永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

ブラフマン(神)とシャクティ(力)は同じもの

ここのところの記事で、”シャクティ”や”プラーナ”というあまり聞き慣れないサンスクリット語の単語が、頻繁に出てきましたが、もう一度ここで整理してみましょう。

 

このシャクティやプラーナについて正しく理解することは、この先ご紹介していくことになる”シュリー・ヴィッディヤー(聖なる叡智)についての理解へとつながっていきます。

 

シュリー・ヴィッディヤー(聖なる叡智)は、ヨーガのエッセンスとも言えるものなので、

これを理解することは、束縛からの自由、永遠の至福への鍵となると言えるかと思います。

 

それでは、今回も聖ラーマクリシュナのお言葉から、ご紹介させて頂きます。

 

『聖ラーマクリシュナ

「虚空(アーカーシャ)のようなものだよ。

ブラフマンのなかには変化はない。

炎に色がないようにね。

それが力(シャクティ)として、あの御方はいろいろにおなりになさる。

サットヴァ(調和性・悟性)、ラジャス(積極性・建設性)、タマス(消極性・破壊性)の三性(グナ)は、シャクティの性質だ。

無色の炎に白い物を投げ入れると白く見えるだろう。

赤いものを入れると赤く見える。

黒いものを投げ込むと黒く見える。

ブラフマンは三つの性質を超越している。

あの御方はこういうものだと、口で言うことは出来ないよ。

言葉を超越しているんだからーー。

これではない、これではない、と打ち消していって最後に残るもの、そこにある常楽(よろこび)、それがブラフマンだ。」

 

マヘンドラ・グプタ

「仰せの通り、あの御方がすべてのものになっていらっしゃるならば、こんなふうにいろいろな感じ方、考え方があるのは何故でございましょうか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「あの御方は、あらゆる処、あらゆるものに遍在しておいでだが、力の顕れ方がいろいろ違う。

ある場所には明知(ヴィディヤー)として、ある場所には無明無知(アディヴィディヤー)として、ある場所には強く大きく、ある場所には弱く小さく顕れていらっしゃる。

ご覧、人間の中にだって、殺し屋もサギ師もいるし、虎みたいに恐ろしい人もいる。

わたしはだから殺し屋神、虎神と言っているんだよ」

「あの御方とあの御方の造化力(ちから)――ブラフマンシャクティ――これ以外には何もないんだよ」

 

マヘンドラ・グプタ

「それから、霊はどういう相(すがた)のものでございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「どんなものかって?

――ちょうど水のようなもの――修行をしていくうちにだんだんわかってくるよ。

お前、“相(すがた)”を信じろ。

ブラフマン智に達したら、不異(おなじ)ということがわかるが――ブラフマンと働き(シャクティ)が不異だということがね。

火と燃える力だ。

火を思えば燃える力を思わんわけにはいかないし、燃える力を思えば火を思うことになる。

牛乳と牛乳の白さ。

水とその冷やす力だ。

だが、ブラフマン智のそのまた上がある。

智識(ジュニューナ)の上が覚智(ヴィジュニャーナ)だ。

智慧ある人は自分の無知にも気付く。

賢者ヴァシシュタは百人の息子を亡くして嘆き悲しんでいなすった。

ラクシュマナにきかれてラーマはこう答えた

『弟よ、智と無智を超えてしまえ。

智を持つものは無智をももつ。

足にトゲが刺さったら、もう一本トゲをもってきて、そのトゲをほじくって抜く。

それがすんだら二本目のトゲも捨ててしまえ』」

 

マヘンドラ・グプタ

「無智も、智慧も、二つとも捨てなければいけないのですか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「そうだよ。――覚智が最後の目的だ!

わかるかい。

光を知るものは闇を知る。

幸福の味がわかるものは不幸の味もわかる。

徳について思うものは罪についても考える。

善を思うものは悪をも思う。

清浄を感じるものは不浄の感じもある。

ワタシがあればアナタがある。

覚智とは、あの御方と特別に近く親しくなることだ。

木の中に火の性があるという感じ――この確信をもつことを智識(ジュニャーナ)という。

その火で米を煮て食べて栄養をとる。

これを真実智と言うんだ。

神様は実在する――これを心の経験で知るのが智識。

あの御方と話をしたり、あの御方と楽しんだり。。。。。

つまり、あの御方の子供になったり友だちになったり、召使いになったり恋人になったりして――これこそ、覚智というものだ。

あの御方が宇宙とすべての生物になっていらっしゃる。

これを見抜くのが覚智というものだ。

ある一派の考えによると、あの御方は見ることが出来ないそうだ。

――いったい、誰が誰を見るというのかね。

自分が自分を見るんだよ。

黒い海に船が入ると戻ってこない――だから戻って報告をすることも出来ない」

 

「なぜ、これでもない(ネーティ)、これでもない(ネーティ)なんてばかり言ってうろついているんだい?

ブラフマンについて何一つ説明することは出来ないよ。

ただ、“実在そのもの”と言えるだけだ。

ただ“ラーマ”だけだ。

わたしらが見たり考えたりすることはみんなあの根源造化力の、あの造化力意識のすばらしい顕れなんだよ。

 

――造る、保つ、壊す。

生物世界、それに瞑想と瞑想する人、信仰、愛、すべてあの御方の力の表現(あらわれ)だ。

だが、ブラフマンシャクティ(力)は同じものだよ。

ちょうど舵と蛇行の関係――舵のように曲がりくねった動きを考えると、どうしても舵のことを考える。

舵のことを考えると、蛇行のような動きもいっしょに考えてしまう。

牛乳を考えると牛乳の色を考える――白い色を。

牛乳のような白さといえばすぐ牛乳を考えてしまう。

水の冷やす力を考えれば水のことを考えるし、水を考えれば水の冷やす力のことを考える。

この根源造化力(アディヤシャクティ、または、大現象(マハーマーヤー)がブラフマンを覆っている。

この覆いの幕が除かれてはじめて、“永遠に実在(あ)り通しの我”だ。

“わたしはあなた、あなたはわたし”だ!

