永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

自己制御(ヨーガ)は、解脱への道(方法)

前回の記事では、長々と、「人間の心」について見てみました。

 

私たちは、5つの感覚器官(五官)と5つの運動器官(身体)を使って、この世を経験しているわけですが、これらの諸器官から得られた情報は、電気信号に変換されて、高速で全身に張り巡らされている神経回路を伝達して脳に到達し、脳内の関連部位で適切な処理を経て、身体全体にいろいろな反応を起こします。

この一連の働きを、ウパニシャッドでは、マナス(意思)という心の低い働きとして考えました。

このマナス(意思)からの情報を受けて、更に高度な脳の働きであるブッディ(理智、理性)が、適切な判断を下し、どのように処理するかを決定します。

このブッディが上手く機能しないと、人は自然に沸き起こる感情に乗っ取られ、理性的な判断を下すことができずに、社会的な過ちを犯してしまうことにもなりかねません。

また、そうでなくとも、心は常に揺れ動き、不安と恐れに翻弄され、平安な気持ちや安らぎ、幸福感を感じられずに、人生を送ることにもなりかねません。

 

「心の制御」とは、非人間的になることではありません。

 

自由に反応する自分の心を制御できるようになると、自然に、心が休まり、平安で満ち足りた理由のない幸福感、歓びに満たされるようになります。

 

また更に、荒れ狂う水面ではなく、表面に波の無い静かな水面は、御者である自己(ブッディ)の後ろに静かに鎮座されていらっしゃいます真我(アートマン)がその姿を映し出す鏡となることができるのです。

 

諸感覚が、外界の事物に反応している間は、意識は外界に向けられ、内側の世界に向けられることはありません。

 

人間の意識は、両方を同時に意識することはできないようになっています。

 

自分の願望を叶えようと、意識が外界に向いている人は、意識を内側の世界における自己の探求に向けることができません。

 

この内側の世界の探求が、最終的に到る境地について、聖典バガヴァッド・ギーターが明確に述べていますので、ここでご紹介させて頂きます。

 

 

アルジュナ

「超越者(かみ)に意識を投入した人は

どのような特徴をもっていますか?

また どのような言葉を語り

どのようにして坐し また歩きますか?」

 

クリシュナ

「プリターの息子よ さまざまな感覚の

欲望をことごとく捨て去って

自己の本性に満足して泰然たる人を

純粋超越意識の(悟りを開いた)人とよぶ

 

三重苦(①自然からくるもの(天災、気候)②人間を含めた他の生物からくるもの③自分の肉体に関するもの)の逆境に処して心を乱さず

順境にあっても決して心おごらず

執着と恐れと怒りを捨てた人を

不動心の聖者とよぶ

 

善を見て愛慕せず

悪を見て嫌悪せず

好悪の感情を超えた人は

完全な智識(プラジニャーニャ)を得たのである

 

亀が手足を甲羅に収めるように

眼耳鼻舌身(五官)の対象から

自分の感覚を引き払うことのできる人は

完全智(プラジニャーニャ)に安定したと言える

 

肉体をまとった魂は 禁欲しても

経験してきた味わいを記憶している

だが より上質なものを味わうことによって

その記憶も消失するのだ

 

アルジュナよ 感覚の欲求

まことに強く 烈しいもので

修行を積んで道をわきまえた人の

心をさえも力づくで奪いさるのだ

 

肉体の感覚を制御して

意識をわたしに合致させて

しっかりと固定できた人を

不動智を得た聖者とよぶ

 

感覚の対象を見 また思うことで

人はそれに愛着するようになり

その愛着によって欲望が起こり

欲望から怒りが生じてくる

 

怒りに気が迷って妄想を生じ

妄想によって記憶が混乱し

いままでの教訓を忘れ 知性を失う

その結果 人はまた物質次元に堕ちる

 

解脱への正規の方法(みち)を修行し

感覚の制御に努力する人は

至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)をいただいて

あらゆる愛着と嫌悪から解放される

 

至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)を得たとき

物質界の三重苦は消滅し

この幸福(さち)ゆたかな境地で

速やかに知性(ブッディ)は安定する

 

至上者(かみ)に知性(ブッディ)が帰入せぬ者は

心も統御されず 知性(ブッディ)も安定せず

平安の境地は望むべくもない

平安なき所に真の幸福はない

 

水の上を行く船が

強い風に吹き流されるように

諸感覚のただ一つにさえ心ゆるしたなら

人の知性(ブッディ)は忽ち奪われてしまうのだ

 

ゆえに剛者の士アルジュナ

諸々の感覚をそれぞれの対象から

断固として抑制できる人の

覚智(さとり)はまことに安定している』

(バガヴァッド・ギーター第2章54-68)

 

 

自分の心の働き(動き)を理解し、それを制御すること。

これが、私たちが、自分の本性である真我(アートマン)を覚って行く上で、非常に重要であることは、言うまでもありません。

 

「人間の心」を知るところから出発し、「人間の心」を制することを方法として実践することで、人は「悟り」に到ることができる、と聖典は説いています。

 

自分を制することができる者は、人間を制することができる者であり、

人間を制することができる者は、人間より上の存在である「神」に他なりません。

 

 

『各々別々に造り出される各感覚器官は真我とは異なることを知り、それぞれの生成と消滅とは真我とは異なることを知る賢者は、憂えることがない。

諸感覚器官の上に意思(マナス)がある。

この意思より上に理智(ブッディ)があり、この理智(ブッディ)を超えて大いなる真我(アートマン)があり、この大いなる真我(アートマン)の上に未顕現なるもの(根本自生/物質の根元)がある。

未顕現なるものの上に、万所に遍在し個別性を持たぬ神我(プルシャ)がある。

この神我を知る者は解脱して、不死の境地に至る。

神我の姿形はみることはできない。

誰も肉眼を持って神我をみることはできない。

ただ心臓(フリダヤ)と智慧(マニーシャ)と意思(マナス)とにより神我を悟る者が、不死となる。

意思(マナス)と共に五つの知覚器官がその働きを停止し、理智(ブッディ)が働かなくなった時、これが至上の道だと呼ばれている。

かくの如く諸感覚器官の働きをしっかりと制御することが、ヨーガであると言われている。

この時、行者は注意深くあらねばならない。

それというのもヨーガは(この世を)生じさせ、或いは消滅させるものだからである。

神我には言葉によっても、意思によっても、視覚によっても到達できない。

ただ「神我は存在する」と語る導師(グル)の教導の他に、如何にして悟り得るであろうか?』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

ここでも、やはり、導師(グル)の存在は、「悟り」に達するためには、必要不可欠であると書かれています。

 

ナーナさんが、この導師(グル)であることは、これまで何度も述べてきました。

 

ヨーガの厳しい実践(修行)を長年重ねることでようやく到達できる境地へと、

ナーナさんによりもたらされる神の恩寵を受け取ることで、心がけ次第では、一般人でも到達することは可能です。

 

真理体得にご興味のある方、神の恩寵に与りたい方は、こちらのナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。

毎月、各地でサットサンガ(真我の集い)を開催しています。

 

