永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

神への愛(パラー・バクティ)

前回ご紹介したラーマクリシュナのお言葉の中に、

”いちばん肝心なことは、神様に激しい信仰を持つこと。それから識別と離欲だ”という一文がありましたが、何故、そうなのか?ということを、ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「バクティ・ヨーガ」から抜粋してご紹介させて頂きます。

 

ナーナさんは、カルマ・ヨーガとバクティ・ヨーガは、比較的他のヨーガ(ラージャ・ヨーガやギャーナ・ヨーガなど)よりも、一般人が取り組みやすい行(ヨーガ)であり、

それ一つだけでも、十分に完成度の高い行(ヨーガ)であると仰っています。

 

ラーマクリシュナも、現代には、信仰(バクティ)のヨーガが一番楽である、と仰っています。

 

その理由は、以下の文の中に書かれています。

 

『私たちはいまや、準備段階のバクティとよぶべきものの考察をおわり、パラー・バクティすなわち最高の帰依(信仰、献身)の研究に入ろうとしています。

私たちは、このパラー・バクティの実践への一つの準備について語らなければなりません。

このような準備のすべては、たましいの浄化だけをめざすものです。

唱名、儀式、像およびシンボル、これらさまざまのものすべては、たましいの浄化のためにあるのです。

このようなものすべての中の最大の浄化者、それなしには誰もこのより高い帰依(パラー・バクティ)の領域には入れない、という浄化者は放棄です。

このことは多くの人をこわがらせます。

しかし、それなしには霊的成長はあり得ないのです。

われわれのヨーガのすべてに、この放棄は必要です。

放棄--これはすべての霊的文化のふみ石(足がかり)であり真の中心であり、真のハートです。

放棄--これが、宗教なのです。

人間のたましいが世間の事物からしりぞいてもっと深いものの中に入ろうとこころみるとき、人、つまりここにどういうわけか具体化され、物質化されている霊魂が、自分はそのためにいずれは破壊され、ほとんど単なる物質にまで還元されようとしているのだ、ということを理解して物質から顔をそむけるとき--そのときに放棄がはじまり、そのときに真の霊的成長が、はじまります。

カルマ・ヨギの放棄は、彼の活動の果実のすべてをすてる、という形をとります。

彼は自分のはたらきの結果に執着しません。

現世または来世におけるどんなむくいもあてにしません。

ラージャ・ヨギは、自然界の全部はたましいにとっては経験を得るためにあるのだ、ということを、そしてたましいのすべての経験の結果は、自分は自然からは永遠にはなれたものである、と知るようになることだ、ということを知っています。

人間のたましいは、自分は永遠にわたって物質ではなく霊だったのだということを、そして自分の物質との結合は一時的のものでしかあり得ないのだ、ということを理解し、自覚しなければなりません。

ラージャ・ヨギは放棄の教訓を、みずから自然を経験することによってまなぶのです。

ギャーナ(ジュナーナ)・ヨギは、すべての放棄の中のもっともきびしいものを、体験しなければなりません。

まさに最初から、この固体と見える自然界の全体はすべて一個のまぼろしである、とさとらなければならないのですから。

彼は、いかなる種類であれ自然の力のあらわれであるものはすべて、たましいに属し、自然には属さない、ということを理解しなければなりません。

彼はまさに出発のときから、すべての知識とすべての経験はたましいの中にある、自然界にはない、ということを知っていなければなりません。

ですから、彼はただちに、そして理性によるひたむきな確信をもって、自然のすべての束縛から自分をたち切らなければなりません。

彼は自然と彼女に属するすべてのものを、追放します。

彼はそれらを消滅させ、ひとりで立とうとつとめるのです。

すべての放棄の中で、もっとも自然であると言ってよいのは、バクティ・ヨギの放棄です。

ここには、すさまじさはありません。

何一つすてるものはないし、私たちからたち切らなければならない、というようなものもなく、私たちが力づくでそれから自分をはなさなければならない、というものもありません。