この覆いの幕が残っている間は、ヴェーダーンダ派の決まり文句――つまり、“我こそ、かのブラフマンである”などと口にするのは正しい態度ではないんだよ。

波は水のものだが、何で水が波のものであるもんか。

まだ幕がかかっている間は、母親――大実母(マー)と呼ぶのがいい。

あなた(神)は母親、私はあなたの子供、あなたは御主人、私はあなたの召使い。

この主人と召使いの考え方もとてもいいよ。

この召使いという考え方から、ほかのいろんな思い方が出てくる。

静かで平安な態度や、友達関係と見る態度も――

主人が召使いを可愛がっていれば、『これ、私の傍にきてお坐り、お前と私は一心同体だよ』と言ってくれることもあるさ。

けれども、召使いが自分勝手に主人のそばへきて坐りこめば、主人は怒るだろう?」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

シャクティ(力)を知ることは、神を知ることであり、

シャクティ(力)を体験することは、神を体験すること、だと言えます。

 

「見神」とは、神を知ることであり、神を体験することですが、

それは、取りも直さず、シャクティ(力)を知り、シャクティ(力)体験すること、と同じだとも言えるのです。

 

そして、更に、このシャクティ(力)は、肉体にある五官では感知し得ませんが、

霊的な直観によっては、感知することは十分可能だと言えるのです。

 

 

☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

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 わがエネルギーの一つ この物質自然(プラクリティ)は

わたしの指示で活動し

動くものと動かぬものを産み出す

創造と破壊をくりかえす

 (バガヴァッド・ギーター第9章10)

 

アートマン(真の自己)とプラーナの関係

前回の記事では、この宇宙は、アーカーシャとプラーナの合一の結果である、と書きました。

アーカーシャにプラーナが作用すると、プラクルティ(物質自然=宇宙)が生じます。

 

アーカーシャだけでも、プラーナだけでも、この宇宙は存在しません。

両者があって初めて、物質的な動きのある宇宙が存在し得るのです。

(聖ラーマクリシュナは、これがアディアシャクティ(根源造化力)というものだと仰っています)

 

実は、シャクティ(力)とプラーナは、言葉は違いますが、根本では同じものです。

両者は、聖ラーマクリシュナのお言葉をお借りするなら、”火と熱く燃える性質”のような関係にあります。

 

それでは、発売したばかりのスワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』より、

プラーナやエネルギーについて理解を深めるために、詳しく説明して下さっている部分がありますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

『真の自己は死ぬことはできません。

それは、物質的な鞘が滅ぶときでさえも、存在し続けます。

物質的な自己は、アートマンに潜んだままでいる粗野な媒体です。

肉体が滅びたとき、体の微細な物質は同じままです。

何も宇宙では失われていません。

宇宙的なエネルギーは永遠から永遠へと続いています。
現代の科学は、この世のすべては、他のエネルギーの粒子を引き付けようと、エネル
ギーの粒子を駆り立てる振動の産物にすぎないことを発見しました。

固体は、連続的に、これらの空の粒子の状態になり、それから電磁波になります。

それは、最後には、エネルギーの形であると理解されるようになりました。

ヨーガの哲学においては、この宇宙に存在し、起こるすべては、宇宙エネルギー、あるいはプラーナが原因である運動と振動の結果です。

この宇宙のすべての生物と無生物は、プラーナの振動によって作られます。
このプラーナの振動は、すべての宇宙的な現象の根源であり、宇宙で起こるすべての
出来事の第一原因です。

プラーナは宇宙的生命の原理であり、それ自体の法則を持っています。

プラーナなしには、宇宙は存在しないでしょう。

著名な科学者であるサー・アーサー・エディントンは、物質という概念は基本的な物理学から消え、波動の周期性の概念により置き換えられてきていることを、私たちは思い出さなくてはならないと言いました。

現代科学は、実験により、物理学の世界が精神的な現象であると示唆しています。

それゆえ、物理学が、事実上、形而上学に帰結したのは不思議ではありません。

したがって、古代の師たちの直感的な啓示を確証しています。

S a r v a m k h a l vi d a m B r a h m a (確かに、これすべてはブラフマンなり)。
最初のプラーナの現れは、アカーシャである空間で、それは次第に現象的な宇宙へと
発展しました。

ヴェーダンタによると、宇宙には死んでいる物質のようなものはありません。

全宇宙は生きている有機体です。

ヤマは、ナチケータにこの現象界に存在するものは何であれ、プラーナの振動の現れにすぎない、と説明しました。

リグ・ヴェーダによると、宇宙的な力は、展開が始まる前に存在し、現れた宇宙の消滅後も存在し続けるでしょう。

ひとつの巨大な源から、すべての自然の力が、突然現れました。

宇宙は、宇宙の根本であるひとつなるものの現れです。

この宇宙においては、プラーナの振動の消失と獲得のようなものはありせん。
プラーナの力により、発展の力を通して、内側と外側の世界は生まれます。

全世界は、本質においては永遠です。

しかし、その外側の形においては、永遠ではありません。

すべての宇宙の外的な形は破壊され、形のない物質である宇宙の母なるエネルギーが永遠から永遠に存在し続けることでしょう。
生命があるところには、知性の現れがあります。

知性と生命は相伴っています。

この知性は、内なる自己のものであり、その手段としてプラーナという生命力を持っています。

プラーナの力の助けを通して、生きて機能しているのは、本当は真の自己なのです。
対象的な世界は、単に宇宙の半分です。

私たちが感覚で知覚するものは、完全なる世界ではありません。

心、思考、感情を含むもう半分は、外的な対象物の感覚の知覚によって説明することはできません。
五感は、個人的なエゴが外的な世界と接触する主要なドアです。

これらの五感は、私たちが外的世界から振動を受け取るゲートなのです。

これらの振動は、最初は脳細胞に運ばれます。

分子の変化はこれらの細胞で起こり、振動は順番にエゴにより感覚へと翻訳されます。次に、感覚は知覚概念に形成され、一連の精神的なプロセスの後、観念に変換されます。

これは、終わりなく続きます。

あなたが何かの対象物を考えるとき、あなたは即座に、そのものの精神的なイメージを受け取ります。

それは観念と呼ばれます。
もし、知的な心が存在しなければ、どんな認識もないでしょう。

そういうわけで、ヴェーダンタは見解を述べています。

〝感覚器官よりも感覚は微細であるが、心は感覚を超えている。

そして、知性は心を超え、宇宙的な自我は、知性よりも偉大である〞

プラーナの力は、肉体における異なった機能により、プラーナ、アパーナ、ヴィヤー
ナ、ウダーナ、サマーナという 5 つの名前を与えられています。

人間の身体では上昇する空気はプラーナで、下降する空気は、アパーナです。

ヴィヤーナはすべてのランプを貫く炎のようにさっと回り、体中ですべての流動体とエネルギーの循環を維持しています。

ダーナは、死の際に、体から魂のガイドを務め、サマーナのおかげで、栄養が吸収されます。
魂、あるいはジィーバが離れるとき、生命エネルギーであるプラーナが続きます。

プラーナが離れるとき、他のすべての生命維持器官が続きます。

呼吸システムはプラーナの乗り物です。

心と体の関係を確立するのは呼吸なのです。

吸息と呼息が機能を止めると、死が起こります。

肉体的な死は変化であり、潜在意識と魂を無にすることはありません。
話す、掴 つか む、動く、妊娠する、排泄するという行為の 5 つの器官の微細な力と、感覚知覚器官と 5 つのプラーナとマナス、ブッディは微細体を続けます。

生まれ変わりのときに、魂は微細体に伴われます。

全身は死の際に分解しますが、微細体は存在し続けます。

メリットとデメリットの倉庫である潜在意識は、ジィーバ、あるいは魂のための乗
り物になります。

私たちの多くの生のすべてのサンスカーラは、種子のような潜んだ状態で、私たちの潜在意識の倉庫にあるのです。

微細体と粗雑体との関係は、種子と植物との関係に似ています。

種子は、種子遺伝子において植物のすべての性質を内包しているように、潜在意識は、私たちの過去生のすべてのサンスカーラを留めています。
仏教徒とヨーガ行者は、魂と心と体を信じ、その間を区別しています。