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 

感覚はその対象より優れ

心は 感覚より優れ

知性(ブッディ)は 心より優れている だが

かれは知性(ブッディ)より上位である

(バガヴァッド・ギーター第3章42)

 

 

 

ヨーガとは、心の制御である

前回の記事では、人間の構造を10頭立ての馬車の譬えで説明しているカタ・ウパニシャッドの内容をご紹介いたしました。

 

私たちは、5つの感覚器官と5つの運動器官を使って、この世を生きて(体験して)います。

しかし、よくよく考えてみると、これらの感覚器官から情報を受けたり、運動器官に命令を送っているのは、脳です。

 

脳は、人間の司令塔のような役割をしています。

 

この司令塔である脳には、マナス(意思)とブッディ(理智)という二通りの働きがあると、ウパニシャッドでは説いています。

 

マナスは、現代の脳科学でいうところの、「爬虫類脳」と言われている本能を司るとされている脳幹(視床下部)で生命維持活動を支えている部位と、

情動、感情を司るとされている「哺乳類(動物)脳」で、感覚、感情を生じさせている大脳辺縁系(偏桃体)と呼ばれている部位です。

 

これらは、人間以外の動物にもあるとされており、ヨーガではマナスという低次の心の働きと考えられています。

 

そして、ブッディとは、理智、理性であり、人間だけに特有の大脳(新)皮質であることは言うまでもありません。

 

脳科学が発達していなかった古代のインドでは、脳の働きの中で、低次の爬虫類脳と動物脳をマナスと呼び、そして、高次な人間脳の働きをブッディと呼び、

ブッディ(大脳皮質)の働きにより、低次の心の働きである爬虫類脳と動物脳であるマナスをコントロールすることが、人間を人間たらしめることにつながる、としているのです。

 

そして、このブッディは訓練されなくては、ブッディ本来の働きができない、としている点も忘れてはならない留意点です。

 

つまり、人間は、人間として訓練(教育)されないと、人間になれない、姿は人間であるけれども、真の人間とは言えない、ということになります。

 

寝て、食べて、排泄し、性交するというのは、動物も同じだからです。

そして、感情も、動物にはあり、人間特有ということはありません。

 

この本能的な心の働き、自動反応化された感情や思考は、マナス(意思)であり、私たちは、このマナスの心の働きに支配されやすく、ブッディ(理智)をほとんど使わないで生きることも可能なのです。

 

パソコンで譬えるならば、自動反応プログラムが内蔵されており、マナスはその自動反応プログラムによる反応であり、

そのデフォルト値は、個人個人により多少の差はありますが、そのプログラム通りに反応しているだけなのが、マナスによって支配された「人間」なのです。

 

お腹が空いている時に、目の前に食べ物があれば、動物なら、自然とそれを食べるのが普通ですが、

人間の場合は、その食べ物が、自分のモノでないとわかっているならば、食べることはしません。

何故なら、他人のモノを黙って食べる資格も権利も自分にはない、よって、やってはいけない、という理性(理智=ブッディ)が働くからです。

 

これこそが、他の動物と人間を区別し、人間を特徴づけている優れた能力である大脳(新)皮質の働きなのです。

 

このブッディの働きについて、スワミ・ラーマの説明をもう少しご紹介いたしましょう。

 

『しかしながら、ブッディが訓練され使われると、人は問います。

これは本当に必要だろうか?
この物を本当に必要としているだろうか?  
肉体とは何か?  
ブッディは、肉体が人の本性ではないのは、静かな湖の表面に反射している太陽が本当の太陽でないのと同じであるということを教えてくれます。

ブッディと呼ばれる心の識別力の面が訓練されると、人は一時的な人生は最終的には苦しみに至るということに気が付きます。

ブッディは探求を始め、それから、一時的でないものに向けられた人生は最終的には、苦しみのない人生に至ると結論します。
ひとたびブッディが訓練されると、人には暗く思われる選択が、より早く明らかにな
ります。

ブッディの鍛錬と識別の術がうまく働く前では、判断力は楽しいものの方に傾きます。

ブッディは一時的な楽しみや永続しないものに人生を賭ける無益さに光を放ちます。

ブッディはそのとき、より高次な自己へと人を運ぶのに必要な行動や思考の進路へと、人を導き始めます。

ブッディはエゴとより高次な自己との関係とは何なのかを問います。
ブッディが機能することを許されないと、真の自己は隠されたままです。

マナスとエゴを満足させるための無駄な努力で、人生は浪費されます。

そして、それは単に内部器官である心全体のただの一面であるだけなのです。

マナスとエゴは人間にとっては道具ですが、それらが引き継ぐことを許されると、それらは主人になってしまいます。

 

心の 4 番目の要素はチッタという、私たちの印象や思考、願望、感情が保存されてい
る広大な無意識の海です。

この海から泡立つものは、私たちが人生から人生を通して蓄積してきたものです。

たいていの人にとっては、チッタは広大な種々の材料で作ったスープのようなものです。

彼らの好みと性格で他を支配するものもあれば、ネガティブなものやポジティブなものもあります。
チッタにおけるこれらの材料は、私たちの態度、思考、行動に影響を与えます。

例えば、私たちはアイスクリームに強い願望を持ったり、ある人格に強く反応したり、他よりある風土を好んだり、特別な刺激に対する感情的な反応を持つかもしれません。

これらの願望や反応は、まるで突然にやって来たかのようで、私たちの手には負えないように思われます。

しかし、これらの思考や感情は、全く突然にやって来たのではありません。

それらは内側からやって来たのであり、アクセス可能であり、コントロールすることができます。

最初に、私たちは知り、あるいは少なくとも、私たちの心の内側には途方もなく大きな感情と経験の貯蔵庫があるということを、合理的な命題として快く受け入れる必要があります。

事実、あるいは、命題として、私たちはそれに基づいて行動し、それを試し、調べることができます。
潜在意識の心へのアクセスは、顕在意識の心である表面を静かにすることから生じま
す。

ほとんど常に心の表面上には、ある程度の乱れがあります。

ひとつの思考から別の思考へとはね飛びながら、これからあれへ、そしてまたこれへと戻る心があります。

ときには、乱れは大きく、他のときには、表面はより静かです。

ほとんど常に、顕在意識の中には潜在意識の心へアクセスさせないようにする活動があります。
どのように心が機能するかを知り、それを適切に訓練することは、人間の真の義務な
のです。

これは霊的な仕事です。

なぜなら、適切に訓練された心が、内なる神にそれ自身を現すことを許すからです。

人類に平和と喜びをもたらすのは、この勤めであり義務なのです。

 

最初の段階は、私たちの真の本性は何かを思い出すことです。

私たちは体でも、感情でも、思考でも、エゴでも、心でもありません。

私たちはアートマン―神聖で純粋な意識なのです。

私たちの体と心とエゴはアートマンに仕えるようにはなっていません。

 

2番目の段階は、ブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタという心の 4 つの面と機能を理解することです。

