラバラで無意味なものばかり。
でも、7年目の終わりには、脳の中はひと晩じゅう騒がしくなり、目覚めの清々しさなんて感じないくらいでした。
そして8年をかけ、流体のように感じていたからだの感覚が、ようやく固体の感じに戻っていきました。
スラローム・ウォーター・スキーを定期的に始めました。
からだを限界まで使ったことが、脳とからだの結びつきを強化するのに役立ったようです。
からだの感覚が固体に戻ったのは嬉しいのですが、流体のように感じることが全くなくなってしまったのは残念。
わたしたちは宇宙とひとつなんだと思い出させてくれる能力を失ってしまったのです。』
(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー)
言語野である左脳の機能が回復したことで、右脳だけが感知できる「流体の世界」は消滅してしまった、ということですが、
それは、「流体の世界」が幻である、ということではありません。
右脳は、エネルギーの世界をキャッチしているのですが、
それよりも左脳に入力される言語(観念)の処理の方に、エネルギーを集中しなくてはならないので、右脳が感知している世界の感覚が、かき消されてしまうということなのでしょう。
私たちの右脳は、いつでも、エネルギーが流れる世界を感知しているのですが、
私たちは、通常は左脳が優位なため、脳全体が、言葉(観念)の処理に追われてしまい、
常に、頭の中で、あーだこーだという声がループしている状態であることが多いように感じます。
この頭の中の(左脳の)雑音をシャットアウトすると、右脳の働きが鮮明になり、感覚が優位となってきて、エネルギーの流れを感じることができるようになります。
多くの宗教的な気づき、哲学的・形而上的気づきは、この静かな脳の中で起こります。
そのためには、左脳の言語野のニューロンへの入力により生じる脳の混乱を静めることが重要であり、それが、「瞑想」が推奨される理由と言えます。
あなたは、エネルギーを感じたことがありますか?
もし、一度も無いなら、それは、いつも左脳が優位であるということを指します。
言語(言葉)は観念であり、観念は思考を生み、思考は脳の産物です。
この世界、この宇宙、そのものではありません。
この世を「言葉」で理解しようとせず、ダイレクトに知覚することが、存在の本質に近づく第一歩と言えます。
物質自然(プラクルティ)は絶え間なく変化するが
物質 霊界 神界を含む大宇宙は至上主(わたし)の体である
そして各個体の心臓に宿る至上我(たましい)は
その至上主であるわたし自身なのだ
(バガヴァッド・ギーター第8章4)
チャクラについて(26)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
前回ご紹介しました、脳卒中により左脳を損傷した脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士の自らの体験記である「奇跡の脳」から、
右脳のみで知覚する世界が、私たちが通常経験しているのと同じ世界とは思えないような世界であることが記述されていましたが、
それは、同時に、左脳と右脳それぞれが経験している世界は、かなり異なっていることを証明するかのような報告でした。
左脳と右脳の役割分担に関しては、まだ現段階では、仮設の域を出ず、不明な点が多いようですが、
一般的には、それぞれの脳の役割分担は、左脳は、言語の運用、数的計算、右脳は、空間認知、非言語的概念構成とされています。
それでは、左脳の障害により、世界に対する認知(認識)がどのように変化したか?を見てみましょう。
『わたしの意識は覚醒していました。
そして、流れのなかにいるのを感じています。
目に見える世界の全てが、混ざり合っていました。
そしてエネルギーを放つ全ての粒々(ピクセル)と共に、わたしたちの全てが群れをなしてひとつになり、流れています。
ものともののあいだの境界線はわかりません。
なぜなら、あらゆるものが同じようなエネルギーを放射していたから。
それはおそらく、眼鏡を外したり目薬をさしたとき、まわりの輪郭がぼやける感じに似ているのではないでしょうか。
この精神状態では、三次元を知覚できません。
ものが近くにあるのか遠くにあるのかもわからない。
もし、誰かが戸口に立っていても、その人が動くまで、その存在を判別できないのです。
特定の粒々のかたまりが動くことに特別な注意を向けないとダメだったのです。
そのうえ、色は色として脳に伝わりません。
色が区別できないのです。
自分をひとつの固体として感じていた今朝までは、わたしは、死や傷害により肉体を失うことや、心痛による感情的な損失を感じることができていました。
しかし、変容してしまった認知力では、肉体t的な喪失も感情的な喪失も、受け止められなくなってしまったのです。
周囲から分離していること、固体であることを体験する能力が失われてしまったせいで、神経が傷を負っているのに、忘れ得ぬ平穏の感覚が、わたしという存在のすみずみにまで浸透しています。
そして、静けさを感じました。
存在する全てと結ばれている感覚は幸せなものでしたが、自分がもはや正常な人間でないということに、わたしは身震いしました。
わたしたちはそれぞれ、全く同じ全体の一部であり、わたしたちの内にある生命エネルギーは宇宙の力を含んでいる。
そんな高まった認知力を持ちながら、いったいどうやって、人類のひとりとして存在できるでしょう?