バクタの放棄はたやすく、スムーズにながれ、私たちをとりかこむ事物のように自然です。

私たちはこの種の放棄の表現を、多少漫画めいた形でではありますが、毎日自分のまわりに見ています。

ある男が一人の女を愛しはじめます。しばらくすると、彼は別の女を愛し、最初の女をすてます。

彼は彼女とわかれたことを少しもおしいとは感じず、彼女は彼の心からなめらかにしずかにきえてゆきます。

ある女が一人の男を愛します。彼女はそれから別の男を愛しはじめます。

すると最初の男はごく自然に、彼女の心からきえてゆきます。

ある男が自分のすむ町を愛します。やがて彼は自分の国を愛しはじめます。

すると、小さな自分の町に対する彼の熱烈な愛は、なめらかに自然に、きえます。

また、ある男が全世界を愛することをまなびます。

彼の自分の国への愛、彼の熱烈な、狂信的な愛国心は、少しも彼をきずつけることなく、少しもあらあらしい経過をたどることなしに脱落します。

ある教養のない男が、感覚的なたのしみを非常に愛します。

彼が教育され、しだいに教育が深まってくると、知的なたのしみを愛しはじめ、彼の感覚的な享楽はしだいにへってゆきます。

どんな人も、犬やオオカミのように夢中でうまそうにものをたべることはできません。しかし人が知的経験や成功から得るたのしみを、犬は決してたのしむことはできません。

はじめは、快楽はもっともひくい感覚にむすびついたものです。

しかし動物が存在のもっと高い段階に達すると、ひくい種類の快楽はそれほどつよくなくなります。

人間の社会では、人がけものに近ければ近いほど、彼の感覚のたのしみはつよく、人がもっと高く、教養がもっとゆたかであればあるほど、知的な、また他のそのような、もっと洗練されたいとなみによろこびを感じます。

そのようにして、人が知性の段階よりさらに高く、単なる思考の段階より高くのぼるとき、彼が霊性の段階、神的霊感の段階に達するときには、彼はそこに至福の境地を見い出します。

それに比べたらすべての感覚のたのしみは、いや知性のたのしみさえ、無にひとしいのです。

月が光かがやくと星々のすがたはかすかになります。

そして太陽がかがやくと、月そのものがかすかになります。

バクティを得るために必要な放棄は、決して何かをころすことによって得られるものではなく、ごく自然な形でやって来ます。

ちょうど、もっとつよい光の前ではよわい光はつぎつぎにかすかになってゆき、ついには全部がきえてしまうようなものです。

ですから、この感覚のたのしみや知性のよろこびへの愛はすべて、神ご自身への愛によって影がうすくなり、かげの方になげすえられてしまうのです。

神への愛は成長し、パラー・バクティ、すなわち至高の帰依(信仰)という形をとります。

もろもろの形はきえ、儀式はとんで行ってしまい、書物は見すてられます。

神像、寺院、教会、宗教や宗派、国や民族ーーこれらはすべての小さな限定や束縛はおのずから、神へのこの愛を知る人からはおちてしまいます。

彼をしばったり、彼の自由をさまたげたりするものは一つものこりません。

船が突然、磁石の岩に近づきます。

するとそれの鉄のねじ釘や鉄の棒は全部ひきよせられてぬけ出し、船板は突然、バラバラになって自由に海上にうかびます。

神の恩寵がこのようにしてたましいをしばっているねじくぎや棒をぬき、それが自由になるのです。

そのように、帰依(信仰)をたすけるこの放棄には、きびしさはなく、つめたさもなく、苦闘もなく、抑制も抑圧もありません。

バクタは、自分の感情のどれ一つをおさえる必要もなく、彼はただ、それらをつよくして神にむけるよう、努力するのです。』

バクティ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

神秘である神の領域に入って行くには、神を愛することが第一条件となることは、当たり前と言えば当たり前でしょう。

 

神社や教会で手を合わせたり、祈ったり、讃歌を歌ったり、儀式を行うよりも、放棄の方が、神への愛としては勝っている、ということになります。

 

この放棄とは、離欲とも通じます。

 

ラーマクリシュナの『いちばん肝心なことは、神様に激しい信仰を持つこと。それから識別と離欲だ』というお言葉の中で、

”識別”については、別の機会にご紹介することにして、

神の領域に入って行き、神に出会うためには、放棄、離欲、無執着、無私の心が、必要不可欠である、ということになります。

 

これは絶対的条件であり、この放棄のために、人生におけるあらゆる苦しみは起きている、とさえ言えるのです。

 

これについては、また別の機会に書くことにして、

神を愛する、ということは、神に出会っていくためには、とても重要な要素なので、

神への愛を抜きにしては、所謂、”解脱”は、不可能だと言えるでしょう。

 

 

 

 彼らは常にわたしを思い

生活のすべてをわたしに捧げる

常にわたしについて語り合い

啓発し合うことに無上の歓喜(よろこび)を味わう

(バガヴァッド・ギーター第10章9)

有形の神、無形の神

今回も、前回に引き続き、

パラー・バクティとは、どういうものか?

