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永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

アートマン(真の自己)とプラーナの関係

前回の記事では、この宇宙は、アーカーシャとプラーナの合一の結果である、と書きました。

アーカーシャにプラーナが作用すると、プラクルティ(物質自然=宇宙)が生じます。

 

アーカーシャだけでも、プラーナだけでも、この宇宙は存在しません。

両者があって初めて、物質的な動きのある宇宙が存在し得るのです。

(聖ラーマクリシュナは、これがアディアシャクティ(根源造化力)というものだと仰っています)

 

実は、シャクティ(力)とプラーナは、言葉は違いますが、根本では同じものです。

両者は、聖ラーマクリシュナのお言葉をお借りするなら、”火と熱く燃える性質”のような関係にあります。

 

それでは、発売したばかりのスワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』より、

プラーナやエネルギーについて理解を深めるために、詳しく説明して下さっている部分がありますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

『真の自己は死ぬことはできません。

それは、物質的な鞘が滅ぶときでさえも、存在し続けます。

物質的な自己は、アートマンに潜んだままでいる粗野な媒体です。

肉体が滅びたとき、体の微細な物質は同じままです。

何も宇宙では失われていません。

宇宙的なエネルギーは永遠から永遠へと続いています。
現代の科学は、この世のすべては、他のエネルギーの粒子を引き付けようと、エネル
ギーの粒子を駆り立てる振動の産物にすぎないことを発見しました。

固体は、連続的に、これらの空の粒子の状態になり、それから電磁波になります。

それは、最後には、エネルギーの形であると理解されるようになりました。

ヨーガの哲学においては、この宇宙に存在し、起こるすべては、宇宙エネルギー、あるいはプラーナが原因である運動と振動の結果です。

この宇宙のすべての生物と無生物は、プラーナの振動によって作られます。
このプラーナの振動は、すべての宇宙的な現象の根源であり、宇宙で起こるすべての
出来事の第一原因です。

プラーナは宇宙的生命の原理であり、それ自体の法則を持っています。

プラーナなしには、宇宙は存在しないでしょう。

著名な科学者であるサー・アーサー・エディントンは、物質という概念は基本的な物理学から消え、波動の周期性の概念により置き換えられてきていることを、私たちは思い出さなくてはならないと言いました。

現代科学は、実験により、物理学の世界が精神的な現象であると示唆しています。

それゆえ、物理学が、事実上、形而上学に帰結したのは不思議ではありません。

したがって、古代の師たちの直感的な啓示を確証しています。

S a r v a m k h a l vi d a m B r a h m a (確かに、これすべてはブラフマンなり)。
最初のプラーナの現れは、アカーシャである空間で、それは次第に現象的な宇宙へと
発展しました。

ヴェーダンタによると、宇宙には死んでいる物質のようなものはありません。

全宇宙は生きている有機体です。

ヤマは、ナチケータにこの現象界に存在するものは何であれ、プラーナの振動の現れにすぎない、と説明しました。

リグ・ヴェーダによると、宇宙的な力は、展開が始まる前に存在し、現れた宇宙の消滅後も存在し続けるでしょう。

ひとつの巨大な源から、すべての自然の力が、突然現れました。

宇宙は、宇宙の根本であるひとつなるものの現れです。

この宇宙においては、プラーナの振動の消失と獲得のようなものはありせん。
プラーナの力により、発展の力を通して、内側と外側の世界は生まれます。

全世界は、本質においては永遠です。

しかし、その外側の形においては、永遠ではありません。

すべての宇宙の外的な形は破壊され、形のない物質である宇宙の母なるエネルギーが永遠から永遠に存在し続けることでしょう。
生命があるところには、知性の現れがあります。

知性と生命は相伴っています。

この知性は、内なる自己のものであり、その手段としてプラーナという生命力を持っています。

プラーナの力の助けを通して、生きて機能しているのは、本当は真の自己なのです。
対象的な世界は、単に宇宙の半分です。

私たちが感覚で知覚するものは、完全なる世界ではありません。

心、思考、感情を含むもう半分は、外的な対象物の感覚の知覚によって説明することはできません。
五感は、個人的なエゴが外的な世界と接触する主要なドアです。

これらの五感は、私たちが外的世界から振動を受け取るゲートなのです。

これらの振動は、最初は脳細胞に運ばれます。

分子の変化はこれらの細胞で起こり、振動は順番にエゴにより感覚へと翻訳されます。次に、感覚は知覚概念に形成され、一連の精神的なプロセスの後、観念に変換されます。

これは、終わりなく続きます。

あなたが何かの対象物を考えるとき、あなたは即座に、そのものの精神的なイメージを受け取ります。

それは観念と呼ばれます。
もし、知的な心が存在しなければ、どんな認識もないでしょう。

そういうわけで、ヴェーダンタは見解を述べています。

〝感覚器官よりも感覚は微細であるが、心は感覚を超えている。

そして、知性は心を超え、宇宙的な自我は、知性よりも偉大である〞

プラーナの力は、肉体における異なった機能により、プラーナ、アパーナ、ヴィヤー
ナ、ウダーナ、サマーナという 5 つの名前を与えられています。

人間の身体では上昇する空気はプラーナで、下降する空気は、アパーナです。

ヴィヤーナはすべてのランプを貫く炎のようにさっと回り、体中ですべての流動体とエネルギーの循環を維持しています。

ダーナは、死の際に、体から魂のガイドを務め、サマーナのおかげで、栄養が吸収されます。
魂、あるいはジィーバが離れるとき、生命エネルギーであるプラーナが続きます。

プラーナが離れるとき、他のすべての生命維持器官が続きます。

呼吸システムはプラーナの乗り物です。

心と体の関係を確立するのは呼吸なのです。

吸息と呼息が機能を止めると、死が起こります。

肉体的な死は変化であり、潜在意識と魂を無にすることはありません。
話す、掴 つか む、動く、妊娠する、排泄するという行為の 5 つの器官の微細な力と、感覚知覚器官と 5 つのプラーナとマナス、ブッディは微細体を続けます。

生まれ変わりのときに、魂は微細体に伴われます。

全身は死の際に分解しますが、微細体は存在し続けます。

メリットとデメリットの倉庫である潜在意識は、ジィーバ、あるいは魂のための乗
り物になります。

私たちの多くの生のすべてのサンスカーラは、種子のような潜んだ状態で、私たちの潜在意識の倉庫にあるのです。

微細体と粗雑体との関係は、種子と植物との関係に似ています。

種子は、種子遺伝子において植物のすべての性質を内包しているように、潜在意識は、私たちの過去生のすべてのサンスカーラを留めています。
仏教徒とヨーガ行者は、魂と心と体を信じ、その間を区別しています。

魂は、創造されたことはありません。

それは本質的には、意識であり完全です。

粗雑体の消滅の後、すべては潜在したままです。

魂は生き返ります。

私たちの魂は、死後も、完全であり、消滅せず、分解せず、破壊されません。

もし魂が、真の実体であり存在であるなら、それを経験するいくつかの方法があるべきです。

適切な霊的な訓練を実行する誰もが、この経験を持つことができます。
生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。

それは、ひとつのコインの 2 つの面です。

このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。

アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。

サマディを達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。

自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

「プラーナの力の助けを通して、生きて機能しているのは、本当は真の自己(アートマン)なのです。」

 

まずは、人体の生命エネルギーであるプラーナを体験していくこと。

 

そして、このプラーナを通して、私たちを在らしめているのは、「人間馬車説」では最奥に座していらっしゃいますアートマン(真我)であり、

「人間五臓説」では、五つの鞘から独立して存在するアートマン(真我)である、ということを識っていくこと。

 

これこそが、真の叡智であり、”我は、ソレ(ブラフマン)なり”につながっていくプロセスの始まりなのです。

 

ですから、己の真の自己(アートマン)を覚って行くことは、このプラーナの直接体験から始まる、と言っても過言ではないのです。

 