魂は、創造されたことはありません。

それは本質的には、意識であり完全です。

粗雑体の消滅の後、すべては潜在したままです。

魂は生き返ります。

私たちの魂は、死後も、完全であり、消滅せず、分解せず、破壊されません。

もし魂が、真の実体であり存在であるなら、それを経験するいくつかの方法があるべきです。

適切な霊的な訓練を実行する誰もが、この経験を持つことができます。
生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。

それは、ひとつのコインの 2 つの面です。

このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。

アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。

サマディを達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。

自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

「プラーナの力の助けを通して、生きて機能しているのは、本当は真の自己(アートマン)なのです。」

 

まずは、人体の生命エネルギーであるプラーナを体験していくこと。

 

そして、このプラーナを通して、私たちを在らしめているのは、「人間馬車説」では最奥に座していらっしゃいますアートマン(真我)であり、

「人間五臓説」では、五つの鞘から独立して存在するアートマン(真我)である、ということを識っていくこと。

 

これこそが、真の叡智であり、”我は、ソレ(ブラフマン)なり”につながっていくプロセスの始まりなのです。

 

ですから、己の真の自己(アートマン)を覚って行くことは、このプラーナの直接体験から始まる、と言っても過言ではないのです。

 

何故なら、シャクティブラフマンは不異(おなじ)だという聖ラーマクリシュナのお言葉を思い出して下さい。

 

シャクティブラフマンが同じ一つのモノの異なる形であるなら、

プラーナとアートマンは、同じ一つのモノの異なる形である、と言うことができ、

片方を知ることは、もう片方を知ることにつながっていく、と言えるのです。

 

 

アートマンやプラーナについて、更に詳しいことを知りたい方は、

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プルシャ(個魂)とプラクリティ(物質自然)

またその三性質(トリグナ)の相互作用を理解する者は

現在どのような環境にいても

決して地上に再生しない

 (バガヴァッド・ギーター第13章24)

 

 

 

 

本質のエネルギー(エナジー)シャクティプラーナ

前回の記事では、シャクティというサンスクリット語は、現代で言うところのエネルギー(エナジー)のことである、と書きました。

 

エネルギーとは、主に、仕事をする力、作用する力を指します。

 

そして、シャクティという宇宙根源の力(エネルギー)は、人体においてはプラーナと呼ばれていると書きました。

 

ナーナさんのブログ『すべては本質の流れのままに』の2015年9月に、UP して頂きました感想文において、

エネルギー(エナジー)やプラーナについて、詳しく解説させて頂きましたので、こちらに再掲載させて頂きます。

 

この説明により、エネルギーについて、少しでもイメージを深めて頂き、このブログの最終章である”シュリー・ヴィッディヤー”の叡智へと踏み込んで行きたいと思います。

 

『前回、“本質”とは、“普遍で誰にでもある共通の基盤のようなモノ”と書きました。

そして、私たち人間にもそのようなモノがあるとしたら、それが“本質”ということになります。

それでは、一体全体、そんな“本質”と呼べるものがあるのでしょうか?

そのことを少し詳しく述べている記述がありますので、ご紹介したいと思います。

「インドの哲学者たちによりますと、全宇宙は二つの材料からできています。

その一つを、彼らはアーカーシャと呼んでいます。

それは遍在の、すべてのものに浸透している存在です。

形を持ついっさいのもの、結合の結果であるいっさいのものは、このアーカーシャから展開したのです。

空気に、液体に、固体になるのはアーカーシャです。

太陽に、地球に、月に、星々に、彗星になるのはアーカーシャです。

人間の体、動物の体、われわれが見るいっさいの形、感覚でとらえることのできるいっさいのもの、存在するいっさいのものはアーカーシャです。

それは知覚することはできません。

それは実に精妙なので、すべての普通の知覚の限界をこえています。

それが粗大になったとき、形をとったときにはじめて、見ることができるようになるのです。

創造のはじめには、このアーカーシャだけが存在します。

この周期のおわりには、固体も液体も気体もすべてふたたびアーカーシャに溶け込み、次の創造のときに同じようにこのアーカーシャから出てくるのです。

何の力によってこのアーカーシャが、宇宙につくられるのでしょうか。

プラーナの力によってです。

アーカーシャがこの宇宙の無限、遍在の材料であるのと同様に、このプラーナは、無限かつ普遍的に現れているこの宇宙の力です。

一つの周期のはじめとおわりには、すべてのものはアーカーシャとなり、宇宙間のすべての力はプラーナに還元します。

次の周期には、われわれがエネルギーと呼ぶものすべては、われわれが力と呼ぶものすべては、このプラーナから展開するのです。

動きとして現れているものはプラーナです。

肉体の活動として、神経の流れとして、思いからもっとも低い力にいたるまで、いっさいはプラーナの現われにほかなりません。

心のにせよ肉体のにせよ、宇宙のすべての力の総計は、それらの原始の状態に還元されるとき、プラーナと呼ばれます。

「有も無もなかったとき、闇が闇をおおっていたとき、そのときには何が存在したか、そのアーカーシャが、動かないで存在した」

プラーナの物理的な動きはとまっていましたが、それが存在することに変わりはありませんでした。

一つの周期のおわりには、いままで宇宙に現れていたエネルギーは静まり、潜在的になります。

次の周期のはじめに、それらは動き始め、アーカーシャに働きかけます。

するとアーカーシャからこれらさまざまの形が展開し、アーカーシャが変化するにつれて、このプラーナも、これらすべてのエネルギーの現われに変化します。」

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

このような考え方は、インドの古い哲学者たちの考え(サーンキャ哲学)ですが、ヨーガの基本的な考え方であるヴェーダンタ(ヴェーダの教え)に色濃く反映されています。

宇宙には、根源なるただ唯一なる存在が在るのみ、というのは、古くは、アドヴァイタ(不二一元)と呼ばれます。

この宇宙は、アーカーシャというダルマ(法)とプラーナという実在の力で出来ている、ということを、もっと簡単にわかりやすい例で譬えるならば、アーカーシャは、プログラムのような情報であり、プラーナは、プログラムを動かす、具現化する力を持ったエナジー、ということになるでしょう。