また、有形の神、無形の神について、

聖ラーマクリシュナの「不滅の言葉」より抜粋してご紹介いたします。

 

 

ラーマクリシュナ

「情熱的な信仰(バクティ)が持てたらーー恋い慕う気持ちの信仰だ。

そうすれば、あの御方もじっとしていられなくなる。

信仰は、あの御方にとってどんな喜びか

激情の信仰ーー純粋な信仰ーー無私の、報いを欲しがらない信仰だ。

あんたが、金持ちでしかも有力な男のところへ、何一つ欲しがりもせずに毎日行く。

その人に会うのが好きだからーー『何か、用か?』と訊かれたらこう答えるーー

『はい。何も欲しいものはありません。あなた様に会いに来ているだけです』

こういうのを無私の信仰、報いを求めない信仰というのだ。

あんたは神様に何も求めないーーただ好きになれ」

 

わたしに解脱はいりませぬ

清らかな信仰がほしいだけ

 

いちばん肝心なことは、神様に激しい信仰を持つこと。それから識別と離欲だ」

 

「せんせい、師匠(グル)につかなくてはどうにもならぬものでしょうか?」

 

ラーマクリシュナ

「サット・チット・アーナンダ(実在、智慧、至福)が師匠なんだよ。

死骸を見る修行をして、いよいよイスト(信者の理想とする神の姿)を見る段になると、グルが目のまえに来てこう言う。

『見よ、汝のイストなり』--そのあと、グルとイストは溶け合ってしまう。

グルであるものがイストなのだ。グルは糸口をつかんで下さる。

無限者に敬礼するという。だが、実際にはビシュヌを拝んでいるのだ。

あの御方のなかに、神の無限の形があるんだよ!」

「どんな(神)姿を考えたらいいかと言えば、自分の一番好きな姿を想って瞑想すればいいんだよ。

けれども、どれも皆、一つのものだということを、よーっく心得ておけ。

神のどんな姿に対しても、妬んだり憎んだりしてはいけない。

シヴァ、カーリー、ハリ、みんな一つの神がいろいろな姿をなさっているのだぞ。

一を悟ったものこそ幸いだ。」

 

「どんなふうにしたら、神をつかむことができるのですか?」

 

ラーマクリシュナ

「今言った信仰によってだ。だた、あの御方に圧力をかけなけりゃいけない。

会ってくれないなら喉をナイフで切れーーという位に、

こういうのを信仰のタマス性というのだ」

 

「神は見ることができるのですか?」

 

ラーマクリシュナ

「ああ、もちろん見えるともさ。

形なき神も、形ある神も、両方とも見える。

形ある神ーーつまり、霊の姿を見ることができる。

また、人間の姿をした神を直に見たり、触れたりすることもできる。

神の化身(アヴァタラ)を見ることは、神そのものを見ることと同じだ。

神様はその時代、その時代に、人間の姿に化身してお生まれになる」

 

「神には形がある、とばかり言っていてもだめだよ。

あの御方は、聖クリシュナの場合のように人間の体をとって現れる、というのも真実だ。

いろんな姿で信者たちに会ってくださる、これも真実だ。

それから、あの御方は無相無性で完全円満なサット・チット・アーナンダ、これも真実だ。

あの御方は有形無形の両方であり、無性であって同時に一切性である、とヴェーダでは言っている。

どういうことか、わかるかい?

サット・チット・アーナンダは無限の大海のようなものだ。

寒さが海の水を凍らせて、いろんな形の氷が海に漂っている。

それと同じように、信仰の力がサット・チット・アーナンダの海に形ある神を見ているのだよ。

形ある神は信仰者のために現れている。

そして、智慧の太陽がのぼると氷はとけて元通りの水になる。

下も上も全部が水また水。

だからシュリーマッド・バーガヴァタにはこんな讃歌があるよーー

”主よ、御身こそ形ある神、御身こそ形なき神。

われらの前に人となりて歩きたまえど、御身こそ、言葉と心を超えたるものとヴェーダは語る”

しかしまた、ある種の信仰者たちにとっては、あの御方は永遠に変わらぬ姿をした神だ、ということも出来る。

無限の海には、決して氷がとける時のない場所もあるからね。

そこでは氷が水晶みたいになっているんだよ」

「神は有形でも無形でもある。

またその上、有形無形を超越したものだ。

あの御方はコレだ、ときめつけることはできない」

 

おお、宇宙の主よ! 

我が弱さゆえの 三つの罪科を赦したまえ

あなたは形なき御方 にもかかわらず 我 あなたの姿形を瞑想せり

あなたは言葉を超えた御方 にもかかわらず 我 あなたを讃美する歌をうたえり

あなたはすべてに遍在する御方 にもかかわらず 我 あなたを慕いて聖地を巡礼せり

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より) 

 

 

 

クンティーの息子よ 他の神々の信者で

真心こめて清らかな気持ちで信仰する者たちは

実はわたしを拝んでいるのである

正しい方法ではないけれどもーー

(バガヴァッド・ギーター第9章23)

パラー・バクティ(最高の信愛)

人間の神への態度には、四つの段階があるとされています。

この段階は、固定したものではなく、神への信愛(バクティ)の発展のプロセスと見るならば、誰でも心がけ次第で、第一段階から第四段階にまで進むことは、十分可能です。

 