何故なら、シャクティブラフマンは不異(おなじ)だという聖ラーマクリシュナのお言葉を思い出して下さい。

 

シャクティブラフマンが同じ一つのモノの異なる形であるなら、

プラーナとアートマンは、同じ一つのモノの異なる形である、と言うことができ、

片方を知ることは、もう片方を知ることにつながっていく、と言えるのです。

 

 

アートマンやプラーナについて、更に詳しいことを知りたい方は、

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プルシャ(個魂)とプラクリティ(物質自然)

またその三性質(トリグナ)の相互作用を理解する者は

現在どのような環境にいても

決して地上に再生しない

 (バガヴァッド・ギーター第13章24)

 

 

 

 

本質のエネルギー(エナジー)シャクティプラーナ

前回の記事では、シャクティというサンスクリット語は、現代で言うところのエネルギー(エナジー)のことである、と書きました。

 

エネルギーとは、主に、仕事をする力、作用する力を指します。

 

そして、シャクティという宇宙根源の力(エネルギー)は、人体においてはプラーナと呼ばれていると書きました。

 

ナーナさんのブログ『すべては本質の流れのままに』の2015年9月に、UP して頂きました感想文において、

エネルギー(エナジー)やプラーナについて、詳しく解説させて頂きましたので、こちらに再掲載させて頂きます。

 

この説明により、エネルギーについて、少しでもイメージを深めて頂き、このブログの最終章である”シュリー・ヴィッディヤー”の叡智へと踏み込んで行きたいと思います。

 

『前回、“本質”とは、“普遍で誰にでもある共通の基盤のようなモノ”と書きました。

そして、私たち人間にもそのようなモノがあるとしたら、それが“本質”ということになります。

それでは、一体全体、そんな“本質”と呼べるものがあるのでしょうか?

そのことを少し詳しく述べている記述がありますので、ご紹介したいと思います。

「インドの哲学者たちによりますと、全宇宙は二つの材料からできています。

その一つを、彼らはアーカーシャと呼んでいます。

それは遍在の、すべてのものに浸透している存在です。

形を持ついっさいのもの、結合の結果であるいっさいのものは、このアーカーシャから展開したのです。

空気に、液体に、固体になるのはアーカーシャです。

太陽に、地球に、月に、星々に、彗星になるのはアーカーシャです。

人間の体、動物の体、われわれが見るいっさいの形、感覚でとらえることのできるいっさいのもの、存在するいっさいのものはアーカーシャです。

それは知覚することはできません。

それは実に精妙なので、すべての普通の知覚の限界をこえています。

それが粗大になったとき、形をとったときにはじめて、見ることができるようになるのです。

創造のはじめには、このアーカーシャだけが存在します。

この周期のおわりには、固体も液体も気体もすべてふたたびアーカーシャに溶け込み、次の創造のときに同じようにこのアーカーシャから出てくるのです。

何の力によってこのアーカーシャが、宇宙につくられるのでしょうか。

プラーナの力によってです。

アーカーシャがこの宇宙の無限、遍在の材料であるのと同様に、このプラーナは、無限かつ普遍的に現れているこの宇宙の力です。

一つの周期のはじめとおわりには、すべてのものはアーカーシャとなり、宇宙間のすべての力はプラーナに還元します。

次の周期には、われわれがエネルギーと呼ぶものすべては、われわれが力と呼ぶものすべては、このプラーナから展開するのです。

動きとして現れているものはプラーナです。

肉体の活動として、神経の流れとして、思いからもっとも低い力にいたるまで、いっさいはプラーナの現われにほかなりません。

心のにせよ肉体のにせよ、宇宙のすべての力の総計は、それらの原始の状態に還元されるとき、プラーナと呼ばれます。

「有も無もなかったとき、闇が闇をおおっていたとき、そのときには何が存在したか、そのアーカーシャが、動かないで存在した」

プラーナの物理的な動きはとまっていましたが、それが存在することに変わりはありませんでした。

一つの周期のおわりには、いままで宇宙に現れていたエネルギーは静まり、潜在的になります。

次の周期のはじめに、それらは動き始め、アーカーシャに働きかけます。

するとアーカーシャからこれらさまざまの形が展開し、アーカーシャが変化するにつれて、このプラーナも、これらすべてのエネルギーの現われに変化します。」

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

このような考え方は、インドの古い哲学者たちの考え(サーンキャ哲学)ですが、ヨーガの基本的な考え方であるヴェーダンタ(ヴェーダの教え)に色濃く反映されています。

宇宙には、根源なるただ唯一なる存在が在るのみ、というのは、古くは、アドヴァイタ(不二一元)と呼ばれます。

この宇宙は、アーカーシャというダルマ(法)とプラーナという実在の力で出来ている、ということを、もっと簡単にわかりやすい例で譬えるならば、アーカーシャは、プログラムのような情報であり、プラーナは、プログラムを動かす、具現化する力を持ったエナジー、ということになるでしょう。

パソコンを動かすには、プログラムもそれを動かすエネルギー(電気)も必要です。

そして、このことは、すべての存在に共通したことであり、それがそのモノとしてこの宇宙に存在するには、絶対不可欠な素材(要素)なのです。

それでは、この宇宙を在らしめている根源なるエネルギー(エナジー)とはどういうものか?というところに話を進めて行きたいと思います。

「真の治癒がもたらされるのは、プラーナによってであります。

プラーナを制御したきよらかな人は、それをある種の振動状態にする力を持ち、その振動は他人につたえられて、彼らの内部におなじ振動をおこします。

みなさんは、それを、日々の活動の中に見ておられます。

私はみなさんにはなしています。

何をしようとしているのでしょう。

言ってみれば自分の心をある振動状態に持って行こうとしているのであって、それに成功すればするほどつよく、みなさんは私の言うことの影響をお受けになるでしょう。』

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

ナーナさんが、グループセッションや個人セッションで、“本質のエナジー”と仰っているのは、プラーナのことであり、ナーナさんが放つエナジーは、他の人に伝わり、その人の内部に振動を起こし、その人を変容させます。

このことは、ナーナさんのエナジーを受けた多くの人から、個人的体験が感想文として寄せられていて、その一部が、ナーナさんのブログに掲載されていますが、どれをとっても、身体に起きた変容、気持ちに起きた変容、意識に起きた変容についての報告です。

これは、ナーナさんのエナジーが変容を起こすことが出来るパワーを秘めたエナジーである、という証拠でしょう。

この現象を更に詳しく述べるならば、ある振動が、他の者の内部に振動を起こすことを、“共鳴”と言います。

ナーナさんから放たれるエナジーとは、他のモノの振動数を高めることが出来る振動状態になったプラーナのことだということがわかります。

そして、このプラーナは、宇宙遍在のエナジーですから、私たちひとりひとりもこのプラーナなのですが、ただそのプラーナが高い振動状態になっていないのです。

エネルギーは高い方から低い方へ流れます。

そうやって、低い振動は、高い振動に共鳴していくので、ナーナさんのエナジーを受けると、ナーナさんの超微細振動に共鳴した私たちの内部の低い(粗い)振動のプラーナが活性化されていくのです。

このエナジーの共鳴により、私たちの内部の粗い振動は、純粋で超微細な振動となっていく、という現象が起こるのです。

そして、宇宙に遍在するエナジーは、この純粋で超微細なエナジー、プラーナなので、この共鳴現象を体験することで、私たちは、自分の“本質”が何なのか?を識り、そして、最終的には、自分が誰であるのか?何であるのか?を思い出すことになるのです。