怖い物知らずにこの地球を歩くとき、どうして社会に適合できるでしょう?
わたしは誰の基準においても、もはや正常ではありませんでした。
この特殊な状態で、重い精神の病に罹っていたのです。
そして、外界の知覚と外界との関係が神経回路の産物であることがわかったとき、それは自由を意味すると同時に挑戦でもあったのです。
わたしの人生の長い歳月のあいだ、わたしというものが自分の想像の産物にすぎなかったなんて!
左脳の時計係が店じまいしたことで、生活の時間的なリズムはゆっくりになり、カタツムリのペースに変わりました。
時間の感覚が変わったので、周囲の蜂の巣のように騒がしい音と映像が、同期しなくなっています。
意識はタイムワープのなかへ漂っていき、その結果、慣れ親しんだ、まともなペースでの社会とのコミュニケーションや、社会の中で自分の役割を果たすことも、不可能になりました。
わたしは今や、世界の「あいだ」の世界に存在しているのです。
もう、自分の外界にいる人たちとかかわることはできません。
しかしそれでも、生命が消えることはありませんでした。
わたしはまわりの人たちにとって異邦人だっただけでなく、内側では、自分にとっても異邦人でした。
あなたは、起きたことすべてをわたしがまだ憶えているのはどうしてだろう、と不思議に思うでしょうか。
わたしは精神的には障害をかかえましたが、意識は失わなかったのです。
人間の意識は、同時に進行する多数のプログラムによってつくられています。
そして、それぞれのプログラムが、三次元の世界でものごとを知覚する能力に新しい拡がりを加えるのです。
わたしは自我の中枢と、自分自身をあなたとは違う存在として見る左脳の意識を失いましたが、右脳の意識と、からだをつくり上げている細胞の意識は保っていたのです。
瞬間ごとに、自分が誰でどこに住んでいるか、といったことを思い出させるプログラムは、すでに機能していませんでしたが、他のプログラムが注意を保たせ、瞬時の情報を処理し続けていました。
いつもは右脳より優勢なはずの左脳が働かないので、脳の他の部分が目覚めたのです。
これまで抑制されていたプログラムは今や自由に機能し、それによって、知覚についての自分のこれまでの解釈に、もはや束縛されなくなりました。
左脳の意識と、自分の過去の性格から離れたことで、右脳の性格が新しく目覚め、表に現れてきたのです。
ここで、あなたの本来の能力が、(意識があるのに)系統的にむしり取られていくのがどんな感じがするものか、想像してみましょうよ。
まず第一に、耳を通って入ってくる音を理解する能力を失うと想像しましょう。
耳が聞こえないわけではありません。
あなたはただ、あらゆる音を無秩序な雑音として聞いてしまうのです。
第二に、目の前にあるなにかの物体の、もともとの形を見る能力がなくなると想像してみましょう。
目が見えないわけではありません。
単に、三次元的な拡がりを見ることができない、あるいは、色を識別できなくなるのです。
動いている物体の軌跡をたどったり、物体の間のハッキリした境界を判別する能力を失ってしまいます。
されに、これまでは何でもなかった匂いがとてもきつく感じられ、あなたは圧倒され、息をするのも辛くなります。
もはや、温度も振動も苦痛も、あるいはどこに手があって足があるのかすら知覚できなくなります。
あなたのエネルギーの存在は広がって、まわりのエネルギーと混ざり合います。
そして自分自身を、宇宙と同じように大きいと感じるのです。
自分が誰でどこに住んでいるかを思い出させる内側の小さい声も、聞こえなくなってゆきます。
あなたは、感情的な自分との古い記憶のつながりを失います。
そして、まさに今ここにある、豊かな瞬間に、心奪われてしまうのです。
あなたという生命力を含む全てのものが、純粋なエネルギーを放ちます。
子供のような好奇心で、あなたの心は舞い上がり、あなたの頭は、無上の幸福に充ちた海を泳ぐ、新しい方法を模索するのです。
そこで、自分に問いかけてみてください。
かっちりと決められた日常のくりかえしに戻ろうなんて、そんな気持ちになれると思う?』
(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー)
言葉(観念)を通さずに、世界を感覚で捉えると、こんな感じになるのかもしれませんね。
今回ご紹介した中で、特に注目すべき内容は、「エネルギー」について触れていることです。
エネルギー。
エネルギーの世界に一歩踏み込むと、それまでの世界とは全く別の世界が開けることを、「奇跡の脳」は示唆しています。
これが、第7チャクラ「サハスラーラ・チャクラ」を理解する鍵です。
次回も、もう少し、「奇跡の脳」が体験した驚きの世界を見ていきましょう。
至上の御方よ ブラフマンとは何か
そして真我とはどんなものか
また カルマとは 物質現象とは
いわゆる神界とはどんな所か 説明して下さい
供犠を受ける主は我らの肉体の中の
どの部分にどのようにして住んでいるのか
信仰を持ち修行や供犠をしている者が死ぬ時