訓練されていない心では、マナスはそれにとっては不適切な役割を引き受け、エゴであるアハンカーラは、正当な場所よりもより大きな力と権威の地位につきます。

アハンカーラは、実際には、個人に形を与える一時的な構造です。

アハンカーラは永続しません。

それは個人の真の本性ではなく、主人であると思う傾向を持つ召使いなのです。
心の 4 つの要素は、統合されなくてはなりません。

それぞれは、他と協力し調和して果たす必要のある役割を持っています。

マナスとアハンカーラはそれらの仕事をすべきで、それだけにすぎません。

ブッディは、人に成長と喜びをもたらす決定をするために訓練され用いられなくてはなりません。

 

この心の要素の統合を完成するためには、心と感情のさらに詳しい理解が必要とされ
ます。

4 つの基本的な衝動は、個人的な感情とそれらの心への影響を決定します。

原始的で基本的で全人類や他の生物たちによって共有されているこれらの衝動は食物、睡眠、性交、自己保存のためのものです。

これらの衝動の観点から、人間と他の動物の間に違いはそれほどありません。

違いは、これらの衝動をコントロールする能力において、人間の心が卓越していることです。
他の動物はこれらの衝動に従属しています。

彼らの一生は、これらにより決定され導かれます。

一方、人間はマナスとブッディを適切に使うことで、これらの衝動をコントロールすることができます。

もし心の要素が調和して働かないと、これらの 4 つの基本的な衝動は、機能障害や情緒不安という一般的に不健康な方法でそれらを表現するでしょう。

食事の不摂生、中毒、行き過ぎた性行為は人の心身の健康に影響を与えます。
多眠、小眠、断続的な睡眠は、心と体に同じ影響があります。

自己保存の中心的な問題である死の恐れは、所有物を喪失する恐れや、人間関係における所有欲の強いことや、飛行機恐怖症や他の恐怖症を含む広範囲な恐れに通じます。

これらの不摂生と中毒は、それらの感情的な混乱を伴ってチッタの中に流れ込み、個性を形作り、何年間も、一生の間でさえ、癖を作り出します。
すべての心の要素が真に統合されると、人は悟りのより高いレベルに飛ぶことができ
ます。

かつて心の総合的な統御なしに覚醒あるいは悟りを達成した偉人はいません。

この統合は努力、実践、技術を必要とします。

それは心を一点に集中し内部へ向かわせることを意味します。

心が統合されないと、それは巧みな行動をとることができません。
なぜなら、思考のプロセスと願望のより繊細な紐は、自由への道においては障害となる
からです。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

「人間馬車説」と、マナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラという4つの心の働きが、人間の体と心の大まかな構造になります。

 

自分が神である、ことを悟る前に、まずは、「人間」にならなくてはなりません。

 

姿と形が人間であっても、それは、ライオン、キリン、サル、ヘビといった形の違いであるだけでは、真の意味で「人間」とは言えないのです。

 

真の意味で「人間」であるということは、ブッディを十分に働かせているか?にかかっています。

 

ブッディ(理智)の役目を再考し、どのようにブッディ(理智)が、日常生活で機能しているかを探り、理解することは、「自分とは誰か?」への答えを手にする近道となることでしょう。

 

5つの感覚器官と5つの運動器官である10頭の馬が、走りながら、目先のことにいちいち反応し、暴れまくるのは、マナス(意思)という手綱を上手く操縦していないからです。

手綱を上手く操縦できないのは、御者であるブッディ(理智)が手綱を上手く操縦する術を知らないからです。

そのままで行くと、馬車全体が、大揺れに揺れ、時には大きな損傷を被ることにもなりかねない、ということになります。

(人間社会では、感情に任せて犯罪を犯してしまう、ということが頻繁に見受けられるのは、この現れであると考えることができます)

 

それ故、暴れる馬を制御するために手綱さばきは大切であり、御者が手綱さばきに熟練していることが必要です。

この熟練のためにヨーガ(行)があるのであり、「ヨーガとは、心の制御である」(ヨーガ・スートラ by パタンジャリ)と言われている所以です。

 

 

『もしも、その者の意思(マナス)が常に落ち着きなく、正しい判断力(理智=ブッディ)によって制御されていないと、

その者の諸感覚器官(10頭の馬たち)は、暴れ馬が御者に対するが如くに、統制できなくなる。

しかし、その者の意思(手綱)が常に落ち着いており、正しい判断力(理智)によって制御されていれば、

その者の諸感覚器官は、良馬が御者に対する如くに、統制できるようになる』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

 

もし肉体を脱ぎ捨てる以前(まえ)に

五官による感覚の衝動に勝って

欲情と怒りを抑制し得たならば

その人は現世においても幸福である

(バガヴァッド・ギーター第5章23)

 

 

 

 

 

人間の構造について(人間馬車説)

これまで何回にもわたり、「神」について考察してきましたが、

これからは、「神」に対する「人間」について考えていきたいと思います。

 

「人間」とは、どのようなモノでしょうか?

 

「人間」である”わたし”は、固有の肉体と固有の名前を持った存在です。

そして、固有の人生と固有の考え方や嗜好などを持っています。

しかし、それらは、個人を特徴づける外側に後付けされた、所謂、個性と呼ばれているモノです。

 

ここでは、個人を特徴づけるそれら外付けのモノを取り外した「人間」の素の姿を考えてみたいと思います。

 

古くインドでは、人間の構造を10頭立ての馬車に見立てて理解しようとしました。

 

10頭立ての馬車と言うのは、

 

10頭の馬とは、5つの知覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)と5つの運動器官(手、足、生殖器官、排泄器官、発語器官)を表します。

 

手綱は、馬たちと御者との間での情報を伝達する意思(マナス)を表し、

 

御者は、知性や感性の判断を下す心理器官である理智(ブッディ)を表します。

 

御者の後ろには、客室があって、それは、我執(アハンカーラ)と心素(チッタ)という2つの心理器官とされています。

 

御者である理智が下す判断に、我執は「自分の/自分が」という意識をくっつけます。

心素は、全ての心理的残存印象(記憶)を蓄え続ける倉庫となっています。

 

そして、この馬車を操縦する御者(理智=ブッディ)の後ろの客室の中には、真我(アートマン)が座していらっしゃいます。

 

『真我(アートマン)を車中の主人と知れ。

身体(シャリーラ)は車輛、理智(ブッディ)は御者、

意思(マナス)は手綱と知れ。

諸感覚器官は馬たちであり、感覚器官の対象物が道である。

真我と感覚器官と意思が一つとなったものを、賢者は享受者(ボータク)と呼ぶ。』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

この構造を理解し、自分に当てはめて考えると、次第に人間の構造、「わたし」の正体がわかってくるようになります。

 

それでは、3月30日に発売になりますスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」で、この人間の構造である「人間馬車説」について非常に詳しく説明されている箇所がありますので、ご紹介させて頂きます。

 