この直接体験を可能にするエナジー共鳴を起こすことが出来る“プラーナを制御した”きよらかな人”は、世界でもそれほど多くはいないでしょう。

いえ、むしろ、滅多にいない、と言えると思います。

非二元を語る人は多くいるかもしれませんが、それを直接体験により識らしめる力を持った存在が、どれほど稀有な存在であるかは、ここで申し上げるまでもないでしょう。

変容させ得る力こそが、ホンモノです。

私たちは、目に見えない宇宙根源のエナジーを、共鳴によって起こる直接体験を通して、識っていくことが出来ます。

それを起こすことができる存在は、もうすでに、存在の秘密に対する答えを得ているので、その答えそのものとなって、私たちを究極の答えに導くことが出来るのです。

私たちがすることといったら、本質のエナジーを認め、信じ、心を開いて、それに委ねるだけです。

それだけで、共鳴が起こり、私たちは、私とは誰なのか?何なのか?という究極の答え、存在の実相、この宇宙で唯一の実在に出会っていくことが出来るのです。

そして、自分が本当は誰であったのか?何であったのか?を身を以って識ることは、この宇宙に実在する唯一の存在を識ることにつながります。

そして、個としての“我”が、“本当のわたし”(真我)を思い出すことを、覚醒、目覚め、悟りと呼んでいるのです。

真に覚醒状態にある人のみが、他の人を覚醒に導くことが出来ます。

“それ”そのものになっている存在だけが、他の存在を“それ”に誘えるのです。

ナーナさんは、そのような存在であり、この地上で彼女のような存在に出会うことは、正に奇跡なのだと感じます。

最後に、直接体験のみが、唯一の答えである、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダ著「ラージャ・ヨーガ」の一文をご紹介して、この長い文を終わりにしたいと思います。

『経験は、われわれが持つ唯一の教師です。

たとえ一生涯しゃべって推理しても、それを自分で経験するまでは、われわれは真理のひとことをも、理解することはできないでしょう。

人に数冊の書物をあたえただけでは、彼が外科医になることを期待するわけにはいかないのです。

私に地図を見せるだけで、ある国を見たいという私の好奇心を満足させることはできません。

私は実際に経験しなければならないのです。

地図はわれわれの内部に、もっと安全な知識を得たいという好奇心をよびさますだけなのです。

それ以上には何の価値も持ってはいません。

書物にばかりしがみついていると、人間の心は堕落するだけです。

神の知識のすべてがこの書物、またはあの書物の中にふくまれている、という宣言よりおそろしい冒涜があったでしょうか。

神は無限であると言いながらどうしてあえて、彼を一冊の小さな書物の表紙の中などにおしこめようとするでしょうか!』

経験こそすべて!

ナーナさんは、超微細なエネルギー共鳴により、“それ”を私たちに体験させてくれます。

このことにより、私たちの目覚めのプロセスは格段と進化し、スピードアップするのです。』

 

 

この2年前に書いた感想文と、今、このブログでお伝えしようとしていることは、本質的には、同じことです。

 

今でも、ナーナさんは、シャクティプラーナを通して、私たちが、私たちの”真の自己”を覚れるようにと、導いて下さっています。

 

それは、ひとえに、アートマン(真我)を覚る以外は、人類にとって、真の自由へ至る道はないとわかっていらっしゃるので、

人びとを救うため、人びとを真理へと導き、生まれ変わりの繰り返しから人びとを解放するために、いまここで、神の御力であるシャクティプラーナを使って下さっているのです。

 

 

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 すべての行為(カルマ)は物質自然(ブラクリティ)によって

つくられた肉体が行うのであって

自己の本体(アートマン)とは無関係であると知る者は

存在の実相を見ているのである

 (バガヴァッド・ギーター第13章30)

 

 

行き着くところは、不二(アドヴァイタ)

少し前の記事で、『俗人の自我(アハンカーラ)や”私”は、ちょうど四方を壁に囲まれて、頭の上には天井があるようなもので、外側は何一つ見えない。

アヴァターラたちの”私”は、薄い透き通った”私”で、そしてこの”私”を通して、いつもいつも神を見ているんだよ。

言い換えれば、彼らは肉体を持っていても、絶えまなくヨーガの状態にあり、望みさえすれば、壁の大穴から出て行って三昧に入る。

穴が大きいから自由に往来できるーーつまり、三昧に入ってもまた低いところへ戻って来ることができる』という聖ラーマクリシュナのお言葉をご紹介させて頂きました。

 

そして、前回の記事では、このような状態にあるアヴァターラであるナーナさんは、シャクティプラーナという御力により、私たちに”尊い自己の本性”であるアートマン(真我)を覚ることが出来るようにと導いて下さっている、とご紹介させて頂きました。

 

私たちの自我(アハンカーラ)は、あまりに分厚いために、つまり、壁や天井があまりに厚いので、

私たちは、外側の太陽の光を感じることもできませんし、ましてや直接、太陽そのものを眺めることができないでいます。

 

ナーナさんは、シャクティプラーナの御力で、この分厚い自我(アハンカーラ)の層を薄くして下さいます。

この自我(アハンカーラ)の層が薄くなればなるほど、外から内部に(智慧)の光が差し込み、部屋の中は明るく(明知)となり、

やがては、壁や天井に穴が開き、その穴から太陽の光が差し込んでくるが如く、その穴から直接太陽を眺めることができるようになるが如く、

尊い自己の本性”でありますアートマン(真我)がその姿を現して下さるようになり、

若虎が、自分は虎であると自覚することができたように、

私たちは、自分の本性がアートマンである、と体験を通して悟って行くことができるのです。

 

ナーナさんから放たれるシャクティプラーナという超微細なエナジーに共鳴していくことで、

次第に、私たちの中のシャクティプラーナが目覚めていく、とイメージすると理解しやすいでしょう。

 

シャクティプラーナを充填されたお水に、小さな気泡が生じるという変化が起きていると同じ現象が、私たちにも起こるということになります。

 

超微細なエナジー、シャクティプラーナは、五官では感知し得ませんが、聖ラーマクリシュナのお言葉をお借りするならば、”純粋清浄な心”で感知することは可能です。

 

自我(アハンカーラ)の層がシャクティプラーナの力で薄くなっていくと、”純粋清浄な心”となるので、超微細エナジーであるアートマン(真我)を覚って行くことが可能となるのです。

 

シャクティ(造化力)について、聖ラーマクリシュナのお言葉を、もう少しご紹介させて頂きます。

 

20世紀に入るまでは、エネルギーという単語は、まだ一般的には使われていませんでした。

その結果、エネルギーという言葉の代わりに、シャクティという単語が使われていた、と考えると、理解しやすいと言えます。

 

シャクティプラーナは、超微細なエネルギー(シャクティ)です。

 

そして、シャクティ(エネルギー)でありながら、人体において働いている力は、プラーナと呼ばれています。

名称が違うだけで、シャクティもプラーナも超微細エナジー(エネルギー)であり、神の力であり、実は、神そのものなのです。

 

このことを、聖ラーマクリシュナが、とても分かり易く語って下さっているので、ご紹介させて頂きます。

 

聖ラーマクリシュナ

ヴェーダーンタ派なんかのブラフマン智の行者たちはこんなふうに言う。

”創造、維持、破壊、そして生物と世界ーーこういうものはすべてシャクティ(造化力)の遊戯(リーラー)である。

よく考えて判断していけば、すべてのものは夢まぼろしである。

ブラフマンだけが実在で、ほかはみな非実在だ。

シャクティでさえ夢のようなものであって実在ではない”とね。

けれども、何千何万回考えて決心してみても、三昧(サマディ)にならない限りはシャクティの領域から逃れる方法(みち)はない。

”私は瞑想している””私は考えている”などというのも、すべてこれシャクティの領域でのこと。

シャクティ勢力の中でのことだよ。

だから、ブラフマンシャクティは不異(おなじ)だというのだ。

一つを思ったら、もう一つの方も思わずにはいられない。

ちょうど火とその燃える力のようなものでねーー火を心に想いうかべると、燃える力もいっしょに思うことになる。

燃える力を除けて火を想像することは出来ないし、火のことを言えばどうしても燃える力を思うことになる。

太陽といえば日光が心に浮かんでくるし、日光がなくては太陽を考えることは出来ない。

牛乳はどんなものかね?