パソコンを動かすには、プログラムもそれを動かすエネルギー(電気)も必要です。

そして、このことは、すべての存在に共通したことであり、それがそのモノとしてこの宇宙に存在するには、絶対不可欠な素材(要素)なのです。

それでは、この宇宙を在らしめている根源なるエネルギー(エナジー)とはどういうものか?というところに話を進めて行きたいと思います。

「真の治癒がもたらされるのは、プラーナによってであります。

プラーナを制御したきよらかな人は、それをある種の振動状態にする力を持ち、その振動は他人につたえられて、彼らの内部におなじ振動をおこします。

みなさんは、それを、日々の活動の中に見ておられます。

私はみなさんにはなしています。

何をしようとしているのでしょう。

言ってみれば自分の心をある振動状態に持って行こうとしているのであって、それに成功すればするほどつよく、みなさんは私の言うことの影響をお受けになるでしょう。』

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

ナーナさんが、グループセッションや個人セッションで、“本質のエナジー”と仰っているのは、プラーナのことであり、ナーナさんが放つエナジーは、他の人に伝わり、その人の内部に振動を起こし、その人を変容させます。

このことは、ナーナさんのエナジーを受けた多くの人から、個人的体験が感想文として寄せられていて、その一部が、ナーナさんのブログに掲載されていますが、どれをとっても、身体に起きた変容、気持ちに起きた変容、意識に起きた変容についての報告です。

これは、ナーナさんのエナジーが変容を起こすことが出来るパワーを秘めたエナジーである、という証拠でしょう。

この現象を更に詳しく述べるならば、ある振動が、他の者の内部に振動を起こすことを、“共鳴”と言います。

ナーナさんから放たれるエナジーとは、他のモノの振動数を高めることが出来る振動状態になったプラーナのことだということがわかります。

そして、このプラーナは、宇宙遍在のエナジーですから、私たちひとりひとりもこのプラーナなのですが、ただそのプラーナが高い振動状態になっていないのです。

エネルギーは高い方から低い方へ流れます。

そうやって、低い振動は、高い振動に共鳴していくので、ナーナさんのエナジーを受けると、ナーナさんの超微細振動に共鳴した私たちの内部の低い(粗い)振動のプラーナが活性化されていくのです。

このエナジーの共鳴により、私たちの内部の粗い振動は、純粋で超微細な振動となっていく、という現象が起こるのです。

そして、宇宙に遍在するエナジーは、この純粋で超微細なエナジー、プラーナなので、この共鳴現象を体験することで、私たちは、自分の“本質”が何なのか?を識り、そして、最終的には、自分が誰であるのか?何であるのか?を思い出すことになるのです。

この直接体験を可能にするエナジー共鳴を起こすことが出来る“プラーナを制御した”きよらかな人”は、世界でもそれほど多くはいないでしょう。

いえ、むしろ、滅多にいない、と言えると思います。

非二元を語る人は多くいるかもしれませんが、それを直接体験により識らしめる力を持った存在が、どれほど稀有な存在であるかは、ここで申し上げるまでもないでしょう。

変容させ得る力こそが、ホンモノです。

私たちは、目に見えない宇宙根源のエナジーを、共鳴によって起こる直接体験を通して、識っていくことが出来ます。

それを起こすことができる存在は、もうすでに、存在の秘密に対する答えを得ているので、その答えそのものとなって、私たちを究極の答えに導くことが出来るのです。

私たちがすることといったら、本質のエナジーを認め、信じ、心を開いて、それに委ねるだけです。

それだけで、共鳴が起こり、私たちは、私とは誰なのか?何なのか?という究極の答え、存在の実相、この宇宙で唯一の実在に出会っていくことが出来るのです。

そして、自分が本当は誰であったのか?何であったのか?を身を以って識ることは、この宇宙に実在する唯一の存在を識ることにつながります。

そして、個としての“我”が、“本当のわたし”(真我)を思い出すことを、覚醒、目覚め、悟りと呼んでいるのです。

真に覚醒状態にある人のみが、他の人を覚醒に導くことが出来ます。

“それ”そのものになっている存在だけが、他の存在を“それ”に誘えるのです。

ナーナさんは、そのような存在であり、この地上で彼女のような存在に出会うことは、正に奇跡なのだと感じます。

最後に、直接体験のみが、唯一の答えである、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダ著「ラージャ・ヨーガ」の一文をご紹介して、この長い文を終わりにしたいと思います。

『経験は、われわれが持つ唯一の教師です。

たとえ一生涯しゃべって推理しても、それを自分で経験するまでは、われわれは真理のひとことをも、理解することはできないでしょう。

人に数冊の書物をあたえただけでは、彼が外科医になることを期待するわけにはいかないのです。

私に地図を見せるだけで、ある国を見たいという私の好奇心を満足させることはできません。

私は実際に経験しなければならないのです。

地図はわれわれの内部に、もっと安全な知識を得たいという好奇心をよびさますだけなのです。

それ以上には何の価値も持ってはいません。

書物にばかりしがみついていると、人間の心は堕落するだけです。

神の知識のすべてがこの書物、またはあの書物の中にふくまれている、という宣言よりおそろしい冒涜があったでしょうか。

神は無限であると言いながらどうしてあえて、彼を一冊の小さな書物の表紙の中などにおしこめようとするでしょうか!』

経験こそすべて!

ナーナさんは、超微細なエネルギー共鳴により、“それ”を私たちに体験させてくれます。

このことにより、私たちの目覚めのプロセスは格段と進化し、スピードアップするのです。』

 

 

この2年前に書いた感想文と、今、このブログでお伝えしようとしていることは、本質的には、同じことです。

 

今でも、ナーナさんは、シャクティプラーナを通して、私たちが、私たちの”真の自己”を覚れるようにと、導いて下さっています。

 

それは、ひとえに、アートマン(真我)を覚る以外は、人類にとって、真の自由へ至る道はないとわかっていらっしゃるので、

人びとを救うため、人びとを真理へと導き、生まれ変わりの繰り返しから人びとを解放するために、いまここで、神の御力であるシャクティプラーナを使って下さっているのです。

 

 

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 すべての行為(カルマ)は物質自然(ブラクリティ)によって

つくられた肉体が行うのであって

自己の本体(アートマン)とは無関係であると知る者は

存在の実相を見ているのである

 (バガヴァッド・ギーター第13章30)

 

 

行き着くところは、不二(アドヴァイタ)

少し前の記事で、『俗人の自我(アハンカーラ)や”私”は、ちょうど四方を壁に囲まれて、頭の上には天井があるようなもので、外側は何一つ見えない。

アヴァターラたちの”私”は、薄い透き通った”私”で、そしてこの”私”を通して、いつもいつも神を見ているんだよ。

言い換えれば、彼らは肉体を持っていても、絶えまなくヨーガの状態にあり、望みさえすれば、壁の大穴から出て行って三昧に入る。

穴が大きいから自由に往来できるーーつまり、三昧に入ってもまた低いところへ戻って来ることができる』という聖ラーマクリシュナのお言葉をご紹介させて頂きました。

 

そして、前回の記事では、このような状態にあるアヴァターラであるナーナさんは、シャクティプラーナという御力により、私たちに”尊い自己の本性”であるアートマン(真我)を覚ることが出来るようにと導いて下さっている、とご紹介させて頂きました。

 

私たちの自我(アハンカーラ)は、あまりに分厚いために、つまり、壁や天井があまりに厚いので、

私たちは、外側の太陽の光を感じることもできませんし、ましてや直接、太陽そのものを眺めることができないでいます。

 