第一段階・・・情欲や強欲などのカーマ(愛着)の段階  

       自分のお願いごとを叶えてもらいたい時だけ、神様にお願いをする、

       というような自分の都合や自分勝手に「神」を自分のために使う

       極めて自己中心的な態度。

 

第二段階・・・カーマを元に神様に献げ物をしたり、神様と分かち合いをしたり         (行為の結果の放棄)をするプレマ(友情)の段階。

       自分にとって都合の良いことが起こり、”神様からの恵みを頂けた”

       と思うと、そのお礼を出したりする段階。

 

第三段階・・・プレマ段階に自己放棄の心が加わると、友情を超えた段階になる。

       ”ギブ・アンド・テイク”の思いで、神と関係する段階がさらに高まり、       そこに”自己放棄”というエゴを超える宗教性の高い意識が生じてくる        と、神への愛(バクティ)という世界の門が開かれる。

 

第四段階・・・バラー・バクティ(最高の信愛)と呼ばれる神への情熱的な愛が高まっ       た最高の意識段階。

       心の中が神様への信愛の思いだけとなり、神様の御前で自己の意識を無       くし、神様に全ての行為を捧げることができる、という意識段階。

 

 

自分は、どの段階であると感じましたか?

 

第四段階のパラー・バクティについて、聖ラーマクリシュナのお言葉を引用させて頂いて、バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)について、少しご紹介させて頂きます。

 

ラーマクリシュナ

『俗世にはまり込んで女と金に夢中になっている”私”は、悪いやつだ。

個霊(たましい)と真我(アートマン)とが別れるのは、この”私”が間にあるからだ。

水の上に棒を一本投げ込むと、二つの部分に分かれて見える。

実際は一つの水なんだ。棒があるために二つに見えているだけだ。

”我”こそがこの棒なんだよ。棒を取ってしまえ。一つの水があるきりだ。

”悪い私”はどんな私だと思う?

この私を知らんのか?

こんなに金も持っているし、私より偉い人間がいるかね?--と言う”私”だ。

泥棒が十ルピーでも盗もうものなら、先ず金を取り返して、それから存分にぶん殴る。

それでも逃がしてやらず、警察にとどけてお巡りに引き渡し牢屋に入れて、”悪い私”はこう言うんだ。

”あろうことか、この私から十ルピーも盗んでいくとはーー身の程知らずめ!

 

智慧(ジュナーナ)のヨーガというのは、極端に難しいんだよ。

肉体が自分だ、という感じがすっかり消えなければ智慧は得られない。

今は末世(カリユガ)で、食物を摂らなければ生命が保てないから、自分はこの肉体だという感じーー”我”の感じがどうしても消えないのだ。

だから、末世(カリユガ)には信仰のヨーガだ。

信仰の道は楽な道だ。

心の底からあの御方を慕って称名をしろ。讃歌をうたえ。祈れ。

至聖大霊(かみさま)がつかめるよ。何の疑いもないことだ。

水の上に竹の棒を置くんじゃなく、その棒で、ただ表面に線を引く。

すると、二つの別な水があるように見える。

だが、その棒はすぐに消える。

”召使の私”や”信者の私”や”子供の私”は、ちょうどこの水に引いた私の線にすぎない」

 

「信仰の道を進んでいけば、ブラフマン智に達する。

至聖全能のあの御方がその気になれば、ブラフマン智を授けて下さる。

だが信仰者たちは大体において、ブラフマン智を希んでいない。

”私は召使い、あなたは御主人””私は子供、あんたは母親”こういう誇りを持ち続けていたいのだ」

 

「とは言っても、信仰でも神様に触れられるわけではないよ。

愛の信仰でなけりゃ神様はつかめない。

愛の信仰は情熱的信仰とも言う。

愛と情熱がなけりゃ、至聖の御方はつかめない。

神様が何より大好きにならなければ、あの御方をつかまえることはできない。

もう一つ別な信仰の道がある。その名は規則的信仰。

これこれの回数だけ称名すべし、断食すべし、聖地巡礼すべし、これこれの供物を捧げて礼拝すべし、犠牲(いけにえ)の動物を何頭差し出すべし、こういうのを引っくるめて規則的信仰という。

こういう行事を長い間積み重ねているうちに、だんだん情熱的信仰に進んでくる。

情熱的信仰まで来なければ神様はつかめない。

とにかく、あの御方が大好きにならなけりゃね。

世間並の欲望を一切捨てて、心のすべてをあの御方に向ける、そうすればあの御方をつかめる。

けれども人によっては、はじめから情熱的信仰を持っている。

生まれつきなのだ。子供ころからあるのだ。

規則的な信仰とは、ちょうど風を入れるのにウチワをあおぐようなものでーー風を起こるためにはウチワが必要だ。

神様を好きになれるように称名したり、苦行したり、断食したりする。

だが、南の風がそよそよ吹いてくると人はウチワを置く。

自分から進んで神様に夢中になって恋い慕うようになれば、称名やその他の行事はしなくてもよくなる。

ハリの愛に酔ってしまえば、規則的な行事なんか誰がする?