考えるまでもない。

牛乳がなくては牛乳のあの白さを思い浮かべることはできない。

そして、牛乳の白さなしには牛乳を思い浮かべることは出来ない。

だから、ブラフマンなしにシャクティを考えることは出来ないし、シャクティなしにブラフマンを考えることは出来ない。

永遠(ニティヤ)なものなしには変化(リーラー)を、変化(リーラー)なしには永遠(ニティヤ)なものを思うことは出来ないんだよ!

アディヤシャクティ(宇宙生命力・根元造化力)は絶えず変化活動している。

創造し、維持し、破壊している。

その力のことをカーリー(ヒンドゥー教の暴力と殺戮を好む戦いの女神)と呼ぶのだ。

カーリーこそブラフマンで、ブラフマンこそカーリーなんだ!

唯一つの本体が動かないときーーつまり、創造、維持、破壊の仕事をしていなさらぬと考えるとき、その御方をブラフマンと呼ぶ。

その御方がそうした活動をなすっているときにはカーリーとかシャクティと呼ぶ。

その御方はただひとり。名前とポーズが違うだけ。

あの御方のことをアッラーと呼んでいる人もあれば、ゴッドと呼んでいる人もあり、ブラフマンと呼ぶ人も、カーリーと呼ぶ人もある。

ラーマ、ハリ(クリシュナ)、イエス、ドゥルガーなどと呼んでいる人もある」

 

「ただ一つのものがあるだけで、ほかには何もないんだよ。

”私”がある間は、かの至高至聖のブラフマンが、アディヤシャクティ(根源造化力)という相(すがた)で創造したり、維持したり、破壊したりしているように見せかけて下さっているだけだ。

ブラフマンがアディアシャクティなのだ。

ある王様が、『たった一言で朕に智慧をさずけよ』と、一人のヨーギーに申しつけた。

ヨーギーは、『よろしい。たった一言であんたは智慧を得るだろう』と請け合った。

しばらくすると、王の傍で突然『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言う。

王は何のことかわからず呆気にとられてただ見ていた。

しばらく見ていると、二本の指は一本になってしまった。

魔術師は一本になった指をグルグル廻しながら、『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言っている。

つまり、ブラフマンとアディアシャクティははじめのうちは二つに見える。

しかし、ブラフマンの智慧を得ると、もう二つは存在しないんだよ。

同じなんだよ。一つなんだ!

一つが二つになっているんじゃないーー不二(アドヴァイタ)なんだ!」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

不二(アドヴァイタ)ということは、

この世には、人間と神という二者がいるわけではない、ということになります。

 

ただ”それ”だけが在る。

 

”神”だけが存在する。

 

”神”だけが存在するのなら、

わたしもあなたも”神”だということになります。

 

このことを、ナーナさんは、アヴァターラ(神の化身)として、シャクティプラーナ(神の力)を通して、私たちに教えて下さっているのです。

 

 

☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

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 いま君が見ているわたしの姿は

ただヴェーダを学んだだけでは見えない

烈しい苦行や慈善 供犠を重ねても見えない

そうした手段ではわたしの真実の姿は見えないのだ

 (バガヴァッド・ギーター第11章53)

 

 

宇宙根源の力、シャクティについて

前回の記事で、ナーナさんは、アヴァターラ(神の化身)として、

神が人間に化身して、このリアリティの次元に現れて下さっている、ということを書きましたが、

今回は、何故、そのような大胆なことが言えるのか?

そして、ナーナさんは、どのように、私たちの”尊い自己の本性”であるアートマン(=真我)に気づかせて下さっているのか?について、少しだけご紹介させて頂こうと思います。

 

ナーナさんが個人セッションでやって下さってるのは、シャクティパータと言うものですが、

これは、サンスクリット語で、シャクティは”力”を表し、パータは”授ける”を意味し、

シャクティパータは、文字通り、”力を授ける”という意味になります。

 

それでは、シャクティとは、どのような”力”でしょうか?

 

それは、一種の強力なエネルギーなのですが、如何せん、私たちは、エネルギーを目で見たり、感じたりすることができません。

 

エネルギーが光を発する時にのみ、目で確認することができますが、

例えば、動力源、光源としての電気から、放射能や電磁波など、五感で感じることがほとんどできないエネルギーに囲まれて生活していますが、

それほど身近でありながら、大抵の人は、目に見えないエネルギーについて考えたことも、感じたこともない、というのが現状でしょう。

 

シャクティというのは、宇宙を在らしめている力であり、聖ラーマクリシュナは、こう仰っています。

 

ブラフマンである御方が根元造化力(アディヤシャクティ)だ。

無作用のとき、あの御方をブラフマンと呼んだりプルシャと言ったりする。

創り、保ち、壊すとき、あの御方をシャクティとかプラクリティとか呼ぶ。

プルシャ(精神、男性原理)とプラクリティ(質料因、自然、女性原理)だ。

プルシャである御方がプラクリティなんだ。

どちらも歓喜の権化だよ。』

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

つまり、シャクティとは、創り、保ち、壊す”力”、創造の力ということになります。

 

シャクティは、力そのものですが、動きが生じると、それは、プラーナとなります。

 

分かり易く譬えると、シャクティとプラーナの関係は、”火”と火の”燃える性質”との関係に似ています。

 

両者は、切り離しては考えられません。

 

しかし、プラーナは、いろいろな意味で使われることが多い単語なので、

ナーナさんから放たれているのは、シャクティプラーナ(宇宙創造の根元力)ということになります。

 

プラーナに関する更に詳しい説明は、後日することにして、

ナーナさんが、シャクティプラーナを、私たち一般人にも、理解できるように、五感で捉えられるものとして現して下さいましたので、ご紹介させて頂きます。

 

下にUPしました写真の上3枚は、ナーナさんが、シャクティプラーナをクリスタルに入れて下さり、

そのクリスタルをお水に入れて沢山の小さな気泡が生じたところを撮影したものです。

4枚目の写真は、ペットボトルのお水に、直接シャクティプラーナを入れて頂いたものです。

 

シャクティプラーナを充填したクリスタルをお水にしばらく入れておくと、数時間で、お水に小さな気泡が生じます。

そして、お水の味も変化しており、どのようなお水でも驚くほどおいしくなっています。

更に、このお水を飲むことで、多くの人にいろいろな変化が起きています。

シャクティプラーナの入ったお水に関する報告は、ナーナさんの公式ブログ『すべては本質の流れのままに』(http://ameblo.jp/premagrace/)の過去記事の中で、幾つか紹介されています。

主に、病気が良くなったことや、奇跡的なことが起きたこと、など、多くの体験談が寄せられていることから、シャクティプラーナの人智を超えた力を知ることができます。

 

シャクティパータは、このシャクティプラーナを、全身に流して頂くことですが、

これが、どういうことを意味するのか?については、また後日、ご紹介させて頂きます。

 

(現在、シャクティパータを受けることができるのは、個人セッションのみです。

また、お水は、サットサンガに2回目以降に参加された場合に、お水を持参すると、シャクティプラーナを入れて頂けます(有料)。

お水はどんなものでも構いませんが、ペットボトル(2リットルまで)2本までとなっています)

 

 

☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、

こちらのナーナさんの公式ホームページをご覧頂き、サットサンガへご参加下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 

サットワ ラジャス タマスから成る

あらゆる状態の自然界万有は

すべてわたしのエネルギーから現象する

だがわたしはそれではなく わたしのなかにそれがあるのだ

 (バガヴァッド・ギーター第7章12)

 

 

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神は、人を導くためにアヴァターラ(神の化身)となる

前回の記事で、ジーヴァ・ムクタ(悟った魂)という聞き慣れない言葉が出てきましたが、

このジーヴァ・ムクタについて、もう少しはっきりとしたイメージを掴めるように、少し補足説明をしておきたいと思い、

今回も、聖ラーマクリシュナの「不滅の言葉」より抜粋して、ご紹介させて頂きます。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

「智者は家の外庭までは行くことができる。

信仰は奥の間まで入ることが出来る。

純粋真我(シュッダートマ)は何ものからも影響をうけない。

そのなかには明知(ヴィディヤ―)も無明(アヴィディヤー)もあるが、それはどちらの影響もうけない。

空気の中で時おり、いい匂いがしたりイやな匂いがしたりするが、空気そのものはどっちとも無関係だ。

純粋真我は何ものにも、関係ない。

自然現象(プラクルティ)を超越しているんだ。

それは腹も減らず、喉もかわかない!