あなたはどのようにして会って下さるのですか?
ブラフマンは不壊不滅にして
永遠無限の実在ーー
宇宙に遍満する大霊である そして
万有を生み出す創造(生命)エネルギーをカルマという
(バガヴァッド・ギーター第8章1-3)
チャクラについて(25)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
前回まで何回にもわたり、第6チャクラが位置する「脳」について、最新の脳科学の研究成果より、数々の驚きの新事実をご紹介してきました。
今回から、肉体にあるとされているチャクラの最後の第7チャクラ「サハスラーラ・チャクラ」について理解を深めるために、興味深い本をご紹介したいと思います。
頭頂にある「サハスラーラ・チャクラ」は、”この世とあの世をつなぐ門である”と、スワミ・ラーマも著書「聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の中で書いていますが、
それではあまりに抽象的な表現であるため、私たち一般人には理解し難い部分があると感じます。
そこで、私たちの理解向上のためのヒントとして、これからご紹介するのは、再び脳科学の分野から、
ジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」に書かれてある興味深い彼女自身の体験談です。
彼女は、37歳で脳卒中に倒れ、その後8年を経て「復活」。
左脳を損傷したために、言語野が働かなくなり、機能する右脳だけで生活する中で、それまで知覚していた世界からは想像もつかない驚きの体験をします。
その後、リハビリを重ねて、左脳の機能を回復させ、言語を取り戻した後、自らの体験を脳科学の視点から分析して発表し、
その内容は、世界に衝撃を与え、すぐに日本でも著書が紹介されたことから、すでにご存知の方もいらっしゃることでしょう。
それでは、左脳が機能しなくなると、どういうことが起きるのか?見ていきましょう。
『脳卒中の最初の日を、ほろ苦さとともに憶えています。
左の方向定位連合野が正常に働かないために、肉体の境界の知覚はもう、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなっていました。
魔法の壺から解放された、アラビアの精霊になったような感じ。
大きな鯨が静かな幸福感で一杯の海を泳いでいくかのように、魂のエネルギーが流れているように思えたのです。
肉体の境界がなくなってしまったことで、肉体的な存在として経験できる最高の喜びよりなお快く、素晴らしい至福の時がおとずれました。
意識はさわやかな静寂の流れにあり、もう決して、この巨大な魂をこの小さい細胞のかたまりのなかに戻すことなどできはしないのだと、わたしにはハッキリわかっていました。
至福の時への逃避は、外側に広がる世界と交わるたびに感じる、悲嘆と荒廃の重苦しい感覚への、唯一の対抗手段でした。
わたしは、正常な情報処理からかけ離れた、遠い空間に存在しているのです。
これまでの「わたし」は、神経が壊れた世界では生き残れなかったのです。
以前の、ジル・ボルト・テイラー博士なる人物は、今朝死んだのだ、と感じていました。
でもそうすると、残された(left)のは誰?あるいは、大脳の左半球がだめになった今となれば、誰が正しい(right)の?というべきでしょうか。
言語中枢は、「わたしはジル・ボルト・テイラー博士。神経解剖学者です。
この住所に住んでいて、この電話番号でつながります」と語ってくれません。
だからわたしは、もう”彼女”でいる義務を感じないのです。
それは本当に奇妙な知覚のズレで、彼女の好き嫌いを思い出させる感情回路もないし、重要な判断の傾向について思い出させてくれる自我の中枢もないので、わたしはもう、彼女のようには考えられないのです。
実際、生物学的な損傷の大きさを考えれば、ふたたび彼女に戻るなんて、ありえないことだったのです。
頭のなかの新しい視点からは、ジル・ボルト・テイラー博士はあの日の朝に死んで、もはや存在しません。
彼女の人生ーー人間関係、成功や失敗ーーを知らないのだから、わたしはもう、むかしに彼女が決めたことや、自ら招いた制約に縛られる必要はないのです。
わたしは左脳の死、そして、かつてわたしだった女性の死をとても悲しみはしましたが、同時に、大きく救われた気がしていました。
あのジル・ボルト・テイラーは、膨大なエネルギーを要するたくさんの怒りと、一生涯にわたる感情的な重荷を背負いながら育ってきました。
彼女は、仕事と自己主張についてはあくまで情熱的で、ダイナミックな人生を送ることにこだわり続けた女性です。
ですが、好ましく、そして称賛にも値する個性であっても、今のわたしは彼女の心に根を張っていた敵対心を受け継いではいません。
わたしは、兄と彼の病についても忘れ、両親と、両親の離婚についても忘れ、仕事と、ストレスの多い人生のすべてを忘れていました。
そして、この記憶の喪失によって、安堵と歓びを感じたのです。