神様を心から好きになれない間は、まだ未熟な信仰だ。

あの御方が大好きになった時、その信仰を成熟(うれ)た信仰と呼ぶのだ。

信仰が未熟(あお)い間は、神についての話も教えも、はっきり正しく理解することができない。

成熟(うれ)た信仰になれば、よくわかるようになる。

神様に対する愛がなければ、教えを身につけることはできない」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

神秘の領域に入って行くには、「神」に対する情熱的な信愛は必要不可欠である、ということになります。

 

また、この情熱的な信愛とは、”蛇に咬まれても、愛しい御方からお使いが来たと言うだけ”と表現されています。

つまり、自分に起こることは、何であれ、神様のなさることなので、その神様の御意志のすべてを喜んで受け入れる、ということが、パラー・バクティ(最高の信愛)なのです。

 

このパラー・バクティの信愛を持つ人々にとっては、神との合一は、神への愛が最も純粋に昇華した愛の結晶であり、結実した姿なのです。

 

 

富の征服者 アルジュナよ もし

わたしに不動の信心決定ができないなら

信愛行(バクティ・ヨーガ)の実習に努めよ

これによってわたしへの愛が目覚めるのだ

(バガヴァッド・ギーター第12章9)

 

 

 

 

 

 

神 対 人間

私たちは、地球の素晴らしい風景を見たとき、美しい花や生き物に出会ったとき、言葉では言い表せないほど感動したり、

また、夜空を見上げて、頭上高く光り輝く星々を眺めながら、その大宇宙の美しさと壮大なスケールに打たれ、言葉を失い圧倒された経験がある方も多くいらっしゃることでしょう。

 

そして、その時に、これらを創造した存在に思いを巡らし、人間をはるかに超えた、人間の想像も及ばない大きな存在がこの宇宙にはいらっしゃるのではないか、という想いを漠然と、または、はっきりと持つ人もいることでしょう。

 

この宇宙を造った造り主は、多くの人間から「神」と呼ばれ、古代から、絶大なパワーを持つ存在として、多くの人間たちに崇拝されてきました。

 

この宇宙を造ったのは、人間ではないことは確かです。

それでは、誰が、この宇宙全体のすべてのモノを創造したのでしょうか?

 

その素朴な疑問から、宇宙の造り主としての「神」という存在に行き着き、

その結果、「神」は、この宇宙を創造し、そして破壊することができる唯一の主体である、ということになりました。

 

「神」は創造主であり、「人間」は被造物という”この世”が誕生したのです。

 

創造主である「”神」と、被造物である「人間」は、常に、相対する位置にいます。

人間が、「神」を意識するようになってからというもの、両者は、主人と召使、支配者と奴隷のような、対極の関係であり、両者の間の溝は永遠のものとなりました。

 

その結果、人間が人間である限りは、人間は、被造物として、この世の法則に縛られて、一生を終えることになりました。

そして、被造物となった存在は、永遠に時間と空間と因果の法則に縛られた存在として、「神」を創造主として仰ぎながら、生きて死んでいく存在となってしまったのです。

 

「神」によって一切のモノが創造されたのですから、この世に例外はないということになります。

神」は創造主として、人間を創造したと同時に、人間の運命をも造り出す主体となりました。

 

しかし、時として、人間は、自分たちの運命が不公平であると感じています。

「神」が常に公平に、すべての存在を平等に扱ってはいないように感じることが、一生に一度や二度は起こります。

 

それ故、人間は、創造主であられる「神」に、出来たら自分だけは、何とか、人生において他人より優遇してもらおうと願い、その想いで「神」に祈ったりします。

 

「神」は、人間の願いを聞き入れ、それを叶えて下さる有り難い存在として崇めらており、人間は、いかなる時でも「神」の支配下にあるのだというのが、神に対する人間の一般的な認識です。

 

このようなことを踏まえて、それでは、昨日の ”あなたは「神」に対して、どのようなイメージを持っていますか?” という質問には、どのような答えを持たれたでしょうか?