生まれることも死ぬこともない。

永遠に不滅、不滅のスメール山のようだ!

このブラフマン智を獲得した人を、生前解脱者(ジーヴァ・ムクタ)というんだよ。

その人は、真我(アートマン)と肉体とは別だということを完全に理解できるんだ。

至聖(かみ)を知(さと)ると、肉体我知覚が無くなってしまうんだよ!

この二つは別なものだ。

真我と肉体は別だとわかる。」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

ナーナさんには、”真我(アートマン)と肉体とは別だ”ということを完全に理解されています。

いつも、”肉体はない”と、ハッキリと仰っていますから。

その”無い肉体を使うことは、大変で、とても疲れる”とも。

 

このことについては、他の記事でご紹介させて頂くことにして、今回は、聖ラーマクリシュナのお言葉を辿りながら、

生前解脱者(ジーヴァ・ムクタ)であられ、ブラフマン智を得て、再びこの世に戻って来て下さった存在であるアヴァターラ(神の化身)について、

もう少し理解が深まるように、詳しく見ていきましょう。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

「いま話したことはみな、智識分別の領分だよ。

ブラフマンは真実在で世界は虚仮、という分別だ。

みーんな、マボロシなんだとさ!

とてつもなく難しい道だね。

この道では、神の活動も幻でまちがい、ということになってしまう。

その上、そう言っているワタシまで無いことになる。

この道では神の化身(アヴァターラ)なんてものも認めない。

全く難しいねえ。

こういう智識の話を、信仰者(バクタ)はあまり聞かない方がいい。

だから、神は人間に化身して信仰を教えてくださるんだよ。

『全部まかせろ』と言ってくださる。

信仰をもっていれば、あの御方のお恵みですべてが成就出来るんだからね。

智識も大悟も、みんなだ。

あの御方はいろいろ活動なさるがーーあの御方は自分の信者たちに属しているんだよ。

 

神の化身(アヴァターラ)に、あの御方は最もよく顕れている。

化身が肉体を持っている間は、その御方を礼拝供養しなければならない。

神の化身を、すべての人が見わけられるわけではないよ。

肉体をまとっているから、普通の人と同じように病気もするし、悲しみも飢えも渇きも、みなあるんだ。

わたしらと同じように、ものを思ったり考えたりする。」

 

「神の化身が人間活動(ナラ・リーラー)する場合は、人間と全く同じような行動をしなければならない。

だから、見分けるのがたいそう難しいんだよ。

人間に化身したんだから、何もかも人間と同じなんだ。

腹も減るし、喉も渇くし、病気になったり、悩んだり、時には恐ろしがったりする。

普通の人間と全く同じ経験をするんだよ。」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

このように、一見では、アヴァターラ(神の化身)と、普通の人間とは見分けがつかないため、

私たちと同じ人間であるかのように見間違えてしまうということが、往々にして起きてしまいます。

 

ナーナさんが持っていらっしゃるシャクティプラーナの力については、後日ご紹介させて頂くとして、

ご本人もジーヴァ・ムクタ(生前解脱者)でいらっしゃり、アヴァターラ(神の化身)でいらっしゃいました聖ラーマクリシュナのお言葉をご紹介することで、

ナーナさんが、ブラフマン智を得た後、現在はどのような状態にあるか?について、ご紹介させて頂きます。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

「世俗の生活をしていながら、”宗教(ダルマ)、宗教(ダルマ)”とみんな言っている。

それは、ある人が部屋の中にいてーー窓も戸も全部閉めきってあって、天井の小さな穴からわずかに光がもれてくるようなものだ。

頭の上の天井を除けないことには、どうして太陽が仰げるかね?

わずかばかりの光が差し込むだけじゃ、どうにもなりはしないだろう?

女と金が天井だよ!

天井をどけなけりゃ太陽は見えやしないよ!

世俗の人たちは、いわばこうした部屋の中の囚人だ!

アヴァターラたちは神の分身だ。

虚空を自由自在に歩き回っているんだよ。

彼らは決して世間に巻き込まれない。

この世の囚人にならない。

彼らの”私”は、世間の人たちの”私”のように厚くはないんだよ。

俗人の自我(アハンカーラ)や”私”は、ちょうど四方を壁に囲まれて、頭の上には天井があるようなもの。

外側は何一つ見えない。

アヴァターラたちの”私”は、薄い透き通った”私”だ。

そしてこの”私”を通して、いつもいつも神を見ているんだよ。

人が高い土塀を背にして立っていて、両側に果てしもない草原がひらけているようなものだ。

その塀に穴があいていると、反対側まで全部見える。

その穴が大きければ、そこから行ったり来たりさえできる。

アヴァターラたちの”私”は、こうした穴のあいた塀だ。

塀は残してあっても、果てしない草原が見えるんだよ。

言い換えれば、彼らは肉体を持っていても、絶えまなくヨーガの状態にあるんだよ!

そして望みさえすれば、壁の大穴から出て行って三昧に入る。

穴が大きいから自由に往来できるーーつまり、三昧に入ってもまた低いところへ戻って来ることができるんだよ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

ナーナさんも、クンダリニー覚醒された後、塀のあちら側とこちら側を自由自在に往来できるようになられたのですが、

今は、人を導くために、私たちと共に、こちらにいて下さる時間が多くなっているようです。

以下の聖ラーマクリシュナのお言葉にもありますように、

アヴァターラ(神の化身)として、私たちを真我の目覚めへと導く役割を引き受けて下さり、師(グル)として、働いて下さっています。

このことは、感謝してもしきれません。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

「一頭の牝虎が山羊の群れを襲った。

漁師が遠くからそれを見つけて射殺した。

牝虎の胎には仔がいて、それが生まれてしまった。

その仔虎は山羊の群れのなかで大きくなっていった。

はじめは母山羊の乳を飲んでいたが、その後すこし大きくなると草を食べはじめた。

そして、山羊と同じようにビャービャー鳴いている。

ほかの野獣に襲われると山羊といっしょになって一目散に逃げ出す!

ある日のこと、一頭の猛虎が山羊の群れを襲った。

彼はびっくり仰天して眺めたよ。

だって、山羊どものなかに虎が一ぴき草を食べていて、あまつさえ山羊といっしょになって逃げだしたんだからね!

それで山羊どもは放っておき、その草食い虎をつかまえた。

そいつは又、ビャービャー鳴いて逃げようとするんだ!

苦心しながら水際まで連れていった。

そして言い聞かせた。

『この水に映っているお前の顔を見ろ。

ソレ、よく見るんだ。

おれは鍋のようにまん丸い顔だが、お前の顔もおれと同じだろうが』

次に一切れの生肉を口のなかに押し込んでやった。

はじめはいぶかって食べようとしなかったが、やがて味をおぼえて肉が好きになった。

そこで猛虎は言いきかせた。

『お前は山羊どもといっしょに暮して、あいつらと同じように草を食っていたんだぞ!