ナーナさんは、シャクティプラーナの御力で、この分厚い自我(アハンカーラ)の層を薄くして下さいます。

この自我(アハンカーラ)の層が薄くなればなるほど、外から内部に(智慧)の光が差し込み、部屋の中は明るく(明知)となり、

やがては、壁や天井に穴が開き、その穴から太陽の光が差し込んでくるが如く、その穴から直接太陽を眺めることができるようになるが如く、

尊い自己の本性”でありますアートマン(真我)がその姿を現して下さるようになり、

若虎が、自分は虎であると自覚することができたように、

私たちは、自分の本性がアートマンである、と体験を通して悟って行くことができるのです。

 

ナーナさんから放たれるシャクティプラーナという超微細なエナジーに共鳴していくことで、

次第に、私たちの中のシャクティプラーナが目覚めていく、とイメージすると理解しやすいでしょう。

 

シャクティプラーナを充填されたお水に、小さな気泡が生じるという変化が起きていると同じ現象が、私たちにも起こるということになります。

 

超微細なエナジー、シャクティプラーナは、五官では感知し得ませんが、聖ラーマクリシュナのお言葉をお借りするならば、”純粋清浄な心”で感知することは可能です。

 

自我(アハンカーラ)の層がシャクティプラーナの力で薄くなっていくと、”純粋清浄な心”となるので、超微細エナジーであるアートマン(真我)を覚って行くことが可能となるのです。

 

シャクティ(造化力)について、聖ラーマクリシュナのお言葉を、もう少しご紹介させて頂きます。

 

20世紀に入るまでは、エネルギーという単語は、まだ一般的には使われていませんでした。

その結果、エネルギーという言葉の代わりに、シャクティという単語が使われていた、と考えると、理解しやすいと言えます。

 

シャクティプラーナは、超微細なエネルギー(シャクティ)です。

 

そして、シャクティ(エネルギー)でありながら、人体において働いている力は、プラーナと呼ばれています。

名称が違うだけで、シャクティもプラーナも超微細エナジー(エネルギー)であり、神の力であり、実は、神そのものなのです。

 

このことを、聖ラーマクリシュナが、とても分かり易く語って下さっているので、ご紹介させて頂きます。

 

聖ラーマクリシュナ

ヴェーダーンタ派なんかのブラフマン智の行者たちはこんなふうに言う。

”創造、維持、破壊、そして生物と世界ーーこういうものはすべてシャクティ(造化力)の遊戯(リーラー)である。

よく考えて判断していけば、すべてのものは夢まぼろしである。

ブラフマンだけが実在で、ほかはみな非実在だ。

シャクティでさえ夢のようなものであって実在ではない”とね。

けれども、何千何万回考えて決心してみても、三昧(サマディ)にならない限りはシャクティの領域から逃れる方法(みち)はない。

”私は瞑想している””私は考えている”などというのも、すべてこれシャクティの領域でのこと。

シャクティ勢力の中でのことだよ。

だから、ブラフマンシャクティは不異(おなじ)だというのだ。

一つを思ったら、もう一つの方も思わずにはいられない。

ちょうど火とその燃える力のようなものでねーー火を心に想いうかべると、燃える力もいっしょに思うことになる。

燃える力を除けて火を想像することは出来ないし、火のことを言えばどうしても燃える力を思うことになる。

太陽といえば日光が心に浮かんでくるし、日光がなくては太陽を考えることは出来ない。

牛乳はどんなものかね?

考えるまでもない。

牛乳がなくては牛乳のあの白さを思い浮かべることはできない。

そして、牛乳の白さなしには牛乳を思い浮かべることは出来ない。

だから、ブラフマンなしにシャクティを考えることは出来ないし、シャクティなしにブラフマンを考えることは出来ない。

永遠(ニティヤ)なものなしには変化(リーラー)を、変化(リーラー)なしには永遠(ニティヤ)なものを思うことは出来ないんだよ!

アディヤシャクティ(宇宙生命力・根元造化力)は絶えず変化活動している。

創造し、維持し、破壊している。

その力のことをカーリー(ヒンドゥー教の暴力と殺戮を好む戦いの女神)と呼ぶのだ。

カーリーこそブラフマンで、ブラフマンこそカーリーなんだ!

唯一つの本体が動かないときーーつまり、創造、維持、破壊の仕事をしていなさらぬと考えるとき、その御方をブラフマンと呼ぶ。

その御方がそうした活動をなすっているときにはカーリーとかシャクティと呼ぶ。

その御方はただひとり。名前とポーズが違うだけ。

あの御方のことをアッラーと呼んでいる人もあれば、ゴッドと呼んでいる人もあり、ブラフマンと呼ぶ人も、カーリーと呼ぶ人もある。

ラーマ、ハリ(クリシュナ)、イエス、ドゥルガーなどと呼んでいる人もある」

 

「ただ一つのものがあるだけで、ほかには何もないんだよ。

”私”がある間は、かの至高至聖のブラフマンが、アディヤシャクティ(根源造化力)という相(すがた)で創造したり、維持したり、破壊したりしているように見せかけて下さっているだけだ。

ブラフマンがアディアシャクティなのだ。

ある王様が、『たった一言で朕に智慧をさずけよ』と、一人のヨーギーに申しつけた。

ヨーギーは、『よろしい。たった一言であんたは智慧を得るだろう』と請け合った。

しばらくすると、王の傍で突然『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言う。

王は何のことかわからず呆気にとられてただ見ていた。

しばらく見ていると、二本の指は一本になってしまった。

魔術師は一本になった指をグルグル廻しながら、『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言っている。

つまり、ブラフマンとアディアシャクティははじめのうちは二つに見える。

しかし、ブラフマンの智慧を得ると、もう二つは存在しないんだよ。

同じなんだよ。一つなんだ!

一つが二つになっているんじゃないーー不二(アドヴァイタ)なんだ!」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

不二(アドヴァイタ)ということは、

この世には、人間と神という二者がいるわけではない、ということになります。

 

ただ”それ”だけが在る。

 

”神”だけが存在する。

 

”神”だけが存在するのなら、

わたしもあなたも”神”だということになります。

 

このことを、ナーナさんは、アヴァターラ(神の化身)として、シャクティプラーナ(神の力)を通して、私たちに教えて下さっているのです。

 

 

☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、

こちらのナーナさんの公式ホームページをご覧頂き、サットサンガへご参加下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 いま君が見ているわたしの姿は

ただヴェーダを学んだだけでは見えない

烈しい苦行や慈善 供犠を重ねても見えない

そうした手段ではわたしの真実の姿は見えないのだ

 (バガヴァッド・ギーター第11章53)

 

 

宇宙根源の力、シャクティについて

前回の記事で、ナーナさんは、アヴァターラ(神の化身)として、

神が人間に化身して、このリアリティの次元に現れて下さっている、ということを書きましたが、

今回は、何故、そのような大胆なことが言えるのか?