インド哲学は、心を内部器官であるアンターカラナと呼ばれる 4 つの機能を持つひとつのグループとして記述します。

これらの 4 つの機能、あるいは要素は、前の章で述べましたが、それらのプロセスは、さらに詳細に説明されなくてはなりません。

アハンカーラ、あるいはエゴがあります。

ブッディは、知性、あるいは、より高い機能の心であり、それは区別し、知り、決定し、判断します。

マナスは、より低い機能の心で、情報を生み出し、処理し、感覚の知覚を通して出力したり、入力したりします。

そして最後はチッタという印象、感情、記憶の潜在意識的な貯蔵庫です。

これら 4 つの要素は、それぞれの要素がそれぞれの特定な仕事をしながら、共に調和して働くことになっています。

訓練と鍛錬で、これらの 4 つは協調し、それらはアートマンを探す際の非常に有益な道具となります。

協調、識別、訓練がうまくいかないと、それらは進路上の手強い障害物となります。
それでまずは、自分の単なる自己の異なった面を知り、それらの面を訓練し、それら
が真の自己ではないと知ることです。

カタ・ウパニシャッドは、 2 輪馬車の譬でこれを説明しています。

霊的な自己は 2 輪馬車の持ち主です。そして、肉体が馬車です。
ブッディは、 2 輪馬車を駆る人として仕え、感覚の経験という開かれた野原で束縛されずに走っている馬のような感覚をコントロールする手綱として心を使います。

大抵の場合、不幸なことに、私たちはこの隠喩を理解できず、心がどのように機能するかを教えてもらっていません。

私たちは何を訓練し鍛錬すべきかを知らないのです。
マナスの性質は、この情報またはあの情報は重要であるか、あるいは、取り入れる
べきかどうかと問うことに限られています。

マナスは〝これは私にとって良いかどうか?〞と問うだけです。

マナスはこれらの質問をブッディに伝えなくてはなりません。
そしてブッディは、答えを持ち、それらをマナスに伝えるために、訓練され、研ぎ澄ま
されなくてはなりません。
訓練しないと、信頼をもってそうすることができないときに、マナスはあまりに多く
の力をわが物とし、ブッディを無視し、独立して行動します。

マナスは内側、外側での争いに満ちています。

浄化されたブッディの助けがないと、マナスは不確かさと惨めさの源となります。

時間を超えて、マナスの行動は習慣になります。
訓練されていない心に関する別の問題は、エゴであるアハンカーラが引き受けた不適
当な支配力です。

訓練されていない心におけるエゴは、心の所有者であり、存在の中心であると信じる性質を持っています。

訓練されていないエゴはあまりに強力なので、人は彼の真の性質が神聖であり、究極の存在であり、永遠であることを忘れています。

マナスがうまくできない仕事をしようとして、ブッディに相談せず、エゴはそれ自体が最高であると信じるとき、結果は人間にとって悲惨です。

エゴは世界において作用する格子の枠組みのようなものです。

私たちが誤って考えているように、それは有形のものではありません。

それは単なるある機能を持った心の一面なのです。

エゴは人の本性ではありません。

それは、私たちを分離した個別の個体に分割しているエゴと呼ばれる〝わたし〞という感覚です。

エゴは、私たち個人が自己認識するすべての感覚や性質を集めます。

それは私たちの人格の創造者ですが、エゴは究極の存在ではありません。

〝わたし〞という感覚、あるいは、エゴは 2 つの要素の混ぜ合わせです。

ひとつは変化し、もうひとつは不変です。

変化する要素は現象的な宇宙、肉体、そして外部の対象物の感覚、等の基本です。

それは展開の源なのです。
マナスとエゴは心の中のあてにならない雑草のようなものです。

もしそれらが注意して意見を聞いてもらえないと、役割を接収します。

マナスは、これをしなさい、あれをしなさいと言い、これについて嘘 うそ を言えば、あなたは困難から離れていられると言い、これを盗めば、あなたは成功し、この喜びを楽しめば、あなたは幸せになると言います。
そう、これは素晴らしい、これは私のため、そして、私はまったく物質そのものだ、と
言います。
マナスが望み、エゴが必要だと言うことは何でもするこの道は、苦痛、恐れ、そしてさらなる無知で終わることでしょう。

これは、所有し、必要とし、獲得し、保持する道であり、〝わたしは〞〝わたしの〞〝わたしのもの〞の道なのです。

エゴはこの体はわたしのものであり、この家はわたしのものであり、この伴侶や子どもたちはわたしのものであると言います。

このわたしのものとあなたのものという感覚は、他の個人から個人を分離し、世界を彼らとわたしに分割します。

それはまた個人を内面的に分離し、本当の自己に対する障壁を積み上げます。

それは死の恐れを作り出します。

死は私たちが所有し欲するこれらのものの終わりを意味するでしょう。

それは恐ろしいことです。

もし私たちが自分は肉体だと思っているなら、死んでいく肉体を予想することは恐ろしいことです。

なぜなら、そのとき、死は私たちの存在の完全なる停止のように思われるから
です。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

所謂、(深層)心理学がフロイトによって世に登場したのは、19世紀になってからでした。

それまでは、系統立てて、人間の心の構造について、語られることはほとんどありませんでした。

しかし、インドで生まれたウパニシャッド哲学においては、すでに4000年も前から、少しづつ、人間の心の構造について、解明され伝えられてきており、

その智慧は、今日、ヨーガの伝統の中に見い出すことができます。

 

この「人間馬車説」について、続きは次回でもご紹介します。

 

 

物質世界(このよ)の生物に内在する不滅の霊魂は

わたし自身の極小部分であるーーかれは

心をふくむ六つの感覚を用いて

苦労しながら肉体を操っているのだ

(バガヴァッド・ギーター第15章7)

 

 

聖なる旅-目的をもって生き、恩寵を受けて逝く

これまで数回にわたり、スワミ・ヴィヴェーカーナンダと彼の師である聖ラーマクリシュナが遺されたお言葉より、抜粋してご紹介してきました正に同じことを、

今月3月30日に発売になりますスワミ・ラーマも彼の著書『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』の中で述べていますので、ご紹介させて頂きます。

 

ウパニシャッドにおける傑出した優れた教えのひとつは、現象としての宇宙は創造と
いうより顕れであるということです。

ひとつの絶対的な実在が多くのものの中に顕れてきました。

これは創造から分離している創造者という西洋的な考えとは違っています。
二元性はウパニシャッドの教えにおいては、完全に捨てられています。

E k o ’ h a mb a h us y a m。ここにもあそこにも、すべてのところに、ただ〝ひとつ〞が在るだけなのです。
〝ひとつ〞とはブラフマンであり、実在、または純粋意識です。

ブラフマンは実在であり〞〝世界のはかない物は非実在である〞とウパニシャッドは述べています。

ブラフマン以外のすべては錯覚です。

ブラフマンは生命の源であり、光であり、存在そのものなのです。

人生の目的はこの真理を悟ることにあります。
ほとんどの人々は、世界にある対象物の中に幸福を求める傾向があります。

一方、ウパニシャッドでは、幸福は世界にある物の中には見つけられることはないと私たちに語っています。

人間関係を含むこれらのことはあっという間に過ぎ去り、過ぎ去るものは永遠の平和や喜びをもたらすことができません。
ウパニシャッドは私たちに、永遠のものを見つけるために自分の内側を見るようにと
言っています。