わたしは、せっせと多くの物事を「やる」ことに打ち込みながら、37年の生涯を費やしてきました。
でもこの特別な日に、単純にここに「いる」意味を学んだのです。
左脳とその言語中枢を失うとともに、瞬間を壊して、連続した短い時間につないでくれる脳内時計も失いました。
瞬間、瞬間は泡のように消えるものではなくなり、端っこのないものになったのです。
ですから、何事も、そんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。
波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。
小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。
言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。
過去や未来に想像を巡らすことはできません。
なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。
わたしが知覚できる全てのものは、今、ここにあるもの。
それは、とっても美しい。
「自分であること」は変化しました。
周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。
ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。
もちろん、わたしは流れている!わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間のかなで振動する原子と分子からできているわけですから。
言語中枢のなかにある自我の中枢は、自己(セルフ)を個々の、そして固体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。
つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。
左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。
今ではその堅苦しい回路から解放されて、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。
もう孤独ではなく、淋しくもない。
魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。
自分を流れとして、あるいは、そこにある全てのエネルギーの流れに結ばれた、宇宙と同じ大きさの魂を持つものとして考えることは、わたしたちを不安にします。
しかしわたしの場合は、自分は固まりだという左脳の判断力がないため、自分についての認知は、本来の姿である「流れ」に戻ったのです。
わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。
わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でいっぱいになった嚢(ふくろ)として存在しています。
嚢なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。
しかし結局のところ、全ての粒子は、複雑なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。
あなたとわたしの全ての微塵(イオタ)を含み、そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原始的な物体とエネルギーでできている。
わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認識できませんでした。
それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。
視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした。
(わたしはこの粒々になった光景が、まるで印象派の点描画のようだと感じました)』
(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー)
言語を司る左脳が機能しなくなっただけで、こんなにも知覚する世界が変わってしまうことに驚きますが、
次回も、ジル・ボルト・テイラー博士の体験した「世界」と「わたし」についての驚きの報告を、引き続き見ていきたいと思います。
物欲 肉欲をすべて放棄した人
諸々の欲望から解放された人
偽我なく 所有感をもたぬ人
このような人だけが真の平安を得る
これが絶対真理(ブラフマン)と合一する道
ここに達すれば一切の迷妄(まよい)は消える
臨終の時においてすらここに到れば
必ずや無限光明の国に帰入する
(バガヴァッド・ギーター第2章71-72)