 

人間を含む宇宙のすべてを創造し、育み、そして破壊する「神」。

人間の運命を決定し、生と死を決定し、あらゆることを決定される「神」。

人間の為す悪い行為を罰する「神」。

または、人間に慈悲を授けて下さる「神」。

 

などなど。。。。

 

ある人には、優しい神さまでも、他の人には、厳しくて恐い神さまかもしれません。

 

少なくとも、人間は、「神」とは人間とは違い、人間には無い能力や無い面を持つ存在としてのイメージがあります。

 

人間が有限なら、神は無限です。

人間が不完全なら、神は完全です。

人間が死すべき存在なら、神は不死であり、永遠の存在です。

 

という具合に。。。

 

人間は、人間が考え得る限りの最高のイメージを、「神」に与えているのです。

 

そのようにして、人間は、自分たちの理想を「神」に投影し、名前と形を与えてきました。

 

これにより、この世の創造主であられる「神」は、いつの間にか、人間の頭の中で創造(想像)され、人間的な色彩を帯びた存在となったと言えます。

 

人間は、人間がなりたくてもなれない理想の姿を「神」のイメージに投影し、それを崇拝することで、形のない「神」の姿を具体的に思い描こうとした、とも言えます。

 

しかし、実はそれは、観念上の「神」であり、その「神」は、人間にとっては実現不可能な人間の最高の理想像を反映しているに過ぎません。

「神」は存在するけれども、人間の頭の中の「神」は、人間と同じ姿形を持ち、人間のような人格を有し、人間のように考え、話し、行動する「神」であって、

本当にそれが、「神」そのものであるかどうか?は、人間には、実際にはわからないにも拘わらず、人は、この「神」のイメージを持ち続け、そのイメージは、名前と形と一体化して、人びとの心の中に鮮明な存在感の印象を伴って、「神」と呼ばれるようになりました。

 

数千年前には、そのような人間が創造(想像)した「神」は、ギリシャ神話やローマ神話、その他の国々にある神話の中に登場し、まるで実際に存在するかのように、崇められ、信仰の対象となりました。

 

その後、時代を超えて、地域を超えて、人間の想像は、名前と形を持った多くの神さまを造り出してきました。

それらの神々は、その時代、その土地に生きる人間の要求に応じて、それぞれに想像(創造)され、崇拝の対象となったのです。

 

しかし、ここで問題が生じます。

 

それは、その時代、その土地に生きる人間の要求に応じて想像(創造)された神と神が、時として、どちらが優位であるか、を人間同士が戦いを通して、争うようになったことです。

 

多くの宗教戦争が、人間の歴史の中で繰り返されてきたことは、周知の通りです。

ある特定の神の名の下に、多くの人間の血が流されてきました。

 

宗教戦争やあらゆる宗教的な争いは、自分たちの「神」を崇拝し熱烈に愛するあまり、他の「神」を憎むことで、自分たちの「神」への愛を表現しようとした人間の低い心が起こした悲惨な結果です。

 

これは、バクティという神への愛の低い準備段階(ガウニ)に見られる傾向で、神に対する愛が最高に高まったパラーという段階に入ると、このようなことは起こりません。

 

それでは、次回は、人間の「神」に対する一般的な態度を分析してみましょう。

 

それにより、自分がどのように「神」を捉えているか?考えているか?が、はっきりとわかるようになると思います。

 

そして、実は、この「神」に対する意識が、神秘の扉の向こうに入って行くことができるか?否か?の大切な要素であると言えるのです。

 

 

 

 だが全てのヨーギーのなかで最勝の人は

大いなる信をもって わたしに帰命し

常に信愛を捧げて礼拝奉仕する人だ

彼はわたしの最も親しい身内なのだ

(バガヴァッド・ギーター第6章47)

 

 

「神」についての理解

前回の記事「神秘へ至る道」の中で、二つの言葉が出てきました。

 

それは、「神」と「エゴ」(自我)です。

 

神秘へと至る道の途中には、エゴ(自我)という名の扉があって、その扉の向こうに行かなれば、神秘の領域には入って行くことはできない、と書きました。

そして、その扉を開けることができる鍵を握っているのは、「神」であると。

 

私たちが、自分たちが望むように、スンナリと神秘の領域に入って行くことができないのは、まずは、「エゴ」という扉が邪魔をしているからだということがわかります。

 

それから、その「エゴ」という扉の向こうに行こうとするには、「神」の許可が必要である、ということになります。

 

それもそのはず。

 

神秘の領域は、「神」の領域であり、「人間」が入って行くことができないのは、当たり前と言えば、当たり前です。

 

それでは、まずは、「神」について、少し考えてみましょう。

 

神秘の領域に踏み込んで行くためには、「エゴ」と「神」をきちんと理解する必要がありそうです。

その性質をよく知り、理解することで、何故、その扉が開かれないのか?を理解することができます。

 

そして、その次には、どうしたら、その扉を開けてもらい、その扉の向こうに行くことができるか?についての智慧を持つことができるかもしれません。

 

何事も、何もしなければ、そのままですが、やれることをやってみて、結果を待つ方が、何もしないよりは、現状を打破できる確率が高くなります。

 

棚から牡丹餅は期待しても、起こらないでしょう。

 

何もトライしないままでいるなら、扉の手前で門前払いを受けるだけで、探求はそこで敢え無く終わってしまうことでしょう。

 

それでいいというのなら、それはそれでよいのですが、

結果を憂うことなく、トライしてみようという気持ちが、突破口を見い出すということもまた真です。

そのためには、何としてでも扉の向こうに行きたい、という強い気持ちが大切です。

 

まずは、「神」から考えてみましょう。

 

生まれてからこのかた「神」という言葉を聞いたことがない人はいないことでしょう。

しかし、「神」について詳しく知っていると自負できる人は、滅多にいないと思われます。

 

そして、現代は、科学が「神」に取って代わった時代であり、無神論者も多い世の中となっているように感じています。

そして、「神」という言葉は聞いたことがあるけれど、「神」について考えたこともないし、興味もない、という人も多いかと思います。

 

あなたにとって、「神」とはどのようなイメージですか?