そして、ナーナさんは、どのように、私たちの”尊い自己の本性”であるアートマン(=真我)に気づかせて下さっているのか?について、少しだけご紹介させて頂こうと思います。

 

ナーナさんが個人セッションでやって下さってるのは、シャクティパータと言うものですが、

これは、サンスクリット語で、シャクティは”力”を表し、パータは”授ける”を意味し、

シャクティパータは、文字通り、”力を授ける”という意味になります。

 

それでは、シャクティとは、どのような”力”でしょうか?

 

それは、一種の強力なエネルギーなのですが、如何せん、私たちは、エネルギーを目で見たり、感じたりすることができません。

 

エネルギーが光を発する時にのみ、目で確認することができますが、

例えば、動力源、光源としての電気から、放射能や電磁波など、五感で感じることがほとんどできないエネルギーに囲まれて生活していますが、

それほど身近でありながら、大抵の人は、目に見えないエネルギーについて考えたことも、感じたこともない、というのが現状でしょう。

 

シャクティというのは、宇宙を在らしめている力であり、聖ラーマクリシュナは、こう仰っています。

 

ブラフマンである御方が根元造化力(アディヤシャクティ)だ。

無作用のとき、あの御方をブラフマンと呼んだりプルシャと言ったりする。

創り、保ち、壊すとき、あの御方をシャクティとかプラクリティとか呼ぶ。

プルシャ(精神、男性原理)とプラクリティ(質料因、自然、女性原理)だ。

プルシャである御方がプラクリティなんだ。

どちらも歓喜の権化だよ。』

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

つまり、シャクティとは、創り、保ち、壊す”力”、創造の力ということになります。

 

シャクティは、力そのものですが、動きが生じると、それは、プラーナとなります。

 

分かり易く譬えると、シャクティとプラーナの関係は、”火”と火の”燃える性質”との関係に似ています。

 

両者は、切り離しては考えられません。

 

しかし、プラーナは、いろいろな意味で使われることが多い単語なので、

ナーナさんから放たれているのは、シャクティプラーナ(宇宙創造の根元力)ということになります。

 

プラーナに関する更に詳しい説明は、後日することにして、

ナーナさんが、シャクティプラーナを、私たち一般人にも、理解できるように、五感で捉えられるものとして現して下さいましたので、ご紹介させて頂きます。

 

下にUPしました写真の上3枚は、ナーナさんが、シャクティプラーナをクリスタルに入れて下さり、

そのクリスタルをお水に入れて沢山の小さな気泡が生じたところを撮影したものです。

4枚目の写真は、ペットボトルのお水に、直接シャクティプラーナを入れて頂いたものです。

 

シャクティプラーナを充填したクリスタルをお水にしばらく入れておくと、数時間で、お水に小さな気泡が生じます。

そして、お水の味も変化しており、どのようなお水でも驚くほどおいしくなっています。

更に、このお水を飲むことで、多くの人にいろいろな変化が起きています。

シャクティプラーナの入ったお水に関する報告は、ナーナさんの公式ブログ『すべては本質の流れのままに』(http://ameblo.jp/premagrace/)の過去記事の中で、幾つか紹介されています。

主に、病気が良くなったことや、奇跡的なことが起きたこと、など、多くの体験談が寄せられていることから、シャクティプラーナの人智を超えた力を知ることができます。

 

シャクティパータは、このシャクティプラーナを、全身に流して頂くことですが、

これが、どういうことを意味するのか?については、また後日、ご紹介させて頂きます。

 

(現在、シャクティパータを受けることができるのは、個人セッションのみです。

また、お水は、サットサンガに2回目以降に参加された場合に、お水を持参すると、シャクティプラーナを入れて頂けます(有料)。

お水はどんなものでも構いませんが、ペットボトル(2リットルまで)2本までとなっています)

 

 

☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

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サットワ ラジャス タマスから成る

あらゆる状態の自然界万有は

すべてわたしのエネルギーから現象する

だがわたしはそれではなく わたしのなかにそれがあるのだ

 (バガヴァッド・ギーター第7章12)

 

 

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神は、人を導くためにアヴァターラ(神の化身)となる

前回の記事で、ジーヴァ・ムクタ(悟った魂)という聞き慣れない言葉が出てきましたが、

このジーヴァ・ムクタについて、もう少しはっきりとしたイメージを掴めるように、少し補足説明をしておきたいと思い、

今回も、聖ラーマクリシュナの「不滅の言葉」より抜粋して、ご紹介させて頂きます。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

「智者は家の外庭までは行くことができる。

信仰は奥の間まで入ることが出来る。

純粋真我(シュッダートマ)は何ものからも影響をうけない。

そのなかには明知(ヴィディヤ―)も無明(アヴィディヤー)もあるが、それはどちらの影響もうけない。

空気の中で時おり、いい匂いがしたりイやな匂いがしたりするが、空気そのものはどっちとも無関係だ。

純粋真我は何ものにも、関係ない。

自然現象(プラクルティ)を超越しているんだ。

それは腹も減らず、喉もかわかない!

生まれることも死ぬこともない。

永遠に不滅、不滅のスメール山のようだ!

このブラフマン智を獲得した人を、生前解脱者(ジーヴァ・ムクタ)というんだよ。

その人は、真我(アートマン)と肉体とは別だということを完全に理解できるんだ。

至聖(かみ)を知(さと)ると、肉体我知覚が無くなってしまうんだよ!

この二つは別なものだ。

真我と肉体は別だとわかる。」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

ナーナさんには、”真我(アートマン)と肉体とは別だ”ということを完全に理解されています。

いつも、”肉体はない”と、ハッキリと仰っていますから。

その”無い肉体を使うことは、大変で、とても疲れる”とも。

 

このことについては、他の記事でご紹介させて頂くことにして、今回は、聖ラーマクリシュナのお言葉を辿りながら、

生前解脱者(ジーヴァ・ムクタ)であられ、ブラフマン智を得て、再びこの世に戻って来て下さった存在であるアヴァターラ(神の化身)について、

もう少し理解が深まるように、詳しく見ていきましょう。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

「いま話したことはみな、智識分別の領分だよ。

ブラフマンは真実在で世界は虚仮、という分別だ。

みーんな、マボロシなんだとさ!