〝人は外にあるものを見、内にあるものを見ない〞とウパニシャッドは言っています。

〝不死なるものを求める人は稀である。

自分の外にあるものに目を閉ざし、真の自己を見る。

愚か者は肉の欲望に従い、死を取り囲むすべての誘惑に陥る。

しかし、永遠なるものとしての自己を知る賢者は、過ぎ去るものを求めない〞
これは、聖パウロがコリント人に宛てた手紙に書いたこととよく似ています。

彼は人生のすべては霊的な成長のためにあると彼らに思い起こさせました。〝すべてのことはあなた方のためなのです〞と彼は言いました。

〝それらを賢く使いなさい。人生は短い〞
〝たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです〞
イエスは、同じように山上の垂訓で彼の弟子たちを導きました。
〝自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。

そこでは虫とさびで、きず物になりまた盗人が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。

そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません〞
〝あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです〞
人生の目的は、外側にあって過ぎ去るものと、内側にあって永遠なるものとの違いを
知り、実践と経験を通して、他方に対する片方の無限の価値を発見することです。

ひとたびこの違いが理解されると、人生は歓びに満ちた意味を持つようになり、死の恐れは消えます。
ウパニシャッドは、また、ヴェーダンタ、あるいは、ヴェーダの後半部分として知ら
れており、それ自体、最も高い目的を表現しているものですが、それは個人の魂を束縛
から自由にする究極の智慧に達するためのものです。』

『生と死の秘密は、私たちの真の自己は何であるかを知ろうとする探求だけを含んでい
るわけではありません。

この神秘を解明することは、私たちの行動、言葉、考え、そして、どのように、またどうして、私たちがこれらの行動をとり、ある言葉を発し、特別な考えを考えるのか、をも含んでいます。

ある方法がとられると、私たちの行動は、地球的な人生や誕生と死の終わりのないサイクルに私たちを束縛することができます。

別の方法がとられると、行動は、人生における喜びと死を超えた勝利を創造します。
あなたがこの人生を選択したことを思い出しなさい。

あなたは、あなたの旅においてこの発見の瞬間に向かって移動してきました。

これは最も霊的な前進を遂げるためのあなたが世界に住む完璧なる時間です。

あなたの人生における人々、あなたの両親、子どもたち、伴侶、友人たち、同僚たちは、あなたの成長にとっては完璧なのです。

瞑想は、探求者を、習慣、願望、恐れが生きている感覚と限られた心の層を通過させ、
不滅であるそれと対面することになるサマディの超越意識の状態に導きます。

アートマンが悟られると、探求者は、一時的なこの世の状態である苦しみや喜び、哀しみや惨めさを超越します。

アートマンがいるところには、死は近づくことができません。

アートマンは絶対的な存在の王国であり、永遠の王国であり、私たち内面の深さと同じ程度に離れているだけなのです。』

 

『生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。

それは、ひとつのコインの 2 つの面です。

このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。

アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。

サマディを達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。

自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

アートマン(真我)という単語は、日本人にはこれまであまり馴染みがない言葉ですが、”内在神”と訳すことができる私たち人間の内部(内側、心)にいらっしゃいます「神」のことです。

 

そして、その内在神であるアートマンブラフマンという”ただひとつなる一者”とは、同じ一つのものである、ということになります。

 

それが、所謂、梵我一如(アドヴァイタ=不二一元論)と言われているモノです。

 

私たちは、アートマンであり、すなわち、ブラフマンなのですが、そうは思えない、というのが一般人の感想でしょう。

 

この”分離感”を生じさせているのが、エゴという”わたし”という感覚、意識です。

 

次回から、このエゴについて、エゴの正体について、エゴとは何なのか?について、明らかにしていこうと思います。

 

神秘の扉の向こうに行くには、このエゴという扉が邪魔をしています。

 

自分と「神」を隔てている仕切りとなっているこの「エゴ」について正しく知ることは、「エゴ」という仕切りを消滅させるのに、ひと役かってくれることでしょう。

 

 

☆ 上でご紹介いたしました『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』は、Amazonから先行予約ができるようになっています。
 
 
また、全国の書店を通してご注文の上、ご購入して頂くことも可能です。
定価は、1,600円(+税)です。
 
どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

『本書は、ヒマラヤにある僧院で、師(グル)の教えに従い、ヨガ体系の様々な修養を修め、その後、師の勧めに従い、東洋の教えを西洋に伝えるべく渡米し、東洋と西洋の橋渡しを務めたスワミ・ラーマが著した30冊余りの著書のうち最後に出版されたものです。
カタ・ウパニシャッドを題材に、死神ヤマと霊性の探求者であるナチケータとの対話を通して、人類にとって最大の謎である生と死の秘密が、次第に明らかになって行きます。
生と死、神と人間、カルマとダルマ、肉体と心について、など、人間が抱く様々な疑問への答えが、ウパニシャッドとヨーガの叡智を通して、それらの知識がない現代人にも分かり易く、明確に説かれています。
(ウパニシャッドとは、インドに誕生し、古くは口伝により、その教えを受けるに相応しい人々にのみ伝えられ現在まで継承されてきた人類史上最も古い霊的な啓示とされているものです)』

Amazonの書籍紹介文より)

 

 

 

アルジュナ

至上主(かみ)は全生物の胸に住み

かれらの行動を指揮する

御者が馬車を動かすようにーー

(バガヴァッド・ギーター第18章61)

 

 

見神=内なる神に出会うこと

前回まで、何回にもわたり、二元論から出発して、限定非二元論を経て、非二元(一元)へとざっと見てきました。

 

自分を知ることは、神を知ることです。

そして、神を知ることは、実は、自分を知ることなのです。

 

実在としての”ただひとつなる一者”である「神」は、私たちと1mmも離れていません。

 

そのことを、ナーナさんは、シャクティパータを通して、私たちに悟らせて下さいます。

 

聖ラーマクリシュナが遺されたお言葉より、弟子でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダが、得々と説いて下さいましたアドヴァイタ(一元)を、実にすっきりとまとめて下さった文章がありますので、ご紹介させて頂きます。

 

『先生、人間は何故、神のことを考えたりするのでしょうか?』

 

『神とは何か、もしそれを理解していれば、それこそ生きながら解脱した人だ。

だが、みんなこれを信じていないのだ。

ただ口でしゃべるだけのことだ。

神は実在し、神の意志ですべてのことは起こっている、と世間の連中は聞いているだけで信じてはいない。

世間の人は、神についてどんなふうに知っていると思う?

伯母さんたちの口ゲンカを聞いて、子供たちがけんかをしながらそのマネをして言うーー”あたしには神様がついていらっしゃるから”--あれだよ。

全部の人があの御方を理解できると思うかい?