 

何でも善いので、イメージしてみて下さい。

 

具体的な神さまの名前が、頭に浮かぶ人もいることでしょう。

 

その人が抱く具体的な「神」のイメージは、神秘の領域に入っていくためには、とても重要です。

 

「神」に神秘への扉を開けて頂き、「神」の領域に入って行くには、「神」について正しく理解する必要があるのは、少し考えれば、当たり前のことだということが、わかると思います。

 

神さまは、あなたにとって、どんな存在ですか?

 

『お前さんたち、遠いところから苦労して此処へやってくるが、神様を探して歩いているのかい?

大方の人は庭を眺めて満足しているだけで、庭の造り主のことを聞くのはほんの一人、二人だ。

この宇宙の美しさがわかっても、その造り主を探そうとしない。』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

 

 

あなたは至高のブラフマン 無上の安息所

そしてすべてを浄化する御方

永遠至聖にして不生無始

全宇宙に遍在する元始の神

(バガヴァッド・ギーター第10章12)

 

 

 

 

神秘へ至る道

前回の記事のタイトルは、「神秘への扉」でした。

 

「神秘」とは、文字通り、神の秘(密)ということになります。

 

探求者が歩もうとしているのは、この神の神秘へ至る道です。

 

しかし、その道の途中には、この世とあの世を隔てている扉があり、簡単には、その扉を通過することはできません。

 

そして、その上、こちらからあちらは見えません。

 

その扉には、エゴという名前がついています。

 

エゴが限りなく透明になれば、扉は消滅します。

 

すると、こちらとあちらの間の境は無くなります。

 

それが、神我一体(梵我一如)ということです。

 

ナーナさんは、これを達成された数少ない人間のお一人です。

 

彼女には、もはや、こちらとあちらを隔てる境が無いので、神秘は存在しません。

 

神秘とは、こちらとあちらを隔てている扉がある人にとってのみ、あちら側が神秘であり、探求する価値のあるものなのです。

 

隔てているものが無くなった人には、すべては明知となるので、神秘はありません。

 

真の自己であるアートマンの直接体験を通して、ただ一つであるブラフマンを識った者は、自分が神だと覚ったわけですから、もはや、それ以上、神を追い求めることはないでしょう。

求めるモノが、求める者だったのです。

 

しかし、人間には、この究極の悟りに至るまでには、ただの自己と真の自己との間に強固に立ちはだかる扉があります。

 

この扉を開くことは、最終的には、人間が持っているいかなる力を使っても不可能でしょう。

 

それは、神だけが、その扉を開く鍵を握っているからです。

 

その扉を開こうと努力する人にのみ、神は微笑み、恩寵の扉は開きます。

 

ナーナさんは、人間の解脱への鍵を持って、この世に戻って来て下さいました。

 

その恩寵の扉を開けることができる鍵を授かるには、乗り越えなくてはならないひとつの試練があります。

 

それは、

 

神のためになら、すべてを捨てることができますか?

 

ということです。

 

スワミ・ラーマも書いています。

 

『選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望
か、ということです。

ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。

それが奥義なのです。』

(聖なる旅 -目的をもって生き、恩寵を受けて逝くー スワミ・ラーマ)

☆ 3月末発売予定

 

 

 

わたしは霊界 精神界 物質界全部の根源

わたしから万有万物は発展し展開する

この真実を知る賢者は

全身全霊でわたしを信仰し讃美する

(バガヴァッド・ギーター第10章8)

 

 

 

 

 

神秘への扉

このブログで書かれていること、これから書かれることは、そのほとんどが、一般的な常識では判断し得ない、理解し難い神秘の領域に関することです。

 

ですから、信じられない、バカバカしい、そんな筈はない、頭がおかしいんじゃないか?などと思うのは、一般的な反応であり、

それはそれで、常識人として当たり前の反応なので、そう感じることに何も問題はありません。

むしろ、そういう反応をする人の方が、圧倒的に多いというのが当たり前だと思います。

 

しかし、人間卒業である”解脱”を目指し、生と死の仕組みを知り、この世とあの世の仕組みを知ることにおいては、どんな常識も全くと言って好いほど、役に立ちません。

 

それは、この世とあの世の間には、目に見えない壁があり、エゴの目からは、向こう側が見えないようになっているからです。

 

完全覚醒者であられるナーナさんも、同じようなことを仰います。

 

「エゴだけが、真の本性(アートマン)と自己とを分けています。

エゴが取り除かれると、真の本性(アートマン)が姿を現します」と。

 

それでは、何故、人は、自分の真の本性を悟る必要があるのでしょうか?