この恥知らずめ!』

そう聞かされて、若虎はほんとうに恥ずかしいと思った。

草を食うことは女と金にくっついていることだよ。

ビャービャー鳴いて逃げるのは世間一般の人間と同じように行動することだ。

猛虎といっしょに行くのはグルが霊の意識に目覚めさせてくれることだ。

その方にすべてお任せして、その方こそ自分の身内である、とさとることだ。

自分の本当の顔を見ることは、尊い自己の本性に気がつくことだ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

ナーナさんが、聖ラーマクリシュナが語って下さった猛虎であるアヴァターラ(神の化身)の役割と同じことを、草食い虎である私たちにして下さっていますが、

ナーナさんが、どのように、私たちの”尊い自己の本性”(アートマン=真我)に気づかせて下さっているのか?については、後日、ご紹介させて頂こうと思います。

 

 

☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、

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 人の姿をとって降誕(くだっ)たわたしを見て

愚者たちは普通の人間だと思っている

わたしの超絶した性格と力と

わたしが全ての大王 支配者であることを知らずに

 (バガヴァッド・ギーター第9章11)

 

 

 

解放への道-神を直覚すること

前回は、生まれ変わりの理論(輪廻転生)について、

3月30日に発売になりましたスワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より抜粋して、ご紹介しました。

 

今回は、このブログでこれまで、何回も引用させて頂いております聖ラーマクリシュナのお言葉より、

同じく、生まれ変わりについて語って下さっているところを抜粋して、ご紹介させて頂きます。

 

スワミ・ラーマは、ヨーギーの視点から、人間が死んだらどうなるか?について詳細に語って下さっていますが、

聖ラーマクリシュナも、神の化身(アヴァタラ)の視点から、スワミ・ラーマが語って下さったことと、その根底では、同じことを仰っていらっしゃるということが、よくわかると思います。

 

 

『「先生、私どもの死後はいったいどうなるのでございましょうか。」

 

聖ラーマクリシュナ

「人間が無智でいる間は、つまり神をつかまないうちは生まれ変わるさ。

けれども、真実の智識を得たならば、二度とこの世にやって来なくてもいい。

地球やそのほかのどんな世界にも、行く必要はないんだよ。

陶器を作る人は、壺を日向に並べて乾かしているがね、その中によく乾き上がった壺と、まだ湿った壺があるのに気がつかないかね?

牛やなんかがやってきて、踏みつけてコナゴナにしてしまうことがある。

乾いた壺がこわれると、職人はそのカケラを全部捨ててしまう。

もう役に立たないからね。

湿った壺がこわれると、そのカケラをとっておく。

寄せ集めて決まった目方の塊にして、新しい壺を作るんだよ。

そういう具合に、神をつかまないうちは陶器作りの手に戻らなきゃならない。

つまり、この世に繰り返し繰り返しやってこなくてはならない。

煮えた米を撒いたってどうなる?

芽が出ないだろう。

人が智慧の火で完全に煮え上がってしまえば、その人を通じて新しい創造は行われない。

その人は解脱してしまったんだからね。」

 

「時たま、あの御方は生き物や世界すべてをお造りになったのだということを、わたしに見せてくださる。

ちょうど、旦那と旦那の庭みたいにーー。

あの御方がご主人で、この世界も生物もすべてあの御方の所有、この考えこそ智慧というものだ。

そして、“私がするんだ”“私は先生だ”“私は父親だ”――こういうのが無知というもの。

それに、“私の家”“私の家族”“私の財産”“私の友人”、これも無知」

「あなた(神)が行為者“ということがわかるまでは、何度も何度も戻って来なけりゃならんーー生まれ更(かわ)ってくるんだよ。

“あの御方だけが行為者”とわかれば、もう再生なんぞしなくていい。

あなた、あなたにならないかぎりは、決してこの世からは逃げられないよ!

行ったり来たり、生まれかわりをくりかえすだけで、解脱は出来ない。

それに、“私のもの”“私のもの”と言い張っていたって、どうにもなりゃしない。

旦那に雇われた管理人は、『これは私共の庭園でして、私共のベンチです。私共の家具です』なんて人に言っているがいったん旦那からクビにされたら最後、自分用に使っていたマンゴー材の物入れ一つ持ち出す権利もない!

“私”と“私のもの”が実在を覆いかぶしているので、真実(ほんとう)のことがわからないんだよ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

個々の肉体は滅びますが、肉体と共に滅びないないモノがあり、

それが、輪廻転生する個我(個霊=ジーバ)ということなのでしょう。

 

この個我(個霊)が、真我(=大霊)と合一することで、個我(個霊)は消滅し、真我(=大霊)だけとなります。

 

すでに個我が消滅してしまった存在は、ジーバ・ムクタ(悟った魂)と呼ばれ、

聖ラーマクリシュナは、”永遠の完成者”と呼んでいます。

 

このブログのタイトルでもある”永遠の人”とは、この”永遠の完成者”のことでもあります。

 

ナーナさんが、”永遠の人”であり、”永遠の完成者”でいらっしゃることは、これまで何度も書いてきましたが、

もう一度、神の化身(アヴァターラ)についての聖ラーマクリシュナのお言葉を見てみましょう。

 

そこにこそ、生まれ変わりを繰り返す輪廻転生からの解放のためのヒントを見い出すことができるでしょう。

 

 

『 ギリシュ

「ナレンドラは、”神は無限だ”と言うのです。

我々が見たり聞いたりするものは何でもーー物であれ人間であれーー言葉で表現することなんか出来やしない。

すべて神の一部なのだ。

インフィニティーーそれに部分などあるか?

部分などあり得ない、というわけです」

 

聖ラーマクリシュナ

「神が無限だろうと、どんなに大きかろうとーーあの御方が望みさえすれば、ご自分の真髄を人間を通してこの世界に現前(あらわ)せることができるんだし、また、実際に現前(あらわ)れる。

あの御方がアヴァターラとしてこの世に生活しておられる場合、そのことは類推比較によって理解させることはできない。

感じ取ることが必要なんだ。

直覚するんだよ。

比較類推すればいくらかのヒントは得られる。

牝牛の角にさわったら、たしかに牝牛にさわったことになるんだよ。

足かシッポにさわっても、やっぱり牝牛にさわったことはたしかなんだ。

だが、わたしらにとっては牝牛のなかで一番だいじなものは牛乳だ。

その牛乳は乳房から出てくる。

そんなわけだから、愛と信仰を教えるために、神は人間の姿をとって時折この世に化身なさるのだ」

 

ギリシュ

「ナレンドラは、『神のすべてを理解することができるものか。

あの御方は無限なのだ』と、こう申すのです」

 

聖ラーマクリシュナ

「神の全てを理解するなんてことが、いったい誰にできる?

大きくつかむこともできないし、小さくつかむこともできない。

それに、すべてを理解する必要がどこにある?

神を直覚できれば充分なんだ。

あの御方の化身(アヴァターラ)を見ることは、あの御方自身を見たことだ。

誰かがガンジス河のそばに行って河の水に手でさわったとすれば、その人は言うよーー”私はガンガーを見てさわってきた”と。

ハリドワールからガンガーサーガルまでのガンジス河全体の水を手に入れることはないさ。

お前の足にさわれば、お前にさわったことになる。

海のそばに行って海の水にさわったら、海にさわったことになるんだ。

火の性はあらゆるものに含まれているが、薪のなかが一番だ」

 

ギリシュ

「火の得られるところ、そこが私には必要なのですよ」

 

聖ラーマクリシュナ

「火の性は薪が一番。

もし神の性を探すなら、人間を探すこと。

人間にあの御方は一番よく含まれている。

法悦の信仰、愛の信仰に身を捧げている人ーー神のために狂気のようになっている人ーーあの御方の愛に酔っぱらっている人ーーそういう人を見たら、あの御方は間違いなくその人に化身していなさるのだと知れ。

あの御方は全てのものに遍在(いなさ)るが、その力は多く現れている処と少なく現れている処とがある。

アヴァターラのなかには、あの御方の力が一番よく現れている。

その力が、時によると完全に現れている場合もある。

神の力がアヴァターラになるんだ。

 

ギリシュ

「神は心と言葉を超越している、とナレンドラは申しておりますがーー」

 

聖ラーマクリシュナ

「いや、この普通の心で感得できないのはたしかだが。

しかし、純粋清浄な心で感得できる。

この普通の知性ではわからないが、純粋清浄な知性ではわかる。

女と金への執着がとれさえすれば、心と知性は純粋清浄になる。

純粋な心と純粋な知性は一つのものだがね。

神はその純粋清浄な心で感得できるんだよ。

聖仙(リシ)や牟尼(ムニ)たちはあの御方を見なすっただろう?