あの御方は善い人をお創りになる、悪い人をお創りになる、信心深い人をお創りになる、不信人な人をお創りになる、神を信じる人をお創りになる、神を信じない人をお創りになる。

あの御方のリーラー(神の遊戯)の場は、すべてが多種多様で不可思議だよ。

あの御方の力は、ある場所には溢れるほどたくさん顕れているし、ある場所にはほんとに少なくしか顕れていない。

太陽の光は地面よりも水面によく反射するし、水面より鏡にもっとよく反射する。

それから、神の信者にもいろいろある。上、中、下とあるんだ。

ギーターにみんな書いてあるよ』

 

『仰せの通りです』

 

『下の信者は、「神様はいらっしゃる。天上はるか遠くに」と言う。

中の信者は、「神はすべての生物のなかに、意識として、生命として宿っていらっしゃる」と言う。

上の信者は、「神ご自身があらゆるものに成っていらっしゃる。見るもの一つ一つが神の色相(すがた)なのだ。

あの御方が現象(マーヤー)、生きとし生けるもの、この世界すべてになっていらっしゃるのだ。

神の外には何一つ存在しない」と言う。』

 

『”あんたとあんたのもの”これが智慧だ。”私と私もの”--これが無智だ。

身体も、心も、家も、家族も、ほかの生きとし生けるもの、この宇宙、世界ーーみんな、みんな、あんたのもの、私のものは一つもないーーこの理解が智慧というものだよ。

無智な人はこう言う、神様は”あっち、あっち”、ずーと遠くの方に!

智者はよく知っているよ。

神様は”ここ、ここ”--ほんとに近く、胸のうちに、心のすべてを見ていてくれるものとしてあること。

そして、自分で一つ一つ様々な色形(かたち)をとって、そこに住んでいらっしゃることをね』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

自分自身の胸のうちに、自分自身の内側に、この「神」(アートマン)を見い出すこと。

 

ナーナさんは、このためだけに、働いて下さっています。

 

「神」は言葉を超えているので、言葉では表現できない存在ですが

そうであるからこそ、体験するしかない、とナーナさんは仰っています。

 

その言葉を超えた存在に出会うことを”見神”と言いますが、

見神を心から願う人に、今だけ、恩寵の扉が開いていることをお知らせしないではいられません。

(人間にとって、このようなビックチャンスは、またとないことだと思うからです)

 

ナーナさんが活動されている間だけのチャンスと言えます。

 

ナーナさんのサットサンガへの参加の後、しばらくしてから、神の恩寵の力であるシャクティパータを受けることができます。

 詳細は、こちらからご覧ください。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 

 まことのヨーギーは万物の中に自己(アートマン)を見

また自己のなかに万物を見る

まことに真理を覚った人は

あらゆるところを同等に見る

(バガヴァッド・ギーター第6章29)

 

 

ただひとつなるもの-不滅の自己

前回の記事でご紹介しましたスワミ・ヴィヴェーカーナンダのアドヴァイタ(不二一元論)における「神」「宇宙」「人間」間の相互関係について、概要だけでも掴めたでしょうか?

 

この宇宙のほんの一部でしかない、と考えられている”人間”と、この宇宙の唯一の実在である”神”は、実は同じ一つのものであり、そこには違いはない、と主張するアドヴァイタ(不二一元論)の考えを理解し、受け入れることは、人間にはそれほど簡単なことではありません。

なにせ、これまでず~と、”人間”として生きてきたのですから。

自分は、神によって創造された被造物だと思って生きてきたのですから。

ですが、それは、”錯覚による妄想である”、とスワミ・ヴィヴェーカーナンダは、述べています。

 

これまで数回にわたってご紹介してきましたスワミ・ヴィヴェーカーナンダが語る「究極の真理」については、今日ご紹介する文で締めくくりたいと思います。

 

『しかし、どうして、その完全な神がまよったりなどしたのでしょうか。

いや、彼は決して、まよいはしませんでした。

どうして完全な神がゆめなどを見ましょう。

彼は決して、ゆめなどは見ませんでした。

真理は決してゆめは見ません。

どこからこのまよいは生じたか、などという問いそのものが、ばかげたものなのです。

妄想は妄想以外のものからは生まれません。

真理がすがたをあらわすやいなや、妄想はきえるのです。

妄想はつねに、妄想に依存します。

決して神、真理、アートマンには依存しません。

あなたは決して、妄想の中にいるのではありません。

妄想の方があなたの中にあり、あなたの前にあるのです。

一片の雲がここにある。

もう一かたまりの雲がやってきて、これをおしのけ、そのあとにおさまります。

さらにもう一つのかたまりがやってきて、それをおしのけます。

永遠の青空の前に、さまざまの色あいの雲がきてはしばらくとどまり、やがてきてさりますが、あとにふたたびあらわれるのは、前と少しもかわらない、永遠の青空です。

それとおなじように、みなさんは永遠に純粋で、永遠に完全なのです。

みなさんは、まぎれもない、宇宙の神々です。

いや、二つはありません。

一者があるだけです。

「あなたと私」と言うのはまちがいです。

みなさんは「私」とおっしゃい。

幾百万の口でたべているのは私です。

どうして私がうえることなどあり得ましょう。

無数の手によってはたらいているのは私です。

どうして私が火活動的であり得ましょう。

全宇宙の生命を生きているのは私です。

私にとってどこに死などがあり得ましょう。

私はいっさいの生をこえ、いっさいの死をこえています。

どこに自由をさがしもとめるのですか。

もともと自由に生まれついているのに。

誰が私をしばることができるというのですかーーこの宇宙の神を?

世界のもろもろの聖典は小さな地図にすぎず、とうてい、宇宙の唯一の実在である私の栄光を描写することはできません。

それでは、これらの書物は私にとって何なのでしょうか。

アドヴァイティストはこう言います。

「真理を知り、ただちに自由になれ」そのとき、いっさいのやみはきえるでしょう。

人が自分は宇宙の無限の実在と一体であるということを知ったとき、いっさいの分離の意識がきえたとき、すべての男女、すべての神々と天使たち、すべての動物と植物、および全宇宙がその一者の中にとけこんだとき、そのとき、すべての恐怖は消滅します。

私が自分をそこなうことができますか。

私が自分をころすことができますか。

誰をおそれると言うのですか。

あなたは自分自身をおそれることができますか。

そのとき、すべてのかなしみはきえるでしょう。

何が、私にかなしみをあたえることができますか。

私は宇宙の唯一の実在なのです。

そのとき、すべての嫉妬は消滅するでしょう。

誰に嫉妬すると言うのですか。

私自身にですか。

そのとき、すべての悪感情は消滅します。

誰にむかって、悪感情をいだくことができるというのですか。

私自身に対してですか。

宇宙間には私のほかには誰もいないのです。

そして、これが知識にいたる唯一の道である、とヴェーダーンティストは言います。

この「差別」を絶滅おさせなさいと。

多数がある、というこの迷信を絶滅おさせなさい。

「この多の世界の中にその一者を見る者、この非情のかたまりの中にその一つの有情の存在を見る者、この影の世界の中にその実在をとらえる者、永遠の平和は彼のものだ、他の誰のものでもない、誰のものでもない」

これらが、インドの宗教思想が神についてあゆんだ三つの段階のいちじるしい特徴です。

われわれはそれが、人格的な、宇宙のそとにある神をもってはじまったことを知りました。

それは外在するものから、内在する宇宙体、宇宙に内在する神へとすすみ、そして最後に、魂自身とその神とを一つのものであると見、宇宙間のさまざまの現象のすべてをひとつの魂、ひとつの統一体とすることによっておわりました。