とてつもなく難しい道だね。

この道では、神の活動も幻でまちがい、ということになってしまう。

その上、そう言っているワタシまで無いことになる。

この道では神の化身(アヴァターラ)なんてものも認めない。

全く難しいねえ。

こういう智識の話を、信仰者(バクタ)はあまり聞かない方がいい。

だから、神は人間に化身して信仰を教えてくださるんだよ。

『全部まかせろ』と言ってくださる。

信仰をもっていれば、あの御方のお恵みですべてが成就出来るんだからね。

智識も大悟も、みんなだ。

あの御方はいろいろ活動なさるがーーあの御方は自分の信者たちに属しているんだよ。

 

神の化身(アヴァターラ)に、あの御方は最もよく顕れている。

化身が肉体を持っている間は、その御方を礼拝供養しなければならない。

神の化身を、すべての人が見わけられるわけではないよ。

肉体をまとっているから、普通の人と同じように病気もするし、悲しみも飢えも渇きも、みなあるんだ。

わたしらと同じように、ものを思ったり考えたりする。」

 

「神の化身が人間活動(ナラ・リーラー)する場合は、人間と全く同じような行動をしなければならない。

だから、見分けるのがたいそう難しいんだよ。

人間に化身したんだから、何もかも人間と同じなんだ。

腹も減るし、喉も渇くし、病気になったり、悩んだり、時には恐ろしがったりする。

普通の人間と全く同じ経験をするんだよ。」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

このように、一見では、アヴァターラ(神の化身)と、普通の人間とは見分けがつかないため、

私たちと同じ人間であるかのように見間違えてしまうということが、往々にして起きてしまいます。

 

ナーナさんが持っていらっしゃるシャクティプラーナの力については、後日ご紹介させて頂くとして、

ご本人もジーヴァ・ムクタ(生前解脱者)でいらっしゃり、アヴァターラ(神の化身)でいらっしゃいました聖ラーマクリシュナのお言葉をご紹介することで、

ナーナさんが、ブラフマン智を得た後、現在はどのような状態にあるか?について、ご紹介させて頂きます。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

「世俗の生活をしていながら、”宗教(ダルマ)、宗教(ダルマ)”とみんな言っている。

それは、ある人が部屋の中にいてーー窓も戸も全部閉めきってあって、天井の小さな穴からわずかに光がもれてくるようなものだ。

頭の上の天井を除けないことには、どうして太陽が仰げるかね?

わずかばかりの光が差し込むだけじゃ、どうにもなりはしないだろう?

女と金が天井だよ!

天井をどけなけりゃ太陽は見えやしないよ!

世俗の人たちは、いわばこうした部屋の中の囚人だ!

アヴァターラたちは神の分身だ。

虚空を自由自在に歩き回っているんだよ。

彼らは決して世間に巻き込まれない。

この世の囚人にならない。

彼らの”私”は、世間の人たちの”私”のように厚くはないんだよ。

俗人の自我(アハンカーラ)や”私”は、ちょうど四方を壁に囲まれて、頭の上には天井があるようなもの。

外側は何一つ見えない。

アヴァターラたちの”私”は、薄い透き通った”私”だ。

そしてこの”私”を通して、いつもいつも神を見ているんだよ。

人が高い土塀を背にして立っていて、両側に果てしもない草原がひらけているようなものだ。

その塀に穴があいていると、反対側まで全部見える。

その穴が大きければ、そこから行ったり来たりさえできる。

アヴァターラたちの”私”は、こうした穴のあいた塀だ。

塀は残してあっても、果てしない草原が見えるんだよ。

言い換えれば、彼らは肉体を持っていても、絶えまなくヨーガの状態にあるんだよ!

そして望みさえすれば、壁の大穴から出て行って三昧に入る。

穴が大きいから自由に往来できるーーつまり、三昧に入ってもまた低いところへ戻って来ることができるんだよ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

ナーナさんも、クンダリニー覚醒された後、塀のあちら側とこちら側を自由自在に往来できるようになられたのですが、

今は、人を導くために、私たちと共に、こちらにいて下さる時間が多くなっているようです。

以下の聖ラーマクリシュナのお言葉にもありますように、

アヴァターラ(神の化身)として、私たちを真我の目覚めへと導く役割を引き受けて下さり、師(グル)として、働いて下さっています。

このことは、感謝してもしきれません。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

「一頭の牝虎が山羊の群れを襲った。

漁師が遠くからそれを見つけて射殺した。

牝虎の胎には仔がいて、それが生まれてしまった。

その仔虎は山羊の群れのなかで大きくなっていった。

はじめは母山羊の乳を飲んでいたが、その後すこし大きくなると草を食べはじめた。

そして、山羊と同じようにビャービャー鳴いている。

ほかの野獣に襲われると山羊といっしょになって一目散に逃げ出す!

ある日のこと、一頭の猛虎が山羊の群れを襲った。

彼はびっくり仰天して眺めたよ。

だって、山羊どものなかに虎が一ぴき草を食べていて、あまつさえ山羊といっしょになって逃げだしたんだからね!

それで山羊どもは放っておき、その草食い虎をつかまえた。

そいつは又、ビャービャー鳴いて逃げようとするんだ!

苦心しながら水際まで連れていった。

そして言い聞かせた。

『この水に映っているお前の顔を見ろ。

ソレ、よく見るんだ。

おれは鍋のようにまん丸い顔だが、お前の顔もおれと同じだろうが』

次に一切れの生肉を口のなかに押し込んでやった。

はじめはいぶかって食べようとしなかったが、やがて味をおぼえて肉が好きになった。

そこで猛虎は言いきかせた。

『お前は山羊どもといっしょに暮して、あいつらと同じように草を食っていたんだぞ!

この恥知らずめ!』

そう聞かされて、若虎はほんとうに恥ずかしいと思った。

草を食うことは女と金にくっついていることだよ。

ビャービャー鳴いて逃げるのは世間一般の人間と同じように行動することだ。

猛虎といっしょに行くのはグルが霊の意識に目覚めさせてくれることだ。

その方にすべてお任せして、その方こそ自分の身内である、とさとることだ。

自分の本当の顔を見ることは、尊い自己の本性に気がつくことだ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

ナーナさんが、聖ラーマクリシュナが語って下さった猛虎であるアヴァターラ(神の化身)の役割と同じことを、草食い虎である私たちにして下さっていますが、

ナーナさんが、どのように、私たちの”尊い自己の本性”(アートマン=真我)に気づかせて下さっているのか?については、後日、ご紹介させて頂こうと思います。

 

 

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 人の姿をとって降誕(くだっ)たわたしを見て

愚者たちは普通の人間だと思っている

わたしの超絶した性格と力と

わたしが全ての大王 支配者であることを知らずに

 (バガヴァッド・ギーター第9章11)

 

 

 

解放への道-神を直覚すること

前回は、生まれ変わりの理論(輪廻転生)について、

3月30日に発売になりましたスワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より抜粋して、ご紹介しました。

 

今回は、このブログでこれまで、何回も引用させて頂いております聖ラーマクリシュナのお言葉より、

同じく、生まれ変わりについて語って下さっているところを抜粋して、ご紹介させて頂きます。

 

スワミ・ラーマは、ヨーギーの視点から、人間が死んだらどうなるか?について詳細に語って下さっていますが、

聖ラーマクリシュナも、神の化身(アヴァタラ)の視点から、スワミ・ラーマが語って下さったことと、その根底では、同じことを仰っていらっしゃるということが、よくわかると思います。

 

 

『「先生、私どもの死後はいったいどうなるのでございましょうか。」

 

聖ラーマクリシュナ

「人間が無智でいる間は、つまり神をつかまないうちは生まれ変わるさ。

けれども、真実の智識を得たならば、二度とこの世にやって来なくてもいい。

地球やそのほかのどんな世界にも、行く必要はないんだよ。

陶器を作る人は、壺を日向に並べて乾かしているがね、その中によく乾き上がった壺と、まだ湿った壺があるのに気がつかないかね?