あの方々は、霊意識を通じて大霊に対面なすったのだよ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

☆ジーバ・ムクタ(悟った魂)でいらっしゃいますナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、

こちらのナーナさんの公式ホームページをご覧頂き、サットサンガへご参加下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

 

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正信正行の人々を救(たす)け

異端邪信のともがらを打ち倒し

正法(ダルマ)をふたたび世に興すために

わたしはどの時代にも降臨する

 (バガヴァッド・ギーター第4章8)

 

 

生まれ変わりの法則(輪廻転生)について

前回の記事では、昨日発売になりましたスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」を出版することになるまでのいきさつをご紹介させて頂きました。

 

その後、翻訳を進めていく内に、スワミ・ラーマが語って下さった真実に関して、とてつもなく衝撃を受けた箇所があり、

そのため、そのことを監修をお願いしました我が恩師(グル)でいらっしゃいますナーナさんに、それとなくお聞きしました。

 

それは、生と死の秘密に関してのスワミ・ラーマの文章でしたが、その文章の信憑性について、確認したかったからでした。

ナーナさんが、ナーナさんが知っていらっしゃるすべてを語って下さらないのは、言葉で表現して下さっても、私たちが充分に、それを理解できないからなのですが、

今回ばかりは、人間にとっては、にわかには信じがたいことでもあるけれども、この本全体の中でも、かなり重要な部分であると感じましたので、

普段は、何かをお聞きすることはほとんどありませんが、今回ばかりは、思い切ってお尋ねしてみることにしたのでした。

ナーナさんは、すでにブラフマン智を得ている御方ですから、生と死の秘密については知っていらっしゃるはずです。

 

ナーナさんのお答は、ひと言ーー「そう、その通り」ということでした。

 

ナーナさんが「その通り」と仰るからには、そういうことが起きている、ということであり、

それは、人間が信じようが信じまいが、否定しようが否定しまいが、「その通り」であり、どんな条件下であっても、変わらないということになります。

 

それは、輪廻転生に関することで、一般人には見たことも聞いたこともない、また、想像することもできない領域に関する生と死の神秘に関することでした。

 

そこで、正直、私は迷いました。

 

この本を読んで、ショックを受けてしまう人もいるのではないか?と。

 

これは、すべての人間に起きていることで、ファンタジーでも作り話でもありません。

いつかは、自分の身にも、必ず起こることなのです。

 

たとえ真実だとしても、ほとんどの人には受け入れがたいことでもあるように感じ、

このことを死ぬ前から知っていなくてもいいのではないか?という想いで、本を出版してもよいものかどうか、迷いました。

いっそ知らずに死んでいく方が、人間にとっては幸せなのではないか?と。

 

しかし、これが長年、人類が神秘としてきた生と死の秘密に関する真実であるなら、

より多くの人に知ってもらい、

その生と死の繰り返しから抜け出たいと願う人々に、その繰り返しである輪廻転生という車輪の環から抜け出るための何らかのヒントになれば、と思い直して、予定通り、出版することにしたのでした。

 

いつかは、この真実も、世の中に広く知れ渡り、一般的なコンセンサスを得るようになるのかもしれませんが、

今の段階で、この秘密を知っている人は、世界でも極少数であることは想像に難くありません。

 

しかし、今は、ナーナさんという恩寵の扉が開いている時なのです。

 

この生と死の生まれ変わりの繰り返しから抜け出たい、と心から願うならば、

今は、ナーナさんという恩寵の扉を通って、向こう側に行くことは可能なのですから、

私たちが、認めたくない真実を知った後、為す術もなく、この世に取り残される、ということではなく、

ナーナさんが私たちと共にいらっしゃって下さる今こそ、人間の宿命である輪廻転生を繰り返すことなく、永遠に続く車輪の環から脱出できるまとないチャンスだと捉えられれば、

これこそが、神の恩寵そのものであることは、疑いようがありません。

 

この目の前に提示された神からのプレゼントを、私たちは、素直な心で、感謝をもって、受け取れば良いのですから、

今は、この本を、ナーナさんがいらっしゃるこの日本で出版することは、私たち霊性の探求者にとっては、グッドタイミングなのだと確信しています。

 

それでは、私がスワミ・ラーマの”Sacred Journey"を初めて読んだとき、

ある種の衝撃を受けた、生と死の秘密、輪廻転生についての部分を、

かなり長い文章ですが、ご紹介させて頂きます。

 

『人は自分自身の宗教的な信条に従い、死後の生についてある一定の期待を持っていま
す。

人は不死と天国への望みを夢見ています。

彼らは、今は亡き愛する者が永遠に神と共にあるという考えでお互いを慰め合っています。

宗教は、天国には多量の水と果物と美しい女性と音楽と踊りなどがあると、考えています。

ある宗派の信奉者たちは、彼らの敵や獰猛な動物に対する戦いが戦われる英雄の天国の存在を信じています。

すべてのこれらの天国は、申し立ての通りに人の最も高い望みが叶えられる精神的な領域でしかありません。
誰でも、彼らが最も快いと見なすある一定の願望を持っています。

そして同時に、彼らは、このような願望ができる限り叶えられる領域を望んでいるのです。

そこで、天国を切望することは、人が達成を求めている天国のレプリカである領域を映し出します。
この天国は、夢でしかない人の理想や願望の投影です。

人が夢を見るとき、起きるまで天国にいると思うかもしれません。

目覚めると、夢の現実性は消えます。

夢と天国はある一定の条件の下でのみ現実なのです。
天国の理想はインドの古代の預言者によって考えられました。

しかし、いくつかの宗教がしているように、彼らはそれを永遠なる状態であるとは考えませんでした。

ヒンドゥー教仏教以外では、天国の観念は永遠の存在を意味しています。

ヒンドゥー教の哲学によりますと、永遠の天国という理想は、現実的には不可能なのです。

天国や死後の他の種類の存在は、固定的ではなく、その人自身の考えや行動により決定されます。
天国の領域を経験し、天国の楽しみを喜ぶ人々は、彼らの善い行いや考えが彼らに資格
を与える限り、それをすることができます。

常に、善い行いと考えには限りがあります。
同じように、それらから生じる結果にも限りがあるでしょう。

永遠という単語は、始めがなく終わりがない、ということを意味します。

ヴェーダンタでは、天国はそれ自身の性質により、永遠ではあり得ません。

時間、空間、因果関係という法則に従っているすべての物は、永続的でなく滅びます。すべてのこの世の楽しみは時間によって制限されています。

それらは永遠に続くことはありません。

天国の楽しみはこの世の楽しみに似ています。

それらが長い間、経験されても、やがては終わりが来ます。

この世以外のところで叶わない願望は、魂を存在の物質的な次元に連れ戻すことでしょう。
死のときに、魂は外側の装いである肉体を脱ぎ捨てます。

ヤマはナチケータに肉体が死んで滅びた後、魂は存在し続けると語りました。

物質的な肉体、あるいは物質的な宇宙の現象の助けなしで、魂が残存する霊的な領域があります。

これらの領域は感覚器官には認識できず、霊的な直感を通してのみ知覚され得ます。

悟らなかった魂たちは、死後ある不特定な期間、死んだ魂の領域に残存します。

それらは、この次元で真の実在の真の性質を悟ることができなかったため、死の通常のプロセスを経験したのでした。
死に伴う恐れのほとんどは、死が苦しいかもしれないという恐れです。