 

それは、それを望む人だけが求めればよいのであって、万人に共通の目的とは言い難いようにも感じます。

 

実際、ご紹介しているインドのウパニシャッドの文献の中で、特に哲学的にも純粋性の高い叡智として語られている部分は、アーラヌカヤ(森林書)と呼ばれています。

何故、「森林書」と呼ばれているかと言うと、

<その内容が非常に聖なるものであり、秘儀的であり、神秘的であり、危険であるために、人の住む村落では伝えられない学ばれるべきではないがゆえに、森林の中で一人きりになった上級のヴェーダ学生にのみ伝えられるべき文献、そのような学生により学ばれるべき文献>という意味なのだそうです。

 

つまり、このブログで取り扱っている内容は、”聖なるものであり、秘儀的で、神秘的で、危険である”のです。

 

ですから、それなりの準備が整った人にしか興味を持たれないことでしょうし、

また、そのような準備ができた人にのみ向けた内容となっているはずですし、

また、そのような準備ができた人のみが、理解していくことができるものだと言うことになります。

 

それは、神秘への扉は誰にでも開かれていますが、その扉の向こうに行くことができる人は、ごく限られた少数の人であることを示しています。

 

このブログに書かれていることは、人生を生きる上で、ほとんど役に立たないことばかりです。

ですから、より良く人生を生きたいと思っている人は、このブログを読んでも何の役にも立たないでしょう。

 

ですが、これを人間卒業のための奥義として理解しようとする人には、多くの恩恵がやって来ることでしょう。

 

それは、まずは、ヴェーダ聖典ウパニシャッドの考え方につながることで、智慧という恩寵がやって来ます。

 

そして、智慧がやって来ると、次に、師という恩寵がやって来ます。

 

ナーナさんがされていることへの理解が深まるので、ナーナさんが、いかに正しい師、真の師であるかを理解することができるようになるでしょう。

 

エゴの目で見ている限りは、形ある神の恩寵を信じ、それに与ることができないのです。

 

それでは何故、このような人生を生きるのに全く役に立たないようなブログを通して、

何を伝えようとしているのか?また、それは何のためなのか?

また、どうして、ナーナさんが、サットサンガを通して、私たちを最終的なゴールである私たちの本性、真の自己であるアートマンと出会えるように、私たちを導かれようとしているか?ということですが、

それは、3月末に発売のスワミ・ラーマの「聖なる旅-目的をもって生き、恩寵を受けて逝くー」の中のこの一文に書かれていますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

『死なないものを選びなさい。

それが神秘への解決法です。

アートマンが答えなのです。

挑戦はアートマンを見つけることです。
この世のものは、楽しまれるようになっています。

それらは永続しないので、それらに執着することは賢明ではありません。

この世のものを楽しみなさい。

それからそれらを行かせなさい。

それらにあなたの人生を通過させなさい。

人生のすべてを抱擁し、人生のすべてを理解しなさい。

しかし、智慧をもってそれを成し、叡智に向かって動きなさい。

この世の生は目的ではなく、手段なのです。
うまく人生を生きることは、技術です。

それは智慧だけでなく、勇気をも必要とします。

〝この人間の永遠でない現実への束縛は〞とシャンカラは言いました。

〝武器によって、風によって、火によって、あるいは何万という行動によって破壊されることはない。
叡智の鋭い剣以外のものは、この束縛を切断することはできない。

それは識別力により鍛えられ、神聖なる恩寵を通して、心の純粋さにより作られる〞

人生は、短く特別です。

対象物と誘惑の鼠籠の中のここで、あなたの時間を浪費してはなりません。

楽しみを追い駆けないことです。

霊的な成長のためにこの世のものを使いなさい。

それが、人生を選択するということです。
ゴールはアートマンです。

ウパニシャッドのメッセージは、ただひとつが在る、ということです。

すべてはひとつです。

この世のものに対して願望を持つことは、ひとつを多くに変えます。

ヤマはナチケータに語りました。

〝多くを見て、ひとつを見ないものは、死から死へと彷徨う〞
選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望
か、ということです。

ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。

それが奥義なのです。』

(聖なる旅 -目的をもって生き、恩寵を受けて逝くー スワミ・ラーマ)

☆ 3月末発売予定

 

 

 

 あらゆる種類の供犠供養 祭式は全部

わたしだけが その享受者である

このわたしの実相を知らぬうちは

生物は輪廻転生をくりかえすのだ

(バガヴァッド・ギーター第9章24)