これが、ヴェーダの最後の言葉です。

それは二元論をもってはじまり、限定一元論を通って、完全な一元論におわるのです。

この世界中でどんなにわずかの人びとしかこの最後にまでは到達することができないかということを、いや、それをあえて信じる人さえどんなに少ないかということを、それにしたがって行動する人はさらにどんなにまれであるかということを、私たちは知っています。

しかし、その中にこそ、宇宙間のすべての倫理、すべての道徳、すべての霊性の説明がひそんでいるのです。

誰でもが、「他者のために善をなせ」と言うのはなぜですか。

その理由はどこにあるのでしょうか。

すべての偉大な人びとが人類の兄弟愛を説き、もっと偉大な人びとはいっさいの生き物との兄弟愛を説いている、というのはどういうわけですか。

彼らがそれを意識していたかどうかは別として、それらいっさいのものの背後に、非合理的で個人的なあらゆる迷信を通して、すべての多様性を否定する自己(アートマン)の永遠の光がかすかにすがたをあらわしており、全宇宙はひとつである、ということを主張していたからなのです。

もう一度結論を申しあげると、われわれは一つの宇宙があることを知りました。

その宇宙を、われわれは感覚を通して物質と見、知性を通して多くの魂と見、霊性を通して神と見るのです。

世間が罪や悪とよんでいるところのおおいを自分の上になげかけている人にとっては、この宇宙そのものが変じて、おそろしい場所となり、楽しみを欲するもうひとりの人にとっては、そのおなじ宇宙がすがたをかえて天国になり、そして、完成された人の前には、いっさいのものは消滅して、宇宙は彼自身の自己となるでありましょう。

 

さて、現にいま、社会が存在しているのですから、これらの三つの段階は全部必要なのです。

たがいに他を否定するものではなく、他をおぎない合って完成にみちびいているのです。

非二元論者も、限定非二元論者も、二元論者がまちがっているとは言いません。

それはただしい見解です。

ただ、すこし程度がひくいのです。

それは真理への途上にあるのです。

ですから、各人が彼自身の考えにしたがって、この宇宙の彼自身のヴィジョンをえがきだすがよろしい。

他者をきずつけてはなりません。

他者の立場を否定してはなりません。

相手の立場は尊重しつつ、もしできるのなら、彼がより高い境地にのぼるよう、手をかしておやりなさい。

しかしきずつけたり、こわしたりしてはなりません。

長い間にはいっさいが真理に到達するのです。

「心のすべての欲望が征服されたとき、そのときこの死すべきものがそのまま、不滅となるであろう」

そのとき、人がそのまま神となるのです。』

(ギャーナ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

これまでも、究極の真理は、在りましたが、これからも、永遠に変わらず、在り続けます。

 

ですから、どのタイミングでそれに出会っていくかは、その人、それぞれのプロセスなので、遅い、早いの違いはあるでしょうが、早いから良い、遅いから悪い、ということではありません。

 

すべての人は、潜在意識では、これが真理であることを知っています。

 

しかし、まだ、自分にはその道に進む準備ができていないというエゴの声が聞こえてきて、進むことを思い届ませることもあるでしょう。

 

そして、真理はわかったけれども、どうやったら、その真理に到る(掴む)ことができのか?よくわからないまま、時間が過ぎてしまうこともあります。

 

それを掴もうとするかどうか?は、その人次第ではありますが、

実は、それはもう決まっています。

もうすでに出会ったということは、自分の中に種子を宿した、ということです。

いつ芽が出るかはわかりませんが、種子を宿したからには、その種子は、いつか芽を出し、枝を伸ばし、花を咲かせ、結実することでしょう。

生長の速さは、そうなることを願う気持ちと比例しています。

そのために、人間には、長い長い時間が与えられているのです。

この教えに出会ったということは、そういうことです。

いつかは、真理を掴み、己の中に不滅の真の自己を発見することでしょう。

 

この道に進もうと、自ら進んで希望する人は、遅かれ早かれ、その結果を手にすることでしょう。

望まなければ、手にすることはありません。

自分で蒔いた種子は、自分で刈り取る、というのが、この世の法則なのです。

 

 

衆生はサット・チット・アーナンダ(実在、智慧、至福)そのもの。

けれども、マーヤー(迷妄)とか我執とかいうものがいろいろな添えもの(名前や等級)をこしらえてしまって、自分たちの本性を忘れている。

ホラ、こうやってわたしの顔の前にタオルをぶら下げると、もうわたしが見えないのだ。

こんなにお前たちの近くにいるのにね。

こんな具合に、神様はわたしよりもっと皆の近くにいるのに、マーヤー、つまり覆いのために見ることができないんだよ。』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

自分自身の中に、不滅の自己(アートマン)を見いだすこと。

 

このために、ナーナさんは、私たちと共にいて下さります。

 

3月30日に発売になりますスワミ・ラーマ著の「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』の帯に頂きましたナーナさんの言葉、

 

『この本を読み理解し実践することで
アートマン(真我)への長い旅を短縮することができます。
それは叡智への近道であり至福に満ちた道です。
アートマンは実在であり永遠の歓びなのです。』

 

自分自身が、アートマンであるという確信を持てた人は幸いです。

 

ナーナさんは、私たちがその確信を得られるようにと、私たちの道の途上にいて、アートマンへの道を照らす真理の光となって輝いて下さっているのです。

 

 アートマンの直接体験を望むすべての人々に、いま、恩寵の扉は開いています。

サットサンガへの参加の後、しばらくしてから、神の恩寵の力であるシャクティパータを受けることができます。

 詳細は、こちらからご覧ください。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

http://ameblo.jp/premagrace/ (すべては本質の流れのままに――サットサンガ参加者の体験談、感想)

 

 

 

 そしてすべての生物のなかに

ひとしく至上主が住んでいる

必滅の体のなかにあるこの不滅なるもの

知る人は まことに存在の実相を見ているのだ

(バガヴァッド・ギーター第13章28)

 

自己、すなわちアートマン(真我)こそ神なり

今回も、二元論、限定非二元論を経て、不二一元論(アドヴァイタ)について、更に考察を深めていきましょう。

 

この智慧を真に理解できるならば、神秘への扉は開きつつあると言えるでしょう。

 