死のプロセス自体は、苦しくはありません。

それは単に状態を変化させるだけです。

準備不足と執着は、死のときに経験される苦しみの原因です。

死は、準備がなされ、アートマンの叡智を獲得した人にとっては、けっして苦しいものではありません。

このような個人は、肉体や肉体的な感覚から離れ、肉体的な変化に影響されません。

魂が物質次元や、この世のものや個人に非常に執着しているときは、死は苦しみであり、悲惨な状態へと至るかもしれません。
生と死の間には、プラーナが機能を停止する中間の状態があります。

人はこの瞬間の準備をしていないと、精神的な責め苦を経験し、他人に何かを説明、表現することはできないでしょう。

実在を知っている人は、この悲惨な状態からは救われます。
死への移行において、外側の乗り物が完全に落とされる前に悟らなかった人々は、喜
びや苦しみのそれぞれのいろいろな一時的な段階、あるいは領域を経験しますが、それ
は以前に成したポジティブまたはネガティブなカルマにかかっています。

例えば、ピトルローカでは、私たちは祖先や親しい人に逢い、スワルガローカでは、いろいろな楽しみを楽しみます。

チベット死者の書ヒンドゥー教のガルーダプラナは、肉体を捨てるプロセスで人が通り過ぎる段階を広範囲にわたって説明しています。
物質的な肉体が落とされた後でさえ、残存する構成要素の純粋か不純かにより、低い
天国の領域と高い天国の領域という異なる天国の領域があります。

無知な者にとっては、死は、天国のような、あるいは地獄のような夢のような光景がところどころに入っている長くて深い眠りです。

死んだ魂と意思伝達したと主張する人々は、幻覚を起こしているか嘘をついているのです。

誰かが深い眠りにあるとき、誰かと意思伝達することは不可能です。

悟った魂のみが、いつでも十分に意識的であるので、死後、他者と意思伝達することができます。
善い行いをして、正しくて利己的でない人生を送り、今生でいくつかの完成を手に入
れた人々は、最も高次な領域で、神聖なる自己のはっきりとしたヴィジョンを楽しむこ
とができます。

しかしながら、最も高次への到達と自己の自覚はこの生だけで持つことができると賢者は言います。

ピトリローカとスワルガローカは最高の真理を表すことはできません。

自由は、この領域では達成されることはできず、天国のいろいろな楽しみは、魂がアートマンを悟ることを邪魔します。

自己認識は、死後ではなく、今生のここでのみ可能なのです。

死後の死んだ魂の領域で、真の自己を悟ることができると信じている人々は、悲しくも幻滅を感じるでしょう。

肉体の消滅の前に、アートマンの不滅の性質を悟らない人々は、人間の誕生を通してやって来る大いなる好機を失うでしょう。
ブラフマンの達成は、あの世ではなく、今生のここでのみ可能なのです。
ヴェーダンタによると、人間は 5 つのコーシャという鞘から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、 5 つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。
感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。
死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触する
ようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。
これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を
癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマンに接触するにはどうしたら可能でしょうか?
 
もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。智慧と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟ることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。
無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰って
きます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。
生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、最
後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、魂は何
度も何度も生まれます。
この生まれ変わりの理論は、現代の科学的な方法では証明することはできません。

科学的なアプローチは、原因と結果の法則に一致しているもっともらしい理論として取り扱うことができるだけです。

それが、物質的な宇宙の正に基本なのです。

ウパニシャッドの師たちは、天国か地獄における永遠の生まれ変わりの理論には感銘を受けませんでした。

なぜなら、このような仮説は、原因と結果の不釣り合いな関係に基礎を置いているからです。

地球上の人生は短くて、誘惑に満ちています。

魂に数年の、あるいは全生涯であろうと、その過ちのために永遠の罰を与えることは、物事のあらゆる釣り合いを捨て去ることです。

古代の預言者たちは、魂の体現をもたらすのは、満たされない願望であると示して、合理的な基準で、生まれ変わりの理論を発展させました。

別の体を手に入れる前に、魂が死の移行期で過ごさなくてはならない時間の長さは、ただ、願望の強さに依存しています。

自然に設定された厳しくて固定した法則はありません。
ピタゴラスソクラテスプラトンのような多くの西洋の哲学者は、生まれ変わりの
理論を信じていました。

キリスト教の聖書やゾロアスター教聖典では、生まれ変わりの理論がはっきりと語られているところはありません。

また、生まれ変わりの理論を否認する預言者もいません。

理由は、キリストとゾロアスターの時代では、それは共通の信仰だったからです。
信じる、信じないは、人の霊的な向上にとって重要な考えではありません。

事実は、もし、全能の神が親切で慈悲深く、人間の運命を決定するのなら、彼の創造において不平等はないということになります。

平等は絶対の法則であり、不平等は人間が作ったものなのです。

生まれ変わりの理論によると、私たちはみんな自分の今生とあの世の生に完全に責任があります。

各人は、自分の過去の個人的なカルマを通して形作られた世界に生まれます。
魂は、体の現れを通して、願望を満たした後、体を脱ぎ捨て、新鮮な形を身につけま
す。

私たちの願望と傾向に応じて、私たちは、微妙な点でいろいろな段階や浄化や微細
な鞘のレベルを構成しているより高い、あるいはより低い次元に生まれます。

私たちは、私たちが想いと行いを通して、自分の未来の運命の創造者であることを忘れてはいけません。

神は邪悪な者を罰し、善行者に報いると考えることは愚かなことです。
私たちは、次の生まれ変わりの要因を意識的に選んではいません。

それらは、私たちの以前の行動、想い、願望によって、決定され、あるいは選択されます。

人を表面的に人格として決定する、この決まりきった型である溝の蓄積、あるいはサンスカーラは、ある誕生から次の誕生へと旅をします。

溝は砂漠の砂丘のように、人の経験と意志に応じて、移ります。

それらは、異なる人格と異なる姿を創造しながら、しかしすべては究極の自由に向かって動きながら、形を変え、大きな時間の広がりに影響を与えます。

溝は、姿の特徴を決定します。

男性か女性か、どんな親か兄弟か、どんな身分か、どのくらいの苦しみ、どのくらいの喜びか、等々。それについて任意のものはありません。

誕生は、展開している個人の魂の霊的な必要性に完全に釣り合っています。
地球、あるいは天国における生の一時的な性質を悟った人々は、生と死の終わりのな
い繰り返しを避けることを求めます。

彼らは、けっして戻らない天国を超えた最高の実在であるブラフマロカを熱望します。悟った個人は、完全にすべての状態で、人間の体で生きている間も、死の状態の間も、気づいています。

ブラフマンを知る者は、どんな領域にも、あるいは天国にも行くことはありませんし、常にそうであるもの―すべての自己であるアートマン以外の何かになることもありません。

物質的な外観を落とした後は、悟った魂は、永遠の至福と幸福、無限の愛と智慧の状態にあります。

アートマンを知った者は、眠りから目覚め、もはや夢を見ない人のようです。

視覚を取り戻した目の見えない人のようです。

アートマンの直接体験を持つ開放された魂は、他人に仕えるために戻る選択をしないならば、物質的な次元には戻りません。

このようなジーヴァ・ムクタは、もはや束縛対解放のような二元に身を投げることはありません。
悟った魂は、他の人間を盲目にしているカルマのすべての撚糸を燃やします。

このような人は、自由の意志をふるい、生まれ変わるべきか、絶対と融合すべきかを選択します。

もし選択が生まれ変わりなら、その誕生の環境は、また意識的に選択されます。

仏教によると、このような魂は、アルハットと呼ばれます。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

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 誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき

心で億念している状態に必ず移るのだ

クンティーの息子よ これが自然の法則ーー

常に思っていることが死時に浮かぶ

 (バガヴァッド・ギーター第8章6)