牛やなんかがやってきて、踏みつけてコナゴナにしてしまうことがある。

乾いた壺がこわれると、職人はそのカケラを全部捨ててしまう。

もう役に立たないからね。

湿った壺がこわれると、そのカケラをとっておく。

寄せ集めて決まった目方の塊にして、新しい壺を作るんだよ。

そういう具合に、神をつかまないうちは陶器作りの手に戻らなきゃならない。

つまり、この世に繰り返し繰り返しやってこなくてはならない。

煮えた米を撒いたってどうなる?

芽が出ないだろう。

人が智慧の火で完全に煮え上がってしまえば、その人を通じて新しい創造は行われない。

その人は解脱してしまったんだからね。」

 

「時たま、あの御方は生き物や世界すべてをお造りになったのだということを、わたしに見せてくださる。

ちょうど、旦那と旦那の庭みたいにーー。

あの御方がご主人で、この世界も生物もすべてあの御方の所有、この考えこそ智慧というものだ。

そして、“私がするんだ”“私は先生だ”“私は父親だ”――こういうのが無知というもの。

それに、“私の家”“私の家族”“私の財産”“私の友人”、これも無知」

「あなた(神)が行為者“ということがわかるまでは、何度も何度も戻って来なけりゃならんーー生まれ更(かわ)ってくるんだよ。

“あの御方だけが行為者”とわかれば、もう再生なんぞしなくていい。

あなた、あなたにならないかぎりは、決してこの世からは逃げられないよ!

行ったり来たり、生まれかわりをくりかえすだけで、解脱は出来ない。

それに、“私のもの”“私のもの”と言い張っていたって、どうにもなりゃしない。

旦那に雇われた管理人は、『これは私共の庭園でして、私共のベンチです。私共の家具です』なんて人に言っているがいったん旦那からクビにされたら最後、自分用に使っていたマンゴー材の物入れ一つ持ち出す権利もない!

“私”と“私のもの”が実在を覆いかぶしているので、真実(ほんとう)のことがわからないんだよ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

個々の肉体は滅びますが、肉体と共に滅びないないモノがあり、

それが、輪廻転生する個我(個霊=ジーバ)ということなのでしょう。

 

この個我(個霊)が、真我(=大霊)と合一することで、個我(個霊)は消滅し、真我(=大霊)だけとなります。

 

すでに個我が消滅してしまった存在は、ジーバ・ムクタ(悟った魂)と呼ばれ、

聖ラーマクリシュナは、”永遠の完成者”と呼んでいます。

 

このブログのタイトルでもある”永遠の人”とは、この”永遠の完成者”のことでもあります。

 

ナーナさんが、”永遠の人”であり、”永遠の完成者”でいらっしゃることは、これまで何度も書いてきましたが、

もう一度、神の化身(アヴァターラ)についての聖ラーマクリシュナのお言葉を見てみましょう。

 

そこにこそ、生まれ変わりを繰り返す輪廻転生からの解放のためのヒントを見い出すことができるでしょう。

 

 

『 ギリシュ

「ナレンドラは、”神は無限だ”と言うのです。

我々が見たり聞いたりするものは何でもーー物であれ人間であれーー言葉で表現することなんか出来やしない。

すべて神の一部なのだ。

インフィニティーーそれに部分などあるか?

部分などあり得ない、というわけです」

 

聖ラーマクリシュナ

「神が無限だろうと、どんなに大きかろうとーーあの御方が望みさえすれば、ご自分の真髄を人間を通してこの世界に現前(あらわ)せることができるんだし、また、実際に現前(あらわ)れる。

あの御方がアヴァターラとしてこの世に生活しておられる場合、そのことは類推比較によって理解させることはできない。

感じ取ることが必要なんだ。

直覚するんだよ。

比較類推すればいくらかのヒントは得られる。

牝牛の角にさわったら、たしかに牝牛にさわったことになるんだよ。

足かシッポにさわっても、やっぱり牝牛にさわったことはたしかなんだ。

だが、わたしらにとっては牝牛のなかで一番だいじなものは牛乳だ。

その牛乳は乳房から出てくる。

そんなわけだから、愛と信仰を教えるために、神は人間の姿をとって時折この世に化身なさるのだ」

 

ギリシュ

「ナレンドラは、『神のすべてを理解することができるものか。

あの御方は無限なのだ』と、こう申すのです」

 

聖ラーマクリシュナ

「神の全てを理解するなんてことが、いったい誰にできる?

大きくつかむこともできないし、小さくつかむこともできない。

それに、すべてを理解する必要がどこにある?

神を直覚できれば充分なんだ。

あの御方の化身(アヴァターラ)を見ることは、あの御方自身を見たことだ。

誰かがガンジス河のそばに行って河の水に手でさわったとすれば、その人は言うよーー”私はガンガーを見てさわってきた”と。

ハリドワールからガンガーサーガルまでのガンジス河全体の水を手に入れることはないさ。

お前の足にさわれば、お前にさわったことになる。

海のそばに行って海の水にさわったら、海にさわったことになるんだ。

火の性はあらゆるものに含まれているが、薪のなかが一番だ」

 

ギリシュ

「火の得られるところ、そこが私には必要なのですよ」

 

聖ラーマクリシュナ

「火の性は薪が一番。

もし神の性を探すなら、人間を探すこと。

人間にあの御方は一番よく含まれている。

法悦の信仰、愛の信仰に身を捧げている人ーー神のために狂気のようになっている人ーーあの御方の愛に酔っぱらっている人ーーそういう人を見たら、あの御方は間違いなくその人に化身していなさるのだと知れ。

あの御方は全てのものに遍在(いなさ)るが、その力は多く現れている処と少なく現れている処とがある。

アヴァターラのなかには、あの御方の力が一番よく現れている。

その力が、時によると完全に現れている場合もある。

神の力がアヴァターラになるんだ。

 

ギリシュ

「神は心と言葉を超越している、とナレンドラは申しておりますがーー」

 

聖ラーマクリシュナ

「いや、この普通の心で感得できないのはたしかだが。

しかし、純粋清浄な心で感得できる。

この普通の知性ではわからないが、純粋清浄な知性ではわかる。

女と金への執着がとれさえすれば、心と知性は純粋清浄になる。

純粋な心と純粋な知性は一つのものだがね。

神はその純粋清浄な心で感得できるんだよ。

聖仙(リシ)や牟尼(ムニ)たちはあの御方を見なすっただろう?

あの方々は、霊意識を通じて大霊に対面なすったのだよ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

☆ジーバ・ムクタ(悟った魂)でいらっしゃいますナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

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正信正行の人々を救(たす)け

異端邪信のともがらを打ち倒し

正法(ダルマ)をふたたび世に興すために

わたしはどの時代にも降臨する

 (バガヴァッド・ギーター第4章8)