『ではアドヴァイティスト(非二元論者)は何と言明するのか。

彼は言います。

もし神というものがあるなら、その神は宇宙の質料因であって同時に動力因でなければならない、と。

彼は創造者であるばかりでなく、被造物でもあるのです。

彼みずからがこの宇宙なのです。

どうしてそんなことがあり得るのか。

神、このきよきもの、霊が宇宙になっているというのか。そうです。

外見的にはそうなのです。

すべての無知な者たちが宇宙としてながめているところのものは、実際には存在していません。

では、みなさんや、私や、私たち一同がながめているこれらいっさいのものは一体何なのでしょうか。

単なる自己催眠です。

そこにあるのはただ、唯一の実在、無限なる者で、永遠に祝福された一者のみです。

その実在の中で、われわれはこれらすべてのさまざまの夢をみるのです。

それは、いっさいを超越した、無限なる者、知られたものを超越し知られるべきものを超越した、アートマンです。

それの中で、それを通じて、われわれは宇宙を見るのです。

それが唯一の実在です。

それはこのテーブルです。

それは私の前の聴衆です。

それはかべです。

それは、あらゆるものから、その名と形をとり去ったものなのです。

テーブルからその形をとり去ってごらんなさい。

その名をとり去ってごらんなさい。

あとにのこるのがそれです。

ヴェーダーンティストはそれを彼とか彼女とはよびません。

彼とか彼女とかいうのは虚構、人間の頭脳の妄想です。

魂には男女の別はありません。

幻覚に支配されている人びと、けもののようになっている人びとは、女を見たり男を見たりします。

生きている神々は男も女もありません。

いっさいのものを超越している人たちが、どうして性の観念などを持つでしょう。

あらゆる人、あらゆる物は性を持たない、純粋の、永遠にめぐまれたアートマンなのです。

自己なのです。

物質的なのは名です、形です。身体です。

そしてそれらが、このいっさいの差異をつくるのです。

もし名と形というこのふたつの差異をとり去るなら、全宇宙は一つです。

そこには二つはありません。

どこに行っても一つです。

みなさんと私は一つです。

そこには自然もなければ神も宇宙もありません。

あの一つの、無限の実在があるだけ、それから、名と形によってこれらすべてのものがつくり出されるのです。

どうして知る者を知ることができますか。

それは知ることはできません。

どうしてあなたがあなた自身の自己を見ることなどできますか。

あなたは自分をうつすことができるだけです。

ですから、この宇宙全体は、その唯一永遠の実在、アートマンの映像です。

そして、反射体のよしあしに応じて、よい、あるいはわるい像ができあがるのです。

こういうわけで殺人者の場合は、反射体がわるいのであって自己がわるいのではありません。

聖者の場合は、反射体が純粋なのです。

自己、すなわちアートマンは純粋なのがその本性です。

最低の小虫から最高の完成された存在にいたるまで、そこにそれ自身をうつしているのは同一の、宇宙の唯一実在です。

物質的にも、心理的にも、道徳的にも、霊的にも、この宇宙は全体が一つの単一体です。

一つの実在です。

われわれはこの唯一実在をさまざまの形の中にながめ、それの上にさまざまな像をつくっているのです。

自分自身を人間という条件によって限定した者には、それは人間世界としてあらわれます。

もう少し高い存在段階にいる者には、それは天界のように思われることでしょう。

宇宙にはただ一つの魂しかありません。

それはくることもなければ行くこともない。

生まれることもしなければ死にもしない。

生まれかわりもしません。

どうしてそれが死ぬことなどできましょう。

それがどこに行くことができましょう。

これらすべてのさまざまの天界、これらすべてのさまざまの地上世界、そしてそれらすべてのさまざまの場所は、すべて心のむなしい想像です。

それらは存在しません。

かつて存在したことはなかったし、これから存在することもないでしょう。

 

私は偏在です。永遠です。

どこに行くことができましょう。

私がまだいない場所などがどこにありましょう。

私は、自然という、この書物をよんでいます。

一ページ、また一ページとよみおえてめくるたびに、一回ずつ人生のゆめが過ぎ去ります。

あらたな一ページがめくられます。

あらたな生涯のゆめがやってくる、そして行ってしまう、めぐり、めぐって、ついに全巻をよみおえたとき、私はそれをすててかたわらにたちます。

私は書物をほうり出し、そしていっさいはおわったのです。

アドヴァイティストは何を説くか。

彼は、宇宙間にいままで存在した、またこれから存在するであろうすべての神々を王座からひきおろし、そこに人の自己、すなわちアートマンをすえます。

それは日月よりも高く、もろもろの天界よりも高く、偉大な宇宙そのものより偉大な存在です。

どんな書物、どんな聖典、どんな科学も、人としてあらわれる自己の栄光を想像することはできません。

かつて存在した中のもっとも輝かしい神です。

いままでに存在した、いま存在する、そしてこれから存在するであろう、たった一つの神なのです。

それゆえ、私は私自身のみを拝すべきなのです。

「私は私の自己をおがむ」と不二一元論者は言います。

誰におじぎするのですか。

私は私の自己に敬礼をするのです。

誰にすくいをもとめるのですか。

宇宙の無限の実在である私を、誰がすくうことができましょう。

これらはおろかなゆめ、幻想です。

かつて誰かをたすけた者がいるでしょうか。いません。

よわい人間、二元論者がおいおい泣きながら天の一角からのすくいをいのりもとめるのは、天界も自分のうちにあるのだ、ということを彼が知らないからです。

彼は天にすくいをもとめ、そしてすくいはやってきます。

われわれはたしかにそれがやってくるのを見ます。

しかしそれは彼の中からやってきたのであって、彼がそれをまちがえてそとからやってきたと思っているのです。

ときどき、ねている病人が、ドアをノックする音をききます。

彼はおきあがってドアをあけ、そこに誰もいないことを知ります。

彼はベッドにもどり、そこでふたたびノックをききます。

彼はベッドにもどり、そこでふたたびノックをききます。

おきあがってドアをあけます。

誰もいません。ついに彼は、ノックと思ったのは自分の心臓の鼓動だった、ということに気づくのです。

このように人は、自分のそとにあるさまざまの神々をむなしくさがしもとめたのち、周期を完了して出発点、すなわち人間の魂にもどります。

そして、彼が山々谷々をさがしまわり、あらゆる小川、あらゆる寺院、あらゆる教会および天国をさがしまわった神、天国にすわってこの世界を支配しておられる、という想像さえもしていたその神は彼自身の自己である、ということを知るのです。

私は彼であり、彼は私です。

私以外に神はありませんでした。

そして、この、小さな私は、かつて存在したことがなかったのです。』

(ギャーナ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

この宇宙で唯一の実在、それはアートマン(真我)であると、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは力説しています。

 

そして、そのアートマン(真我)は、私たち一人一人の自己である、とも書かれています。

 

自分の内に、アートマンを見いだすこと。

 

自分自身が、アートマンであることを発見すること。

 

つまり、神秘への扉は、自分の中にある、ということになります。

 

その内側にある神秘への扉の前に立ちはだかっているのは、他でもない、自分自身なのです。

 

その扉は、”わたし”という自我(エゴ)です。

 

”わたし”という扉が消滅したとき、そこに在るのは、”ただひとつ”のみです。

 

これが、アドヴァイタ(不二一元論)であり、この世という虚相のカラクリを見抜くことで、人類が到達した宇宙の実相であり、神秘(奥義)であり、究極の真理であり、永遠に変わることのない叡智であり、これ以外はないのです。

 

 

 

 わたしは愚者と知性低劣な者たちには見えない

彼らはわたしの造化力だけを見ている

無明幻象(マーヤー)の世界に住む者たちには

不生不滅 円満完全なわたしが見えず 理解できない

(バガヴァッド・ギーター第7章25)